七曜九執真言の本説の事

 

密教修法に関する真言事相の習い(教え)は、経典儀軌の教説よりも師資相承の口伝を以って第一義としますから、その本説を尋ね究める事は実に容易ならざる仕事であると云えます。しかし、いたずらに相伝の口決を振りかざして本説を顧みないとすれば、それは遂には体裁の良い呪(まじな)いの如きものに堕落して、最後には教法の衰退破滅につながる事は疑いありません。ですから口伝の相承と本説の探究に関するバランスの取れた理解というものが最も重要であると云えるでしょう。ここでは当年星供(とうねんしょうく)の本尊である七曜九執真言の本説について、その事を考えてみる事にします。

 

「七曜」とは日月火水木金土の各曜、即ち太陽・月と火・水・木・金・土の五惑星を合わせたものです。惑星には他に天王星や海王星もありますが、これらは肉眼では見えないので近代に成って天体観測に望遠鏡が使用されるようになるまで知られてはいませんでした。

「九執」とは七曜に羅睺星(らごせい/蝕星)と計都星(けいとせい/彗星)を加えたものです。日蝕や月蝕は近代の天文学の知識を有さない人々にとって、天空に現出する不可解な時として驚異的な異常現象であり、その意味する所について様々な憶測を掻き立てずには済みませんでした。古代インドに於いては日月蝕が起こるのは、普段目には見えないけれども蝕現象を引き起こす暗黒の星が太陽や月を覆い隠すのであると考えられて、此の蝕星を羅睺(ラーフ)と称しました。

 

夜空に輝く無数の星々に対する信仰は恐らく人類の歴史と共に始まったでしょうが、そうした文化人類学的な視点・考察はさて置き、我が国に於いては平安時代中期以降に貴族階級の間で星の運行と個人の運命との関わりに対する関心が高まり、星を本尊とする密教修法が盛んに行われるようになりました。星々の中でも春の夜空の中天を支配する巨大な北斗七星のインパクトには圧倒的なものがあり、いきおい七星中の一星と個人の運命とが強く結び付いていると考えられるようになり、その対応関係が生年の十二支により定められました。

即ち生まれ年の十二支(子年・寅年など)に七星中の一星(個別に名称があります)が対応して、その星が生涯にわたって人の運命に影響を及ぼすと考えられたのです。その星を「本命星(ほんみょうじょう)」と称し、本命星を祀り供養する密教修法を本命星法(本命星供)と云います。但し、是には一人だけ例外があります。それは天界の申し子とされる天子(天皇)であり、天皇の場合は天界の中心である北極星が本命星であるとされました。

 

平安時代中後期から鎌倉時代に至るまで、「星供」と云うのは普通本命星供の事であり、その法は北斗七星(の中の一星)を本尊としますから「北斗法」と称されました。当時の貴族階級に属する人々は上下を問わず大抵真言僧に依頼して是を行っていたと思われます。本命星は生まれた年の十二支によって確定しますから、生涯それが変わる事はありません。

是に対して平安時代末には一年毎(当年)の吉凶運勢を司る星(当年星)に対する関心が高まり、そうした要望に応じた「当年星供(とうねんしょうく)」が修されるようになりました。当年星供の本尊は北斗七星では無く冒頭に述べた七曜九執です。又人々と当年星との対応は年齢(数え年)によって決まります。当年星の数は九(ここのつ)ですから九年毎に同じ星が回って来ます。当年星供は「属星供」とも称していますが、是は鎌倉時代以降の言い方であり、平安時代に於いては本命星供の事を属星供と云っていましたから古い文献を読む時には注意すべきです。

 

平安末から鎌倉時代初頭にかけて製作された諸尊法集の中でも、広沢保寿院の『沢鈔』十巻には星宿(しょうしゅく)法の巻である巻第八に本命星供と当年星供が併(あわ)せ記されていますが、小野三宝院の『秘鈔』十八巻では巻第十八に詳しい護摩作法を含む北斗法(本命星供)が記されていますが当年星供はありません。『沢鈔』の原作者は覚成(かくぜい)僧正(112698)、『秘鈔』の原作者は勝賢僧正(113896)であり、両書は共に仁和寺の守覚(しゅうかく)法親王(11501202)により編集されたものです。

