(八)『三種悉地軌』『破地獄軌』と両部不二の事   其の一

『三種悉地軌』『破地獄軌』と両部不二の事

目次

其の一

(一)    伝教大師の三種悉地法相伝の事

(二)    三種悉地法を記す経典(儀軌)の事

(三)    三種悉地真言の本説の事

(四)    『三種悉地軌』と両部不二の事

其の二

 (五) 『破地獄軌』と両部不二の事

(六) 『尊勝破地獄陀羅尼』と両部不二、『尊勝軌』の事等

(七) 三種悉地法の生起(ショウキ)の事/『毘盧遮那心地法門』に付いて

(八)  『毘盧遮那別行経鈔』の事 

 

(一)伝教大師の三種悉地法相伝の事

伝教大師最澄は延暦23年(804)に還学生(ゲンガクショウ)として入唐し(中国の貞元20年)、天台山に於ける求法活動を遂げて翌年(805)三月には帰国の為に明州に戻りました。此の時、帰国の遣唐使船の出航を待って逗留する間を利用して越州龍興寺に赴き、次いで鏡湖峯山道場に於いて霊巌寺順暁阿闍梨より密教の伝授を受けて両部潅頂を授けられました(越州の府は今の浙江省紹興市です)。此の事は最澄撰『顕戒論』巻上に注記があり、「

又明州の刺史(地方長官)鄭審則は更に(最澄を)越州に遂(スス)め潅頂を受けしむ。幸いに泰岳霊巌寺順暁和上に遇う。和上は鏡湖東嶽峰山道場にて両部潅頂を授け、種種の道具を与う。受法すること已に畢んぬ。」

と記されています(大正蔵74 p.590c)。

又此の時に大師が順暁阿闍梨より授けられた伝法印信が同撰『顕戒論縁起』巻上に収載する「三部三昧耶を伝える公験(クゲン)一首」に採録されています。此の公験は、延暦24年(805)九月の高雄山寺に於ける最澄を伝授阿闍梨とした伝法潅頂に付いて、入壇者八人の中の大安寺僧広円に対して治部省から発給された入壇証明書です。其の前半部が順暁阿闍梨の印信(真言と付法次第)であり、初めに上中下三品悉地(三種悉地)の真言を記し、次いで善無畏三蔵より最澄に至る伝法次第を述べています。其の後半部は治部省の通達文です。

 

先ず前半部の印信の文を示すと、「

毘盧遮那如来三十七尊曼荼羅所(潅頂道場に金剛界三十七尊の曼荼羅が安置されていたのです。伝法の法はどちらかと云えば胎蔵系ですから、是は両部の不二を示す為の荘厳でしょう。)

  上品悉地   阿鎫籃吽欠(アバンランウンケン)

  中品悉地   阿尾羅吽欠(アビラウンケン)

  下品悉地   阿羅波遮那(アラワシャノウ)

潅頂して三部三昧耶を伝授す。阿闍梨は泰嶽(泰山)霊巌寺鎮国道場の大徳なる内供奉沙門順暁。図様・契印の法、越府の峯山頂道場に於いて付す。大唐国開元の朝に大三蔵にして婆羅門国の王子、法号善無畏は佛国の大那蘭陀寺より大法輪を伝えんがため大唐国に至り、(法輪を)転じて伝法の弟子僧義林に付属す。亦是の国師大阿闍梨(義林)は一百三歳なり。今新羅国に在りて法を伝え、大法輪を転ず。又(義林は)大唐の弟子僧順暁に付す。是れ鎮国道場の大徳阿闍梨なり。又(順暁は)日本の弟子僧最澄に付して大法輪を転ぜしむ。最澄は是れ第四の付属伝授なり。佛法をして永永絶えざらしめんがために阿闍梨順暁、録して最澄に付す。

 大唐貞元二十一年(805)四月十六日」

と記されています(増補改訂『日本大蔵経』76『天台宗顕教章疏二』 p.94上、下)。

以上が付法印信ですが、大阪の四天王寺と京都の毘沙門堂に此の証本(原本?)が分蔵されています。四天王寺の分には「三部三昧耶牒」と朱書きの注記があり、是は真言の印信です。毘沙門堂の分は付法次第状です。此の二通は別々の文書であり、真言印信の日付は「貞元廿一年四月十八日」、付法状の日付は同「四月十九日」です。即ち今の治部省の公験はこれら二通を一通にまとめた上、何故か日付を「四月十六日」にしているのです。(『仏教芸術』96号の大山仁快「最澄伝受順暁阿闍梨付法印信」p.81参照)

四月十六日は峯山頂道場に於ける潅頂入壇の月日である事も考えられますが確認は出来ません。『越州録』(『伝教大師将来越州録』)は順暁阿闍梨からの受法潅頂に付いて、

越府の龍興寺に向い、順暁和上の所に詣ず。即ち最澄并に義真は和上を遂()って湖鏡(「鏡湖」?)東峯山道場に到る。和上は両僧を導き、道場を治め、五部潅頂曼荼羅壇場に引入す。(両僧は)現に真言法を授けられることを蒙り、又真言水を潅頂せらる。

と記していて、入壇月日に言及していません(大正蔵55 p.1059c)。又投花得佛に付き記していませんから、『顕戒論』の注記に「両部潅頂」と云うものの略儀であった事が伺われます。

さて上中下三品の三種悉地真言の事は第三項に於いて説明しますが、此の印信の上品真言に付いては一言する必要があります。即ち阿鎫籃「吽」欠なる真言は経説に見えないので、『大日経』『破地獄軌』等に依って阿鎫籃「唅」欠(アバンランカンケン)に訂正すべきと思われます。不審の事です。

