真言情報ボックス

〔目次〕 1. 明恵上人と瑜祇経  2. 門跡  3. 密教寺院としての白河六勝寺  4. 大正大蔵経と請来本密教儀軌  5. 存在しなかった惣(総)法務  6. 藤原道長の高野参詣  7. 四合八合聖教と小野経蔵  8. 勝定房恵什と寛信法務  9. 後白河法皇の伝法潅頂入壇   10. 寺院有職(うしき)の阿闍利の事  11. 遍智院潅頂堂の円珍請来尊勝曼荼羅の事  12. 内山永久寺の真言法流  13. 仏舎利を駄都(だど)と称する事について  14. 「一日(いちにち)法務」の事  15. 白河上皇の出家受戒の事

 

 

1. 明恵上人と瑜祇経

 

明恵上人高弁(1173―1232)は日本が生んだ名僧です。釈迦如来の教えを慕い、生涯を研究・著作と瑜伽すなわち座禅と密教修法の実践に費やした真実の求道者です。上人が開創した京都高雄の栂尾(とがのお)高山寺は多くの重要な美術品を所蔵しています。その中でも「鳥獣人物戯画」は特に有名で知らない人はほとんどいないでしょう。上人に直接関わるものとしては「明恵上人樹上坐禅図」が最もよく知られていますが、今は上人が生涯を通じて身辺から離さず崇敬思慕したと伝える国宝の「仏眼仏母(ぶつげんぶつも)画像」に注目しましょう。

此の画像は縦2メートル近い大きなもので、その中いっぱいに白(びゃく)蓮華に坐して獅子冠(ししがん)を被(かぶ)った白身・白衣(びゃくえ)の仏眼尊が描かれています。また画像の向かって左側には上人自らの筆で、

釈迦如来がお亡くなりになった後、その教えに従って修行する愛弟子(まなでし)の成弁は紀州(和歌山県)の山中の乞食(こつじき)僧です。敬白

と書き込まれていますが、「成弁」と云うのは上人が若い時の僧名で後に高弁と改めました。因みに「明恵」と云うのは明恵房すなわち房名(通称)です。此の記事にあるように上人は二十代を通じて紀州の各地で学問と修行にいそしみました。一方、絵の右側にも自筆で、

モロトモニアハレトヲボセ、ミ仏ヨ、キミヨリホカニシル人モナシ 無耳法師(明恵上人)の母御前なり。

(全ての人々に対する慈しみの心を私にもかけて哀れんで下さい。仏様、私にはあなた以外に親しい人とていないのですから。 耳無し法師の母上様です。)

等と書き込みがあります。「無耳法師」とは、上人は自分で右の耳を切り落としていたからです。どうしてそんな事をしたのかと云えば、自らの容貌を卑しくして社会との交渉を制限し、ひたすら仏道に精進する決意を示す為に、此の仏眼尊の御前で他人には異常と思える此のような行為に及んだのです。明恵上人にとって釈迦如来は父上であり、仏眼仏母は母上でした。

上人がそれ程大事にした此の仏眼画像は瑜祇経の教説に基づいて描かれています。同経の第九章「金剛吉祥大成就品」に(「金剛吉祥」とは仏眼仏母尊の事です)、

その時金剛薩埵は一切如来の御前(みまえ)に於いて忽然(こつねん)として一切仏母に変幻した。大白蓮を座として住し、身体は純白で月のように輝き、両の眼は微笑している。両手を臍(へそ)の前に置いて(定印を結び)、瞑想に入っている如くである。(中略)大金剛吉祥母は復画像曼荼羅の法を説く。(中略)その中心に我が身(仏母身)を画け。(中略)(此の曼荼羅の諸尊は頭上に)皆獅子冠を戴く。 

と述べています。瑜祇経は愛染明王を説く唯一の経典として有名ですが、愛染王も亦首(こうべ)に獅子冠を戴いていますから、此の獅子冠を被る事と瑜祇経成立の背景には何か深い関係があるようです。 

明恵上人が金剛吉祥品に説く仏眼仏母尊の像容を超えて瑜祇経自体に深い関心を寄せていたのかどうかは定かでありません。愛染法の盛行に伴って瑜祇経に対する関心も深まり、鎌倉時代後期には教理研究と愛染法や仏眼法と云った密教修法の他にも瑜祇潅頂が流行する等、瑜祇経に対する評価は増大の一途をたどりました。視点を変えてこのような瑜祇経全般の隆盛過程に照らして上人の仏眼尊に対する信仰を考えてみるのも興味ある事でしょう。

 

(本項の「仏眼仏母画像」中の上人自筆文に付いては淡交社発行『古寺巡礼 京都 15 高山寺』を参照しました。)

 

 

 

2. 門跡

 

京都には観光案内書などで「門跡寺院」として紹介される古寺が多くあります。その住職は「門跡」と称して、古くは皇族や藤原摂関家の子弟が代々その職を務めたと説明されています。しかし門跡(寺院)のこのようなあり方は近世的なもので、平安・鎌倉時代に於いては門跡とその出身家族には何の関係もありませんでした。此の事は中古・中世の寺院史を紐解く時、特に注意すべき事柄の一つです。

 

現在の私達が「古い日本」を考える時、知らず知らずに大抵は江戸時代の事、乃至は「江戸時代の目」を通してそれより古い時代の事を思い描いているのです。江戸時代は政治・社会の全般にわたって室町時代と大きく異なりますし、室町時代は亦鎌倉時代と大きく異なります。鎌倉時代が平安時代と非常に異なる事は云うまでもありません。此の小稿では「門跡」なる語を通してその事を少し考えてみましょう。

 

門跡と云うのは元来「法門の遺跡(ゆいせき)」のことで、祖師の法門を代々伝えてきた寺院、或いはその法門を伝え護持する弟子すなわち門徒を意味する言葉です。平安時代の使用例をいくつか紹介しましょう。承徳二年(1098)八月十五日付の「栄山寺別当実経置文(おきぶみ/起請文)」に、

 

延喜十三年(913)の右少弁(藤原)元方・大法師神鏡等の起請(きしょう)に云く、「修理に功(く/業績)ある人の門跡が寺務を執行すべきである。」是に依って神鏡の門徒が踵(くびす)を継いで別当に任じて来たのである。(中略)縦(たと)え氏人(うじびと/外護者の一族)であっても実経の門跡に非ざれば、容易に寺務を執行するような事があってはならない。

 

と述べていて、ここでは二箇所とも門徒の意味です。次に永保二年(1082)六月二十一日付の「紀伊国薬勝寺別当明照申状(もうしじょう)」に、

 

去る承暦元年(1077)に法勝寺の(白河天皇)御願の六天像三体に彩色を施した功に依って、重ねて(薬勝寺の)門跡を継ぎ、以って(寺務を)執行すべき宣旨を賜(たまわ)った。

 

と云い、この場合は別当職の意味です。今一例として小野曼荼羅寺の支配に関わる義範と範俊の相論文書である承暦二年(1078)七月十日付の「範俊解(げ/申文)」に、

 

件(くだん)の院(上醍醐延命院)は故僧正仁海が師資相承した道場である。そして(仁海僧正は)後朱雀天皇の御願となされるように申請して宣旨を賜ったのである。義範の陳述の趣旨は、かえって門跡の首尾を知らないのである。

 

と述べていますが、文中の「師資相承の道場」という言葉は「門跡」の意味を的確に表現し得ていると言えます。

 

此のように門跡という言葉と皇族・摂関家など家柄の高さとの間には何の関係も無かったのです。鎌倉時代になっても此の事は基本的に同様であったと言えます。一例として建長七年正月八日の「権大僧都憲深請文(うけぶみ)」に、

 

(醍醐寺)三宝院執務の事は、通円が院務(院主)を免職された時、門跡中では憲深が上首であるからその職を引き受けるべきであると(云々)。

 

と述べており、この場合は門徒の意味です。ただ鎌倉時代中期以降になると、本来は「寺領」とか「院領」とか云うべき所を「門跡領」・「御門跡領」と称する例が目立つようになります。是は法流と共に寺院の荘園もまた師資相承されるべきであると云う考え方を鮮明にする為に此の「門跡」なる言葉が好んで用いられるように成ったのでしょう。一例として延慶二年(1309)四月十日の「伏見上皇院宣」に、「摂津国平駄足庄は永く報恩院門跡領たるべき由」と云います。又鎌倉後期には「○○寺/院門跡」という表現が好んで用いられるようになります。此のような「門跡」なる語のやや権威主義的な用法が次第に「門跡寺院」という概念を形成するに至ったと言えます。

 

今一例として南北朝時代の例を出しましょう。観応元年(1350)八月日の「醍醐寺報恩院所司等申状(もうしじょう/訴状)」に、

 

諸寺社の執務・別当・院主等の職にある人も予期せぬ事態が生じて他所に移ることがある。それでも門跡とそれに御寄付された所領との関係は変わる事が無い。此の事は世間一般の通例である。

 

と云い、此の場合は師資相承の寺社という意味です。

 

それでは近世的な用語法は何時頃から現れ、それにはどういう背景理由があったのでしょう。白河天皇の皇子である覚行(1075―1105)・覚法(1091―1153)が相次いで仁和寺に入って寺務検校(御室/おむろ)と成り、此の時点で仁和寺に限って代々天皇乃至上皇の子息である法親王が寺務(支配権)を掌握する慣行が成立したと云えるでしょう。是が門跡寺院の嚆矢(こうし)として説明される事が多いのですが、当時仁和寺の法親王は「御室」とか「仁和寺の宮」と称されて「門跡」と称される事が無かったのは勿論です。

それが鎌倉時代になると法親王の天台座主が出現するようになり、同後期になると皇族・摂関家の子弟が大寺院の寺務となる例が更に増加しました。その傾向が甚だしくなったのは南北朝の争乱以後であり、高級貴族の子弟の多くが生活の場として寺院の寺務職を求めるようになりました。こうして代々の寺務が格式の高い家柄の子息によって独占される一群の寺院集団が成立し、これらが「門跡(寺院)」なる名称で呼ばれるように成ったのです。また室町後期になると朝廷から門跡号を付与するように成ったらしいのですが、その具体的な経緯に付いてはよく分かりません。

 

江戸時代になるとこのような寺院群は門跡寺院として序列が設けられ、寺務の出身家族によって宮門跡・摂家門跡・清華門跡等と呼ばれた事はよく知られている通りです。明治維新によって明治四年(1871)には門跡制度も廃止されましたが、同十八年(1885)には旧来の門跡寺院に限って再び門跡号を称する事が許可されました。

 

〔追記〕 

文中に「鎌倉時代になると法親王の天台座主が出現するようになり」とありますが、平安時代にも堀河天皇の御子最雲法親王(1104―62)と鳥羽上皇の第七皇子無品覚快親王(1134―81)の二例があります。しかし最雲は最初権僧正に任ぜられ、それを辞退してから後に親王の宣下がありました。また覚快の場合も品階が与えられないなど、仁和寺の法親王とは大きな差がありました。

(平成22年1月18日)

 

 

 

 

3. 密教寺院としての白河六勝寺

 

白河天皇御願の法勝寺を始めとする白河六勝寺は総体として伝統的な顕教と密教、それに浄土教を加えた所謂(いわゆる)顕密寺院の集合体と考えられています。また六勝寺に加えてその西方につらなる白河殿にも蓮華蔵院や宝荘厳院の九体阿弥陀堂が建立される等、白河の地には全体で十棟ほどの阿弥陀堂がありましたから、浄土教に主眼を置いた研究もなされて来ました。

 

こうした論考の底流にあるものは摂政藤原道長が建立した法成寺の延長上に法勝寺の造営プランを見る考え方でしょう。法成寺の阿弥陀堂は金堂(本堂)ではありませんでしたが、伽藍全体の諸堂宇の中で最も重要な存在であった事はその造営の経緯や『栄華物語』等の文学作品に照らして明らかです。また金堂の諸仏と内部荘厳は当時の顕密混淆(こんこう)の仏教信仰の有様を如実に示していました。

 

白河天皇が新しく大規模な天皇の御寺(みてら)として法勝寺を建立する決意を固めたのは、御堂関白道長に代表される藤原氏の長者が実質的な日本の支配者であると云う旧い時代が終焉(しゅうえん)した事を宣言することにありました。ここで最も注意すべきは規模に於いて法成寺を凌駕する事を目指したばかりで無く、仏教信仰の有り様に於いても新しい密教を中心とする顕密仏教の枠組みを提示した事です。それは巨大な金堂と八角九重塔の造営プランの中に容易にその意図を見てとることが出来ます。

 