 

又三宝院流でも勝賢の弟子成賢(せいげん)僧正(11621231)が新たに編纂した諸尊法集である『薄草子(双紙)』には本命星供と当年星供が共に収載されています。従って東密に於いては仁和寺の方で先に当年星供が始められ、追って醍醐寺でも普通に是を修すようになったらしく思われます。此の事は勝賢の弟子でもあった勧修寺の覚禅阿闍梨(11431213―)が著(あらわ)した『覚禅鈔』の星宿法に於いて、北斗法に付いては詳しく記しながら七曜九執や当年星供に関しては殆んど言及していない事からも分かります。当年星供は諸尊法の中でも余程新しい部類に属すると云えるでしょう。

尤もその事は醍醐寺に於いて、『薄草紙』以前には当年星供の法が全く無かったという訳ではありません。勧修寺の寛信法務(10841153)が編纂した『伝受集』の巻第四(諸師の口伝の巻)に「星供」の項があって九執の道場観を載せ、九執は当年星であると注し、又、

私に云く、後に大谷の星供次第を勘(しら)ぶるに此の道場観あり。

と注記しています。「大谷」とは寛信の師匠厳覚僧都の最初の師であった醍醐大谷(後の蓮蔵院)の覚俊阿闍利を云います。覚俊は醍醐寺座主覚源の付法弟子であり、真言事相の名匠として当時著名の人物でした。

 

(1)七曜九執総真言の本説の事

七曜九執総真言は星宿法一般に用いられるばかりでなく、護摩の世天段に於いても十二天の次に唱えますから、真言の中でも最も普通の類いに属すると云えるでしょう。『密教大辞典』の「九執(クシウ)」の項では、その記事の典拠として「宿曜経・大日経疏・胎蔵四部儀軌・孔雀経等」を挙げていますが、この中不空三蔵訳『宿曜経』二巻(空海・円仁・円珍請来)は詳しくは『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』と云い、星廻りと日時の吉凶善悪を説いた書物であり印真言等の修法次第は記されていません。

又似たような名称の一行撰『宿曜儀軌』という星宿法を説いた一巻の書があり、是には九執各別の真言や九執総印言が説かれています。しかし、是は一行(683727)作とはされていても請来者は不明であり、一行撰とされる一連の星宿法に関わる偽撰書の一種でしょう。此の事に付いては亦後述する機会があると思います。

又『孔雀経』を出典として挙げているのは、不空訳『佛母大孔雀明王経』三巻の巻下に、「阿難陀よ、汝当に称念すべし。九種の執曜の名号あり。此の執曜天の二十八宿を巡行する時、能く昼夜の時分を増減せしむ。(中略)此等の星宿天は皆亦此の佛母大孔雀明王を以って常に我〔某甲〕幷に諸眷族を擁護して寿命百年なり。」等と星宿に言及する一段があるからであり、九執の印言を説いているからではありません。猶『孔雀経』では火・水・木・金・土・羅睺・彗星の七曜に日・月を加えて九曜としています。

 

それでは九執総真言は如何なる密教典籍に説かれているかと云えば、先ず最初に『大日経』巻第四の「密印品第九」に説く「一切執曜」の真言があります。その真言をカタカナで簡単に表記すれば、

ノウマクサンマンダボダナン・ギャラケイジンバリヤ・ハラハタ・ジュチマヤ・ソワカ

となります。『大日経疏』巻第十四の「密印品第九之余」には此の真言の句義釈を載せています。又法全(はっせん/840頃)作『青龍寺儀軌』等の『胎蔵四部儀軌』に此の一切執曜真言(九執総真言)を説く事は勿論です。

そうすると『沢鈔』や『秘鈔』に説く九執総真言は『大日経』に直接依拠して記されているのかと云えば、決してそうではありません。そもそも中古・中世の真言学匠が『大日経』に直接言及する事は稀であり、胎蔵法の根本を論じる時は大抵その注釈書である『大日経疏』か、或いは胎蔵次第である『青龍寺軌』を用いています。此の事に関しては、師伝を重んじる中古・中世の真言教学一般に付いての説明が必要かも知れませんが、今は話を先に進めます。