 

次に公験の後半部である治部省の入壇証明文も見ておきましょう。以下に和訳して示すと、「

延暦二十四年(805)、歳(トシ)は乙酉に次(ヤド)る、九月七日、(桓武天皇の)勅あり。清瀧峯高雄道場に於て都会(トエ)の大壇を起()て、最澄阿闍梨に命じて大安寺の僧広円に伝授せしめよ。潅頂に預かる者は総じて八人あり。是れ皆第五の付属なり。今右大臣(神王(ミワオウ) 天智天皇の曾孫)の宣せられて偁く、勅を奉(ウケタマワ)るに、受法の僧等に宜しく所司をして各々に公験を与え、彌(イヨイ)よ勤めて精進して佛法を興隆し、国家を擁護して群生(グンジョウ)を利楽せしむべし、と者()えり。(治部)省、宣旨に依り、天竺・大唐及び聖朝(に於ける)伝授の次第を連ぬ。奉行すること、右の如し。

 延暦二十四年九月十六日

(治部)卿 四品 葛原(カズラワラ)親王

   従四位下 行大輔 和気朝臣入鹿麻呂

   少輔 従五位下 藤原朝臣友人」

と記されています(上記『日本大蔵経』76 p.94下)。

 

伝教大師が帰国したのは延暦24年五月中旬の事です。大師の弟子仁忠(生没年未詳)撰述の『叡山大師伝』に、「

五月中旬、(遣唐使船の)第一船に上じて三宝の護念と神祇の冥護をこうむり、海中恙(ツツガ)無く長門国に着く。即便(スナワチ)上京して、将来する所の天台法門并に真言法門・道具等を内裏に進め奉る。」

と記しています(『日本大蔵経』40 p.258上)。同伝に又、「

(和気)弘世、勅を奉(ウケタマワ)りて(云く)、

真言秘教等は未だ此の土に伝うるを得ず。然して最澄闍梨は幸いに此の道を得て良くすれば国師と為す。宜しく諸寺の智行兼備の者を抜きんでて潅頂三昧耶を受けしむべし。」

と記していますが(p.258)、続きの文に依れば、此の時に選抜された諸寺の大徳は「道証・修円・勤操・正能・正秀・広円等」であり、八月二十七日付けの内侍宣(ナイシノセン)を被(コウム)って「潅頂の真位に登」ったと述べています(p.259上)。是は高雄山寺に於ける最初の潅頂であり、上に見た九月七日の勅宣による潅頂は「重修」です。此の時は前の「八大徳の外に更に豊安・霊福・泰命等の大徳を加」えて「重ねて潅頂秘法を修」し、「諸寺の大徳八人」に対しては公験が発給されたのです(p.259下)。

以上に見た如く、最澄は帰国して三ヶ月余りの中に桓武天皇の勅を受けて、高雄山寺に於いて二度の潅頂を修したのです。抑も大師の入唐求法は天台宗の請益(ショウヤク)が目的でしたから、この様に帰国後数ヶ月の中に密教の伝法開壇を行うのは唐突の感を受けます。順暁阿闍梨からの密教受法が最澄に与えた影響は強烈であり、又此の事を知った桓武天皇の密教に期待する所も非常に大きかった事が伺えるのです。

 

(二)三種悉地法を記す経典(儀軌)の事

伝教大師最澄が順暁阿闍梨より相伝した上中下三品悉地の真言を記す経典(儀軌)は三本あります。即ち『三種悉地軌』と略称される『三種悉地破地獄転業障出三界秘密陀羅尼法』、『破地獄軌』と略称される『佛頂尊勝心破地獄転業障出三界秘密三身佛果三種悉地真言儀軌』と其の略本である『佛頂尊勝心破地獄転業障出三界秘密陀羅尼』であり、何れも『大正大蔵経』第18巻に善無畏訳として収載されています。

しかし大師が越州で収集した経典類の目録である『越州録』にこれら三本の儀軌は記載されていませんから、三品悉地真言を授けた順暁阿闍梨もこれらの儀軌を知らなかったのでしょう。当時の存否は確認できないにしても、安然(841915)の『八家秘録』の「蘇悉地部第四 儀軌法三」に、「

尊勝破地獄陀羅尼儀軌一巻【是は三種悉地法なり】

三種悉地付法(状)一巻【順暁、(最)澄和上に出す。顕戒論縁起三巻中にあり。】」

と記されています(大正蔵55 p.1117a)。即ち安然の時代には『破地獄軌』の略本が本邦に将来されていて、安然も其れを一見したらしく思われます。但し其の将来経緯は不明です。

 

又『大正大蔵経』は三本を総て「善無畏訳」としていますが、是は三本共に題目(表題)に次いで「中天竺国三蔵善無畏奉 詔訳」と記しているからです。『開元録』『貞元録』に善無畏の訳経として是等三本を記載していませんし、内容的にも三種悉地法の前後に作者が付説した体(テイ)のものであり、印度撰述の経典儀軌類と趣を異にしています。

『三種悉地軌』と『破地獄軌』は「破地獄転業障」等の語句が共通していて、其の題目を見る限り大同小異の同本かと思われがちですが、実際には上中下三品の悉地真言を説く部分以外は所説が大きく異なります。恐らく伝教大師が入唐した頃に一部の密教僧の間で三種悉地法が流行していて、次いで是に付説した儀軌類が製作されたのでしょう。以下に三本の内容に付いて簡単に記します。

