三密ユガ(瑜伽)の事

 

ユガは梵語(サンスクリット語)のyogaを音写した言葉であり、現在はヨガと言われています。しかしヨガと言うとどうしても美容健康の為のエクササイズと思われてしまいます。ヨガは本来宇宙の大生命と結びつく為の修行法であり、仏教の座禅瞑想はまさしくヨガそのものと云うことが出来ます。勿論ヨガの指導者・先生の中にも精神修養の側面に力を入れて指導している方々もおられるでしょう。また実際には身体と心は一つのものですから何事に於いても心と身体が互いに相補って上達するのであり、その事は高度なレベルに達すれば達するほど痛切に感じられます。それは兎も角、一応美容健康のヨガと区別する為に本来的なヨガ行のことを時々「ユガ」(瑜伽)と云う事にします。

三密に付いては後で説明します。

 

〈1〉ユガとは生命力に気づくこと

私たちは毎日当然のように食べたり、歩いたり、人と話をしたりしていますが、考えてみると是は実に素晴らしい事です。生きているからこんな事も出来るのです。此の生命とそれを支えるメカニズムに付いては医学的、科学的に色々と説明がなされ、特に近年の遺伝子工学や組織培養技術の発展による目覚ましい成果によって、近い将来に人類が自由に生命をコントロール出来るかのごとくに云う人々もいます。しかしどこまで科学が発展しても生命力そのものは作り出すことが出来ないのです。それは生命力とは宇宙の生命(いのち)だからです。私たちは生きている事を喜び、与えられた生命を存分に生かすことに心がけるべきでしょう。

さてサンスクリット語のyogaと云う言葉は元来「結びつくこと」すなわち結合、融合などと云った意味であり、現在のヒンディー語の辞書でも最初にそういう意味が解説してあり、その後でヨガ行の事が述べられています。又古く漢訳仏典に於いては音写して「瑜伽」、意味をとって「相応」と訳されましたが、実には中国語には梵語のyogaに対応する適切な訳語が無いと考えられていました。そんな事はどうでもよいと思う人が多いかもしれませんが言葉の意味をよく考える事は実際にヨガの行をする上で非常に大切です。

更にyogaの語源に付いて調べてみますと、「牛馬に軛(くびき)をかけて車に結びつける」という意味のyujという動詞から派生して生まれた名詞であると言われています。牛馬と車を結びつけることがヨガです。そうするとヨガという言葉が本来何を意味していたのかは明らかです。修行によって聖なる牛に結びつく事、或いは牛馬に引かれて聖なる世界に到達する事です。譬(たと)えば聖なる牛が引く車に乗って旅行するとしましょう。私達がヨガに専念して修行すればするほど、それによって聖なる牛は力を得てどんどん前に進んで遂には燦然(さんぜん)と輝く彼のあこがれの世界に近づくのです。

「聖なる牛に結びつく」などと言いましたが、要はヨガの行を通して宇宙の大生命に結びつく事です。私達は生きているからには誰しも皆宇宙の大生命と結びついているのですが、実際には生命(いのち)の活かし方、活動力という点で大きな個人差が生じています。生命力とは積極性であり、明るく輝くことであり、他人を思いやる愛情です。その生命力の大きさ、強度は人によって異なるばかりでは無く、個人の中に於いても絶えず変化しているのです。それはどうしてかと云うと、人間には宇宙の大生命と自らの意思で積極的に関わることが出来る能力があるからです。能力があるからと云って思いのまま自由に簡単にそれが出来る訳でもありません。自分自身の内部にも、周囲の世界にも宇宙の大生命は溢れ漲(みなぎ)っているのですが、その事に気づき自覚するのは容易ではないのです。「ユガ」行の第一の目的は、自分自身と世界の中に漲っている此の生命力に気づくことです。

 

〈2〉足の裏とヒーリング

最近街角や雑誌でよく足の裏と内臓の関係を示した図を見かけます。足の裏の各部分が胃や肝臓、心臓、大腸、小腸といった内臓諸器官と何らかの形で密接に結びついている事を分かりやすく図で示してあるのです。是に従えば足の裏は「内臓の縮図」とでも言えそうです。ところが私達の足の裏に対する関心は至って低いと言わざるを得ません。皆さんは足の裏をつくづくと眺めたことがありますか。

人間は二足歩行をしますから手と足とでは随分と働きがちがいます。食事をする事からパソコンの操作に至るまで日常生活の中で手は華々しく活躍するのに対して、足の方はと云えばただ歩くための道具と考えられがちです。手や指の機能は驚くほど高度に発達しているのに、足の機能に注目する人は稀です。

しかし我々の祖先が遠い昔にチンパンジーやゴリラと袂(たもと)を分かって進化する以前は基本的には四足で歩いていました。その上、大抵はジャングルの中で外敵の少ない樹の上で生活していましたから、枝から枝へ自由自在に飛び移ったりするために足やその指の機能は非常に高度に発達していました。その後人類の祖先がジャングルから地上に降りて草原地帯で生活するように成ると、徐々に二足歩行をするようになりました。それと同時に、道具の使用が手の機能を飛躍的に発達させた事はよく知られている通りです。その一方で足の機能は徐々に衰退し始めました。それでも裸足(はだし)で地べたの上を歩いている間は、足の裏は丈夫であると共に地面から様々な情報を感じ取るすぐれたセンサー機能を有していました。