即ち承暦元年(1077)十二月に落慶供養が営まれた金堂の本尊は三丈二尺の毗盧遮那仏(大日如来)と宝幢如来以下各二丈の四仏から成る密教の胎蔵界五仏であり、伝統的な顕教は講堂の釈迦如来と普賢・文殊菩薩という定型的な釈迦三尊像によって表されています。又永保三年(1083)十月に完成した八角九重塔は、その初層に八尺(半丈六)の金剛界五智如来が安置され、柱絵には金剛界曼荼羅の諸尊が描かれて純粋な金剛界密教の空間が作り出されていました。従って伽藍の基本構想は、金堂の胎蔵界と塔の金剛界で金胎不二(ふに)の密教世界を顕(あらわ)す事にあったのです。そればかりでは無く此の八角九重塔は、「八角」が胎蔵曼荼羅の中台八葉院、「九重」が金剛界九会(くえ)曼荼羅を標示し、それ自体が胎金不二の密教世界を象徴していました。都の東郊にそびえ立つ此の巨大な天皇の御寺は二重に金胎不二の密教世界を示して、新しい密教を主体とする顕密仏教の時代の到来を告げていたのです。

 

この他に九重塔と同日に供養された三尺白檀の愛染王を祀る八角円堂も白河天皇の密教信仰にとって特別な意味がありましたが、それについては本ホームページの『愛染明王信仰の興隆と白河法皇』に解説しました。それで次に白河天皇の御子息の堀河天皇が建立した尊勝寺に付いて見てみましょう。

 

康和四年(1102)七月に落慶供養が営まれた尊勝寺の場合、その詳しい供養記録が存在しているのですが、残念ながら寺の信仰理念を示す金堂の本尊仏に関する記述は全くありません。尊勝寺の密教施設としては法成寺や法勝寺の先例に倣って不動以下の五大明王を祀る五大堂がありましたが、それより重要なのは潅頂堂の存在です。即ち堀河天皇の御願として長治元年(1104)三月に御室(おむろ)覚行を大阿闍利として初めて結縁(けちえん)潅頂が行われ、以後毎年の恒例行事とされたのです。

 

次に鳥羽天皇の御願として元永元年(1118)に供養が営まれた最勝寺の場合も金堂の本尊仏は不明ですが、保安三年(1122)十二月に初めて御願の結縁潅頂が行われていますから潅頂堂のあった事が分かります。同天皇中宮の待賢門院の御願として大治三年(1128)に供養された円勝寺に付いてはその本尊仏が知られています。それは供養の法会で読まれた藤原敦光作の呪願文(しゅがんもん)が『本朝続文粋』に収録されていたからで、本尊は二丈の大日如来と丈六の四仏から成る胎蔵五仏で大きさこそ異なるものの法勝寺と同じです。そればかりでなく円勝寺金堂の柱絵には両界曼荼羅が描かれていた事が述べられていて、他の六勝寺の内部荘厳を推測する上で極めて貴重な証言と言えます。

 

また崇徳天皇の御願寺として保延五年(1139)十月に完成した成勝寺に付いては、金堂以外に五大堂と観音堂があった事が知られる位で、金堂の本尊仏や内部荘厳の様子は不明です。六勝寺の中で最後に供養された(久安五年/1149)近衛天皇御願の延勝寺も金堂の本尊仏は不明ですが、密教関係の堂宇としては一字金輪堂のあった事が知られています。

 

このように見て来ると、法勝寺を除いて白河六勝寺の詳しい造営プランは不明であると言わざるを得ません。ただ六勝寺の金堂は総て法勝寺や円勝寺のように胎蔵五仏を本尊とし、また円勝寺のように内部の柱絵には両界曼荼羅を描いて純粋な密教空間を作り出していたと考えてもさほど突飛な推測とは云えないでしょう。それは法勝寺が最初に造営されて遥かに巨大であり、また本願白河法皇が大治四年(1129)に崩ずるまで長期にわたって圧倒的な影響力を行使したからです。その影響力とは密教を主軸に据えた顕密仏教に他なりません。

 

 

4. 大正大蔵経と請来本密教儀軌

 

仏教学は勿論、仏像・仏画等の仏教美術の研究に於いても大正新修大蔵経が不可欠である事は云うまでもありません。最近此の八十巻に及ぶ膨大な仏教叢書が総てデジタル化されてネット上で閲覧できるようになり、従来の面倒な索引検索作業が信じられないほど簡単に成りました。さてデジタル化の事はさておき、大正大蔵経を見る際には幾つか注意すべき基本的な事柄があります。その一つが本文の原テキストの問題です。

 

一般に仏教学は高度に組織化されていて理解するのが難しいと思われていますが、真言密教の場合は教理体系に加えてそれと不可分な関係にある無数の印真言があって難解の感を一層深くします。しかし密教の美しい花とも云うべき密教美術は昔から人気があってその研究者や論文の数は随分と多いのです。教理体系を図示した曼荼羅は勿論、個々の仏像の研究に際しても、それらを説き明かした本説である密教経典(儀軌)やその注釈・口決書を参照する事が先ず必要です。従ってそうした研究論文には大正大蔵経や同図像(全十二巻)から多くの引用が為されているのが普通です。

 

実はここで問題が生じるのです。大正大蔵経の原本は「高麗蔵」と称される高麗版大蔵経ですが、平安・鎌倉時代の日本人で是を実際に見た人はほとんどいない筈です。ですから例えば有名な常喜院心覚作の『別尊雑記』や覚禅作の『覚禅鈔』に記された所説を検討するのに大正大蔵経本文の経典儀軌を用いるのは好ましくありません。平安時代から近世に至るまで真言宗僧侶は、伝教・弘法両大師以下の入唐八家(にっとうはっけ)が請来した経典を書写して使用して来たのです。これらは一般に「和本」と称されて宋・元・明本や高麗本と区別されています。

 

大正大蔵経に於いても和本を無視している訳ではありません。本文の対校本として数種の古写本や和本を元にした刊本が脚注の形で載せられています。従って基本的な研究態度として此の脚注に記された和本を使用すべきであり、その方が優れた研究成果を得られる事は疑うべくもありません。

 

和本は書写を重ねる過程で多くの写し間違いを生じている場合もありますが、何と云っても盛唐期から晩唐期にかけて長安・洛陽を中心とする中原に普及した経軌が原本に成っており、それに対して高麗版は宋代の「蜀版」が原本ですから地方版と云うことも出来、そういう意味からも和本を用いるべきです。特に密教儀軌の場合は、和本と宋元明三本、高麗本との間で著しく相違する事が珍しくありません。此の事を明瞭にする為に『望月仏教大辞典』等を参照して、以下に高麗版大蔵経とその我が国への請来について簡単に述べておきましょう。

 

先ず最初の高麗版は高麗王朝の顕宗の時代(1010―31)に製作が開始され、文宗の末年(1082)頃に完成しましたが、是は北宋で作られた蜀版の復刻本でした。蜀版大蔵経は北宋の太祖の勅願として西暦972年から983年にかけて蜀すなわち現在の四川省成都で製作されたもので、「北宋勅版大蔵経」或いは単に「勅版」と云い、最初の刊本大蔵経としてその後の大蔵経の標準となりました。入宋した奝然(ちょうねん 938―1016)は此の勅版大蔵経を請来しましたから、当然書写も行われた筈であり、和本でありながら他の和本より大正大蔵経本文の高麗本に合致する場合は此の奝然本が元になっているのでしょう。

 

高麗朝に於いては次いで諸宗の章疏類を収集して高麗続蔵経も作られたのですが、これら大蔵経の版木は高宗の十九年(1232)にモンゴルとの戦争でほとんど焼失してしまいました。そこで高宗はモンゴルを打ち破らんと祈念して再び大蔵経の開版を始め、高宗の三十八年(1251)に此の事業を完成させました。現在韓国の海印寺に所蔵されて有名な高麗版一切経の版木は此の時のものです。

 

ここで注意すべきは印刷物とは云っても今の大正大蔵経とは違って、初版と再版を合わせても高麗蔵の印刷部数は至って少数であったと考えられており、平安・鎌倉時代の我が国に是が請来される事は無かったのです。時代が下がって応永五年(1398)、現在の山口県に当たる周防(すおう)・長門(ながと)等の守護大名であった大内義弘の仲介があって再販本の高麗大蔵経が初めて本邦にもたらされ、その後近世に至るまで二十部前後が請来されたようです。戦国の武将石田三成も是をもたらして天正十四年(1586)に高野山に奉納しています。

 

したがって徳川家康の奨励策によって仏教研究が復興した江戸時代初期には、宋・元・明本から高麗本まで随分多くの印刷大蔵経が諸寺院に所蔵されて、研究あるいは書写に提供されていました。それでも少なくとも真言宗に於いては、依然として弘法大師を始めとする祖師の請来本が珍重されて書写が続けられていた事に留意すべきです。

 

さて大正新修大蔵経の原本には東京芝の増上寺が所蔵する高麗版大蔵経が使用されましたが、是はもと奈良の忍辱山(にんにくせん)円成寺にあったものです。慶長十四年(1609)三月、将軍の命令を受けて円成寺から増上寺に移され、円成寺には百五十石の御朱印が与えられたと云います。

 

 

 

5.  存在しなかった惣(総)法務

 

東寺観智院を開創した杲宝法印(1306―62)は日本が生んだ屈指の真言学僧です。中世の真言教学は杲宝とその弟子賢宝(1333―98)との師弟によって大成されたと云っても過言では無いでしょう。その杲宝の膨大な著作の中に東寺の由緒と歴史について記した『東宝記』という有名な書物があります。現在の東寺は仁和寺・醍醐寺あるいは高野山金剛峯寺等の真言宗諸寺院の中の一つに過ぎないように思われていますが、かつては弘法大師創建の真言宗の根本道場として他の寺院とは異なる特別な地位と役割を有していました。ですから此の『東宝記』には「真言宗史」という側面もある訳です。

 

さて『東宝記』は仏宝・法宝・僧宝の三編から成っていますが、僧宝編の中に「惣(そう)法務次第」という項目があり、仁安二年(1167)十二月に入道二品親王覚性(かくしょう 1129―69)が初代の惣法務に成ったと記されています。覚性は鳥羽天皇の五宮(ごのみや)で仁和寺の高野御室覚法の弟子となり、自身は紫金台寺(しこんだいじ)御室と称されましたが、『東宝記』によれば覚性以下の歴代御室は皆惣法務に成っています。『密教大辞典』を始めとして近年刊行の各種仏教辞典に至るまで、この『東宝記』の「惣法務次第」の説が何の疑いも無く採用されて来ました。中には惣法務の成立を以って僧綱組織の改編とする見方もあるようです。しかし実には惣法務に関する『東宝記』の説は全く間違っています。少なくとも鎌倉時代の中期に至るまで「惣法務」なる言葉は存在していませんでした。

 

此の事を最初に明らかにしたのは平成二年発行の牛山佳幸(うしやまよしゆき)著『古代中世寺院組織の研究』です。同書の第六章「「賜綱所」と「召具綱所」―仁和寺御室の性格究明への一視点―」に於いて同時代史料を中心とする多数の資料を駆使して、惣法務なる謬説が発生した経緯が実証的に解明されており、牛山氏の所論に真っ向から反駁するのは難しいでしょう。尤も杲宝が当時の南北朝時代まで続く「惣法務次第」を書いたからには、たとえ名誉職であったとしても遅くとも鎌倉時代末期には惣法務なる職が成立していたと考えられます。牛山氏の謬説に対する究明もそこまでは及んでいません。

 

それでは杲法はどう云う理由で覚性法親王(正確には法親王では無く入道親王です)を初代の惣法務としたのでしょう。『東宝記』にはその事が述べられていませんが、任命年時を仁安二年(1167)十二月十一日あるいは十三日とする事から大体の理由は分かります。仁和寺の歴代御室の伝記を記した書物が何種類も伝えられていますが、それらに依って此の日(十三日)に紫金台寺御室覚性に何があったのかを見てみると、「綱所を賜(たまわ)った」あるいは「綱所を召し仕(つか)うべき宣下があった」のです。

 

「綱所」とは僧綱所すなわち僧綱の事務所のことですから、此の事を以って覚性の下に僧綱が置かれ、覚性は僧綱の長たる法務の上に位置する惣法務に任命されたとする解釈が生じたのです。しかし当時の用例として、綱所とは普通「綱所の威従」すなわち僧綱所の役人である威儀師・従儀師を意味しました。今の例も是に当たります。此の宣下の具体的な意味は、覚性が綱所の威従を私的に使う特権を与えられたという事です。覚性以下の歴代御室についても全く同じ事が云えます。「惣法務の宣下」と記されているのは史料をよく調べてみると実には「綱所の威従を賜う宣下」であり、どこにも「惣法務」なる言葉は見あたらないのです。

 

以上の説明をより深く、確実に理解して頂くために、少し長くなりますが平信範(1112―87)の日記『兵範記』の仁安二年十二月十三日の関連記事を見てみましょう。

 

「今日、仁和寺御室に綱所をお与えなされた。此の事は今までに前例が無い。かつて久安年間(1145―51)に天台座主の最雲法親王(1104―62)は、綱所(の威儀師・従儀師等)に準じて中堂の維那(いな/寺役人)を随身としてお使いなさいという宣下をお受けになり、その通りになされた事があった(実には久寿二年1156の出来事)。今回の御室の事は最雲法親王の例に準拠しているのである云々。しかし最雲宮は天台宗であるから同列に論じる事は出来ない。御室は東寺(真言宗)である。僧綱の正法務以外の人が綱所を随身する事に関しては合議による決定を経るべきであろう。私は(蔵人頭という職務上、御室に対して宣旨では無く)御教書(みきょうしょ)を以って此の事を申し伝えた。新儀の事であるから宣下を用いなかった。是は後代の事を考えてそうしたのである。(以下はその御教書)