 

『三種悉地軌』

前段に於いて、アバンランカンケンの五字を金剛界五佛と五臓に配当して肝・肺・心・脾・腎五臓の病と健康に付いて説いています。此の五字は『大日経』の所説ですから、既に両部を合揉(ゴウジュウ)した不二/蘇悉地の立場から記されている事が分かります。又此の五字を五方・五色・五行に配当していますが、とりわけ五行相剋説を用いて疾病とその治癒を説いているのが注目されます。

次いで五字真言の功徳を説いてから、アは方形で金剛地部、バンは円形で金剛水部、ランは三角で金剛火部、カンは半月で金剛風部、ケンは団円で金剛空部と述べて各々の図形を示し、最後に五輪塔図を記しています。五字を地水火風空の五大に配当して其の形状を説く事は、善無畏訳の『尊勝軌』巻上の所説に依拠しています(大正蔵19 p.369a,b)。

又この「五字法身真言」の功徳を説いて、誦すること「一遍の福は蔵経(一切経)一百万遍を転ずるが如し。」と云います。

(大正蔵18 p.909c910c

 

中段に於いては上中下三品の三種悉地を説いています。各真言を説く前に、法身如来の真実体は「腋(ワキ)より頂きに至るを上と為し、臍より腋に至るを中と為し、足より臍に至るを下と為す。」と述べています。

次いで下品悉地の真言はアラワシャノウ(arapacana)であり是を「出悉地」と名付けると云い、真言「一遍を誦すれば、蔵経一百遍を転ずるが如し。」等と云います。中品悉地の真言はアビラウンケン(avirahumkham)であり是を「入悉地」と名付けると云い、真言「一遍を誦すれば蔵経一千遍を転ずるが如し。」と述べます。上品悉地はアバンランカンケン(avamramhamkham)であり是を「秘密悉地」「成就悉地」「蘇悉地」と名付けると云い、真言「一遍を誦すれば当に蔵経一百万遍を転ずるが如し。」と云います。

又三種悉地を体の部位に配当して、出悉地は足より腰に至り、入悉地は臍より心に至り、秘密悉地は心より頂きに至ると述べてから(初めの文の再説)、続けて此の三悉地はそれぞれ応身、報身、法身(佛)を成就するとも説いています。

(同 p.911a

 

後段に於いては『大日経』所説の大悲胎蔵曼荼羅に付いて独自の観点から略説しています。最初にアバンランカンケン五字の清浄無垢なる事を示してから、「

一切法は即ち此の五字門なる(ア字)本不生・(バン字)離言説・(ラン字)自性浄・(カン字)無因縁・(ケン字)如虚空に由るなり。」

と述べ、次いで三重の胎蔵曼荼羅を説きます。

ここでは先ず自身に曼荼羅を布置する事を説いて、第一重は咽(ノド)より頂相に至り、第二重は臍より咽に至るまで、第三重は臍より以下と述べています。次に中台八葉院の八葉四佛は四阿字(アアーアンアク)であり、それぞれ(発)菩提心・行・菩提(証)・(入)涅槃に当たるとして四阿の法門に言及してから、伊字の三点(般若・解脱・法身)と阿娑縛(アサバ)と三句法門(菩提心・大悲・方便)の合論を試みています。

又終りに近い所で、「

若し衆生ありて此の法教を知れば、世人の応に供養すること猶し制底(セイテイ/佛塔)を敬うが如くなるべし。」

と述べていますが、その理由に付いて、此の教えを信受する行人は「法身舎利」の依り所と成るからだと詳説しています。法身舎利とは佛の教説、即ち聖教(佛典)の事であり、佛の遺骨である「生身(ショウジン)舎利」に対する語です。

後段の所説に付いては(四)「『三種悉地軌』と両部不二の事」に詳しく記します。

(同 p.911b912a

 

『破地獄軌』

本軌の前段に於いても阿鎫覧唅欠(アバンランカンケン)五字を五臓・五部に配当して、「

阿字は金剛部主にして肝(臓)、鎫字は蓮華部主にして肺、覧字は宝部主にして心、唅字は羯磨部主にして胃、欠字は虚空部主にして脾なり。」

と云いますが、『三種悉地軌』と異なり唅字を五臓の中の腎臓では無く、六腑の中の胃に配当しているのが不審です。

又五字を五行・五色等に配当する事も無く、その所説は『三種悉地軌』に比して至って簡略です。

前に述べた通り『三種悉地軌』は阿鎫覧唅欠(アバンランカンケン)五字を「金剛頂経五部真言」と述べていますが、別して金剛界法の教理に付いて言及していません。ところが此の『破地獄軌』に於いては此の五字に付き、阿は「大円鏡智、又は金剛智と名く」、鎫は「妙観察智、又は蓮華智と名く、亦は転法輪智」、覧は「平等性智、亦は潅頂智と名く」、唅は「成所作智、亦は羯磨智と名く」、欠は「法界(体)性智」と注記しています。

(大正蔵18 p.912b912c

 

中段に於いては金剛・胎蔵両部の道場観を記しています。

初めに記す金剛界道場観は、器界観と本尊観を具備する本格的なものです。金界道場観は金界次第の本軌である『蓮華部心軌』にも簡略に記されていますが(大正蔵18 p.303b,c)、今是は金剛智訳『略出経』と内容の上で共通する部分があります(大正蔵18 p.227ac)。因みに金剛界法の根本儀軌である不空訳の三巻本『教王経』に道場観は記されていません。

