真言の変革者鳥羽僧正範俊伝
              (1038ー1112)

いつの世にも風変わりな人、奇人変人、野心家、或いは異端児と称されるような、どうにも普通一般の枠内に収まりきらない人達が大勢います。一時は何かと物議を醸(かも)したりして世間を騒がしても時が経てば大抵の人は忘れられ、まるでシャボン玉か何かのようにいつしか何の痕跡も残さなくなってしまいます。しかし、そうした人が時の権力者と結び付くと世の中に思いもかけない大きな変化をもたらす事があります。大体権力者と云うのは何でも思う通りに出来る事が多いから、何かしら珍しいもの、貴(とうと)いもの、世間一般の人々には手が届かないものに強く惹かれる傾向があるのです。範俊が白河上皇に見出されて寵僧となり、伝統の枠に捉われない珍奇の法を創案し、以後の真言法門の展開に大きな影響を与える事になったのもそうした一例でしょう。

〈目次〉
第一回 生い立ちと醍醐入寺の事
第二回 小野僧都成尊の弟子と成る事
第三回 伝法潅頂入壇の事
第四回 曼荼羅寺をめぐる相論(訴訟)の事 其の一
第五回 曼荼羅寺をめぐる相論(訴訟)の事 其の二
第六回 雨を祈って失敗する事
第七回 如法愛染法の事

第八回 鳥羽の壇所で上皇の御祈りに専念する事
第九回 栄達の道を進む事

 

第一回 生い立ちと醍醐入寺の事

範俊は興福寺の仁静威儀師(9881066?)の子です。仁静の「静」は「盛」とも書きます。威儀師と云うのは多数の僧侶が出仕する大規模な仏事が催される際に、それが次第の通りに間違いなく円滑に進行するように取り計らう運営係です。特に天皇や上皇御願の堂塔供養(落慶式)の場合など、顕密諸宗の僧侶に加えて舞楽の楽人も大勢加わりますから、何人もの威儀師・従儀師の活躍が必要不可欠となります。是は威儀師の晴れの舞台です。普段は僧綱所の役人として様々の事務や連絡業務を担当したりします。此の威儀師、その副官たる従儀師は大寺院の三綱から選ばれます。寺院の運営乃至経営に関しては別当(座主・長吏)が決裁権を持ち、上座・寺主・都維那(ついな)と称される三綱が別当の下で事務執行を担当します。三綱職にある僧侶は妻帯して家族を持ち、各寺院それぞれに三綱の家を形成して、代々一族の間で三綱の役職を世襲しました。また三綱は荘園の開発や経営にも携わりますから、大寺院の三綱は概して裕福な生活をしていたと考えられます。

さて此の仁静威儀師は同職にあった醍醐の仁円威儀師と大変仲が良く、昵懇(じっこん)の間柄であったと伝えられています。仁円は有名な理性房賢覚と三密房聖賢の祖父に当たる人で、醍醐寺の第二代執行(しぎょう)にも成っています。執行職は一応三綱のトップと考えられますから仁円は醍醐寺に於いて大変な有力者であった訳です。仁静は子息の範俊を仁円に託して真言僧とすることにしましたが、それも蓋(けだ)し自然の成り行きであったのでしょう。近世江戸時代の作ですが真言諸法流の相承次第に付いて詳しく記した『野沢血脈(けちみゃく)集』という書物があります。その中で此の事に言及して、

範俊の父親は仁盛威儀師である。賢覚の父親である賢円の父は仁円威儀師である。仁円と仁盛は兄弟の契りを結んでいた。仁円は醍醐寺座主の宮僧正覚源に仕えて奉仕する事並び無き者であった。そういう次第で仁盛は子息の範俊を仁円の息子とし、宮僧正御房の弟子と為したのであった。僧正は範俊が東寺定額僧になれるよう取り計らわれたのである。

などと述べています(巻第二の「勝覚」の条の頭註)。すなわち範俊は醍醐の仁円威儀師の養子或いは猶子になったとされています(猶子と云うのは相続権の無い養子のことです)。

範俊が南都の親元を離れて醍醐にやって来たのは何歳の時の事だったのでしょう。詳しくは分からないのですが八歳前後として大きな誤りは無いと思います。即ち寛徳二年(1045)の頃で、当時の醍醐寺座主は花山天皇の皇子で宮僧正と称された覚源(100065)でした。覚源は永承五年(1050)に東寺一長者となり、以後入滅に至るまで其の職にあって宗界に君臨しました。

ところで範俊が覚源の推挙によって補任(ぶにん)したと云う「東寺定額僧」とはどのような僧職であったのか少し説明しておいた方がよいでしょう。定額僧は当該寺院の恒例仏事を始めとする法儀を護持して天皇の御願を祈る為に太政官によって補任(任命)されます。ですから東寺の定額僧は同寺に住んでいる僧侶の中から選ばれるのが当然と言えます。しかし平安中期以降は大半の東寺定額僧は仁和寺・醍醐寺に代表される郊外の真言寺院の住僧によって占められていました。彼等は三月二十一日の大師御影供や十二月の結縁(けちえん)潅頂などの東寺の恒例行事、或いは神泉苑祈雨御読経などの臨時の御願に限って出仕し、普段は東寺以外の各自の本寺に住んでいました。

それではどうして東寺以外の寺の僧侶が「東寺定額僧」になっていたのかと云えば、真言宗の僧侶は天皇の御願を祈る正規の官僧となる為に、先ずは弘法大師によって一宗の根本道場と定められた東寺の定額僧となり、一定期間東寺の寺役に従事する事が求められていました。東寺定額僧は真言僧にとって官僧として活躍するための登竜門であったのです。しかし東寺は洛中にあるが故にその境域は限られており、又清浄にして静寂なる環境を必要とする密教の修行に不向きな面もありました。従って醍醐・仁和両寺、或いは禅林寺・勧修寺などの真言寺院が成立すると三綱以外で東寺に常住する僧は少なくなってしまったのです。又東寺の別当である「長者」もそれぞれの本寺に住んで法務の指図をしていました。例えば今の覚源僧正が東寺長者であった時には、長者坊すなわち長者のオフィスは醍醐寺にあって、東寺の三綱は醍醐寺と東寺の間を往返していたのです。

話を範俊に戻せば、父親に連れられてやって来た醍醐寺は少年範俊の目にはどのように映ったでしょうか。当時はまだ三宝院や理性院、或いは金剛王院や無量寿院などの有力子院は何れも成立していませんでした。

此の寺にも自分が生まれ育った興福寺と同じく立派な金堂と五重塔がある。しかし興福寺は南都第一、いや日本第一の御寺(みてら)であり、何百という堂塔・房舎が軒(のき)を連ね、数千の僧徒が群れ集うやゝ騒々しい巨大寺院であった。それに較べると鬱蒼(うっそう)とした山麓の巨樹の間に見え隠れする醍醐寺の伽藍は小じんまりとしている。その一方で確かに此の寺には真言密教の神秘的な霊力が満ちている感がある。しかも此の醍醐寺の真生命は急な山道を登ってたどり着く上寺(かみでら)にあり、自分も何年かすればそこで厳しい修行生活を始めなければならない。