 

綸旨(天皇のお言葉)を伝える。綱所の威従以下を召し従わせなさい。以上が綸旨である。此の事を(御室に)申し上げるべきである。

 

仁安二年十二月十三日   権右中弁(蔵人頭平信範)

 

進上  左衛門督(さえもんのかみ)僧都御房」

 

即ち覚性親王の場合は後代の御室と違って、宣下では無く奉書形式の御教書で「綱所を賜る」事が伝達されていた事がわかります。

 

それでは綱所の威儀師・従儀師等を具体的にはどの様に召し使うのでしょうか。それは第一に「行粧」と云って、行列の威儀を整える為の前駆(さきはらい/さきのり)に用いたのです。中古の時代に於いて貴人が外出する際の行粧は、その人の社会的地位を誇示するものとして非常に重要でした。僧侶の場合も僧職の最高位にある法務は、赤袈裟を着た綱所の威従を騎馬させて前駆とする特権を有していました。上の「兵範記」に述べられているように天台座主も最雲法親王の時に、法務に準じて根本中堂の役人を綱所の威従に見立てて行粧に用いる事が認められ、以後天台座主の恒式となりました。今仁和寺の宮もまた法務に準じる行粧が裁許になった訳ですが、此の事は一方に於いて法務の地位が相対的に低下した事を意味すると云えるでしょう。

〈追加記事〉

 

仁安二年(1167)十二月に覚性親王(1129―69)が初代の惣法務に成ったという主張が全く間違っているとしても、遅くて鎌倉末には確かに惣法務なる職が存在していました。それでは一体いつ頃から惣法務という言葉が使われ始めたのでしょうか。それを知る為に東京大学史料編纂所の「古記録フルテキストデータベース」で「惣法務」を検索した所、一件だけ該当記事がありました。それは権中納言藤原経光の日記『民経記』の寛喜三年(1231)九月二十日の条であり、それには、

 

中納言殿(藤原頼資)、勘解由(かげゆ)小路の亭に帰らしめ給う。今日、請印の政(まつりごと)あるべし云々。中納言殿、上卿(しょうけい)として参ぜしめ給う。蔵人大輔兼高、奉行す。御室(道深法親王)、惣法務并に六勝寺等検校の事云々。

 

などと記されています。

 

考えていたよりも早く「惣法務」の語が使用されている事とその使用例がほとんど検出されない事と、どちらも意外の感がしています。もう少し使用例を探る必要がありそうです。

 

 

 

 

6. 藤原道長の高野参詣

 

高野山は弘法大師空海御入定の地として真言門徒は本より、広く一般の人々からも崇敬の念を集めています。また近年は世界遺産リストにも登録され、千年以上の長きにわたる壮大な生きた信仰の霊場として注目されています。しかし高野山は空海(774―835)が承和二年三月二十一日に入滅してただちに聖地となった訳ではありません。特に御入定伝説と大師信仰とが一体のものとして普及するようになったのは、大師滅後数百年を経てからの事でした。

 

延暦二十一年(921)十月に東寺長者観賢(853―925)の奏請が認められ、空海に対して弘法大師の賜号(しごう)が贈られました。しかし平安中期は伝教大師最澄(767―822)が開創した比叡山延暦寺の天台宗が著しく勢力を伸長し、貴族社会の隅々にまで法華経の影響力が浸透した時代です。真言密教に於いても天台の密教である台密が、ややもすれば弘法大師の密教である東密を凌駕するかの如き観を呈しました。その分、弘法大師に対する評価も幾分か弱まり、まして交通不便な遠隔の地にある高野山に対する関心は薄らいで行きました。

 

こうした高野山の零落傾向に歯止めをかけ、後代の隆盛への大きな転換点と成ったのが治安三年(1023)十月の藤原道長(966―1027)による高野参詣でした。道長は寛仁三年(1019)三月に出家して法名を行観と称し、普通には入道太政大臣あるいは法成寺相国(しょうこく)禅定殿下などと呼ばれていましたが、既に現世に於ける願望を大方達成して専ら来世の浄土往生を願う宗教的生活に入っていたと思われます。道長が高野登山(とうざん)を思い立った確かな動機は分かりません。『日本紀略』後篇の治安三年十月十七日の条に、

 

入道太政大臣は大和国の七大寺を巡礼し、紀伊国の金剛峯寺に参詣した。

 

とだけ記されていますが、真言僧徒の伝承として醍醐の金剛王院流の開祖とされる三密房聖賢(1083―1147)が書き記した物語を以下に紹介しましょう(『高野大師御広伝』下による)。

 

禅定大相国は高野山の夢を見た。それに依れば高野山は世界中の菩薩や聖人の住所であり、また過去現在未来の諸仏が訪れて説法している。神々は順番を決めて仏菩薩を守護し、星々は夜毎に参り奉仕している。ここは釈迦如来が法輪を転じた遺跡(ゆいせき)であり、将来弥勒菩薩が覚りを開いて説法する道場である。一度(ひとたび)此の地に足を踏み入れれば、二度と地獄・餓鬼・畜生のような悪しき世界に帰ることは無い。一度此の山に参詣すれば、必ず弥勒如来の説法に立ち会う事ができる。相国は夢から覚めて、此の事について仁海僧正に様々質問された。其の後で相国の高野山に対する信心が深まり、遂に聖山の参詣をされたのである。道長が大師御入定の禅庵を訪れた時、俄かに戸口の脇板が破れ落ち、そこからほの暗い室内を覗(うかが)う事が出来た。人々は道長の真実心に対して大師が感応を示されたのだと語り合った。

 

少し引用が長くなりました。藤原道長と仁海僧正との関係に付いても色々述べるべき事がありますが後日を期すとしましょう。

 

それでは法成寺禅定殿下道長の高野参詣を当時の記録によって紹介します。道長の参詣記録は『扶桑略記(ふそうりゃっき)』第二十八に、治安三年十月十七日から同年十一月一日に至る比較的簡単な日記が載せられています。是は道長の命によって修理権大夫源長経が記した記録を抄出したものであり、原本は後の白河院の登山記録である『白河上皇高野御幸記』などのように詳しい一巻の書物であったろうと思われます。以下、簡単に日を追って内容を見て行き、その後で少し解説します。

 

先ず十月十七日、金剛峯寺に参詣する為に都を出発する。御供の官人は内大臣藤原教通・民部卿藤原俊賢・中宮権大夫藤原能信・修理権大夫源長経等であり、又随行の僧侶は前権少僧都心誉・同永円・権少僧都定基等であった。これら僧俗合わせて十六人の人々は馬に乗り、共に道長の為に前駆(さきのり)を勤めた。昼前には摂関家の別荘である宇治殿に到着して昼食を取り、その日は東大寺まで行って宿泊した。

 

十八日は早朝に大仏の礼拝をなさり、また東の山手にある銀製の丈六仏を安置する銀堂の荒廃を嘆いてその修理の指図をなされた。次いで興福寺の北円堂と南円堂を参拝し、更に元興寺と大安寺に参詣して昼過ぎに法蓮寺に着き、山田寺に到着した時は既に暗くなっていた。大僧都扶公、威儀師仁満等が食事の用意をした。(扶公は興福寺僧ですが山田寺の別当であったらしく思われます。)

 

十九日は先ず山田寺の堂塔を御覧になり、次いで本元興寺で宝倉を開き、橘寺でも宝物を御覧に成った。夕方に龍門寺に着いたが、付近の岩石・瀑布等が織りなす渓谷の絶景に感嘆した。

 

二十一日は吉野川の上流に到り、御船は急流に掉さして奇巌を過ぎ、お昼になって高野政所(まんどころ)に着いた。申刻(さるのこく)すなわち午後四時頃に山中の仮設屋に向けて山を御登りになった。前例は騎馬であったが此の時は藁履(わらぐつ)を使用した。(「前例」とは詳しく分かりませんが恐らく昌泰三/900年の宇多上皇による高野御幸を云うのでしょう。)

 

二十二日、一同雨の中を歩いて申刻に金剛峯寺に到着した。夜になって高野の住僧三十人分の法服をお与えになられた。これらの僧侶は明日の法会に出仕するのである。

 

二十三日は日の出とともに大師廟に参詣した。雨は上がって晴れに成った。法華経一部と理趣経三十巻を供養する。供養の講師は(三井寺の)権少僧都心誉である。〔此の事について考えるに、弘法大師は智証大師の母方の叔父である。今の講師は智証の門徒で顕密に長じているから選ばれたのであろう。〕心誉の法話は素晴らしいものであった。此の時、東寺の深覚僧正が入道殿下に次のような物語をした。石山寺の淳祐と云う僧が廟前で祈念した時に、人もいないのに少し戸が開いた事があった。禅定殿下は此の言葉を御信じになり、自らも観念を凝らした時、廟の戸の支え棒が自然に倒れたのである。皆は瑞相が現前したと感嘆した。申時に本寺に御帰りになった。

 

二十四日の帰路は往路と同じであったが、雨の為に真夜中を過ぎてやっと高野政所に着いた。二十五日は東寺長者(高野座主)の済信大僧正の房で引出物(ひきでもの)があった。申刻に前常陸介(ひたちのすけ)維時の住居に行き宿所とした。二十六日は法隆寺に参詣して種々の宝物を御覧になった。

 

二十七日になって心誉と永円は智証大師の遠忌(おんき)が近づいているので暇乞いをして入京した。殿下の一行は河内国を指して出発し、途中の風光明媚な山中で休憩して酒を暖めた。暗くなってから道明寺に着いたが、国司(河内守菅原為職)は食堂(じきどう)に於いて一行を盛大にもてなした。

 

二十八日、摂津国に入り、四天王寺に到着する。別当の権少僧都定基の房に於いて御膳が供され、(その後で入道殿下は)仏舎利を御覧になった。次いで国府の大渡の下で御船に乗る。

 

二十九日、未時(ひつじのとき/午後二時頃)に江口に着く。遊女を乗せた船がやって来て歌曲を演奏した。入道殿下はその人を楽しませようとする心意気を賞賛して、讃岐国から米百石を与えるように仰せになられた。

 

三十日申刻(さるのこく/午後四時頃)、山崎の岸辺で御船を降り、関外院に到着する。前肥後守(源)公則が邸内を整え、善美を尽くした食事を供した。

 

十一月一日、真夜中を過ぎて京都に入御する。桂川の辺りで夜が明けた。七条の河原路を経て法成寺の御堂に入御なされたのであった。修理権大夫源長経が教命により之を記した。

 

〔解説〕本記の作者修理権大夫源長経に付いて述べなければなりませんが、実は此の人の事はよく分かりません。しかし恐らく醍醐源氏の権大納言重光(923―998)の子息で越前・備前等の国司を歴任した正四位下長経であろうと思います。此の人は長元三年(1030)八月現在に備前守であった事が知れます。

 

弘法大師廟に於ける道長の経巻供養の講師(導師)を勤めた心誉(971―1029)は、本文の注記に云うように智証大師の法灯を継ぐ三井寺(園城寺)の僧であり、後に権僧正・三井寺長吏に成っています。高野山に於いて三井寺(寺門/じもん)の僧が導師を勤めるのも奇妙な感じがしますが、本文中の注記に云うように智証大師円珍の母親は弘法大師の姪に当たる女性でしたから、智証の門徒は弘法の末葉と云う理屈が通用していたらしいのです。道長以後も上皇・関白等の御登山に際しては寺門僧が法会の導師を勤めています。是に対して同じ天台宗でも慈覚大師系(山門/さんもん)の僧侶は高野の導師を認められませんでした。寛治二年(1088)に白河上皇が登山した時は天台座主仁覚が随行していたのですが、仁覚は山門系なので三井寺の隆明が導師に成っています。

 

さて心誉と共に道長に従った永円(980―1044)・定基(977―1033)も寺門(三井寺)僧です。28日の条に記されているように定基は四天王寺別当であり、永円は後に大僧正・長吏にまで成りました。又18日の条に登場する大僧都扶公(966―1035)は心誉の実の兄であり、翌年(万寿元年/1024)興福寺別当に任命されています。

 

道長の高野参詣時の法事は勿論経巻の供養だけではありません。高野の住僧である山籠衆三十人によって供養の後に理趣三昧法要が行われ、山籠峰杲(ぶごう/第四代高野検校)が表白(ひょうびゃく)導師を勤めました。(『高野山御幸御出(ぎょしゅつ)記』等による)

 

7. 四合八合聖教と小野経蔵

 

興教大師覚鑁上人(1095―1143)は鳥羽法皇に勧められて長承二年(1133)に鳥羽殿の宝蔵に納められている聖教を閲覧書写しました。その時の写本の中、小野僧正仁海(951―1046)が製作した『小野六帖』の上人識語(奥書)に此の本を「四合の正本」を以って校訂した事、或いは「四合の内の六帖」の本である事などが記されています。此の「四合」とは小野僧正の自筆聖教を収めた四合の箱を云い、元来は僧正が創建した小野の曼荼羅寺の経蔵にあったのですが、鳥羽院政期には仁海が収集した弘法大師御自筆本を始めとする他の大事の聖教と一緒に鳥羽殿に移されていたのです。