器界観の中で、妙高山王(須弥山)を七重に取り巻く七金山(シチコンゼン)の間にある八功徳水(乳海)に就いて、「

虚空の中に毘盧遮那佛を想え。身の毛孔(モウク)より香乳を流出(ルシュツ)して七金山の間に雨澍(アメフラ)し、以て八功徳香水の乳海を成ず。」

と述べていて、同趣の文は『金剛頂経』の道場観にありますが、今此の文は前の数行を含めて不空訳の二巻本『千手軌』から採録したと考えられます(大正蔵20 p.75a)。

又金剛界大日如来の種・三・尊の転成(テンジョウ)を説く中で、三昧耶形を胎蔵五輪塔としているのが注目されます。

次に胎蔵道場観は、是も器界観と本尊観を併せ記していますが、特に本尊観は簡単で曼荼羅の諸尊を概説する事もありません。但し不動明王を説いて、「

大日如来変じて憾(カン ka-m)字と成る。字変じて剣と成る。剣変じて不動明王身と成る。明王変じて瞿利伽羅大龍と成る。忿怒相を現して利剣に纏う。龍王変じて二人の使者と成る。矜迦羅(コンガラ)使者と制咤伽羅(セイタカラ)使者が此れなり。」

と別して瞿利伽羅龍王を説くのが注目されます。

(同18 p.912c,913a,b

 

後段に於いては先ず上中下三品の悉地真言を説いています。大旨『三種悉地軌』と同文ですから再説を省きます。但し中品の真言を「阿微羅吽佉(アビラウンキャ avirahumkya)」としています。

次いで三種悉地の総説に移りますが本軌の題目と関連して、「

是の如き三種悉地真言は佛頂尊勝心真言なりと雖も、皆是れ大日如来の(法報化)三身真言なり。此に由りて当に知るべし、尊勝佛頂は即ち是れ毘盧遮那如来身、即ち是れ(佛蓮金)三部の佛頂身なり。」

と云い、この「三身」に付いて後文に上品は法身摩訶毘盧遮那如来、中品は応身の大日如来、下品は化身の文殊師利菩薩であると説いています。

又尾題に「佛頂尊勝心破地獄法一巻」と云います。

(同 p.913c,914a,b

 

『尊勝破地獄陀羅尼』は前段と後段に分けることが出来ます。前段は『破地獄軌』と内容の上で大体同じですが、文章が前後しています。特に初めの九行分は乱文にして意味が通じないようにしてあります。

(同 p.914c,915a,b

後段に於いては三種悉地真言を説きます。中品の真言をアビラウンキャとする事は『破地獄軌』と同じですが、出典を述べて、「大日経悉地(出現)品に降伏四魔解脱六趣満足一切智智金剛字句と名く。」と記しています。

次に「秘密悉地」の語義を釈して、「

法界秘密の言は光明遍満して、唯佛と佛とのみ能く此の門に入り、縁覚・声聞は照すこと能(アタ)わざれば、此れ亦秘密悉地と名く。」

等と述べていますが、此の文は『破地獄軌』に於いては中段の胎蔵道場観の続きに出ています。

 

(同 p.915b,c

 

(三)三種悉地真言の本説の事

●下品悉地真言本説の事

上中下三種悉地の中の下品真言「アラワシャノウ」は五字文殊明であり、単に文殊菩薩の真言と云う時は是を指します。此の真言は上・中品と同じく五個の梵字で構成され、しかも菩薩の真言であるから、三種悉地の下品に採用するのに最適であると考えられたのでしょう。此の文殊五字明は不空訳『五字陀羅尼頌』に説かれています。本軌は金(剛)界軌であり、空海・円仁の請来です。真言の説所を示せば、「

内外の供養已(オワ)れば 次第に当に順念すべし

秘根本印を結びて    百字真言を誦せよ

(百字真言を略す)

根本印を解かずに    便(スナワ)ち称し已れば明を念ぜよ

阿囉跛者娜(アラワシャノウ)

と記されています(大正蔵20 p.716a)。

今一つ例示すれば不空訳『五字真言勝相』にも説かれています。具(ツブサ)には『金剛頂超勝三界経説文殊五字真言勝相』と云い、是も空海・円仁の請来です。本軌に真言と其の義(意味)、功能を説いて、「

阿囉跛左曩

(中略)

(a)は是れ無生の義

(ra)は清浄無染・離塵垢の義

(pa)は亦無第一義諦、諸法平等の義

(ca)は諸法無有諸行(諸行あること無し)の義

(na)は諸法無有性相(性相あること無し)の義

(中略)若し誦すること一遍すれば能く行人の一切苦難を除く。若し誦すること両遍すれば億劫の生死の重罪を除滅す。若し誦すること三遍すれば三昧現前す。若し誦すること四遍すれば総持して忘れず。若し誦すること五遍すれば速やかに無上菩提を成ず。」