範俊の心の中では真言の阿闍利と成って天皇の御願成就を祈る将来の晴れの姿と、人里離れた山中で日夜修行に明け暮れる日々とが交錯していたに違いありません。



第二回 小野僧都成尊の弟子と成る事

 

醍醐寺の北側には裏山を隔てて大谷と称する土地があり、座主覚源の甥に当たる覚俊阿闍利が住んで真言の研鑽に勤めていました。覚俊は花山天皇の子である清仁親王の子でしたから宮阿闍利とも、或いは住所によって大谷阿闍利とも呼ばれていました。少年範俊にとっては師僧の覚源と云い、此の覚俊と云い、身近に皇族出身の僧侶が住んでいるという事で何となく王家と繋がりがあるような気がして、親元を離れて寂しく頼りなく感じている身には素朴に嬉しく思えた事でしょう。

 

此の大谷を越えて北の方にしばらく歩くと朱雀天皇陵、続いて醍醐天皇陵があり、そこは亦小野妹子や小野篁(たかむら)、或いは小野小町で有名な小野一族の本貫地(出身地)である小野の里の入り口でもありました。ここには覚源の師であり東寺長者でもあった仁海僧正(9551046)が長暦元年(1037)に建立した曼荼羅寺の伽藍が燦然とまぶしい光を放って存在していました。此の寺は仁海の申請に依って翌年三月に後朱雀天皇の御願寺となりましたから、その年月を以って建立年時とする事が多いようです。仁海は上醍醐の観音堂と延命院の別当でしたが旱天に雨を祈って毎回効験があり、その勧賞(修法に対する褒賞)によって遂に僧正にまで昇任し、後には「雨僧正」の名で呼ばれるようになりました。

 

仁海は世上すぐれた験者(げんざ)、即ち加持祈祷や修法に堪能な僧として知られていますが、実際には密教典籍とその教理に関する深く豊かな学識を有してもいて、教学と実修の両面に於いて真言僧の頂点に君臨していたと言えます。しかし醍醐寺の長官たる座主職は身分の事があって付法弟子の覚源が若年よりその地位にあり、仁海としてはその法流の拠点として本寺の醍醐寺とは別に寺院を建立する必要がありました。そうした目的で新たに建立された寺が小野の曼荼羅寺であった訳です。数多い仁海の著作の中に東寺一宗すなわち真言宗の沿革と現状に付いて記した『潅頂御願記』と云う短篇の書物があります。その中で仁海は上醍醐の延命院を「曼荼羅寺の上寺」と称し、そこに曼荼羅堂と高さ四尺の大鐘を造り加えたと述べています。従って仁海の頭の中には、上醍醐から小野の里に至る「大」曼荼羅寺という雄大な構想があったように見受けられます。

 

さて範俊が醍醐に入寺したと思われる頃は仁海の最晩年に当たり、範俊が仁海にお披露目を果たした可能性が十分にあります。範俊自身は後に承暦二年(1078)の「解(げ)」すなわち太政官に提出した陳述書の中で、

 

範俊が七歳の時(長久五年1044)に仁海自ら袴(はかま)を著(つ)けて下さり、その時に仁海は範俊の両親に対して「この子に自分の門跡である曼荼羅寺を継承させてあげよう。今からは東寺の三宝を敬い奉仕しなさい。其の祈りの為に毎日一燈を彼の寺にお供えするべきです。」と語った。

 

と述べています。尤も是は曼荼羅寺の伝領に関する相論(裁判)の文書であり、範俊が同寺を相承支配する正統性を主張するために書かれた文書なので、果たしてどこまで信用すればよいのか難しい問題です。

 

ここで範俊の師僧の事について考えると、前回は醍醐寺座主覚源の弟子と成り、後には東寺長者と成った師の覚源僧正の推薦によって同寺定額僧に任命されたという話をしました。是は概(おおむ)ね妥当な説と思われますが、注意すべきは師僧が大寺の別当クラスの高僧である場合、実際の学問や修行の師範(指導者)は別にいるのが普通であるという事です。と云うよりは、実際の師匠とは別に各種の恩恵を受ける目的で高僧の弟子となって奉仕する場合が多いとでも云うべきでしょうか。それは兎に角、大寺院の高僧は本寺の恒例仏事の導師を勤める他にも、天皇・上皇が主催する御読経・御修法(みしほ)、或いは論義や堂塔供養などに出仕しなければなりませんから、数多い弟子の教学や修行の面倒をみる事など出来ないのは当然と言えます。従って真言僧の場合は相承血脈(けちみゃく)に記録される伝法潅頂の師僧とは別に若年時の(或いは実際の)師匠がいる事が多い筈ですが、一部の例外を除けばそれに付いては仲々知ることが出来ません。

 

覚源僧正は治暦元年(1065)に入滅しましたが、それより以前の康平五年(1062)に座主職を大納言源隆国の子定賢(10241100)に譲っていました。範俊は定賢の弟子とはならずに曼荼羅寺の成尊(せいぞん)僧都(101274)の弟子と成りました。成尊は仁海の弟子の中では若輩でしたが、仁海の正嫡(しょうちゃく)の付法資と認められて曼荼羅寺を伝領していました。ところで範俊が自ら語る所によれば、実には成尊と範俊は血縁関係にありました。前に紹介した承暦二年(1078)の「解」の中で範俊はまた、

 

私の師匠であった故成尊は、弟子と成ってからの年数の多少に依ることなく範俊を写瓶(しゃびょう)の弟子とされた。此の事は亦範俊が成尊の血縁に当たるからである。

 

と述べています。文中の「写瓶の弟子」と云うのは、瓶から瓶へ水を移し入れるように師の教えを総て習得した弟子という事で、今の場合は「正嫡の弟子」と同じ意味で使用されています。その血縁関係と云うのは、『(醍醐寺)伝法潅頂師資相承血脈』という書物に、

 

成尊は興福寺の僧で、仁盛威儀師の猶子である。但し、実には興福寺別当真喜僧正(9321000)に仕えていた延命丸の子である。

 

と記されています。してみると成尊と範俊は仁盛の猶子と実子であり、師弟関係以前に二人は義兄弟の間柄であった事になります。従って範俊は最初から成尊の弟子であり、その一方で東寺定額僧に推薦してもらうために覚源僧正の弟子にも成っていたと考えることが出来ます。

 

皇族や摂関家、或いはそれに準ずる高い家柄の子弟を除けば、真言僧の若年時の活動に付いて知るのは容易なことではありません。それは勿論記録が存在しないからです。そうした中で比較的詳しく亦信頼も出来る史料が伝法潅頂の入壇記録であり、それに依って初めてその存在が確認出来る場合が多いのですが、実際には潅頂を受ける以前の長期にわたる活動がある訳です。又潅頂入壇にまで至らなかった受法の師が何人もいる事は決して珍しい事ではありません。それでも古い時代の僧侶に関しては、伝法潅頂を受けた師匠の事しか後世の記録に残らない事が多いのは致し方がないことでしょう。

 

範俊の師僧についてもその詳しい実態は分かりませんが、真言の師匠としては成尊一人だけを挙げるのが普通です。さて江戸中期の学僧祐宝(16561727―)が数百人の真言僧の伝記を記した『伝燈広録』と云う大部の書物があります。その「範俊伝」は、範俊が成尊を戒師として童形を改めて僧体となり、所定の学を修めてから、