 

鎌倉末から南北朝期にかけての有名な真言学僧である勧修寺の栄海僧正(1278―1347)作『真言伝』の範俊(1038―1112)伝に、

 

範俊は自らが相承していた法門十二合と道具等を白河院に献呈し、これらは鳥羽宝蔵に納められた。そして正嫡の弟子厳覚僧都(1056―1121)を宝蔵の責任者とするよう申請した。大師が所持しておられた飛行(ひぎょう)の三鈷杵以下、小野一門が歴代相承してきた秘書等は総て彼の宝蔵に納められている。

 

と述べています。後で述べるように範俊在世中に曼荼羅寺の相承法門を総て白河院に譲ったとする説には疑問があるのですが、今は「十二合」聖教に付いて話を進めましょう。同じく栄海作『ゲンビラ(gambhira)鈔』巻十四では此の十二合を評して、

 

彼の(鳥羽宝蔵の)聖教とは四合八合の事である。是を十二合と称するのである。海僧正の聖教の中である(仁海僧正が相伝した分と自身御製作の分の聖教である)。般若寺(観賢 853―925)以来厳覚に至る七代の印信・血脈も現存している。真言宗の門徒は印信を以って法門相承の規範・証明とするのであるから、法流の正統が何処にあるか明らかである。

 

と述べて、観賢―淳祐―元杲―仁海―成尊―範俊―厳覚なる血脈で示される法流の正統性を誇っています。

 

それでは此の四合八合/十二合にはどのような聖教が収められていたのかと云えば、それに付いては栄海の弟子俊然(しゅんぜん 1323―1366)の『四巻鈔』中巻に「先口」すなわち先師栄海の口説として次のように要領よく書き記されています。

 

「鳥羽十二合皮子(かわご)の事(皮子は革製の手箱)。十二合であるが四合八合と云うのである。その中の四合は大師の御正教である〔二合は見えない〕。八合は後代の祖師の正教である。其の内の一合は貞観寺(真雅 801―879)、一合は般若寺、一合は石山(淳祐 890―953)、一合は延命院(元杲 914―995)、四合は雨僧正(仁海)の正教である。件(くだん)の僧正の正教四合の内に代々の印信血脈がある。」

 

是によって冒頭に述べた覚鑁上人の識語中の「四合」とは、小野僧正仁海の聖教を収めた四合箱のことであると分かります。但し十二合を四合八合と云う時は、弘法大師を尊敬して特にその聖教四合を他の八合と区別すると云う事です。

 

次に此の十二合の聖教が鳥羽に移される前に所蔵されていた曼荼羅寺のいわゆる「小野の経蔵」に付いては、龍門文庫に古写本の『小野経蔵目録』(仁安三年/1168範杲書写)が現蔵されています。是は川瀬一馬氏によって発見され『日本書誌学之研究』に於いて紹介されたのですが、現在では同氏の尽力により『龍門文庫善本叢刊』第12巻に影印収録されて手軽に見れるように成りました。

 

此の目録の記す所によれば、先ず「御手跡」(御自筆)を始めとする弘法大師の遺本137点が六合の手筥に収められています。次に貞観寺僧正真雅の聖教が一手筥に22点、般若寺僧正観賢の分が二手筥72点、仁海僧正の分が四手筥317点であり、石山淳祐と仁海の師である延命院元杲の聖教に関する記載はありません。(以上の点数は『日本書誌学之研究』に依りました。)そうすると鳥羽の四合八合に準じて云えば全体で六合七合であり、小野経蔵の聖教が鳥羽殿に移されて十二合に整理されるまでにはかなり複雑な経緯があった事を予想させるのです。

 

最後に範俊僧正が小野の聖教を総て白河院に進呈したとする伝承が疑わしい事に付いて述べましょう。平安時代に太政官の書記官であった外記(げき)が職務として記録していた外記日記は古い時代に散逸してほとんど伝わっていませんが、白河上皇の側近の官僚として活躍した大外記中原師遠(1070―1130)の大治二年(1127)五月から七月にかけて日記がかなり残っています。その中六月七日の記事では弘法大師自筆の御遺告(ごゆいごう)とその中に説く如意宝珠の事に関連して次のような白河院の言葉を書き記しています。

 

「仰せ云く、(中略)範俊は死が近づいた時に、此の物(相伝の如意宝珠)は伝えるべき弟子がいませんから御前に進呈すべきでしょうと語った。ところがすぐさま召し取りはしなかった。範俊も急ぎ献呈はせず、そのまま亡くなってしまい、その住房は混乱した云々。滅後の事を取り仕切る弟子の僧が二人いた云々。範俊の遺品はひどく散乱していると聞いたので鳥羽殿の兵士を差し向け、遺品を守護させたのであった。」

 

範俊が天永三年(1112)四月二十四日に入滅した後の曼荼羅寺の混乱については藤原忠実の日記『殿暦』の同年六月二十六日の条に、「故範俊僧正の小野経蔵に封を付けた。」と述べていますから、結局弟子の間で解決できず相論(裁判)となっていたらしいのです。此の時点で大師御自筆以下の大事の聖教が何処にあったのかは分かりませんが、依然として小野経蔵にあった可能性は否定できないのです。

 

 

 

8. 勝定房恵什と寛信法務

 

真言密教では血脈(けちみゃく)という事を非常に大事にします。世間の系図では祖先の血(今はDNAと云います)が代々受け継がれて子孫に至った様子が書き示されていますが、真言血脈では両部大経の教主である大日如来の法(教え)を血に譬えて、それが真言八祖を始めとする代々の祖師から師資相承され来った次第が記されているのです。此の血脈に連なって名を記される事はとりもなおさず大日如来の、或いは弘法大師の正統な弟子である事を意味します。

 

しかし師匠の下で修業し、真言教学を学んだだけでは、普通此の血脈に名を加えられる事はありません。伝法潅頂入壇という儀礼を経て、初めて師の法流を相承したと認められるのです。また伝法潅頂を受けた後には、通例その事を証明する印信と血脈が手渡しされます。従って極端な場合、師僧の教えを皆伝していても潅頂入壇を果たさなければ血脈にその名を見出す事は出来ませんし、逆にほとんど師から教えを受けていなくても印信と血脈に名前が記されていれば正統な付法弟子になります。ここに法流研究の険呑(けんのん)なる落とし穴があります。法流相承の血脈だけを見ていたのでは中々その実態をうかがい知る事が出来ないのです。

 

長期にわたって師僧から伝授を受け、遂に法流の写瓶(しゃびょう)弟子となって潅頂入壇した事を史料の上から裏付けるのは容易な事ではありませんが、小野の諸法流の大成者である勧修寺の興然(1121―1203)阿闍利が二十箇年にわたり大法房実任(1097―1169)から百二十余の法を伝受した顛末を逐一確認できるというような例もあります。反対に師僧からの面受(直接の受法)の実態が無くても法流の継承者と認められて醍醐寺座主になった勧修寺の明海(みょうかい)已講(1105―60)の例があります。明海は後でお話しする寛信法務の一番弟子でしたが勧修寺長吏になれる見込みが無くなったので、醍醐寺座主元海(1093―56)の招きに応じて醍醐に移り、早々と元海から略儀の潅頂を受けて座主職を譲られました。その後まもなく元海は入滅したので、明海の元海からの受法は極めて限られたものでした。しかし明海は疑うべからざる法器であり、経蔵の秘密聖教(しょうぎょう)を博覧して名著『玄秘鈔』四巻を製作しました。猶明海は座主に成ってから名を実運(じちうん)と改め、権少僧都にまで成りました。

 

法流の相承には実に様々なケースがあるのですが、上に述べた二例の師資関係は何れも血脈に記されています。ところが血脈に記されていなくても法流史の上で重要な師資関係というのが幾らもあるのです。今から述べる勝定房恵什(1060―1144―)と寛信法務(1084―1153)の場合、寛信が恵什から受法した事は寛信の自記によって明らかですが普通の血脈にその事は記されていません。

 

鳥羽院政期の仁和寺を代表する学僧の一人であった恵什阿闍利は本名(前名)を斉朝(最朝)と云い、やはり学僧として知られた芳源阿闍利(生没年未詳)の弟子で、同寺の東方衣笠(きぬがさ)山の麓にあった大和堂を本坊にしていたと伝えられています。恵什が名僧として後世にその名が伝わったのは専ら『図像抄』十巻を製作した事に依ります。本書は『十巻(じっかん)抄』とも『尊容抄』とも、或いは『形像(ぎょうぞう)抄』とも称されますが、一方で作者については保寿院流祖の永厳(ようげん)法印(1075―1151)とする説もあります(今は此の問題に触れないでおきます)。

 

寛信は顕密兼学の真言学僧として世に知られ、勧修寺長吏を始め東寺長者・法務、東大寺別当などの要職を歴任しました。又やはり勧修寺長吏であった師僧の厳覚僧都(1056―1121)の秘伝を伝えて後世勧修寺流祖として仰がれています。厳覚は小野曼荼羅寺の範俊僧正の付法弟子として有名ですが、勧修寺に移る前は醍醐寺大谷の僧であり、大谷阿闍利と称された覚俊(―1030―80―)の弟子でした。従って寛信は此の覚俊の事を「祖師大谷阿闍利」と称して尊敬していたのです。

 

さて寛信が恵什から受法した事は血脈書の類に見えないにしても、仁和寺の行遍僧正(1181―1264)の口説を記した『参語集』の中に、恵什が仁和寺から勧修寺に移って寛信に授法した物語が記されています。それに依れば、白河天皇の御子である中御室(なかおむろ)覚行(1075―1105)が仁和寺に入御した時、仏法の師範には勝定房恵什が選ばれた。しかし同寺の北院に於いて恵什が授法するに際し、弟子の覚行は母屋に坐し、師匠の恵什は一段低い庇(ひさし)の板敷きに座らされた。恵什は是は仏法をないがしろにする行為であると憤慨し、そのまま仁和寺を去って戻らなかった。似たような話は興然阿闍利と守覚法親王(1150―1202)との間にもあって、世間の権威を意に介さない学究肌の学僧の心意気を示しておもしろく思われます。ただ年代の上でやや無理が感じられ、覚行では無くやはり白河院の御子である高野御室覚法(1091―1153)と恵什との間のトラブルと解すれば得心がいくでしょう。

 

『参語集』の話を続けますと、一方寛信は常日頃「いくら身分が卑しくとも学識と修行に優れた僧から親しく教えを受けるべきである」と語り、此の事を洩れ聞いた恵什は勧修寺に移る決心をした。寛信の方も恵什を「天の与えた師匠である」と歓迎し、様々不審を問いただしてその学識に驚嘆した等と述べています。

 

寛信と恵什の関係をより直接的・具体的に示す資料に付いては既にブログの『柴田賢龍密教文庫「研究報告」』に九点の一次史料を紹介掲載しましたので、関心のある方は是非御覧になって下さい。実際にはまだまだ多くの未発見・未紹介の史料があるに違いありません。九点の内六点は東寺の観智院金剛蔵聖教中の古写本で、寛信が恵什本を用いて書写した旨の奥書が記されています。是だけでは寛信が直接恵什から受法したのかどうか分かりませんが、寛信と恵什が実際に会っていた事を示す寛信の自記が三点あります。

 

一例として、天養元年(1144)十二月七日に恵什阿闍利が寛信の所にやって来て随求菩薩法の八つの秘印に関する自説を語ったと述べています(『覚禅鈔』の「随求(法)」)。又此の日、恵什は先日光明山(こうみょうせん)で書写した神日(じんにち 860―916)作『五秘密次第』を寛信に見せ、寛信は数日後に此の次第を書写しました(『金剛蔵目録』十七)。

 

 

 

9. 後白河法皇の伝法潅頂入壇

 

日本の歴史に於いて天皇が譲位後に出家受戒して法皇となるのは珍しくありません。むしろ普通の事とさえ云えるでしょう。しかし真言密教の伝法潅頂に入壇して正統な伝法阿闍利にまで成った天皇は至って少ないのです。今からお話しする後白河上皇(1127―92)の前には寛平(かんびょう)法皇と称された宇多上皇(867―931)の例がある位でしょう。ただ後白河院(法名行真)が台密園城寺(おんじょうじ/三井寺)の潅頂を受けたのに対して、宇多法皇(法名空理・金剛覚)は広沢流の祖とされる円成寺益信(やくしん 827―906)から東密の伝法潅頂を受け、亦天台座主増命(諡号静観 843―927)から台密の「五瓶潅頂」を受けました。園城寺の伝法史料に「五瓶潅頂」と注記してあるのですが、伝法潅頂は総て五如来を意味する五瓶の智水の潅頂なので此の言葉に特殊な意味合いがあるのかよく分かりません。猶増命は智証大師の法系ですから三井寺の長吏にも成っています。

 