と述べています(同20 p.709b)。

●中品悉地真言本説の事

中品の悉地真言アビラウンケンは胎蔵界大日如来の真言として普く知られています。『大日経』巻第三の「悉地出現品」第六が其の典拠であるとされていて、其の説所に「

爾の時、毘盧遮那世尊は又復降伏(ゴウブク)四魔・解脱六趣・満足一切智智金剛字句を説かく、

南麼三曼多勃駄喃【一】阿【去(声)、急呼す】味囉吽欠」

(ノウマクサンマンダボダナン・アクビラウンケンahvirahumkham

と記されています(大正蔵18 p.20a)。「阿」に付いて去声と注記していますから、「ア」では無く「アク」と解すべきでしょう。

『大正大蔵経』18に収載する平安時代写東寺三密蔵本『胎蔵梵字真言』も同じく「アクビラウンケン」です。即ち巻上に、

満足一切金剛字句真言に曰く、

(帰命句を略す)ア―クビラウンケン(梵字 ahvirahumkham

と記しています(p.168c)。

是に対して胎蔵四部儀軌の一つである輸婆迦羅(シュバカラ/善無畏)訳『摂大軌』(一行筆受、比丘宝月訳語)は、

爾の時、大日尊は降伏四魔金剛戯三昧に住して降伏四魔・解脱彼六趣・満足一切智智金剛字句真言を説きて曰く、【普通印】、

曩莫三満多没馱喃・阿尾囉吽欠(アビラウンケン)

と云います(同 p.83a)。

又胎蔵大日法である不空訳『毘盧遮那五字真言修習儀軌』に云う「五字真言」もアビラウンケンです。即ち当軌に、

次に毘盧遮那五字剣印を結べ。(中略)真言に曰く、

(帰命句を略す)阿尾囉吽欠

と記されています(同 p.188c)。

●上品悉地真言本説の事

上品の悉地真言アバンランカンケンは、『大日経』の供養次第法を記す巻第七の中に説かれています。それは「持誦法則品第四」に於いて、此の五字を以て身体の五支に安立(アンリュウ)して支分生曼荼羅を成ずべき事を説く部分(偈頌)です。以下に一字毎に区切って是を紹介します。

先ず「ア」字に付いて説く偈に、

前の如くに阿字を転じて 而も大日尊と成せ

法力所持の故に 自身と異なること無し

本尊の瑜伽に住して 加するに五支の字を以てす

(五支とは)下体及び臍上と 心・頂と眉間となり

三摩キ多(サンマキタ/定・三昧)に於いて 運相して而も安立せよ

是の法に依りて住するを以て 即ち牟尼(ムニ)尊に同じ

阿字は遍く金色にして 用いて金剛輪と作し

下体を加持せよ 説きて瑜伽座と名く

と云います(大正蔵18 p.52b

次に「バン」字に付いて説く偈に、

鎫字は素(白)月光の 霧聚の中に在る(が如し)

自らの臍上を加持せよ 是を大悲水と名く

と云います(同じ所)。

次に「ラン」字に付いて説く偈に、

覧字は初日(日の出の太陽)の暉(カガヤキ)(の如し) 彤赤(色)にして三角に在り

本心の位を加持せよ 是を智火光と名く

と云います(同じ所)。「彤」は原字が入力できないので近似する字として撰びました。

次に「カン」字に付いて説く偈に、

唅字は劫災(世界の終末時の大災害)の焔(の如し) 黒色にして風輪に在り

白毫の際(キワ)を加持せよ 説きて自在力と名く

と云います(同じ所)。

次に「ケン」字に付いて説く偈に、

佉(キャ/kya)字と及び空点とは(即ちケン字は) 一切色を相成す

加持して頂上に在()け 故に名けて大空と為す

と云います(同じ所)。

続けてアバンランカンケン五字に付いて述べて、

此の五種真言心は第二品の中に已に説けり。

と云いますが、是は上述の巻第三「悉地出現品」第六に記すアクビラウンケン(中品悉地真言)を指しているのでしょう。更に続けて、

五字にて身を厳(カザ)れるを以て 威徳具(ツブサ)に成就して

大慧の炬(カガリビ)を熾然(シネン)にして 衆(多)の罪業を滅除す

と云います(同 p.52b,c)。以上五字に付いて解説していますが、別してアバンランカンケンの五字真言を記してはいません。

是に対して胎蔵儀軌の法全(ハッセン)撰『玄法(寺儀)軌』(大正蔵18 p.110c)『青龍(寺儀)軌』(同 p.146b)は此の『大日経』の偈頌を取意して出してから「(帰命)アバンランカンケン」と真言を説いています。

 

(四)『三種悉地軌』と両部不二の事

第二項「三種悉地法を記す経典(儀軌)の事」に於いて本軌の前段を概説する中で、『大日経』所説のアバンランカンケン五字を金剛界五佛に配当している旨述べました。即ち前段に於いて五字と五大・五臓等の関連を記した後で、「

a(梵字)阿字は是れ東方阿閦如来、vam(梵字)鎫字は西方阿弥陀如来、ram(梵字)藍字は是れ南方宝生如来、ham(梵字)唅字は北方不空成就如来、kham(梵字)欠字は是れ上方毘盧遮那大日如来なり。」

と明確に述べています(大正蔵18 p.910b)。

又是に続けて五字真言の優れた働き(功徳)を讃揚する文の中で、「

此れ(阿字の意)は本(モト)五部の梵本四十万言に出だせり。毘盧遮那経(大日経)・金剛頂経は要妙なる最上福田を採集すなり。唯此の五字真言を誦すれば、所獲(ショギャク)の功徳は不可比量(比較)・不可思議・不可説なり。金剛頂経五部真言(アバンランカンケン)を受持し読誦して、(其の)理性を観照すれば、人をして獲福せしめ、骨堅・体健にして永く災障及び諸(モロモロ)の病苦無くして長寿を摂養(ショウヨウ)せしむ。此の五字門は是れ五智なる髻珠(ケイシュ)、五佛の肝心なり。」