 

初めは南都に趣いて興福寺伝法院の公朝に唯識(ゆいしき)法相を学び、次いで東大寺東南院に入って三論宗の教理を究めた。

 

と述べて顕教習学の事を具体的に記しています。こうして顕密の学を修め修行を積んで、範俊はいよいよ成尊から伝法潅頂を受ける事になります。




第三回 伝法潅頂入壇の事

範俊の師成尊僧都(101274)は後三条天皇(103473 在位106872)が後冷泉天皇の東宮(皇太弟)であった時からの護持僧であり、延久元年(1069)五月にはその功績によって権律師に任ぜられ、その後も昇任して東寺長者・権少僧都にまで成った人です。後三条天皇と成尊の特別な関係に付いては後ほど範俊が創始した如法愛染王法のお話をする時に亦言及する機会があるでしょう。とにかく後三条天皇が治暦四年(1068)七月に即位してから後の成尊の出世には目覚ましいものがありました。

範俊は延久三年(1071)七月十四日に曼荼羅寺の道場に於いて成尊から伝法潅頂を受けました。真言宗に小野・広沢の両流がある中、小野流に於いては伝法潅頂を受けると共に「印信(いんじん)」なる文書を授かります。印信は伝法潅頂入壇を果たした証明書と考えればよいでしょう。此の印信は普通「紹文(じょうもん)」「印言(印と真言)」「血脈(けちみゃく)」の三通の文書から成っています。その中の紹文とは、大日如来の法門が代々間違いなく相承されて自分に至り、今それを弟子に伝える事を明言して後代への証明とするものです。その相承次第を一々具体的に書き記したのが血脈です。

ところが弘法大師空海が唐の長安に於いて青龍寺の恵果(けいか)阿闍利から伝法潅頂を受けた時、別して「印信」なるものを授けられはしませんでした。従って弘法大師もその弟子達に印信を授ける事は無かったであろうと考えられます。古来「天長印信」と称して大師が天長年間(82434)に檜尾(ひのお)実恵僧都と貞観寺真雅僧正に与えたとされる二種類の潅頂印信が伝承されていますが、信憑性に付いては未知数としか言いようがありません。伝法印信の授与は元来が台密の作法です。

即ち入唐した伝教大師最澄は天台山からの帰途、越州に於いて善無畏三蔵の孫弟子に当たる順暁阿闍利から「三部三昧耶」と称する伝法潅頂を受け、その事を証明する付法状(印信)を授けられました。此の事は伝教大師の『顕戒論縁起』にその付法状が載せられているので疑うべくもありません。それどころか驚くべき事に、その付法状の原本と思(おぼ)しきものが大阪の四天王寺と京都の毘沙門堂に分蔵されています。是は元来延暦寺の根本御経蔵に収納されていたものが、かろうじて織田信長の比叡山焼き討ちから逃れて運び出されたもので、その後四天王寺と毘沙門堂に所蔵されるに至った経緯もほぼ明らかになっています。

伝教大師は自分の潅頂弟子に対しても此の「三部三昧耶」の印信を授け、以後近代に至るまで此の印信は授与され続けました。慈覚・智証両大師も入唐求法(ぐほう)に際しては印信が得られるよう心懸けたらしく、智証大師円珍の場合も長安青龍寺の法全(はっせん)阿闍利から授けられた付法状の原本が存在しています。是は国宝の智証大師作「青龍寺求法目録」の末尾にあり、法全自ら円珍に対する伝法潅頂の授与と付法について書き記して餞別(はなむけ)としたものです。このように台密に於いては唐の順暁阿闍利が伝教大師に授けた付法状を祖型として、潅頂印信を授ける事が当然のように行われていたのです。

東密に於いては誰が最初に潅頂印信或いは付法状を発給したのか確かな事は分かりません。しかし平安中期を通じて徐々に印信の授与が一般化したものと思われます。それはさて置き鎌倉時代になると小野流の中でも特に勧修寺(かじゅじ)流の学僧の間で印信に記された印と真言に関する研究が隆盛し、慈尊院僧正栄海(12781347)の『ゲンビラ鈔』に代表されるような大部の著作が製作されるまでに至りました。一方、同じ東密一派と云えども仁和寺の流すなわち広沢流は、やはり種々の潅頂印信を伝えてはいるのですが、一応伝法潅頂に際しても印信を授けない事を本儀としています。

さて話を範俊に戻さなければなりません。醍醐寺に蔵する膨大な古文書の中には小野僧都成尊が範俊に授けたとされる潅頂印信(紹文)の写しが存在しています。その全文を現代語に訳してここに紹介しましょう。

「伝法潅頂の阿闍利の職位(しきい)を授与する事

  金剛弟子範俊

よくよく思いを廻らしてみれば、はるか遠く大日如来より私の師匠である曼陀羅寺の故仁海僧正に至るまで、胎蔵界は十四代、金剛界は十五代、師から弟子へと代々相承され来った事は鏡に映すように明らかである。自分はと云えば、偶然にも仁海大師に見出されて慈悲の導きを蒙り、忝(かたじけな)くも伝法潅頂の職位を得ることが出来た。今ここに範俊大法師は若年にして三密の門を開き、両部密教の教えを研鑽して、私から頻(しき)りに金剛・胎蔵の大法を受けた。初め金剛界法を受けた時には禅定の水を漏れなく湛(たた)える器であることを証し、後に胎蔵の法門を受けた時には流水を瓶から瓶へ移すように悉く習得した。それで今まさに秘密印許可(こか)の潅頂を授けて私の次の阿闍利と為すのである。此の事を後代の学徒に示す為、是を記して授けるものである。

   延久三年(1071)七月十四日   範俊に賜う

伝授阿闍利権少僧都法眼和尚位成尊

 siddhanatha(梵字で成尊)、之を与える。(花押を記す)」

以上がその印信です。後の定式化した小野の印信と比べると文章がやゝ簡潔に出来ています。

成尊はこの年二月に東寺の加任長者(副長者)となり、六月二十九日(或いは七月五日)には後三条天皇の「臨時の朝恩」によって権少僧都に任命されるなど日の出の勢いにありました。そして翌年(1072)九月三十日に東寺長者の職にあった仁和寺の長信僧正(101472)が入滅した為、十月に成尊が替って長者と成り、遂に成尊は師の仁海同様一宗の頂点に立ったのです。しかし其れも束(つか)の間、一年数カ月を経た延久六年(1074)一月七日に成尊は前年五月に崩御(ほうぎょ)した後三条院の後を追うようにして其の生涯を閉じました。

古今東西、真俗を問わず、必ずと云ってよいほど問題になるのが後継者をめぐる争いです。何らかの権益のある所に亦争いもあるのは人間界の普遍の法則と云えるでしょう。成尊の滅後もその門跡たる小野の曼荼羅寺の支配をめぐって、二人の有力弟子範俊と義範(102388)の間で熾烈な争いが繰り広げられます。そのお話は次回にいたしましょう。



第四回 曼荼羅寺をめぐる相論(訴訟)の事 其の一

 