後白河院が嘉応元年(1169)六月に出家して法皇となり、その後文治三年(1187)八月二十二日に摂津(大阪)の四天王寺に於いて三井寺の本覚院僧正公顕(1109―93)から伝法潅頂を受けた事はよく知られています。公顕は此の時は前権僧正の位にありましたが勧賞によって大僧正・法務に任命されました。後白河法皇は出家を遂げてから潅頂入壇に至るまで専ら三井寺の僧に就いて仏法を学ばれたようですが、園城寺の伝法史料には最初覚忠僧正(1117―77)の入室(にっしつ)の弟子となり、その後行慶僧正(1103―66)から受法したと記されています。覚忠は関白藤原忠通の子息で同寺長吏、天台座主に成っています。行慶は白河院の御子でやはり同寺長吏に成っていますが年次を考慮すれば後白河法皇の受法の師と云うのは誤りであり、実には行慶の潅頂弟子である常喜院法印行乗(1125―84)の事が誤り伝えられたものと考えられます。

 

後白河法皇の入壇記録は散逸して残っていないようですが、時の摂政九条兼実(1149―1207)の日記『玉葉』にその前後の事を記した記事がかなりあり、特に伝法潅頂が終わってから行われる後朝(こうちょう)の儀礼に付いて非常に詳しく記されています。又『歴代編年集成』(帝王編年記)等にも貴重な情報が記されています。それらに依って以下に事の次第を述べましょう。

 

法皇は智証大師の門徒ですから法流の本寺である三井寺で潅頂を受けるのが当然でしょうが、是に対しては亦当然ながら慈覚大師流の山門から強い抵抗が示され、潅頂の具体的な段取りは遅々として決まりませんでした。ただ潅頂の大阿闍利には鎌倉の大御堂(勝長寿院)の供養導師を勤めるなど当代きっての名僧と評価の高かった園城寺長吏の公顕僧正が早くから内定していたと思われます。三井寺は比叡山の南麓にあっていつ何時武装した山門大衆(だいしゅ)が押し寄せて来るか分かりませんから、結局は本寺の潅頂をあきらめ、法皇の御子の定恵法親王(1156―1196)が別当をしていた四天王寺で行われる運びに成りました。四天王寺は智証系の僧侶が別当識に就任する慣例が成立していて三井寺とは強い結びつきがあると云えます。今回の儀に備えて新たに四天王寺の伽藍の東側に、智証大師ゆかりの三井寺唐院を模した潅頂道場を造営し、是を五智(光)院と名付けました。

 

伝法潅頂は何かと費用がかさみますが、大阿闍利以下の出仕僧に渡す布施も大変です。政治の最高権力者の面目にかけても並大抵の布施では収まらないからです。『玉葉』によれば法皇は文治二年(1186)二月二十五日から四天王寺に於いて潅頂加行(けぎょう)を開始する予定でしたが俄かに延期されました。その理由は、布施に用いる布絹等を関東の源頼朝に依頼して調達し、その目途(めど)が就いてから加行を始める事にしたからです。兼実は頼朝の舅(しゅうと)で京都守護の北条時政が今回の布施を献じようとしないと云うので、実にケシカランと怒っています。

 

法皇の伝法潅頂は文治三年八月二十二日と決定し、三七日(さんしちにち)の加行を行う為に法皇は七月二十八日に四天王寺に参詣されました。実は八月二十二日は後白河院の母后待賢門女院(1101―45)の御国忌(御命日)に当たっていたのですが、その事がどのように判断されたのかよく分かりません。

 

八月二十二日から翌朝にかけて伝法潅頂は無事に終了し、巳の時(午前十時頃)に勧賞の儀が行われる事になりました。潅頂の色衆(しきしゅ/讃衆/伴僧)は二十人で全員が寺門(智証流)の僧綱・有職(うしき/阿闍利)でした。潅頂が終わって法皇から摂政兼実に対して勧賞の事に付いて下問がありました。兼実は子息の内大臣良通を伴って前日の中に四天王寺に到着していたのです。法皇の考えは大阿闍利の前権僧正公顕を大僧正・法務に任命する。それから当寺別当の前僧正定恵にも賞を与えるべきであるが、定恵の方から老僧の行昭を法眼に叙し、又当寺執行(しぎょう)の法橋兼覚も法眼にしてほしいと過分の申請をしており、どのように取り扱うべきであろうか、という内容でした。

 

是に対する兼実の返答は、上皇が伝法潅頂を受けるのは非常に珍しい事であるから大阿闍利の賞に関しては問題が無い。しかし近代の人々の昇進は皆過分とは云っても別当の賞二人はいかにも過分であり、どちらかにお決めになるべきです。どうしても両人とならば、行昭を別当の賞、兼覚を寺司の賞とすべきでしょうと提案し、此の通りに勧賞が行われたのです。

 

さて時到って先ず大阿闍利が讃衆を従えて潅頂堂の西面の座に着き、程なく法皇の一行が潅頂堂を目指して進んできました。その行列は殿上人を先とし、摂政兼実・右大臣藤原実定・内大臣良通以下の公卿が続いて、まれに見る壮観の様を呈しました(行列は下位の者を先とします)。一行は潅頂堂の西側に張り巡らされた幔(幕)の外に列立し、法皇が幔門に近づかれた時、摂政・大臣以下一同は地に跪(ひざまづ)きました。

 

次いで法皇と公顕僧正は潅頂堂の中に入り、まず勧賞の院宣が発せられ、次いで布施の儀に移りました。大阿闍利の分は摂政兼実が布施取りの役を勤め、讃衆の分もそれぞれ公卿が布施取りを奉仕して事が終わり、法皇の一行は亦還列(げんれつ)して此の希有の潅頂儀は総て無事に終了したのでした。

 

『吾妻鏡』によれば、兼ねて京都から依頼のあった法皇の御潅頂の用途(費用)は様々の案件が重なって中々用意できず、結局潅頂が終わった十月に成ってやっと京都に向けて発送されたとの事です。

 

(追記)

 

『玉葉』の8月22、23日の条には兼実が金堂に於いて仏舎利を拝した事、聖霊院の絵堂に於いて太子絵伝の絵説きをさせた事、24日の条には後白河院が四天王寺に於いて舎利会を行った事が記されていて興味をそそりますが、記事を本題に集中させる為に敢えて言及しませんでした。

 

『吾妻鏡』文治二年(1186)3月21日の条に、「法皇御潅頂の用途」として駿河・上総両国の「現米千石」、白布千反と国絹百疋を送る事が記されています。是が遅延して翌年十月の発送となったのか、又は別の分なのか、まだ確認していません。それと関連して文中に「京都守護の北条時政」と記しましたが、同書の同月23日の条に平(北条)時政の朝廷に宛てた京都を辞して鎌倉に下向する旨を記した手紙が載せられています。是より先、頼朝は時政に代えて藤原(一条)能保(1147―97)を京都守護職にして、時政に対しては早く帰参するよう度々命じていました。

 

又勧賞の事に付いて『歴代編年集成』(帝王編年記)に、

 

大阿闍利の勧賞は法務大僧正、別当の(前)僧正には法眼一人を賜る。目代兼覚を以って之を勧(すす)む。

 

と云いますから、別当の定恵親王は勧賞が法眼一人になったので、老僧行昭を取り下げて執行兼覚を法眼にするよう申請したらしく思われます。

 

(平成22年2月20日)

 

 

10. 寺院有職(うしき)の阿闍利の事

 

「阿闍利」とはサンスクリット語acaryaの音写語で師匠・師範を意味します。仏教教団の中で弟子を教え指導できるような学識のある高徳の僧を云います。また現今では一般に阿闍利と云えば、密教の修行をして師から伝法潅頂を受け法流の正統な継承者となった人、即ち伝法阿闍利の事と思われる事が多いようです。ところが中古・中世の公卿日記や古文書を読んでいると、このような意味で「阿闍利」という語が使用されている事は意外と少ないのです。大抵の場合は僧職としての阿闍利、即ち寺院に設けられた有職(うしき)の阿闍利を指しています。此の他にも密教法会の導師を阿闍利、又は大阿闍利と称しますが、この小稿では伝法阿闍利と有職阿闍利の区別と連関性について留意しながら後者の僧官としての阿闍利についてお話します。

 

有職の阿闍利は朝廷から任命(専門的には「補任/ぶにん」と云います)された「官職」としての阿闍利職(しき)の事であり、寺院によって個別に員数が定められていますが、その場合御願寺(ごがんじ)に設けられて寺の本尊を供養し国家の安泰を祈る供僧(くそう)と区別がつきにくい事もあります。また官職としての阿闍利とは云っても勿論伝法阿闍利と無関係に存在する訳ではありません。原則として伝法潅頂を受けた伝法阿闍利が「阿闍利職」に任命されて、天皇或いは上皇の御願の勤修(ごんしゅ)に精励するのです。

 

寺院の有職阿闍利は慈覚大師円仁(794―864)の申請によって比叡山延暦寺に設けられた八口の阿闍利職をその淵源としますが、僧官としての阿闍利は入唐八家(にっとうはっけ)とそれに続く時代に於いてはむしろ例外的な存在であったと云えます。延暦寺以外の天台宗諸寺院にも阿闍利職が普及するのは十世紀後半の事であり、以後時代と共にその数を増やして行きました。是に対して東寺(真言宗)は官許(太政官符)による伝法潅頂の執行に熱心で、東寺系諸寺院に阿闍利職の設置が一般化したのはやっと十一世紀中葉から十二世紀にかけての事です。

 

それでは何故に僧官としての阿闍利が必要であったのでしょう。延暦寺に次いで早い例である元慶八年(884)九月の権僧正遍照の申請に基づいて元慶寺に二人の「伝法阿闍利」職を設置する事を承認した太政官符が伝わっていますが、それに依れば遍照は大旨次の様に主張しています。

 

「当寺には大日経・金剛頂経・天台摩訶止観に各一人の年分度者があり、毎年十二月十六日に合否の試験を行っている。しかし顕教(止観)を教授するには師を撰ばないが、真言教の場合は伝法潅頂を受けた阿闍利でなければ大日経や金剛頂経を読む事さえできない。従って伝教の阿闍利を置かなければ一体誰が是を教授できようか。」

 

ここでは伝法阿闍利と阿闍利識とが未だ概念的に分化していない状態がよく示されていますが、要は制度として真言教授の専門職を設ける必要があると主張しているのです。それから百年余を経た永延三年(989)五月の法性寺に阿闍利二人を置く事を認めた太政官符に依れば、申請者の同寺座主権律師正算は、

 

潅頂を執行するには大阿闍利を含めて六人の阿闍利が必要であるが当寺分の阿闍利が置かれていない為、現住の阿闍利もいつ退去するか分からない。その時には非職の僧を臨時に用いなければならない。

 

等と述べていますから、有職(僧官)としての阿闍利の概念がより明確になっています。是より後、十一世紀になると最早どうして阿闍利職が必要かと云った主張は見えなくなり、専ら御願を勤修して国家の利益に精励する事が申請の理由に成ります。

 

十世紀末になると、天台宗諸寺院に次々と勅許による阿闍利職が置かれていく情勢を見て、東寺の方でも同職の設置を申請する事にしました。正暦五年(994)八月に東寺別当(長者)の大僧正寛朝は「寺家に八人の阿闍利職位を定置」するよう太政官に申請しました。その中で寛朝は「抑(そもそ)も慈覚大師が延暦寺に八人の阿闍利を申請した時は東寺の定額僧に准じて」と述べているから、実には「阿闍利位を最初に申請したのは東寺である」と強弁しています。翌る長徳元年(995)六月にも再度同趣の申請が為されていて是が勅許になったらしく思われますが、太政官符が伝わっていないので確かな事は分かりません。

 

さて今度は阿闍利職の僧綱位と異なる特徴について述べます。阿闍利職は僧綱外の僧職ですから法橋上人位或いは権律師に叙任されて僧綱員になっても引き続き入滅に至るまでその職を帯します。ただ肩書の上では僧綱位が優先しますから何某(なにがし)阿闍利という云い方は無くなります。此の事は各種の阿闍利の補任史料によって確認できますが、とりわけ応保二年(1162)の僧官一覧を記した『究竟(くきょう)僧綱任』が役に立ちます。本書(写本)は同年の僧綱員は勿論のこと、東寺分の阿闍利161名を総て寺院別に書き出してあり、実に中世寺院史の研究にとって希有にして有益なる書物です(天台宗の分は寺院別の口数しか記されていません)。

 

本書によって当年の東寺長者である大僧正寛遍が円宗寺、加任長者の権少僧都禎喜と同任覚がそれぞれ円楽寺と仁和寺成就院の阿闍利であった事が判明します。また醍醐寺座主の権律師勝憲が円勝寺、勧修寺流仁済方の祖である高野真別所の仁済(尊海)が安祥寺の阿闍利である事など興味が尽きません。(『究竟僧綱任』は『南都佛教』第80号別刷に横内裕人氏による影印・翻刻が掲載されています)

 