大自然には宇宙の生命の息吹(いぶき)とも云うべき「気」が溢れ漲っています。「気」は流れるものです。電気と同じです。蓄電池(バッテリー)にある程度は蓄えることも出来ますが電気は絶えず流れようとします。私たちの身体の中でも気は絶えず流れています。気の流れが止まり途絶えてしまうと気絶してしまうのです。又私たちの身体と周囲の世界との間でも絶えず気のやり取りが行われています。そうした外部世界とのやり取りの中で気の出入り口として重要な働きをしているのが手のひらと足の裏です。それは人類の祖先が四足で歩いていた時に足の裏を通して大地に漲る気を摂取していた名残です。朝の日の出の太陽に手をかざした時には、誰でも手のひらの温(ぬく)もり以上に何か霊妙なる力を感じるでしょう。足の裏を太陽に向けることも出来ますがそれは面倒でもあり、また宗教的に違和感を覚える人もいるでしょう。太陽は大日如来であり、天照大神(あまてらすおおみかみ)であるからです。

それは兎も角、足の裏には手のひらと同様に健康な心身を養い維持する上で重要な機能があるのです。しかし文明開化の近代以降は靴を履いたりして、もはや生まれてから死んでしまうまで素足(すあし)で土の地面を歩くことも無くなってしまいました。足で直接大地を踏みしめることが全く無くなってしまったその結果、足の裏の機能は衰えているのです。しかし決して無くなったわけではありません。「潜在化」し、或いは「不活性化」しているのです。ですから足の裏のツボを刺激したり、踵(かかと)からつま先まで丁寧にマッサージしてやったりすれば、足の裏は忘れていた機能を思い出して活性化し、それが全身にも良い影響を与えます。初めにも少し述べましたが胃や心臓、大腸、小腸などの内臓諸器官に良い刺激を与えて全体のバランスを調える働きをします。それに伴って不安や焦燥など不必要な神経の高ぶりを抑えて気持ちを落ち着かせる癒し/ヒーリング効果があります。

ユガ行でも先ず最初に足の裏を揉んだり、踝(くるぶし)を回したりして「気」の流れを良くしてやります。誰にも間違いなく効果がありますが、その効果は限定的である事もまた事実です。足の裏の刺激やマッサージだけであまり大きな効果を期待するのも感心できません。

 

〈3〉ユガ行の基本

最初にユガ(瑜伽)の行は生命力、すなわち宇宙の大生命に気づくことであると言いました。その「宇宙の大生命」なるものは古来様々な言葉で言い表されてきました。それが宇宙の創造神であるブラフマン(梵天)であれ、宇宙の実相(真実)そのものである大日如来であれ、或いは天地万物の根源である太極(たいきょく)であれ、そういう事は一応どうでも好い事です。肝心なのは、実際の行を通して「生命力の根源」を感じ取る事です。それ無くしてイタズラに様々な思想にのめり込むのは、譬えてみれば、おいしい料理を作って実際に味わい楽しむことも無くただ料理の仕方ばかり研究しているようなものです。宇宙の大生命に気づいて不思議の感に打たれ、その根源に付いて興味を持ち思索をめぐらすのであれば、その場合は更に行を深めて広大なる心の世界を探索する手懸りともなるでしょう。

さてそのユガの行を始めるのに何か特別な技術や訓練が必要なわけではありませんが、一方に於いて是はマニュアル化し説明するのが非常に困難な行でもあります。それは意識集中の訓練だからです。特定の動作や運動それ自体に大きな意味がある訳では無いのです。それが美容健康を目的としたエクササイズのヨガと全く異なっています。ユガの行は動作や運動を利用して「気」の流れに気づき、それを全身に廻(めぐ)らせて隠れていた機能を目覚めさせ、一方に於いて不自然・不必要な働きを鎮(しず)めます。そのようにして全身のバランスを調え心身を充実させることを最初の目的としています。「生命(いのち)に気づく」為にはそのような心身の落ち着きが必要です。

現在ではインドに生まれた仏教とヨガとは全く別の宗教であるかのように思われがちですが実際には正統的な仏教の修行と云うのは広い意味ではヨガの行です。インドの大乗仏教の二大思想の一つは瑜伽唯識(ゆがゆいしき)思想と言います。単に瑜伽とも、唯識とも言いますが、此の思想は「瑜伽師」と称されるヨガの大行者によって生み出された高度な仏教哲学であり、ヨガの瞑想の世界が仏教の教理によって体系化されています。また密教の中でも特に秀逸なる理論体系によって知られる金剛界系の密教は、正式には「金剛頂瑜伽」と言います。すなわち自分たちの教えや行をヨガと称しているのです。勿論その頃(西暦7~8世紀)よりずっと前から仏教諸派とヨガ派とは異なる宗教集団を形成していましたが、仏教諸派を通じて座禅瞑想のヨガ行、すなわち「ユガ」が重視され続けていた事は言うまでもありません。ただ観想(瞑想)の内容は仏教諸派により違いがある訳です。