真言小野流の歴史に於いて範俊は成尊僧都の写瓶(しゃびょう)の弟子、すなわち瓶(かめ)から瓶へ水を移すように師成尊の教えを悉く習得した正統な後継者であるとされています。しかし、前回紹介した成尊の潅頂印信を除けば、範俊が成尊から授けられた受法内容を具体的に記した史料は意外と少ないのです。それに此の印信にしても本当に成尊が書き与えたものなのか、現在の研究水準では何とも言いようがありません。そうした中で無視できない重要な伝承史料として、元海僧都(10931156)が三宝院大僧正定海(10741149)の口伝を書き記した『厚造紙』の中の一節があります。それに依れば成尊は入滅する二日前の延久六年(1074)正月五日に範俊を呼び寄せ、秘かに「潅頂最極秘密印言」を授け与えました。又その時に成尊は、

 

此の秘密印は安直に授けるようなものでは無い。サリトテ(そうは云っても)誰にも授けなければ法流が断絶し、仏法を成就する人も絶えてしまう。そう成らないように此の印を授けるのである。

 

と語って範俊を教戒しました。

 

さて同年正月七日に東寺長者でもあった小野成尊僧都は入滅し、その遺跡(ゆいせき)たる曼荼羅寺と上醍醐延命院との支配権をめぐって範俊と義範の間で争いとなりました。(詳しく云うと延命院に付いては理趣房寂円も関わっていました。後出。)成尊は他にも上醍醐観音堂の別当も兼帯していましたが、こちらの方は義範が継承する事で問題が無かったようです。此の観音堂は醍醐寺開創以来の准胝観音堂や如意輪観音堂とは別の御堂で、半丈六(約2.4メートル)の金色千手観音を本尊としていました。

 

また延命院の別当(検校)に付いては『醍醐雑事記』の同院別当次第に、

 

僧正仁海 少僧都成尊 大法師寂円 権少僧都義範 法眼静意 阿闍利頼昭 権僧正範俊

 

と記されていますから、成尊の次は義範でも範俊でも無く上醍醐理趣坊の学僧として有名な寂円(996頃―1080―)が別当に成った事が分かります。延命院の伝領に関しても相論が無かった訳ではありませんが、同院の「氏人(うじびと)」すなわち護持の人々が寂円を次の検校(けんぎょう)とする事に決定したので、義範と範俊も敢えて長期にわたって争う事を好まなかったようです。寂円の次は義範が別当になりました。義範は醍醐寺座主にこそ成れませんでしたが先師成尊の遺跡たる観音堂と延命院の別当職を兼帯して座主の定賢と並ぶ有力僧となり、義範が開創した遍智院は醍醐の法流を代表する寺院の一つに成りました。範俊もたびたび延命院の支配権を主張したようですが一向に認められず、晩年に至ってようやく別当に就任することが出来たのです。

 

しかし範俊にとって最大の関心事は何と言っても曼荼羅寺の支配権です。当初は範俊が別当として寺家(じけ)の伝領支配をする事にさしたる異論も無かったらしいのですが、やがて義範との間で深刻な諍論となり、容易に決着しない様相を帯びるに至りました。帥(そち)大納言と称された源経信の日記『帥記』の承暦四年(1080)八月十一日の条に、

 

正午過ぎに束帯を着て関白殿(藤原師実)のお屋敷に参る。検非違使(けびいし)の行綱が、昨日預けた義範と範俊の間で相論となっている曼荼羅寺の文書を差し出した。しばらく待っている間に殿下(師実)がお出ましに成り、私から此の文書の内容について概略を申し伝えた。

 

と述べていますから、成尊が入滅した延久六年(1074)から六年を経ても問題が解決していなかった事が分かります。それでは以下に此の相論(訴訟)がどのようなものであったのか具体的に見ていきましょう。

 

義範・範俊両師の中、範俊の主張に関してはその申文(もうしぶみ/訴状)の写本が東寺の観智院文書の中に二通現存しています。是は南北朝時代の著名な学僧杲宝(130662)が書き写したもので、秋宗康子氏によって『史林』誌上に翻刻紹介され広く知られるように成ったものです。かなり長い文章なので何回かに分けて要点を見ていきましょう。

 

先ず承暦二年(1078)三月日付の範俊解(げ/申文)には、

 

成尊は既に去る延久四年(1072)十月二十九日に範俊・教尊等に対して曼荼羅寺を附属し了った。その後で成尊僧都は曼荼羅寺座主と為り、別当職には範俊を任命した。そうして同六年正月七日に先師は突然に入滅した。そこで既に附属を受けているので範俊が先師の職務を受け継ぎ、大小様々の雑事を取り仕切ったのであるが、その事に対する他からの反対・妨害は全く無かった。

 

と述べています。初めの「範俊・教尊等」という表現は気に成ります。「等」の中には義範も含まれているのかと云う問題があります。教尊に付いては曼荼羅寺相論の重要人物であり後で(次回に)詳しく述べようと思っています。曼荼羅寺に座主と別当の両職があったと云うのも興味があります。続けて義範が寺の支配に介入した経緯を記して、

 

同年(1074)十月十五日に至って兼ねてからの宿願を果たす為に修行に旅立ち、熊野の那智の御山に参詣して一千箇日の籠山行を始めた。此の間、曼荼羅寺の雑事や荘園からの年貢の収納、また恒例仏事の勤めに関しては、教尊に指示して執行させたのである。ところが去る承保三年(1076)十二月上旬になって義範が無理やりに寺の支配権を横取りし、上野(こうずけ)国からの年貢に対して白紙の(寺印を押捺していない)収納証を書き与えるような事をした。

 

と述べて義範の横暴を非難しています。此の範俊の陳述書には別に「先師の譲り状 一通」が副えられていて、是に付いて範俊は同年七月十日付のもう一通の申状の中で「延久四年(1072)の頃、先師が健康な時に書いたもの」であると言っています。一方義範は此の譲状は偽物で範俊の「謀計」であると主張しました。

義範の解(訴状)は後世に伝わらなかったようですが、範俊解の中に引用があって義範の主張の一端を知ることが出来ます。その事については回を改めてお話しましょう。



第五回 曼荼羅寺をめぐる相論(訴訟)の事 其の二

 

曼荼羅寺の支配権を要求する義範の主張は、前回の最後に紹介した承暦二年(1078)七月十日付の範俊解(げ/意見状)に見てとれます。即ちその中に引用された五月二十一日付の義範の解状は以下の如く陳述しています。

 

去る承保元年(延久六年 1074)正月四日、先師成尊は病の床で私に対して次のように語り示された。「義範よ、お前は弟子の中の年長者で受法歴も長いから、一門の事は大小事を問わず専らお前が責任を以って執行すべきである。その中でも、経蔵の中にある聖教(しょうぎょう)文書は此の曼荼羅寺の囲み塀から外へ出さないようにして、祖師より相伝した法門が一つも散失しないようにすべきである。此の言葉に逆らうような事があってはならない。」その三日後に先師は遂に逝去なされ、私は(葬儀など)没後の諸事を取り仕切って事を済ませたのであった。同じ頃、私義範の実の兄で僧侶である命源が重病を患い危篤状態になったので、しばらくの間その所に出向いていた。(命源は二月二十五日に死去したと云います。)ところが其の間に範俊と教尊が共謀して曼荼羅寺の正印と鍵、荘園の登記書類を奪い取って隠し、さらに経蔵の聖教文書、先師の住房の中にあった道具等を運び出し、追福(追善)の為の周忌法要の事を意に介さない行動を取った。