寺院の阿闍利が原則として終身職であるとは云え、やはり例外があります。とりわけ東寺潅頂院の16口有職は特殊な存在で、是以外の阿闍利職と別に考える必要があります。それは同院の阿闍利は必ず東寺定額僧21人の中から選ばれ、その職を帯する事はとりもなおさず弘法大師の法を受け継いで天皇の御願に奉仕する正統な真言僧である事の証明であるからです。従って東寺系の有力な僧侶は此の潅頂院阿闍利である事が望ましいのですが、口数が限られていますから一度補任の後に辞退して他寺院の阿闍利になるケースが多かったのではないかと考えられます。特に僧綱の補任が辞退の契機になったようです。

 

実は確実な史料でこれらの事を確認するのは困難なのですが、少なくとも諸寺院に阿闍利職が一般化する前は仁和寺や醍醐寺の有力僧が揃って潅頂院有識に名を連ねていた事を示す史料があります。東寺文書中には康和四年(1102)の東寺御影供に対する「菓子の調進」と参仕を同寺定額僧と阿闍利に命じた廻文(回覧文書)が存在しています。是は原文書で希有貴重なること言うまでもありませんが、此の中では醍醐の仁寛・定海、小野大乗院の良雅、仁和寺の最朝(恵什)等の著名僧が悉く東寺阿闍利として名を列ねているのです。曼荼羅寺の範俊、醍醐寺の勝覚、或いは仁和寺の寛助と云った人々の名が見えないのは既に僧綱員となって同阿闍利職を辞退したからであり、元はやはり東寺定額僧から潅頂院阿闍利という段階を通過していたのに違いありません。

 

 

 

 

11. 遍智院潅頂堂の円珍請来尊勝曼荼羅の事

 

醍醐寺遍智院は中世に消滅して現在はその遺跡も定かでありませんが、白河天皇の時代に活躍して東寺二長者にもなった義範僧都の開創になる同寺でも有数の由緒ある子院でした。特に醍醐寺座主で遍智院僧正と呼ばれた成賢(せいげん 1162―1231)が院主職にあった鎌倉時代初期は同院が最も隆盛して他の諸院を圧倒した時代でした。その成賢が同院に建立した潅頂堂(本堂)の本尊は、天台寺門流の開祖である智証大師円珍が請来した特殊な尊勝曼荼羅に基づく尊像でした。法流の相承次第をとりわけ大切にする真言事相の世界にあっても、個別の法門・口伝の継承過程となるとよく分からない事が多いのですが、成賢が此の曼荼羅を相承するに至った経緯は数世代さかのぼって具体的に跡づける事が出来ます。

 

成賢僧正が造立した遍智院潅頂堂の本尊仏は金剛界大日如来であり、左右の脇侍(きょうじ/わきじ)は不動・降三世両明王の坐像でした。此の事は信憑性のある同時代の諸書に記されていて疑念の余地はありません。どうして此の三尊仏が尊勝曼荼羅を構成しているのかと云えば、此の大日如来は常の五仏宝冠と違って七仏(七仏頂)の宝冠を戴き、宝冠の七仏頂に尊勝仏頂を兼ねる大日を合わせれば中尊大日と八仏頂から成る尊勝曼荼羅そのものであると説明されています。降三世明王は五仏宝冠を戴く二臂像で、尊勝曼荼羅に特有の像容です。

 

成賢の付法弟子である報恩院憲深僧正(1192―1263)の諸尊法に関する口説を中性院頼瑜法印(1226―1304)が記録した『薄草子口決』の「尊勝(仏頂)」の条に、此の尊勝曼荼羅について説明した憲深の自筆裏書(うらがき)がありますので先ずそれを紹介しましょう。

 

「智証大師が請来された尊勝仏頂の曼荼羅は只中央に大日如来、左右に不動・降三世の二尊が画かれているだけである。此の外に尊勝仏頂が別に画かれているわけではない。遍智院の堂の本尊は是である。甚深の習い(秘密口伝)があって、故僧正(成賢)が是を造立なされたのである。此の習いは三井寺に於いては特に秘密としている。其の相承次第は、

 

三井覚猷大僧正、兼意阿闍利、常喜院(心覚阿闍利)、故僧正、愚老(憲深)

 

であり、自分が相承してからは当流(三宝院流)の秘伝としているのである。」

 

上の相承次第では先ず鳥羽院政期の広沢の著名な学匠である兼意(1072―1145―)が三井寺長吏の覚猷(1053―1140)から伝法している事それ自体が大変興味あるのですが、是については兼意自らその始終を書き記しています。即ち成賢口・深賢記『実帰鈔』の「(尊勝)略曼荼羅の事〔智証請来〕」の中で成賢が、

 

その(略曼荼羅の)事は兼意阿闍利の記に云く、先年覚猷僧正にお目にかかり(色々とお話し)申し上げた際、(僧正が)興に乗られたのであろう。三衣箱(さんねばこ)を開いて種々の秘書・秘仏等を取り出だしてお見せになったが、その中に此の尊勝(曼荼羅)があった。その上それに関する秘密口伝等を伝授して下さったので、その場で紙一枚を頂いて二字(僧名)を書き、それを僧正に進呈したのであった云々。

 

と述べています。文中の「二字」とは通称ではない僧の諱(いみな/実名)の事であり、是を書いて相手に差し出す事はそのまま弟子と成る事を意味しました。此のエピソードは真言事相の世界に於ける師弟関係を考える上でも示唆(しさ)に富んでいますが、兼意にとって此の尊勝曼荼羅はたちどころに弟子の礼をとる決心をさせるほど重要なものだったのです。同じ物語は成賢口・道教記『遍口鈔』巻五の「尊勝曼荼羅の事」にも記されています。

 

次に常喜院心覚(1117?―80)が兼意から相伝しているのは当たり前の事ですから是はよいでしょう。その次の故僧正成賢が心覚から相承した事については少し説明する必要があると思います。一般の真言法流史ではほとんど言及されていませんが、醍醐三宝院流の大成者と目される勝賢僧正(1138―96)と成賢の師弟は二人とも心覚の弟子だったのです(尤も勝賢の場合は心覚の師でもありました)。特に成賢は若年時に勝賢から命令されて心覚の身の回りの世話をする為に高野山に登り、晩年の心覚に随侍して承仕(じょうじ)の誠を尽くしました。心覚も此の若い成賢の骨身を惜しまぬ努力が気に入ったのでしょう、随分と多くの秘書・秘伝の類を授けています。その一例が今の尊勝曼荼羅です。心覚が亡くなった時に成賢はまだ十九歳でしたから、いくら法器の素質が認められたにしても随分と「気前よく」秘伝を授けたものだと感じられます。

 

最後に遍智院潅頂堂以外の造像例について少し見てみましょう。先ず現存する遺例として大阪府河内長野市にある金剛寺の本尊像があります。但し中尊の金剛界大日如来が藤原時代の作であるのに対して、脇侍の二明王は南北朝時代の制作になると云います。若し藤原時代に尊勝曼荼羅の中尊として此の大日如来が作られたのであれば、真言法流史のみならず密教美術の観点からも非常に興味ある尊像と云えるでしょう。

 

また記録に残る古い作例として白河法皇御願の高野東塔本尊像があります。権中納言源師時の日記『長秋(ちょうしゅう)記』大治二年(1127)十一月四日の条に、本院(白河上皇)が新院(鳥羽上皇)と共に高野に参詣なされた時の事を記して、

 

次に東の御塔に移動なされた。〔本院は御輿、新院は歩行。〕件の御塔は長吏(高野別当)の権僧正(勝覚)が本院の御祈り(御願)として造立なされたのである。九輪は鉄で作られていて、塔の中には尊勝・不動・降三世が安置されている。

 

と述べています。塔中の三尊が尊勝曼荼羅である事は間違いないでしょうが、果たして誰が此のプランを立案したのでしょう。東寺長者であった醍醐寺の勝覚僧正(1057―1129)が白河法皇の意向を受けて此の塔を建立したのですが、勝覚が此の円珍様尊勝曼荼羅の造立を法皇に提案したとはとても考えられません。恐らくは当時散位の法印大和尚であった覚猷の提案が採用されたのでしょう。是も単なる高野山史・真言宗史を超えた院政期の仏教全体に関わる大変興味ある研究課題です。

 

 

 

12. 内山永久寺の真言法流

 

奈良県天理市にあった内山(うちやま)永久寺は平安時代後期に「山の辺の道」沿いに創建された由緒ある大寺院でした。当初は興福寺大乗院末の法相(ほっそう)宗の寺院でしたが、鎌倉時代以降は醍醐寺金剛王院系の真言法流が盛んとなり、近世になると当山派修験道の十二大先達(せんだつ)の一院としても栄えました。しかし明治維新の廃仏毀釈の嵐によって廃絶し、現在は石碑や案内板を除けば庭園跡の池だけが昔日の大伽藍の面影を伝えています。

 

廃仏毀釈に際して永久寺の寺僧の多くは還俗(げんぞく)して布留社(石上/いそのかみ神宮)の神職となり、その建物・寺宝等は移築或いは売却されて散逸しましたが、現在その所在が確認されている物も少なくありません。その中でも大阪の藤田美術館が所蔵する国宝の「両部大経感得図」二面は遺品の少ない平安時代院政前期の大画面として殊によく知られた作品ですが、此の一双の絵画は永久寺真言堂に懸けられていた胎蔵・金剛両部曼荼羅の後壁にはめ込まれていた障子絵でした。従って此の国宝絵画との関連もあって内山永久寺は以前から一部研究者の注目する所でした。

 

永久寺は廃絶に帰したとは云えその文献史料は比較的多く残されています。『校刊美術資料 寺院篇』下巻には同寺に関する諸史料を集めて鎌倉末に編纂された『内山永久寺置文(おきぶみ)』と『内山之記』が近世初の『和州内山永久寺縁起』などと共に収載されて研究の便宜を提供していましたが、近年になって東京国立博物館から『内山永久寺の歴史と美術』史料・研究両篇が刊行され同寺に対する関心は更に高まっていると云えるでしょう。しかし永久寺の歴史については史料が豊富な割に未解明な部分が多くあるような気がします。本稿では真言法流に焦点を当てて当寺の沿革を概観します。

 

菅家本『諸寺縁起集』に創建の由緒を記して、

 

永久寺はまた内山寺とも云う。此の寺は永久二年(1114)に鳥羽院の勅によって頼實法印が建立した。頼實は大乗院本願の隆禅法印の弟子である。真言開白(かいびゃく/開山)は小野真乗房であり、(初代)別当は尋範大僧正であった。本堂の本尊は阿弥陀如来である。

 

と述べていますが(日本歴史地名大系30『奈良県の地名』の「永久寺跡」)、鳥羽天皇の勅願という事は確認できないので其れを除けば大体その通りと考えられます。開基とされる頼實僧都(1050頃―1142)は天永二年(1111)に三会已講(さんねいこう)の労により権律師となり、大治五年(1130)には権少僧都に転任した興福寺の有力僧で、永久寺を建立したのと同じ頃に元興寺の禅定院にも諸堂を建設しています(『縁起集』に「法印」と云うのは誤りです)。頼實は入滅に際して大乗院と禅定院を尋範(本名弘覚 1101―74)に譲ったと伝えられていますが、内山寺に言及が無いのは当時の結構が小規模であったからとも考えられます。即ち永久寺の伽藍を整備して本格的な寺院としたのは内山大僧正とも称された興福寺別当尋範であったかと思われるのです。尋範は興福寺の山内にあった大乗院を禅定院に移して寺観を整え、一乗院と並んで大乗院を興福寺の二大門跡寺院とする基礎を確立しました。従って尋範以後も永久寺の別当職は代々興福寺大乗院の院主が継承する事になったのです。(猶尋範は又「尋覚」とも云うので注意が必要です)。

 

それでは『縁起集』に云う「真言開白の小野真乗房」とは誰かと云えば、それは醍醐寺の三密房聖賢(1083―1147)の潅頂弟子で内山真乗房阿闍利と称された亮恵(1098―1186)のことです。亮恵については一般仏教史で取り上げられる事は無いかも知れませんが、真言法流史では小野流の知法の阿闍利として有名な人です。勧修寺の興然阿闍利や石山寺の朗澄律師と云った当代屈指の学匠も此の内山亮恵から諸尊法の詳しい伝授を受けているのです。(三密房聖賢は金剛王院流の祖とされているから、亮恵の法流を金剛王院流亮恵方あるいは同流内山方と呼んで問題ないように思われますが、実には聖賢の在世時には金剛王院は存在していなかったので厳密には問題があるのです。しかし今は是については無視して以下に金剛王院流亮恵/内山方と云います。)

 

亮恵が尋範に招かれて内山寺の真言開山になった詳しい経緯は分かりません。しかし『内山永久寺置文』の「本願亡日并に墓所等の事」の条では本願聖人亮恵について、「聖人は元興寺の寺僧。(中略)本願前大僧正(尋範)の真言の師範なり。」と記していますから、元興寺の禅定院(後の興福寺大乗院)を介して両人の絆(きずな)が形成されたようです。但(ただ)永久寺の真言法流の拠点であった真言堂に関して同『置文』は、本願僧都頼實在世時の保延二年(1136)十月の供養、導師は「小田原の現観房上人」などと伝えていますが、此の頃から亮恵が同寺真言の中心的役割を果たしていたのか不分明です。(猶「小田原」なる地名は全国にありますが、当時南都の僧侶との関係では普通山城南部の塔尾/当尾(とおのお)庄(京都府加茂町南部)一帯を云います。現存唯一の九体阿弥陀堂として有名な当尾の浄瑠璃寺は又「西小田原寺」とも呼ばれていました。)