 

此の九執総真言は『沢抄』『秘抄』に代表される現今にまで伝えられた諸尊法集に於いては、「ジュチマヤ」の句が「ジュチラマヤ」に成っていて、ほとんど異説が無いように思われます。実は『胎蔵四部軌』の中でも善無畏訳『広大儀軌』巻中や法全作『玄法寺儀軌』巻第二の九執真言は、此の句が「ジュチラマヤ」と表記されています。それで、九執総真言が『大日経』や『青龍軌』では無く、『広大軌』『玄法軌』の説の方に落ち着いた経緯に付いて、幾らかでも調査して見ましょう。

此の九執総真言に関して今一つ注目すべき経典として熾盛光法の本軌である慧琳(737820)訳『熾盛光軌』(詳しくは『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)があります。即ちその「請召十二宮天神真言」に、

ノウマクサンマンダボダナン・オン・ギャラケイジンバリヤ・ハラハタ・ジュチラマヤ・タキウンジャク・ソワカ

と云います(原文は梵字と漢字で表記)。「タキウンジャク」は愛染明王の五字真言「ウンタキウンジャク」との関連で「タキ王真言」に関する各種の口伝がありますが、恐らく鉤召引入の義であり(説明を省略します)、今の真言の題に云う「請召」の事です。当軌では此の真言は星宿一般では無く、別して黄道十二宮神を招く意で用いられています。此の真言も「密印品」の「ジュチマヤ」の句は「ジュチラマヤ」と成っていますが、『密教大辞典』のアルファベット表記(jyotirmaya)や当軌の梵字表記(jutirmaya)によれば「ジュチラマヤ」の方が正確であるようです。

それでは真言事相の著作に於いて、「ジュチマヤ」を一般に「ジュチラマヤ」と記すように成ったのはいつ頃の事でしょうか。石山内供の通称で知られる淳祐(890953)作『石山七集』下(胎蔵)の末巻の「九執天」に於いては、九執総真言として『胎蔵四部儀軌』の中の『摂大軌』から「一切執曜真言」を載せて、

(ノウマクサンマンダボダナン)ギャラケイジンバリヤ・ハラハタ・ジュチマヤ・ソワカ

と云いますが、是はもちろん「密印品」の真言のままです。猶『青龍軌』も真言自体は同じですが「七曜十ニ宮神九執真言」と題されていて、此の「十二宮」なる語を含む標題には『熾盛光軌』の影響が看取されます。

さて真言広沢流の始祖は円城寺益信僧正(827906)とされていますが、是は血脈を遡及させて比定した一応の説であり、法流の内実とは余り関係ないと云えます。「広沢」の称は嵯峨広沢池の畔(ほとり)に遍照寺を開いた寛朝僧正(916998)に由来しますが、実質的な法流の開祖は『別行(抄)』七巻(『七巻抄』とも云う)を撰述した成就院大僧正寛助(10571125)とすべきです。その『別行』巻第七の「星宿供(本命星供)」に於いては後半部に「諸尊形色印契真言」と題して星宿法に関わる諸真言を網羅して載せていますが、その中の九執総真言は「ジュチラマヤ」と成っています。因みに此の『別行』の製作時期は寛助の弟子覚任僧都(10841152)の奥書によって、永久五年(1117)四月二十二日から八月七日に至る間であったと知る事が出来ます。