 

以上が義範の主張とされるものであり、前回に見た範俊の意見陳述と合わせて、此の相論の大体の争点は理解して頂けたかと思います。ここで気になるのは範俊が那智籠山の為に寺家(じけ)を留守にする間の諸事を託し、又義範が範俊の共謀者と非難する「教尊」なる人物の事です。七月十日付の範俊解では此の教尊に関する次の様な記事があります。

 

正月三日、先師成尊がまだ平常であった時、義範は教尊の父親である右京大夫(たいふ)通家朝臣の所に送った消息状(手紙)の中で、「僧都の御房(成尊のこと)は、仏法に関する事も資産に関係する事も総て(御子息の)禅師殿(教尊)に付属なされたと承っております。」と言っている。

 

此の記事から判断すれば、成尊が自らの後継者として期待していた人物は義範でも範俊でも無く、通家朝臣の子の禅師殿すなわち教尊であったらしく思われます。そして成尊が義範と範俊に希望していたのは、両人が協力して教尊を一人前の真言僧に育て上げる事にあったのでしょう。因(ちな)みに「禅師」と云う呼称は禅宗とは関係なく、律師とか阿闍利とか云う肩書が無くても上流家庭出身の僧に対しては何々房という房名では無く禅師と称する場合が多いのです。

 

此の右京大夫通家朝臣は中納言藤原経季の子で、承保四年(1077)七月七日に逝去しています。その翌年(承暦二年/1078)に相論が持ち上がった事からしても、若し通家がもう少し長生きして子息教尊の曼荼羅寺支配が確立していれば義範と範俊が争う事も無かったでしょう。又教尊は壮年を超えて長く生きることが出来なかったらしく史料に乏しいのですが、寛治五年(1091)に範俊が曼荼羅寺に於いて仁源に伝法潅頂を授けた時、範俊の伴僧として教授の役を勤めた事が知られています。その後の事は分かりませんが、結局曼荼羅寺を継承する事は無かったのです。

 

範俊と義範の間で持ち上がった曼荼羅寺の支配権をめぐる相論(訴訟)は、平安時代後期の寺院の後継者に関わる紛争の一典型を示していると言えます。それは師からその付法弟子への譲与、いわゆる師資相承を重しとするか、或いは寺院中の年臈(ねんろう)の高い者が僧侶全体の統率者に成るべきであると云う仏教教団古来の伝統に依るかという問題です。年臈の「年」とは生まれてからの年齢、「臈」とは受戒して以降の年数のことで「法臈」を略した語ですが、真言僧の場合は受戒よりも伝法潅頂に入壇して以降の年数を云うことが多いかと思います。又場合に依っては権律師や法眼など僧綱位に付いてからの年数を指して「年臈」、或いは「臈次」等と云う事もあるようです。

 

さて義範の主張は先師成尊の病床に於ける遺言という形を取りながらも、その論点は年臈の重視という事です。成尊が義範一人に語った事など第三者には確認のしようも無い事ですから、仏教寺院本来の伝統に基づいて成尊の付法弟子であり年臈も高い自分が曼荼羅寺を相伝するのは当然であると言っているのです。本当かどうかは兎も角、上に見た成尊が義範に語ったと云う「お前は弟子の中の年長者で受法歴も長いから云々」なる言葉にその主張が端的に表されています。

 

実際、例えば醍醐寺に於いてもその長官たる座主は平安中期を通じて代々年臈の高さを勘案して任命されて来ました。「年臈の高さ」と言っても勿論誰でもが選考の対象となる訳ではありません。醍醐寺には天皇の御願寺として十名の定額僧(十禅師)が任命されており、その中から座主が選ばれるのです。更に詳しく云うと、定額僧の一名は座主、三名は三綱(実務を担当する役人)ですから、残り六名の定額僧の中から選ばれます。

 

その慣習が崩れて年臈を無視し、専ら師資相承を理由として座主が選ばれた最初の事例は、第十一代の座主大法師明観(9531021)が寛仁二年(1018)十一月に職を辞しその弟子で花山天皇第三子の覚源(10001065)にそれを譲ったのに始まります。覚源の年臈はその時数え年で十九歳、臈六年でした。その後鎌倉時代前期に至るまで色々問題があったにしても、座主職は大体師資相承に依って任命され続けました。それが亦崩れたのは貞永元年(1232)六月に第三十二代の座主として権僧正賢海(11621237)が任命された時で、醍醐寺の定額僧の中で第一臈(年臈が最も高い)である事が任命の理由であったとされています。

 

一方、小野曼荼羅寺の場合はやはり後朱雀天皇の御願寺としてその長官たる別当は朝廷の任命承認を必要とするのですが、寺の開基である仁海僧正(9551046)は比較的若年の成尊(101274)に当寺を譲って自らの後継者としました。成尊は曼荼羅寺の他に上醍醐の観音堂と延命院も仁海から伝領しましたが、こうした事に対して仁海の遺弟子達から特に異論が出るような事は無かったようです。成尊以外の仁海の高弟としては先ず第一に醍醐寺座主覚源が挙げられますが、その他にも上醍醐理趣坊の寂円や入道中納言円照など学徳すぐれた人達がいました。

 

従がって範俊の云うように曼荼羅寺の場合は師資相承が第一であり、年臈の高低は従属的な問題であると云えるでしょう。尤も範俊が承暦二年三月日付の解状に副えて提出した成尊の譲状に関しては、此の相論が長引いた事を考えれば、朝廷に於いてもその真偽を決しかねていたのでしょう。

 

此の相論がどのような形で決着したのか詳しくは分かりません。しかし一応は範俊の実効支配が認められ、寛治二年(1088)の義範の入滅を以って最終的な解決を見たものと考えられます。



第六回 雨を祈って失敗する事

 

範俊は教尊の事をどのように考えていたでしょう。教尊の外護者である父親の右京大夫藤原通家が亡くなったからと云って、教尊禅師を後継者とすると云う先師成尊と通家朝臣との契約を無視して、曼荼羅寺を横領すると云うような思いは無かったでしょう。教尊が成長して法流の相承者として問題が無ければ、然るべき時に同寺を譲ろうと考えていたのでしょう。範俊は教尊に対して常々、「私は先師と御父上との間の約束を忘れる事は無い。だから余計な事は考えずに仏法に精進しなさい。」などと語っていたかと思われるのです。

 

さて今回のテーマは、範俊と義範の確執にまつわる有名なエピソードである永保二年(1082)の請雨(しょうう)経法の事です。此の年は日照りが続いて五穀の生育が危うく思われました。現在と違って国の経済のほとんどが農業生産に依存していた時代であり、しかも潅漑設備は貧弱で収穫量は今以上に天候に大きく左右されましたから、降雨量が少なく炎天が続けば、それは忽ち国家の危機と成るのです。従って国家政策として仏神に対する大規模な雨の祈りが行われたのも無理からぬ事です。

 