 

さて亮恵は天承元年(1131)二月に聖賢から伝法潅頂を受け、後には醍醐寺三宝院の阿闍利にも任命されるなど壮年期には内山永久寺と醍醐寺の間を往返していましたが、後年は専ら永久寺に留まってその経営に尽力したらしく思われます。その結果鎌倉時代になると、別当職は代々の大乗院々主が継承する一方、実務の責任者である「山務」は亮恵の門徒である真言僧が任命されるという慣行が成立しました。こうして永久寺は近世に至るまで金剛王院流亮恵方の真言法流を師資相承して伝える事になります。

 

内山寺と重要な関わりを有した醍醐寺僧として亮恵の他に弁入道(べんのにゅうどう)生西(しょうさい ?―1174―)がいます。此の人は少納言入道信西(藤原通憲)の子の権右中弁貞憲のことで、平治の乱の後に出家して醍醐寺無量寿院(通称松橋)の一海の弟子と成り、仁安二年(1167)二月には同院で伝法潅頂を受けました。その後も今の内山亮恵から受法するなど密法の研鑽に努め、遂には「松橋四天王」の一人に数えられる程の名僧に成りました。因みに鎌倉初期の南都を代表する大学匠として著名な解脱上人貞慶は此の貞憲の子です。

 

生西と永久寺の深い関係を証明する史料として前に挙げた『内山之記』の「当山二季彼岸梵網供養」の項に於いて聖霊として歴代先徳の名を連ね、「頼實・尋範・信円・実尊」(以上別当)の次に「弁入道生西・阿闍利亮恵・蓮恵上人」と記しています。真言本願亮恵の前にその名が挙げられている事からすれば、弁入道は内山寺にとって非常に大きな功績を果たした人物として評価されていたのです。尤も生西が永久寺に対してどのような具体的な貢献を成したのか、不思議な事にそれを指し示す史料が見つからず殆んど不明と言わざるを得ません。猶「蓮恵」は亮恵の潅頂弟子(本名任玄)で、永久寺の初代山務になった人です。

 

中世後期になると本寺大乗院の衰退を反映して永久寺の別当職は有名無実の度合いを強めて行きますが、永久寺の真言法流と修験道はむしろ隆盛に向かいました。その結果、近世江戸時代になると本来の開山である興福寺の頼實・尋範の事は亡失或いは無視され、真言開山の亮恵上人を以って内山永久寺開基として開山忌の法事が営まれるまでに成りました。一昔前までは永久寺を解説して「亮恵の開基」と述べている書物や論文が目につきましたが、それには此のような背景があったのです。

 

近世の永久寺に於いても大乗院門跡が別当を兼帯する慣行は存続して無くなる事はありませんでしたが、実質的な支配権は山務を独占した山内の筆頭院家である上乗院に帰し、その支配は明治元年(1868)の神仏分離令の施行まで続きました。此の上乗院と関連して「永久寺上乗院門跡伝」なる文書が『改訂天理市史』史料編一に採録され、『内山永久寺の歴史と美術』史料篇にも取り上げられていますが、是は仁和寺上乗院と天台山門の上乗院門跡を混ぜ合わして記した奇妙な文書であり、永久寺の上乗院とは基本的に関係の無い史料です。永久寺の上乗院は亮恵阿闍利を開祖と仰いでいますからその法流は金剛王院流内山方であり、又仁和寺上乗院と何か交渉があった事を示す史料も存在しないと思われるのです。

 

 

13. 仏舎利を駄都(だど)と称する事について

 

解脱房上人貞慶(1155―1213)が建久五年(1194)に大和国菩提山寺(正暦寺)正願院に仏舎利百余粒を納めようとして十三重石塔の建立に助成を呼びかけた文章の中で仏舎利を「駄都」と称しているのを見て興味深く思いました(続真言宗全書31所収の『表諷讃雑集』乾)。それと云うのも真言事相の世界では仏舎利を供養する舎利法の事を又駄都法とも称し、特に醍醐の三宝院流では平安時代末葉に仏舎利と如意宝珠を同体と観じる「駄都」法が成立し、その後この法には「駄都秘決」の名称の下に数多(あまた)の口伝が成立しました。鎌倉時代前期の南都顕教界を代表する大学匠貞慶がやはり駄都なる言葉を使っているので関心を抱かされたのです。

 

此の駄都と云うのはサンスクリット語dhatuの音写語で漢訳の法界・金剛界などの「界」に当たり、その意味は「区分・カテゴリー」或いは「性質・本質」などで本来舎利(遺骨)の意味は無いのですが、辞典類で調べてみると既に法華経のサンスクリット原典に於いてdhatuを舎利(シャリラ)と同義に使用している事が分かります。中村元著『佛教語大辞典』の「舎利」の項によれば、シャリラが「宗教的生命の枯渇してしまった舎利供養の意を表示するのに対して」、ダトは「『法華経』精神によって新しく価値づけ、久遠仏への舎利供養を意味する」と説明されています。(真言宗の伝統的な訓み方では駄都を「だど」、一般仏教学では「だと」と云います。)

 

こうして法華経以後サンスクリット仏典に於いては舎利を意味する為にdhatuが用いられる場合が出て来たのですが、それは漢訳経典に於いては普通「舎利」と翻訳されていました。「舎利」に替えて「駄都」なる音写語を始めて使用したのは『西遊記』で著名な玄奘三蔵(602―64)であったようです。玄奘訳『倶舎論』『大毘婆沙(びばしゃ)論』等の中で「如来駄都」「仏駄都」等の訳語を随所に見ることが出来ます。また同訳『十一面神呪心経』にも「十一面観自在菩薩の像を以って仏の駄都がある制多(塔廟)の中に置く」と云いますが、是は晩唐期や本邦の撰述を別にすれば密教経典に於いて真言以外に「駄都」なる語が用いられている唯一の例です(大正大蔵経密教部のオンライン検索による)。

 

一方、醍醐の「駄都秘決」でよく引用される『大日経疏』巻第六の一節には、

 

蓮華台の達磨(だるま)駄都は謂う所の法身舎利なり。

 

と述べています。「蓮華台」とは、心の真実の有り様を表示した胎蔵曼荼羅の中央にある八葉蓮華であり、「達磨駄都」とは「法界(ほっかい)」すなわち真如の事であり、此の法界/真如とは心に約して云えば「常住の自証心」(絶えず変化する心の背後のその又奥に存在する不変の真実心)を云います。つまり曼荼羅に顕された心と世界の本質は、法身大日如来の舎利であると言っているのです。此の考え方は先に述べた『法華経』精神を踏襲していると云えるでしょう。『法華経』の久遠仏(くおんぶつ)すなわち密教の法身大日の舎利とは「仏の教えそのもの」に他なりません。

 

又『大日経疏』巻第七に、

 

梵語で達磨駄都と云うのは漢訳して法界と云う。界とは「体(たい/本質)」或いは「分(ぶん)」の意味である。佛の舎利を亦如来駄都と名づける。是は如来の身分と云うことである。

 

と説明しています。

 

しかし真言宗に於いても仏舎利の事をわざわざ「(如来)駄都」と称するのは異例の事でした。駄都なる語が普通に用いられるように成ったのは、真言小野流の中でも勧修寺の寛信法務(1084―1153)の法流を相承した明海(実運 1105―60)以後の事です。実運が寛信の口説を中心に記した『秘蔵金宝鈔』では仏舎利法の事を「陀都法」と称しているのです(此の法は「陀都法」と記していますが『大陀羅尼末法中一字心呪経』による釈迦金輪法で、本尊の三昧耶形を「陀都」とします。ただ釈迦法と違って「舎利(の分布)」に重点が置かれています)。

 

そこで舎利法とそれに関係する如意宝珠法の淵源を尋ねて寛信が師厳覚僧都の伝受折紙を類聚して製作した『伝受集』、醍醐の松橋元海(1094―1157)が三宝院大僧正定海の口説を記した『厚造紙』、或いは勧修寺の興然(1121―1203)の『四巻』などを概覧すると、これ等の法は範俊僧正の弟子である勧修寺の厳覚僧都の門下で相承されていて醍醐には相伝が無かった事がわかります(但し厳覚も本は醍醐寺僧でしたが話が複雑になるので言及を控えます)。勿論修法壇に仏舎利を安置する事は古くから行われていましたし、正月恒例の宮中真言院後七日御修法(ごしちにちみしほ)では如意宝珠の三昧に関連した口伝があり、又範俊が相伝の如意宝珠を壇上に安置して愛染法と尊勝法を修した事は広く知られています。しかし独立した尊法として舎利/駄都法や宝珠法が行われるように成ったのは鳥羽院政期に入ってからでしょう。

 

ここで亦述べて置かなければならない出来事があります。それは東寺長者であった醍醐の三宝院勝覚僧正が大治二年(1127)十二月に白河法皇から命を受け、法皇が故範俊僧正から譲られた如意宝珠を本尊として供養法を修した事です。是を以って後には「駄都秘法」の濫觴(らんしょう)とされる場合があるのですが、『厚造紙』に於いては此の一事が「後七日法」の続き(一部)として記載されている事と仏舎利イコール宝珠と云うような考え方が見られない事からも分かるように、此の勝覚の修法を後の独立した「駄都秘法」と直接結び付けるのは無理があります。

 

さて興然の『四巻』には大法房実任から受けた「仏舎利法」に関する安祥寺宗意律師の伝と良勝阿闍利の伝とが記されていますが、仏舎利を駄都と称した形跡は見当たりません。又「宝珠法」に関する宗意律師の伝に於いて、宝珠に三種ある中の一つに「東寺の舎利」を挙げていますが、未だ仏舎利即ち宝珠と云うような記述はありません。ですから先に記したように実運(明海)の『秘蔵金宝鈔』に於いて舎利法を「陀都法」と称しているのは非常に注目に値する訳です。陀都法と題したのは師の寛信か弟子の明海か、又命名の理由などよく分からないのですが、両師共に三会已講(さんねいこう)を経た顕密兼学の学匠でしたから玄奘の訳経や大日経疏に於いて仏舎利を駄都と称する場合がある事はよく知っていたでしょう。

 

『秘蔵金宝鈔』は「陀都法」に続けて「如意宝珠法」を記していて、その中で、

 

ア(梵字a)字が変化して駄都と成る。駄都が変化して如意宝珠となる。是は(師資の相伝では無く)私の考えである。分別無く人に教えるような事をしてはいけない。秘密の中の秘密である。

 

と述べています。文中の「私」とは寛信らしく思われますが確かな事は分かりません。また後文中には明海の作と考えられる道場観の草案らしき文章が掲載されていて、その中でやはり阿字、(如来)駄都、如意宝珠の転成(てんじょう)が記されています。此の道場観草案は明海が醍醐に移った後にその口説を寛命阿闍利が記した『諸尊要抄』の「如意宝珠法」では歴(れっき)とした道場観として登場しています。

 

『秘蔵金宝鈔』の「如意宝珠法」では又弘法大師の『御遺告(ごゆいごう)』第二十四条に説く「能作性(のうさしょう)の玉」に言及している事も注目されますが、未だ宝珠法の中でのその位置付けは定かでありませんでした。実運(明海)僧都の弟子勝賢僧正(1138―96)は、此の宝珠法道場観と『御遺告』同条に記された「如意宝珠とは自然(じねん)道理の如来分身(ふんじん)なり」等の如意宝珠に関わる説を融合させ、新しく雄大な「駄都道場観」を製作しました。此の新しい駄都法は勝賢門下の人達によって、更に『御遺告』同条に述べられている「祖師大阿闍利の口決」による能作性玉の製造に関する説などが取り入れられて、「駄都秘決」或いは「能作性」等と称する大規模な口伝の体系を形成して行く事に成ります。

 

 

14. 「一日(いちにち)法務」の事

 

建暦二年(1212)三月十四日、長い間廃絶していた東大寺華厳会の盛儀が再興され、同寺別当の前法務権僧正成宝(せいほう 1159―1227)が導師を勤めました。此の日の為に朝廷は日本仏教史の上でも非常に珍しい措置を講じました。それは前法務成宝を当日十四日の一日だけ法務に復任させる「一日法務」の宣旨を発令したのです。是には一体どのような意味があったのでしょうか。

 

勧修寺長吏の成宝僧正は僧侶としての栄達を極めた人で、大僧正にこそ成れなかったものの東寺一長者・法務の他に東大寺別当を二度勤めるなどしています。華厳会の復興は承元四年(1210)の初度補任(ぶにん)の在職中に行った事業です。此の華厳会は名前の通り東大寺大仏(盧遮那仏)の本説である華厳経を講讃する法会であり、天平勝宝四年(752)三月十四日の大仏開眼供養会にその由緒が託されるなど東大寺にとって非常に重要な年中行事の一つでした。平安時代を通じて毎年三月十四日に大規模で華やかな舞楽法要が営まれていましたが、いつしかその盛儀は廃(すた)れて平安末葉には廃絶に帰していたのです。