小野・広沢を通じて『別行』以後に製作された多くの諸尊法集に於いても、九執総真言に関しては押し並べて「ジュチラマヤ」の句を用いており、「密印品」や『青龍軌』によって「ジュチマヤ」と記す例は無いようです。それでは『別行』以下の諸尊法集の九執総真言が依拠する本説は何でしょうか。此の問題に手懸りを与えてくれるのが勝倶胝院僧都と称された醍醐寺座主実運(本名明海/11051160)が撰した『玄秘抄』です。その巻第四「北斗法」の「七曜九執十二宮総印言」に説く印は、両手の指先を合わせて円くするやや特殊なもので、「延命院」と注記しているように延命院元杲僧都(914995)が製作した『胎蔵界念誦私記』の説を用いています。真言は「ジュチラマヤ」の句を用いており、是も同『私記』と同じと云えますが漢字等の表記に違いがあり、是は(「延命院」の説では無く)「胎蔵護摩軌」の説であると注しています。猶『私記』の漢字等の表記は『玄法軌』に近似していると云えます。序でながら『弘法大師全集』第二輯第六巻に収載する『胎蔵梵字次第』(p.247~)に載せる「一切執曜」真言は九執総真言であり、「ジュチラマヤ(jyotirmaya)」の句を用いています。

以上の事から星宿法に用いる九執総真言は『大日経』巻第四の「密印品」や『青龍寺軌』の説では無く、『胎蔵四部儀軌』の中でも『広大儀軌』や『玄法寺軌』の真言に同じであるが、直接には『胎蔵護摩軌』なる典籍に依拠しているのであり、当該軌の請来或いは製作年代が問題になります。此の事に付いては亦次章に於いても言及する事に成るでしょう。

 

(2)九執各別真言の本説の事

七曜九執の各別真言には、当年星供に用いられるやや長めの真言と略真言との二種があります。略真言の中の羅睺・計都以外の七曜は後述するように『瑜祇経』所説の「金剛吉祥真言」から採ったものです。ところで七曜九執に限らず星宿法に用いる北斗七星等の各別真言に付いては、経軌の説では無く専ら師伝に依拠していた為に、古くからその本説が疑問とされていました。常喜院心覚(111780)撰『鵝珠鈔』巻上二の「七星・二十八宿・十二宮等各別真言事」の項に於いては、鳥羽院政期の真言事相の名匠として知られる醍醐寺の理性房賢覚法眼(10801156)の口説を引用して、

七星・二十八宿・十二宮等各別の真言は、先徳の説を出だすと雖も、未だ慥(たしか)なる本文を見ず。仍って本命供等の時に(用いる真言として)彼の名号を用いるべきか。〔或る人云く、七星・二十八宿・十二宮各別真言は奝然(ちょうねん/9381016)請来の胎蔵儀軌に在り云々。〕(〔〕内は小字)

と述べています。即ち平安時代を代表する東密事相の巨匠の一人である心覚阿闍利にしても、星宿各別真言の本説に関し理性房法眼の言葉を借りて確かな経軌の文を知らないと証言しているのです。又「或る人」が指摘する「胎蔵儀軌」に付いては、前章で述べた実運撰『玄秘抄』が「七曜九執十二宮総」真言の本説として言及する「胎蔵護摩軌」との関連が気になります。此の『胎蔵護摩軌』もやはり奝然請来なのでしょうか。若し「或る人」が云うように星宿の各別真言が奝然請来の『胎蔵儀軌』の説であり、九執総真言の本説とされる『胎蔵護摩軌』も同請来であるとすれば、星宿法は奝然の帰朝以後にその請来経軌に依拠して修法次第の体裁を整えた事になります。

さて前項に述べた『石山七集』下の末巻に於いて二種の九執各別真言を載せていますが、それは通途の略真言と『梵天火羅図』所説の七星真言であり、七星の中の「日星」と「月星」は当年星供次第に於いて普通に用いられる日・月曜真言と同じです。此の『梵天火羅図』はその風変わりな名称からして大正大蔵経第21巻に収載する『梵天火羅九曜』と同本らしく思われます。実際、『梵天火羅九曜』の末部(尾題)には「梵天火羅図」と記されています。しかし、大正蔵本には羅睺・計都両星の真言を載せているのに『石山七集』は之を欠いています。又大正蔵本には『七集』に出だす分以外に、当年星供所用の真言も載せています。一方に於いて、『七集』は「日星」の印を載せていますが大正蔵本は全く印を説いていません。恐らく『七集』所引の『梵天火羅図』は大正大蔵経『梵天火羅九曜』の古形(祖形)を伝えているのでしょう。大正蔵本は享和二年(1802)刊長谷寺蔵本を原本として対校本を用いていませんが、京都栂尾(とがのお)の高山寺には文治五年(1189)に玄証(1146?―1222?)が書写した古写本の存在する事がよく知られています。又大正蔵本は本書の撰者を記していませんが、『密教大辞典』の「梵天火羅九曜」の項では一行撰としています。