当時、旱天祈雨の秘法として最も期待されていたのは弘法大師以来の伝統がある神泉苑に於ける請雨経法でした。神泉苑には雨をつかさどる竜王が住むとされ、此の竜王に供養する法が請雨経法の秘伝とされていました。しかし此の修法(しゅほう)を行うには準備も大変ですし、又費用も嵩(かさ)みますから、先ずは各種の御読経を行って雨を祈りました。

 

此の年も七月十一日から神泉苑に於いて東寺長者の信覚僧正(101184)が二十人の伴僧を率いて孔雀経御読経を始め、十四日には雨が降って、明くる十五日に結願(けちがん)しました。しかし降雨量が十分で無かったのでしょう。結局、翌日から請雨経法を行う決定がなされました。そして修法の大阿闍利には範俊が選ばれました。此の選考過程については大蔵卿藤原為房(10491115)が書き残した日記の一部が伝わっているので紹介しましょう。

 

「十六日乙未(きのとひつじ)。今日から神泉苑で阿闍利範俊〔年四十五。成尊の弟子〕を修法阿闍利に指名して請雨経法が行われる。先例は先ず(天皇から)一宗の長者にお命じになり、それがだめな場合は次いで門徒に及ぶのである云々。一宗の長者は信覚僧正にして、一門の上臈(長老)は義範律師である。しかし義範は山上に隠居しているからであろうか、人々は此の慣例を覆(くつがえ)した云々。また範俊は朝廷に対して、「義範は私の弟子です。私より先に此の法を修すことは出来ません云々。」と申し上げた。此の意見が採用されて範俊にお命じに成られたのである。」

 

義範を自分の弟子とする範俊の主張は、既に第四・五回で紹介した承暦二年(1078)七月十日付の範俊解(げ/申し状)の中に見てとれます。その中で範俊は、先師成尊から請雨経法の最秘伝を伝えられたのは自分だけであり、「弘法大師遺言の中にある秘密の口伝は義範が範俊から受け習った」と述べていたのです。猶「一宗の長者」と云うのは、東寺長者の事です。東寺長者は仁和寺・醍醐寺等の僧侶の中から天皇の宣下によって撰ばれ、弘法大師の後継者として東寺一門を統率します。今の信覚僧正は勧修(かじゅう)寺の人です。

 

範俊は今回自分の主張が認められた事に大満足であったでしょう。自分は先師成尊から神泉請雨経法の秘伝を授けられたのみならず、那智山に於いて一千日の籠山行を遂げて験力(けんりき)も身に付けた。此の修法で自分が失敗する事はよもやあるまい。是であの煩わしい義範との相論からも解放されると思ったに違いありません。

 

一方、義範は範俊が請雨経法を修すことになったと聞いて唖然とし、次いで屈辱感に打ちのめされました。自分こそが仁海―成尊と続く小野法流の継承者である事は疑いようがないと自負して醍醐山に籠り、修法を命じる宣旨の到着を今や遅しと待ちかまえていたからです。義範は思いました。世間は兎も角、仏は自分と範俊と何れの方が真実の密教の阿闍利かご存じである。義範は仏に向かって発願(ほつがん)しました。

 

「弘法大師と仏宝僧の三宝を仰いで心からお願いします。範俊の主張の如く、若し自分が彼の弟子であるのなら必ず雨を降らして下さい。若し範俊の主張が虚妄(こもう)であるのなら雨が降ってはなりません。」

 

そして義範は範俊の請雨経法を妨げる為に大仏頂法を開始したのです。

 

毎日夏の太陽がギラギラと照りつけ、雨が降りそうな気配は全く感じられません。それでも範俊は先師成尊の秘密口伝と自らの修法力を信じて祈り続けました。とうとう期限の一七箇日(いっしちかにち)が過ぎましたが、今まで一滴の雨も天から落ちて来てはいません。範俊はあきらめず二箇日の延修を申請して認められました。さすがに範俊にも動揺の色が顕われました。様々嫌な考えが頭をよぎり始めたのです。範俊は迷いの心を打ち消そうと修法に打ち込み、ふと気が付けば辺りが薄暗くなっています。まだ日の入りまでは随分と時間があります。雲が出てきて太陽を隠し始めていたのです。範俊は確信しました。今夜から明日にかけて大雨に成るであろうと。

義範も必死です。若し雨が降って範俊の修法が賞賛されるような事になれば、自分の存在は無きに等しくなる。今までの修行と学問と精進は何であったのか。このように思っては仏に対して一心に祈り、誓願を繰り返します。結局雨は降りませんでした。朝廷では次いで信覚僧正に孔雀経法を修すように命じ、信覚は弘法大師が所持していたと伝える孔雀経を修法壇に安置するなどして祈り、遂に大雨を降らしました。今回の祈雨修法の顛末(てんまつ)は亦請雨経法が廃れ、孔雀経法が隆盛すると云う、真言修法史に於ける大きな転回点とも成ったのでした。



第七回 如法愛染法の事

 

神泉苑の祈雨修法をあざ笑うかのように真夏の太陽が照りつけています。範俊は人目を避けてヒッソリと小野曼荼羅寺の自坊に帰って来ると、今までの疲れが一気に吹き出してそのまま眠り込んでしまいました。早くも小野・醍醐一帯では、「やはり成尊僧都の正嫡の弟子は義範の御房であった。」とか「範俊は恥じて鎮西(ちんぜい/九州方面)へ逃げ出す用意をしている。」とか云った噂話(うわさばなし)でもちきりです。

 

範俊は寝苦しい夢うつつの中で今回の修法の失敗について考え続けましたが、どうしても自分を納得させる理屈を見つける事が出来ません。「仁海僧正は生涯に七箇度の請雨経法を行って一度も失敗しなかった。先師成尊が康平八年(1065)に同法を修した時には三日目に雷が鳴る大雨になった。自分も相承の口伝に従って全く同じように修法を行った筈である。それなのにどうして自分場合は・・・」。悶々として悩み疲れ、範俊はいつしか深い眠りの中に陥りましたが、その夢の中に突如如意宝珠が出現して燦然と光を放って輝き続けました。範俊は不思議な思いをしながらその如意宝珠を見つめていましたが、何時しか自分が宝珠の中に吸い込まれて行くように感じるのでした。夢から覚めた範俊の目に世界は一変して見えました。何が違うと云う訳ではありませんが、眼前の事物が総て謂わば水晶のように透き通って輝いて見え、自分の心身まで洗い清められているように感じました。範俊は決心してしばらく小野を去り、以前から白河天皇(10531129)の玉体護持の祈りの為に出入りしていた六条御所の壇所に移り、当分は一歩も外に出ることなく護持の祈祷に専念する事にしました。

 

範俊は生涯を通じて白河院護持の御祈りに精励した事で知られています。『覚禅鈔』の「如法愛染王法」の巻によれば、白河天皇が御年二十五の時(単純に計算すれば承暦元年/1077)、範俊に対して次のような下問がありました。それは、

 

今年は自分の生涯でも最も重い厄年に当たっている。若し今年を無難に乗り切ることが出来れば当分命を失うことは無いであろう。命を延ばす一番の法は何であろうか。

 