と記されています(同 p.910b,c)。阿字以下の五字の法門は、胎蔵法の本経である『大日経』に詳しく説かれているにも拘わらず、ここでは金剛頂五部の真言として讃揚されているのです。

 

中段に於いて三種悉地の真言を説く中の下品アラワシャノウは金剛界系、中品アビラウンケンと上品アバンランカンケンは『大日経』の所説、即ち胎蔵系である事は前項に於いて詳しく述べました。

 

この様に本軌に於いて金剛界に言及する部分があるとは云え、別して金剛頂経の教理や法要を説いている訳ではありません。是に対して中段の終りから下段全体に於いては、簡略ながらも『大日経』の教理の肝要部が説かれています。『大日経』の所説は広範深遠にして大変興味深いのですが、其れを記す偈頌は省略と特殊な言い回しに溢れていて読解が困難です。従って『大日経』の理解は古来その注釈書である『大日経疏』『大日経義釈』を通じて行われて来たのですが、これら両書を読むのにも相当な学識と忍耐が必要であると云えるでしょう。

是に対して今本軌の中段末部から下段に記す所は、簡略であるが故に反って『大日経』教理の要点を理解整理する上で有益であると思われます。こうした理由から、かなり長くなりますが下段の胎蔵法の教理を説く部分を以下に全出します。適宜、注記や改行を行い、場合によってはコメントを付す事にします。

 

最初に前段の終わりに近く、阿字の体性に言及する文を示しましょう。即ち「

阿字の意は甚深にして、空寂の体なれば、之を取るとも取るべからず。之を捨つとも捨つべからず。法(真実の教え)の母なる大潅頂の阿字是なり。」

と述べています(p.910b)。阿字の覚りを虚空に譬えた分かりやすい一文です。

次に中段の終りの部分に上品悉地の真言アバンランカンケンに付き詳説して先ず、「

(オヨ)そ人の汗栗駄心(カリダシン)【此(漢語)に真実心と云う】の形は猶し蓮花の合して未だ敷(ヒラ)かざる像(カタチ)の如し。(此の蓮花に八弁あり等と云う。)其れをして開敷せしめて八葉の白蓮花と為す。此の台の上に阿字を観じて金剛色(黄色)と作す。又阿字は方(形をした)黄(色の)壇の如きにて、(行者の)身は其の中にあり。阿字より羅字を出して焼身し、悉く灰と成り已(オワ)る。此の灰の中に縛()字を生ず。其の色は純白なり。此より阿鎫覧唅欠の五輪の字を出生(シュッショウ)す。」

と云います(p.911b)。是は行者の染汚(ゼンマ)の身体を焼滅して清浄ならしめ、其より生じるアバンランカンケンの五輪字が純浄なる事を示したのです。文中の「羅字を出して焼身」する事は、一座行法のラン字観に相当するでしょう。是に続けて、「

而して即ち腰下より頂上に至る身の五処に(五字を)安立す。謂わく、浄菩提心は此の五字門を以て大悲の根を縁生すと為す。佛の娑羅樹王は増長して彌(イヨイヨ)法界に布満す。然して一切の法(真理)は即ち此の五字門なる本不生(ア字)・離言説(バン字)・自性浄(ラン字)・無因縁(カン字)・如虚空(ケン字)に由るなり。」

と述べています(同)。三句法門に「菩提心を因と為し、大悲を根と為す」と云いますが、浄菩提心は放って置いてかってに大悲心が育まれる訳ではありません。樹木の成長に土や水、太陽光などの縁が必要なように、やがて覚りの花を開く菩提心の大樹は此の五字門を栄養(縁)にして大悲の根茎を成長させるのです。

 

又続けて、「

八葉の位は臍より心に至ると為す。金剛台【海中に立てる茎】は臍と為す。大海は臍より已下と為す。此れは地居(ヂゴ)の諸尊の位にして海岸辺に在るなり。謂わく、諸佛の大悲海より而も金剛智を生じ、金剛智より一切佛会(曼荼羅)を出生すなり。

此の心八葉の花台の上に而も阿字を観ぜよ。此の字より無量光を出して心中より四散し、而も合して光鬘となること猶し花鬘の如し。(此の光鬘は展々して)一切佛刹に普遍す。此の光は(帰り来たって)頂より足に至るまで周匝(シュウソウ)して行者の身を環繞(ゲンニョウ)すなり。」

と云います(同)。此の部分の前半は器界観、後半は身の五処にアバンランカンケンの五輪字を布した行者の身体が阿字の清浄光に依って無垢となる事を説いています。以下に三重の胎蔵曼荼羅を説く文章が続きます。即ち先ず自身に三重の曼荼羅を観想すべき事を示していますが、此の「三重」とは上下三層より成っています。即ち「

復暗字を観ぜよ。頂上に在り。転じて中胎蔵と成る。此の字より三重の光焔を生ず。一重の光遍く咽上を繞り、咽より頂きに至るまで所照の及べる処に相随いて、諸尊は随現して第一院の曼荼羅を成ず。次の一重の光は遍く心上を繞りて臍より以上、咽に至り、諸尊随現して第二重の曼荼羅を成ず。次の一重の光は遍く臍上を繞り、臍より以下に諸尊随現して第三重の曼荼羅を成ず。即ち是は世間天(世天)院なり。諸尊の形色(ギョウシキ)相好各各の差別は宛然として自身の中に具足すること、猶し親(マノアタ)りに佛会に入るが如し。而れば自身に曼荼羅心を都成(完成)す。即ち是れ普門法界身なり。