ここで『石山七集』の撰者である淳祐内供の今一つの代表作である『石山道場観』に言及して置かなければなりません。本書は大正大蔵経第78巻に『要尊道場観』二巻として収載されており、しかも巻下の「北斗道場観」に当年星供に使う九執各別真言を記しています。但し脚注によれば、此の部分は乙本には存在していません。大正蔵の原本は永仁四年(1296)書写の高野山金剛三昧院蔵本であり、甲本は成田図書館蔵写本ですが書写年代は記されて無く、乙本は嘉応二年(1170)書写の高山寺蔵本です。従って確かな事は古写本の調査を待たねばなりませんが、本来『石山道場観』には九執を始めとする星宿各別真言は記されていなかったらしく思われます。それが当年星供の隆盛につれて加筆されるに至ったのであると考えられるのです。

さて『石山七集』に載せる九執各別真言が当年星供(属星供)に於いて普通に用いられる真言と相違するとすれば、其れが記されている早い例としては何を挙げるべきでしょうか。それは第一に前項でも取り上げた寛助撰『別行(抄)』(七巻抄)でしょう。即ち巻第七に星宿法を記す中の「諸尊形色印契真言」に於いて、通途の「九曜」各別真言と更に「(梵天)火羅図」所説の略真言等を載せています。それでは寛助はどの様な典籍に依拠して、此の通途の九執真言を記したのでしょうか。『別行』にはその事に関する注記が無いので、本説に付いては未詳と言う他ありません。

一方、星宿法に関する経軌に目を転じれば、上記の『梵天火羅九曜』がそうであるように先ず一行阿闍利(683727)の作とされる典籍が多いのに気付かされます。星宿法関係の典籍が多く一行の製作に擬されているのは、一行が善無畏・金剛智両三蔵の共同翻訳者として『大日経』『金剛頂経』の漢訳に携わった真言宗伝持第六祖であるばかりで無く、又唐代中期に『大衍暦』を製作して暦のずれを補正した古代における屈指の天文暦法学者であったからです。因みに『密教大辞典』の「一行」の項によって、その事に関する業績を抄出しておきましょう(意訳)。

「開元九年(721)、玄宗皇帝の勅命により新暦を製作する事になった。ところが当時天体観測に必要な李淳風(602670)の黄道游儀(渾天儀)が失われてしまっていて、天体運行の軌跡を正確に観測する方法が無かった。一行は皇帝に奏して自ら是を製作せん事を請い、梁令瓉と共同で新しい渾天儀の製造を監督し、遂に同十一年(723)に是を完成させた。一行は是を使って『大衍暦』を撰述し、同十五年(727)に至って完成させた。翌年八月、皇帝は天下に号して『大衍暦』の施行を布告した。」

又大正大蔵経第21巻(密教部四)の中に当年星供所用の九執各別真言を説く典籍が幾つかあります。それらは一行撰『宿曜儀軌』・金倶吒(こんくた)撰『七曜攘災決』・一行撰『北斗七星護摩法』・一行撰『梵天火羅九曜』です。一行撰とされる三部の書は何れも請来の経緯が明らかで無く、平安時代中後期に我が国で製作された可能性も考えられます。これらが一行撰に擬されている理由につては既に述べた通りです。

それに対して『七曜攘災決』はかなり異質の典籍です。本書は大正大蔵経では一巻の書として扱っていますが、本文標題に「巻上」「巻中」と云いますから元来一部三巻であったらしく思われます。巻上に北斗総呪・九執各別真言等を載せていますが、同巻中程から中巻全体に至るまで九執の運行に関する大変詳しい解説記事があって異彩を放っています。諸真言の最初に「九曜息災大白衣観音陀羅尼」を出だして(但し標題だけで真言自体は記されていません)、