と云うものであり、是に対して範俊は「悉地(しっじ)成就法を行われるのがよいでしょう」と返答した。天皇からは更に「悉地成就法とは何の法であるか」と下問があり、範俊が「愛染王法の事です」と上奏すると、天皇は「それは非常によい事だ」と言われた。それで範俊は天皇護持の御祈りに如法愛染王法を修したのであるが、是が同法の始まりであると説明しています。一方醍醐では此の物語が範俊と義範を入れ替えて伝えられていたのですが、覚禅はそれについて我田引水の誤った説であると批判しています。

 

当時の人々の厄年に対する恐れは現在とは比較にならないほど真剣なものでした。白河天皇は譲位後の寛治四年(1090)十一月に、明年の堀河天皇御重厄に関わる告文(こうもん)すなわち神前に捧げる願文に、自らも厄年に当たっている事を書き加えるよう指示した事が大江匡房(10411111)の日記『江記(ごうき)』に記されています。

 

さて範俊が白河天皇重厄の祈りに愛染法を修した時、修法の大壇の中央に置かれた塔の中には常の仏舎利ではなく「如意宝珠」を納め、本尊愛染明王と宝珠とが一体不可分であるという観念を凝らしました。範俊はその後も此の観想に工夫を凝らして独自の秘法にまで高め、遂に「如法愛染王法」を完成させたのです。範俊と同法の由緒については又承暦四年(1080)十一月のこと、範俊は公請(くじょう)を受けて六条内裏に於いて白河天皇の玉体安穏の祈りとして愛染王法を勤修(ごんしゅ)したとも云います。公請と云うのは朝廷から仏事を行う為に招請される事です。此の時範俊は、大壇に付属する息災・増益の両護摩壇に別の阿闍利を配さず自ら是をも修し、合わせて一日三時九座の行法を毎日行ったと伝えられているのです(「三時」とは初夜・後夜・日中の事で、通例此の三時に修法を行います)。

 

それでは範俊が修法に用いた如意宝珠とはどのような物だったのでしょうか。それに付いて確かな事は分かりませんが、ひょっとして範俊は此の如意宝珠を曼荼羅寺の経蔵の中で偶然見つけたのかも知れません。先師成尊の滅後に曼荼羅寺の経蔵の中を整理していた時、片隅に黒い漆塗りの八角形の箱が古ぼけた巻物と一緒に置かれているのが目につきました。箱の貼紙には「如意宝珠」と無造作に走り書きがしてあり、一方巻物の端書(はしがき)には「御遺告(ごゆいごう)」と記されています。範俊は奇妙に思いながらも箱の上蓋を取ってみると、中には小さいミカン程の黒光りする珠(たま)が収められていました。又巻物を手にとって読んでみると、そこには今まで聞いた事が無い弘法大師の遺言が二十五箇条に分けて記されています。範俊はいよいよ狐につままれたように訳が分からなくなりながらも思いました。「是は一体本当に大師の御遺言なのであろうか。若しそうだとすれば先師が生前にその事を語らない筈が無い。若し偽作だとすれば誰がこんな大それた事をしたのであろう」。

また此の御遺言の終りの方には如意宝珠の製造法が記されています。範俊は又思いました。「如意宝珠は龍王がその頚(くび)に懸けるか、或いは龍宮で大事に守っているものだ。人の手で作ったところで何の意味があろうか」。そうは思いながらも此のツヤツヤと光る宝珠を手にとってつくづく眺めていると、何時しか此の珠にはやはり尋常ならぬ力が宿っていると感じられて来るのでした。範俊は誰にも云わず珠と巻物を大事に持っておく事にしました。



第八回 鳥羽の壇所で上皇の御祈りに専念する事

 

範俊が白河院の寵僧となるに至った抑(そもそも)の端緒について古くからよく知られた物語があります。それは醍醐の覚洞院法印親快(12151276)が地蔵院法印深賢(11791261)の口説(くせつ)を記した『土去(とこ)鈔』という真言の口伝書に記されていて、大略以下のようなお話です。

 

「白河院は夢の中で『若し何か御慎みの事が生じた時は、竹人を召して御祈りを行うべきです』とお告げを得た。不思議な事だとお考えになり大江匡房卿に相談なされた所、匡房は『それは範俊を召すべきでしょう』と進言した。その理由は、『竹人』の竹は『範』の竹冠であり、人とは『俊』の人偏の事であるからであった。範俊はその時ミタケ(御嶽/三嶽)に参籠していたが院に依って召し出だされ、その後は頻りと院の御祈りの為に秘法を修した」。

 

範俊がミタケに参籠していたと云うのは、第四回で紹介した承暦二年(1078)三月日付の範俊解(げ/申文)に云う那智山の一千日参籠行の事でしょう。しかし同解の中で範俊は、「千箇日を満たし畢って同(承保四年/1077)十一月上旬に京都に帰着した」と述べていますから、実際には千日行を成し遂げていた事が分かります。

 

さて白河天皇は応徳三年(1086)十一月に譲位して皇太子の第二皇子善仁(たるひと)親王が即位して堀河天皇(10791107)に成りました。此の堀河天皇の即位にはかなり異常な所があります。それは新天皇がわずか八歳の子供であったという事よりも、皇太子になったその日に位を譲られて天皇になったという事です。白河天皇が延久四年(1072)に即位した時、東宮(とうぐう)には前年に誕生したばかりの弟宮実仁親王(107185)が立てられました。是は勿論天皇の意志では無く、父君後三条院(103473)の意向に依るものであったと考えられます。しかし皇太弟実仁親王は応徳二年(1085)十一月に疱瘡(ほうそう)に罹(かか)って亡くなり、それから一年経って白河天皇は善仁親王を皇太子にして直ぐに譲位したのです。従って白河院は早くから上皇となって院政を開始する考えだったのでしょうが、一方で実仁親王が天皇になる事は望んでいなかったのです。

 

白河院政の最初の事業の一つが上皇の御所である鳥羽殿の造営です。その場所は都の南郊の沼沢地にあって東を賀茂川、西を桂川に挟まれていましたが、現在では賀茂川の川筋が大きく西側に移動した上、鳥羽殿跡の北西部に名神高速道路京都南インターチェンジが建設されて往時の景観に思いを馳せるのはかなり難しく成っています。鳥羽の地には宏大な水景を楽しむ為に貴族たちの別業(べつごう/別荘)が作られていましたが、藤原季綱(生没年未詳)は応徳三年にその頃退位したばかりの白河院に新しい御住まいとして鳥羽の別業を献呈しました。此の季綱は漢詩の製作にすぐれた文人で、保元の乱の立役者として著名な藤原通憲(信西入道 110659)の祖父に当たる人です。白河上皇は此の地に早速御所(南殿)を建造して翌年(寛治元年/1087)二月には新御所に移り住んでいます。是が鳥羽殿の始まりですが、翌年には更に北殿が造営されて此の御所は上皇の離宮としてその威容を急速に整えて行きます。

 