と云います(p.911b,c)。第一院(初重)の曼荼羅は中台八葉院、第二重は諸菩薩、第三重は諸天の住所です。此の曼荼羅は行者の支分(身体の各部)に諸尊を配して生起(ショウキ)するので支分生曼荼羅と云います。『大日経疏』に少しく相違する両種の支分生曼荼羅を説いていますが、今観想する所は同疏巻第五の所説に同じです(『密教大辞典』「支分生曼荼羅」の項を参照してください)。

 

是より以下に此の三重の支分生曼荼羅を詳説しています。最初に中台八葉院(第一重)を説いて、「

其の中胎蔵は即ち是れ毘盧遮那自心の八葉花(開敷心)なり。即ち此の心蓮花台の上に於ける曼荼羅を中胎蔵と為す。其の(中胎の)外の八葉に亦佛位に随いて次いで(四佛四菩薩を)列布すなり。四方は即ち是れ如来の四智、其の四隅葉は四摂の法(利他方便)なり。

(先ず四隅四菩薩)且(シバラ)く東南方に普賢あり。是は菩提心にして、此れ妙因なり。次に西南方に文殊師利あり。是は大智慧なり。次に東北方に弥勒あり。是は大慈なり。大慈と大悲は倶に是れ第二(句)の(根と為す)義なり。次に西北方に観音あり。即ち是れ証なり。謂く、行願成就して此の華台の三昧に入るなり。

(次に四方四佛)其の四方葉の(四阿字)中、始めの阿(a)字は東方に在りて菩提心に喩(タト)う。最も是れ万行の始めなり。(身色の)黄色なること是れ金剛性(を表す)。其を名づけて宝幢(佛)と曰う。亦阿閦佛と名く。次の阿(【引く】 a)は南方に在り。是は行なり。赤色なることは火の義なり。即ち文殊の義に同じなり。即ち是れ華開敷(ケカイフ)なり。亦宝生佛と名く。次に暗(am アン)字は西方に在り。是は(阿耨多羅三藐三)菩提(証)なり。万行の故に等正覚を成ず。白色なることは即ち是れ円明究極(クゴク)の義なり。又是は水の義なり。其の佛を阿弥陀と名く。次の悪(ah アク)字は北方に在り。是は正等覚の果にして、其の佛を(天)鼓(雷)音と名く。是は釈迦牟尼(不空成就佛)なり。即ち是れ大涅槃なり。迹極還本(シャクゴクゲンポン)(垂迹を極めて本源に還る)の故に涅槃なり。佛日(ブツニチ)は已に涅槃の山に隠れしが故に色は黒なり。」

 と記されています(p.911c)。四佛の種子(シュジ)阿・阿(長音)・暗・悪を発(菩提)心・(修)行・証(菩提)・涅槃に配当する「四阿の法門」に言及しています。此の本説は『大日経』巻第三「悉地出現品」にあり、「一音声(の阿)を以て四処に流出して普く一切法界に遍じ、虚空に等しくして至らざる所無し。真言に曰く(中略)ア・ア-・アン・アク」と云います。『密教大辞典』の「五阿ノ明」の項目に、更に『大日経疏』『三種悉地軌』等の文を引用して詳しく説明しています。

次に八葉大蓮花の中台上の大日如来を説いて、「

次いで即ち中の悪【長声】(ah ク)に入る。是は(三句の中の)方便なり。即ち知んぬ、此の心は法界の体にして本来常寂静の相なり。此は是れ毘盧遮那本地の身、華台の体なれば、八葉を超えて方所(方角/空間)を絶し、有心の境界に非ず(心識を以ては理解できない)。唯佛と佛とのみ乃ち能く之を知る。此の方便(寂滅無心)を以て大空に同じく而も衆像を現す。中心の空は一切色を具す。即ち是は(毘盧遮那の)加持の世界にして、曼荼羅普門の会、無処不有なり(有らざる処は無い/遍在している)。」

と述べています(p.911c)。中台上の毘盧遮那佛に付いては心識(精神世界)の全体(普門の曼荼羅)であるから、八葉の諸尊のように言辞を以て説明する事は出来ないと云っています。初めに大日は三句の中の「方便」であると云いますが、下に阿娑縛(アサバ)の法門を説く部分では「(三句の中の)菩提心は此れ金剛部、大悲は蓮華部、方便は此れ応化身(釈迦)」と云っています。

教理の上で最も留意すべきは、毘盧遮那の心は「法界の体」であり「大空に同じく而も衆像を現す」と述べている事です。即ち顕教に於いては覚り(等正覚)の体は宛(アタカ)も虚空に等しくして寂滅の相(空相)であるとされますが、密教に於いては寂滅の相より「衆像」即ち曼荼羅の諸尊を出生します。是は毘盧遮那の加持力に依るのです。此の如来の加持力に依る普門の曼荼羅は因縁の法を超越した法界の相ですが、是を説明する為には勿論粗大な(因縁の)世界の言語・文字・図像等を用いなければならないのです。

 

次いで「伊(i イ)字の三点」の法を使って佛蓮金三部に付いて解説しています。即ち、「

但し是れ如来は一身・一智・一行なり。是の故に八葉は皆是れ大日如来の一体なり。是の故に中尊大日は是れ法身にして、秘密主金剛恵印(秘密主/金剛手菩薩は金剛杵を手持するから是く云う)は是れ般若、観自在持蓮華印は是れ解脱なり。則ち(法身・般若・解脱を三密に配当すれば)身密は法身の徳、口密は是れ般若の徳、意密は是れ解脱の徳なり。般若に因るが故に解脱を得()。解脱に因りて般若あり。此の二(法)は法身の体に依る(故に)、不即不離にして一を闕くれば得ざること、猶し伊字の三点の如し。」