若し日・月が人の本命宮の中に在るとき、及び(火水木金土の)五星が本命宮に在るときは闘戦度を失すれば(戦いに於いて普段の力が発揮できない、の意か)、大息災観音、或いは文殊八字・熾盛光佛頂等の道場を立て各本法に依って念誦すべきである。一切の災難は自然に消散するであろう。

と注記しています。本書の作者である金倶吒に付いて『密教大辞典』の同項に、「支那唐代の訳経僧。西天竺婆羅門僧にしてその来唐の年時詳(つまび)らかならざれども、恐らく晩唐の頃ならん。」と記されています。此の『七曜攘災決』も請来の経緯は不明ですが、内容からみて本邦撰述の可能性は低く、平安時代中後期に将来された一群の晩唐軌の一種でしょう。そうすると、当年星供に用いられる九執各別真言の本説は『七曜攘災決』か、或いは上に述べた奝然請来の『胎蔵儀軌』であると、一応の結論を下す事が出来そうです。

但し、ここで一つだけ留意すべき事があります。それは九執各別真言の中の七曜の分は平安時代前期には既に知られていたという事です。即ちそれは大日本佛教全書27と日本大蔵経41(台密章疏一)に収載する智證大師円珍撰『佛母曼拏羅念誦要法集』に出だす「七曜真言」であり、是は正しく当年星供の九執各別真言中の七曜真言に一致しています。本書は安然(851904―)作『八家秘録』巻上に記す『佛眼佛母曼荼羅要集一巻』の事と考えられますから偽撰書ではありません。本書の注記に「珍和上、高大夫と与(とも)に集む」と云います。高大夫は慈覚大師円仁の弟子であった湛慶阿闍利の事で、湛慶は還俗して高向公輔を称しました。即ち智證大師が高向公輔と共に諸経軌を参照して撰述(著作)したのです。羅睺・計都両星の真言は本書を製作する際に、余り馴染みが無いから省かれたのか、当時は知られていなかったのかが問題になりますが、それを決する史料は見当たりません。それでも当年星供所用の七曜各別真言は中国唐代に於いて比較的早くから知られていた事が確認できるのです。

最後に九執(七曜)各別の略真言ですが、これはすでに述べたように『瑜祇経』(詳しくは『金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経』)の「金剛吉祥大成就品第九」に説く「金剛吉祥成就一切明」が根本の教説です。此の明(真言)は愛染王法や五大虚空蔵法等の当経所説の尊法に加用されて馴染みの真言ですが、題名の「金剛吉祥」とは佛眼佛母尊の異称です。今は七曜略真言との対応関係を示す為に、以下に注記を付して「金剛吉祥成就一切明」を示します。

オン・バザラシリ・マカシリ・1アニチヤシリ(日曜)・2ソマシリ(月曜)・3オーギャラキャシリ(火曜)・4ボダシリ(水曜)・5ボラカサンマチシリ(木曜)・6シュキャラシリ(金曜)・7シャニシシャラシセイテイシリ(土曜)・マカサンマエイシリ・ソワカ。

『石山七集』巻下末の「九執天」の項に記す略真言も是に同じですが、両者は漢字表記に明らかな違いがありますから、石山淳祐は『瑜祇経』から直接此の七曜各別真言を採取したのでは無いと考えられます。又金剛吉祥真言には羅睺・計都両星を欠いていますが、此の両星の略真言も七曜と同じくただ名称を唱えるだけですから、その事は余り問題にする必要は無いでしょう。

それから寛助の『別行』巻第七に出だす各種の「九曜」真言に、金剛吉祥明や『石山七集』所説の略真言と一致するものがほとんど無いのも注目されます。是に対して保寿院の『沢鈔』巻第八の当年星供「九執印言」に記す七曜略真言は金剛吉祥明に大変近いものですから、平安時代末葉になって当年星供に対する関心が高まり、又一方に於いて『瑜祇経』に関する知識も広まっていた事から、新たに金剛吉祥明に着目して七曜真言に用いるようになったらしく思われます。

 

(以上)