範俊も上皇の後を追って六条御所から鳥羽殿に移動し、壇所を設営して引き続き尊体護持の修法に精励しました。神泉祈雨に失敗してからと云うもの、範俊は公家(こうけ/天皇)主催の華やかな仏事や御修法(みしほ)に出仕して多くの人と交わるのも面倒に思えるようになり、専ら脇目も振らず公家護持の祈祷を行う毎日を過ごして来ました。そうした態度は大自然豊かな此の新しい御所に移動してから一層顕著となり、範俊の存在は徐々に人々の脳裏から忘れ去られて行きました。それに対して白河院は自分の為に日夜護持の修法を繰り返す範俊の事を頼もしく思い、何かと臨時の御修法を申しつけるようにも成りました。

 

その頃の真言宗界に目を転じると、範俊の最初入室(にっしつ)の師匠でもあった覚源僧正の高弟定賢(10241100)が醍醐寺座主・東寺長者を歴任して公家御修法に華々しく活躍し、範俊にとって不倶戴天の敵とも云うべき義範(102388)も白河天皇退位の数日前に抜擢されて権少僧都・三長者に任命されました。義範は寛治元年(1087)八月に神泉苑に於いて請雨経法を行い、修法の開始前と第四日に雨を降らせました。範俊は此の話を鳥羽殿の壇所で聞きましたが、それ程悔しい思いをする事もなくいつも通りの修法に専念することが出来ました。義範は翌年病を得て閏(うるう)十月に亡くなりました。

 

範俊は曼荼羅寺別当という職務上、たまに恒例仏事の導師を勤める為に寺に戻る事はあるのですが、小野・醍醐の住人も含めて都の人々にとって範俊はもはや「過去の人」でした。そんな範俊に幾分なりとも再び世間の目が注がれる出来事が起こりました。白河上皇護持の祈祷が評価され寛治六年(1092)五月十六日、範俊は遂に「院の御修法の労」により法橋上人位に叙されて僧綱に列する事に成ったのです。当時の僧綱員の数は大僧正から法橋まで総て含めても40~50人位ですから、摂関家の子息など所謂(いわゆる)貴種の人々は別にして普通一般の僧侶が僧綱のメンバーに成るのは非常に難しく又名誉な事でした。例えば此の寛治六年に於ける醍醐寺の僧綱は権大僧都定賢と法眼勝覚の二人だけで、しかも両人とも社会の最上級層の出身者です。

範俊は自分の運命が変わりつつあるように思え、胸の中にふつふつと熱い血潮が押し寄せるのを感じるのでした。



第九回 栄達の道を進む事

 

鳥羽の壇所に移って白河上皇の御願成就(ごがんじょうじゅ)と玉体安穏(ぎょくたいあんのん)の御祈りに専念して早くも八年の月日が経った嘉保二年(1095)の頃、いつしか範俊の名は上皇のお気に入りの鳥羽法橋御房(ほっきょうのごぼう)として都の人々の噂に上るようになりました。何しろ他の有名僧と違って範俊は公家(こうけ/天皇)主催の仏事や御修法に出仕して上級貴族や他宗の高僧の人々と交わることを余り好まなかったので、その事が範俊をして何となく謎めいた不可思議な力を有する僧侶という人物像に仕立て上げるのに役立っていました。範俊は自分に関するこうした話しを伝え聞いておかしく愉快に思っていた事でしょう。

 

毎年歳末には朝廷の恒例行事の一環として新しく僧侶の官職の任命がなされますが(是を「僧事」と云います)、此の年十二月二十八日の僧事によって範俊法橋は特例として権律師を経ずに権少僧都に補任(ぶにん)されました。昇補の理由は前回の法橋補任時と同じく「院の御修法の労」によるものです。此の法橋上人位から権律師を跳び越して権少僧都にするという異例の措置は、平安中期の浄土教家として著名な恵心僧都源信(9421017)以来絶えて無かった事であるとして大変な評判になりました。源信は時の権力者藤原道長の帰依を得て名誉の特例を与えられ、今また範俊は至高の権力者である白河院の力によって希代(きたい)の恩典に浴する事が出来たのです。

 

実際嘉保二年十二月末の時点で権少僧都範俊が天台・南都の僧も含めた日本国の僧侶全体の中でどれ程高い地位にあったのか僧綱一覧によって調べてみると、範俊の地位はトップの大僧正前天台座主良真から数えて十七、八番目であった事が分かります。是で相変わらず法眼の位に留まっている醍醐寺座主勝覚の上に出る事になりましたし、特に同じ法橋でも範俊より任命年時が早く上臈であった弟子の勧修寺長吏厳覚の上位に立つ事ができて納まりが良くなったと云えます。時に範俊は五十八歳に成っていましたが一院(白河上皇)からの信任を確かなものに感じて、自分の運命が大きく展開しつつある事を日々実感するのでした。

 

そんな矢先の翌る嘉保三年(永長元年 1096)八月七日、白河院が故賢子中宮の忘れ形見として我が身のように大事にして片時も離そうとしなかった郁芳(いくほう)門院媞子内親王(107696)が逝去されました。天皇在位の時には白河の地に巨大な法勝寺を建立し、位を皇太子善仁(たるひと)親王に譲ってからは雄大な鳥羽離宮を建設するなど国家の支配者としてかつてない権力を手中に収めながら、白河院の個人生活に目を転じると前には最愛の中宮に若くして先立たれ、今また美しく思いやりの心に溢れた内親王があまりに早くこの世を去るのをどうする事も出来ませんでした。如何に強大な権力を以ってしても、大事な一人の人間の命を長らえさせる事が出来ません。白河院は今更ながら「愛別離苦」という仏の教えの真実を噛みしめない訳には行きませんでした。

 

こうして上皇は歎きの余り臣下の制止を振り切って八月九日の夜に出家を遂げ、そのまま藤原道長が建立した壮麗な法成寺の中にある東北院に引き籠ってしまわれました。ついでながら出家の時に頭髪を剃り落としたのは醍醐座主で上皇の護持僧となっていた勝覚法眼でした。白河院は出家して法皇となりましたがしばらく受戒はせず、十月十七日になって秘かに三井寺の隆明僧正(10201104)から沙弥(しゃみ)戒をお受けになりました。事を内密に行ったのは法皇に考えがあったからです。それは我が子の堀河天皇の健康にも気がかりな所があり、法皇の弟宮である輔仁親王(10731119)が皇位を継承する可能性も十分あったので、それを阻止する為に自分が重祚(ちょうそ)できるようにしておいたらしいのです(重祚とは退位した天皇がもう一度皇位に就く事です)。

 

範俊は法皇の憔悴ぶりを見聞きするにつけ自らも心が痛みましたが、ひたすら仏の救いを信じて今まで通りに法皇の護持の祈りに精励する外は無いと思うのでした。また権少僧都として高僧に列した上は公家(こうけ/天皇)の御願を祈る御修法への出仕も断る訳にはいきません。範俊の身辺は徐々にあわただしく成ってきました。承徳二年(1098)六月十三日、法勝寺の薬師堂の中に新しく造立された不動明王以下の丈六五大尊像の供養が法皇臨席の下に行われ、同日夕刻からは早速五大尊を本尊とする五壇御修法が開始されました。現在ではあまり考えられない事ですが、此の五大尊法は台密と東密の阿闍利が一緒になって修法するのが恒例と成っていました。此の時も中壇不動明王は三井寺の隆明僧正が勤め、軍荼利明王壇は小野曼荼羅寺の範俊僧都が修したのでした。