 

別当成宝は是を残念に思って建暦二年三月に華厳会を再興すべく準備を進めていましたが、三月十一日になって「東大寺華厳会を興行する為に(都を離れて)南都に下向する」旨を上奏したところ、順徳天皇から当日の十四日一日に限って成宝を法務とする「一日法務の宣を蒙り」ました。この事は単に肩書として法務を称する事を許可したという訳では無く、法儀の進行に関わる明確で具体的な意味があったのです。それは「綱所等を召し具すべし」という事で、特に行粧(ぎょうしょう)すなわち法会の行列に威儀を添える事と関係しています。

 

先ず「綱所等」とは何を意味するのかと云えば、それは綱所すなわち僧綱所の役人のことで、具体的には上位の威儀師・従儀師から下位の鎰取(かぎとり)・綱掌(雑務担当)までを含みます。これらの人々を従えて行粧の威儀を整えることが出来るのは僧綱所の長官である法務の特権であったのです。しかしただ単に綱所等を行粧に召し従える事が重要であったのでは無く、威儀師・従儀師以下の綱所等に対しては華やかでひときわ目立つ真っ赤な緋の法衣の着用が許されていた事に本当の狙いがあります。法務以外の高僧はたとえ摂関家の子弟であっても、行列の前駆(さきのり)に緋の袈裟衣を着用させる事は出来なかったのです。

 

この制約を破って法務に非ずして従者に緋の衣の着用を許された最初の例は情報ボックス「5. 存在しなかった惣(総)法務」で述べたように天台座主の最雲法親王(1104―62)でした。それは平信範(1112―87)の有名な日記『兵範記』によれば最雲の宮が山の座主になる以前の久安年間(1145―51)の出来事で、綱所の威儀師・従儀師等に準拠して比叡山根本中堂の(都)維那を随身(従者)としてお使いなさいと云う宣旨が最雲に与えられたのです。又『天台座主記』によれば久寿三年(1156)三月に最雲が座主に任命された後、同年十月になって同趣の、

 

本寺(延暦寺)の(都)維那六名を以って、法務の綱掌に準じて赤袈裟を着せて騎馬前駈させてよろしい。

 

と云う宣下があり、以後は是が天台座主の永代の特権となりました(『兵範記』に「久安年間」と云うのは「久寿年間」の誤りらしく思われます)。

 

『兵範記』によれば、次いで仁安二年(1167)十二月に今度は仁和寺御室(おむろ)の覚性法親王(1129―69)に対しても六条天皇が「綱所(の威儀師・従儀師等)をお与えになった」のです。蔵人頭として此の一件を担当した平信範は是を御室に通知するのに宣旨にするか、それより格式が下がる御教書(みきょうしょ)形式を用いるべきか迷い、いつものように先例を勘案しました。その結論は、先ず今回の決定は久安年間の最雲法親王の例に準拠しているが、最雲の宮は天台宗であり御室は東寺(真言宗)であるから今回の事は新儀である。法務以外の人が綱所を従者として使うのは本来公卿会議による決定がなされるべきである。従って是を通知するのに宣旨を用いるべきではないとして、御室覚性に対しては御教書を以って伝達したのでした。

 

さて話を建暦二年の東大寺華厳会再興と「一日法務」の事に戻しますと、三月十四日の一日だけ導師の別当成宝僧正が法務に成るというので、僧綱所の役人である鎰取・綱掌の人達も成宝に随従する為に京都から南都に呼び寄せられました。威儀師・従儀師は本坊を興福寺等の南都に有している人も多いし、導師が法務でなくても大規模な仏事には出仕して本来の進行係の仕事を果たす必要があります。法会の当日は天気も晴れて大勢の僧侶の他に綱所や楽人等も加わって、由緒ある大会の復興にふさわしい盛大な儀式が執行されました。その中「一日法務」の成宝の前後に随従して行粧に花を添えた綱所の人々は、綱掌六人・小綱六人・威儀師二人・従儀師二人・鎰取八人の計二十四名に達しました。

 

(本稿は続々群書類従第十一に収める『東大寺続要録』の「諸会篇」の記事pp.249~251を主な史料として作られています)

追記:新たに「一日法務」に関する史料を見つけたので補説させて頂きます。

続群書類従第26輯上に収める隆澄(1181―1266)記『光明峰寺殿伝法潅頂記』は、仁治二年(1241)四月十六日に東寺潅頂院に於いて行われた前関白九条道家(1193―1252)の伝法潅頂入壇に付いて記した記録です。道家は既に暦仁元年(1238)に出家して法名行慧を称していました。授者大阿闍利は時に東寺三長者に成っていた仁和寺の行遍僧正(1181―1264)であり、色衆(伴僧)三十二人の盛儀を以って潅頂会が執り行われました。

『潅頂記』には色衆の一臈(最も位が高い人)である前法務の権僧正聖基(1204―1267)に付いて注記があり、

前法務であるから此の一日に限って法務に再任され、綱所を召し具す(事を許された)。(綱所の役人である)鎰取六人、綱掌四人、従儀師一人朝秀、威儀師一人最範、等が前を進んだ。(色衆の権大僧都)宗禅・(権律師)長瑜等が(聖基に)付き従った。

と述べています。此の記事からも当日に限って聖基を法務に再任した理由が綱所を召し具して潅頂会の威儀を整える事にあったのは明らかであると云えるでしょう。当時は一長者前大僧正良恵(1192―1268)が正規の法務でしたが、大阿闍利の行遍も此の潅頂会に備えて四月八日に法務に任命されていましたから、当日は聖基を上回る綱所を召し具したのですが煩雑になるので詳説は控えます。しかし以上の事から此の潅頂儀式の例外的に盛大な華やかさと九条禅定殿下道家の威勢の程が思い知られるのです。

(平成23年1月17日)

 

 

15. 白河上皇の出家受戒の事

 

平安時代の専制君主白河上皇(1053―1129 在位:1072-86)が嘉保三年(永長元年 1096)八月九日に皇女郁芳門院の死を嘆くあまり遂に出家された事はよく知られています。それ以後白河院は法皇の称を以って呼ばれるようになりました。出家を遂げると普通は続いて受戒するのですが、白河法皇の場合は受戒の有無について定説が無いらしく、歴史事典の類いを見ても要領を得ません。実際には法皇は三井寺の隆明僧正(1020―1104)から受戒しているのですが、どうしてその事が世上知られるに至らなかったのか検討して見ましょう。

 

先ず白河上皇出家の経緯について簡単に見ておきます。近衛天皇(訂正:堀河天皇)の母親である最愛の賢子中宮(1057―84)に先立たれた白河天皇の愛情は、その後同中宮の所生である美しい媞子内親王(郁芳門院 1076―96)に注がれるように成りました。白河院は外出の際にも郁芳門院を同車させるなど、片時も身辺から手放そうとしない程のかわいがり様であったと伝えられています。今亦その内親王に先立たれた上皇の悲しみは周囲の人々の理解を超えるものであったようです。藤原宗忠の日記『中右記』の嘉保三年八月九日の条には、上皇の出家をめぐって慌てふためく朝廷の有様が如実に記録されています。

 

即ち夜になって帰宅した宗忠の許(もと)に関白藤原師通から早く参内するように連絡が入り、宗忠は急いで内裏に参入しました。様子を尋ねると申の刻(午後4時頃)から上皇が出家を望んでおられるらしいと云うので人々が参集し、そのような事があってはならないと固く申し合わせていました。ところが丑の時(午前2時頃)になって「朝干飯(あさかれい)の方」でたった今上皇が御出家を遂げられた由の報告が入り、驚いた堀河天皇からの御使いが出入りし、殿下(関白師通)も急いで現場に向かわれた、等と記されているのです。

 

白河法皇は何かしら考える処があって出家の後もしばらくは受戒する気配がありませんでした。その理由に付いて、少し時代は下がりますが藤原頼長の日記『台記』康治元年(1142)五月十六日の条にそのヒントになる記事があります。即ち鳥羽法皇が頼長に対して自分の誕生にまつわる物語を語った中で、自分が生まれる以前に父帝の堀河天皇が病気になった時、(次の天皇として)白河法皇の弟に当たり「三宮」と称されていた輔仁親王(1073―1119)に人望が集まり、堀河天皇の皇子が即位することを期待していた法皇をひどく悩ませた。その時法皇は、「自分は出家したけれども受戒していないし、法名を称してもいない。自分が重祚(ちょうそ)して何の問題があろうか」と語ったと云うのです。(重祚とは退位した天皇が再び即位する事です。)

 

事実はその後宗仁親王(鳥羽天皇)が誕生して重祚の事はありませんでしたが、一般には白河法皇は受戒しなかったと信じられていた事が分かります。実際白河法皇は愛娘(まなむすめ)を失って悲歎の淵に沈んではいても、権力に対する執念が消え去る事はついぞ無かったのでしょう。その事が受戒の儀を少数の親しい人間だけで秘密裏に行うようにしたのだと思われます。『中右記』嘉保三年(1096)十月十七日の条の裏書に、

 

法皇は御出家の後に初めて戒を権僧正隆明からお受けなされた云々。但し内密の儀として行われたから、世間一般の人は此の事を知らないようである。

 

と記されていますが、法皇が受戒の事を表沙汰にしなかった理由もほぼ推測が出来る訳です。法皇受戒の更に詳しい様子が「元亨三年(1323)具注暦裏書」に書写された記者未詳日記断片の嘉保三年十月十七日の条から分かります。それには、

 

今夕戌刻(午後八時頃)に太政天皇(上皇)は受戒なされた。(三井寺の)権僧正隆明と(醍醐寺の)法眼勝覚が召(めし)により参上し、隆明が啓白(けいびゃく)を勤めたが、その作法は例の如きものであった。事が終了して権僧正と法眼にそれぞれ被物(かずけもの)が渡された。今回の事は密々であるから万事略儀で行われた云々。

 

と記されていますが、被物について注記がしてあります。それに依ると隆明僧正の分は、

 

民部卿(権中納言源俊明)が被物を取って手渡しし、(藤原)顕季朝臣が布施を取って手渡しした。

 

と云い、勝覚法眼の分については、

 

左宰相中将(参議左中将藤原宗通)が被物を取り、因幡守(藤原)長実朝臣が布施を取った。

 

と述べています。これらの人々は皆白河法皇の側近としてよく知られ、この受戒の儀がごく内輪で行われたとする事に合致しているのです。

 

先ず三井寺の隆明僧正は、白河上皇が譲位後の寛治二年(1088)二月に高野山に登拝した時、奥の院に於ける仏事の導師を勤めた事など(当時は法印)、白河院の信任厚い高僧です。

 

醍醐の勝覚法眼(1057―1129)は白河院の護持僧であり、同院の出家に際しては御髪の剃り手を勤めた事からも分かるように、上皇のお気に入りの僧でした。

 

隆明の被物を取った民部卿源俊明(1044―1114)は『宇治大納言物語』(散逸)の編著者として有名な隆国の子息であり、勝覚の師僧である醍醐寺の定賢法務の弟に当たります。この人は郁芳門院の別当を勤め、また白河院の院司(院庁の役人)から別当になった人であり、上皇の近臣として傑出した存在でした。

 

次に隆明の布施を取った藤原顕季(1055―1123)は白河院の御乳父(乳母の夫)であり、その近臣として著名の人物ですから説明の必要は無いでしょう。

 

又勝覚の被物を取った左宰相中将藤原宗通(1071―1120)は右大臣藤原俊家の子ですが幼少の頃から白河院のもとで養育された人であり、管弦(音楽)や和歌にすぐれていた事もあって白河院政期の廷臣として活躍しました。その妻は上の顕季の娘であった事も言及しなければなりません。

 

最後に勝覚の布施を取った因幡守藤原長実(1075―1133)は顕季の子息であり、父親同様に白河院の近臣として自他ともに認める存在でした。鳥羽院皇后美福門院の父親としても有名です。

 

この様に白河法皇の受戒は法皇が信頼を寄せるごく限られた人々の間で内密に取り行われたのでした。それでは前に述べた『中右記』の作者藤原宗忠はどうして世間の人々が知らない秘密の出来事をいち早く知っていたのでしょう。宗忠は右大臣俊家の孫ですから、左宰相中将宗通とは叔父と甥の関係に当たりますが、実は今の件でそれよりも重要な人間関係があります。それは宗忠にとって民部卿源俊明は実の父親に勝るとも劣らない親しく重要な人物であったと云う事です。此の事に付いては『平安時代史事典』の「源俊明」の項に解説してありますから読んで下さい。恐らく宗忠は俊明から法皇の受戒の事を洩れ聞いて、それを日記の裏に書き加えたのでしょう。

 

(本稿は『大日本史料』第三遍之四に掲載された記事に興味を抱かされて執筆しました。)

 

 

 

 

 

以上をもって「真言情報ボックス」第一集を終了します。