と云います(p.911c,912a)。梵字の伊字は三点/三画から成り、一点を欠けば字として成立しない事に依る説明です。要は別々の三つの事柄が相互に密接に関連し合っている場合に「伊字の三点の如し」と云います。

 

次に佛蓮金三部とアサバ(a sa va)の三字門に付いて記していますが、短いながらも通途の説明と趣きを異にした独自の見解を示す興味深い文章です。即ち、「

(三句の中の)菩提心は此れ金剛部、大悲は蓮華部、方便は此れ応化身(佛部)なり。是の故に阿字(a 菩提心)は是れ胎内にして(菩薩の)指位は等覚已前なり。娑(sa)字は胎外(の八葉院)にして指位は(等覚の上の究竟位である)妙覚なり。縛(va)字は是れ用(ユウ/働き)にして、一切法を転ずることは咸(コトゴト)く此の門に依る。跡恣二化(釈迦と弥勒を云うか)は十界を済度(サイド)すなり。」

と述べています(p.912a)。ここでは阿娑縛の阿(菩提心)を金剛部(通例は佛部)、娑を蓮華部(但し八葉院の諸尊)、縛を佛部(但し応化身)としています。又中台八葉院の中台そのものは等覚以前の菩薩の住所であり、正覚を得れば(妙覚位に達すれば)合蓮花が開敷して八葉の諸尊に転じるという事でしょう。等覚以前の花台の上に八葉諸尊の本身である法身毘盧遮那佛が座しているのです。

続けて又、「

此の如来智印は是れ心の実相、一切智智の果なり。即ち菩提心を因と為し、大悲を根と為し、方便を究竟と為す。一切智門は(アア-アンアクア-クなる)五種義を以て衆縁と為す。」

と云います(同)。ここでは「三句」と「アサバ」の法門の関係を再確認していますが、総じて中台八葉院に関する総括文と云えるでしょう。

 

以下の文章は一見して流通文(ルヅウモン)の如く感じるかも知れませんが、実には『大日経疏』に依って胎蔵曼荼羅に付いて独自の視点を提供しています。先ず法身舎利の「秘密」を説いて、「

若し衆生ありて此の法教を知れば、世人の応(マサ)に(その人を)供養すること猶し制底(セイテイ/塔)を敬うが如くなるべし。制底は是れ生身(ショウジン)舎利(佛の遺骨)の所依なり。是の故に諸天・世人にして福祐を祈る者は皆悉く供養す。若し行人にして是の如き義を信受すれば即ち(その人は)法身舎利の所依なり。又梵(語の)音は制底(caitya)と質多(citta/心)と(文字の)体同じ。此の中の秘密は、謂く、心を佛塔と為すなり。第三(下部の)曼荼羅の如きは自心を以て基(モトイ)と為す。次第に増加して(因位を上昇して)乃ち中胎に至る(等覚位)。涅槃色(妙覚位)は最も其の上に居()す。故に此の制底は甚だ高し。又中胎八葉より次第に増加して、乃ち第三(曼荼羅)の随類普門身(世天)に至り、処として遍ぜざるは無し(無処不遍)。故に此の制底は極めて広し。蓮華台の達磨駄都(ダルマダド)とは所謂(イワユ)る法身舎利なり。若し衆生ありて此の心の菩提印を解すれば、即ち毘盧遮那に同じ。故に云く、世間の応に供養すること猶し制底を敬うが如くなるべし、と。

と記しています(p.912a)。此の部分は全文『大日経疏』巻第六からの転載です(大正蔵39 p.647b)。佛の遺骨を生身舎利と称するのに対して、佛の遺教を「法身舎利」と云います。曼荼羅の真意(心秘密/心の菩提印)を解する人は、その心に法身舎利を蔵しているから佛塔に同じであり、世間の崇敬する所となるのです。

 

続けて総括の文を記していますが、ここではやゝ唐突に両部不二の考えを示しています。即ち「

然して毘盧(遮那)の身土は依正(エショウ/依報と正報/器世界と身体)相融して、性相同一なる真如、法界に遍満せる大我なり。身口意の平等なること太虚空の如し。虚空を以て道場と為し、法界を以て床と為す。大日如来は此の道を知見せしめんが為に二種法身(金胎両部大日)を示す。(金界)智法身は佛の実相の理に住して自受用(ジジュユウ)の為に三十七尊を現して、一切(衆生)をして不二の道に入れしむ。(胎蔵)理法身は佛の如如寂照・法然常住不動にして、八葉を現して自他受用の為に三重曼荼羅を示し、十界(の有情)をして大空を証せしむ。是の理智の殊(コトナリ)ありと雖も広略の異にして、本来一法会なれば殊異は無し。万法は一阿字に帰し、(金界)五部(の諸尊)は同一の(毘盧)遮那なり。」

と述べています(p.912a)。金胎両部の大日に相異する所は無いと云いますが、金剛界を自受用の法門に限定した上で金胎は広略の相違と述べていますから、胎蔵法門に軸足を置いた解釈と云えるでしょう。

 

 

最後に七字六句の偈を載せて(省略)、尾題に「三種悉地秘密真言法一巻【亦五臓曼荼羅と名くなり。】」と記しています(p.912b)。

 

(以下は「其の二」に掲載します。