また仏教は禅宗・天台宗・浄土宗と云った顕教と真言宗の密教に区別されます。その場合、日本の天台宗は真言密教も兼ねていますから天台系の密教を特に「台密」と云って、弘法大師系(東寺系)の密教である「東密」と区別しています。それは兎も角、顕教であれ密教であれ、仏の覚りを求める修行の究極の姿は今から2500年前にインドのブッダガヤーの菩提道場に於いて釈尊が行った結跏趺坐(けっかふざ)の座禅瞑想(ユガ)の行にあります。ある程度仏教の勉強をした人であれば、その事に敢えて反対はしないでしょう。ところが「門々不同にして八万四千」と云って、仏教には様々数限りない教えがあり、その修行法もまた際限なく種類があるのです。それには又当然の理由があります。

確かに現在でも禅宗寺院の修行道場に於いては毎日厳しい座禅の行が行われているでしょう。しかし誰でもが十分な準備も無しに座禅瞑想の行に取り組んで成果が得られる訳ではありません。勿論呼吸法によるエクササイズ的な効果はあるでしょうが、本来の目的である「生命の根源」に気づくのは難しい事です。人の素質、経験、考え方などは実に様々であって、結局はその人にふさわしい出会いがあり教えがあるのです。菩提道場の座禅瞑想行が究極であっても、人は様々な道を通ってそこに辿(たど)り着くことになるのです。

 

〈4〉三密ユガの事

渓谷を流れるせせらぎの水の音は仏の説法であり、青い山並(やまなみ)は清浄(しょうじょう)なる仏の姿である。大自然の神韻に感動して人はそれをこの様に表現して来ました。私達は寺院や美術館で仏菩薩の彫刻や絵像を見ます。また歴史上に実在した釈迦牟尼仏も見かけの上では周囲の人々と大して違いが無かったでしょう。しかし仏の真実の姿は「微細(みさい)極密(ごくみつ)」であり、私達の普通の感覚器官では認識することが出来ないと説明されています。私達の眼や耳や神経組織は「粗大」に出来ていて、微細な仏の身体を見たり触ったり、或いは仏の説法を聞いたりは出来ないと云うのです。それでは電子顕微鏡を使って見ればよいではないかと云うに、そういう問題では無く、ただ心の眼(まなこ)が開けた時に仏を知ることが出来るのです。

また仏の智恵の働きは霊妙でその言葉は微細です。それに対して私達が普段考え使っている言葉は目の粗いザルのように粗大であるとされます。それは智恵の言葉は聞いたり、書いたりすることが出来ないと云う意味です。仏教の経典には釈迦牟尼仏の教えを書き記した「お経」とその教えについて研究解説した「論書」などがありますが、それらも総て粗大なる言葉で書いてあります。ですから仏教の経典を読み理解したからと言って、それだけで仏の智恵が身に付くわけでは無いのです。文字に書き記された教えはあくまで真実の教えの手懸りであって、教えそのものではありません。

さて人間の行為のことを仏教用語で「業(ごう)」と言います。人間の行為は身体を使う身業、口と舌を使う口業(くごう)、それと心の働きである意業との「三業」に分けて考えることが出来ます。それに対して微細極密なる仏の身体を「秘密身」と称しますが、その活動を身密・口密(くみつ)・意密の「三密」と言うのです。日常的な人間の活動を三業と云い、微細なる仏の活動を三密と称して区別している訳です。密教の肝心要(かなめ)の教えは、仏の身密は「印」であり、仏の口密は「真言」であり、仏の心密は仏の世界を観想する「観念」であると主張する事にあります。言葉を変えれば、真言の行者が手に印を結び、口に真言を唱え、心に仏の世界を観念すれば、その事によって仏の三密と感応/相応して自身と仏が一体になるのです。これは「瑜伽/ユガ」の世界であり、いわゆる「即身成仏」です。

「三密加持すれば速疾に顕(あらわ)る」と云って、此の三密の行法は仏の加持力の故にその成果を早く出すことが出来るとされていますが、実際には十分な準備も無しに行って大きな成果が期待できるものではありません。実には三密行の成否を分けるのは行者の禅定力です。ですから密教の三密行に於いても座禅瞑想が重要である事は顕教の修行と何も変わるところはありません。

今までお話ししてきた事でお分かり頂けるかと思いますが、「三密ユガ」とは密教の標準的な修行法である三密行そのものを指す言葉なのですが、ユガ(瑜伽)の本来の意味を強調する為に特に「三密ユガ」と言っている訳です。宇宙の霊妙なる働きである「生命力」に気づき、生きとし生けるものの「生命」を大事に思うことも無しに密教の修行を行ったところで何も得るものはありません。私達は皆お互いに助け合って生きています。人間も動物も植物も、巨大なクジラやアフリカ象から微細な細菌・ウィルスに至るまで、皆必死に頑張って生きているのです。この生命(いのち)の大切さに思いを馳せる事は修行の礎(いしずえ)であり、何時も変わらぬ心の支えとなるのです。