分かりやすい三密ユガ

 

難しい話はやめて実際的な見地から三密ユガが何の役に立つのか、つまり心身に及ぼす効果について述べてみます。

それは「生命力を活性化させる」、言葉を変えれば「若さを保つ」、場合によっては「若返らせる」という事です。

最近は「アンチエージング」などこのような言葉はかつて無い程、至る所に溢れかえっています。それは超高齢化社会を迎えて、それをビジネスチャンスと捉える企業や人々が多いからです。また政府や地方自治体も健康増進と若さの維持に役立つスポーツやエクササイズを今まで以上に奨励しています。

○若さの秘密

「若い」とはどういう事でしょう。考えように依っては、人は生まれた時から老化を始めて、それは死に至るまで続く一方通行のプロセスです。尤も子供が大人に成長するのを老化と云う人はいません。一般には成長過程にある間は若いのであり、大人になってから老化が始まると考えられています。それはその通りでしょうが、「若さの秘密」は別の所にあります。

私は一時期空手道場に通って熱心に練習していた事がありましたが、道場の先生は合気道の達人でもあり、いつも「若さは集中である」と言っておられました。その時は何となく「そういうものなんだ」と思っていたのですが、それから二十数年を経て私も一種の閃(ひらめき)を得てから生命力の根源と相応できるようになり、今はつくづくその言葉の通りだと実感しているのです。心身が一心一体となって集中しているのが若さそのものであり、無気力散漫は老化現象そのものであると云えるでしょう。そういう意味では若さと年齢は必ずしも一致しないのです。誰でもユガ/ヨガの訓練を通して身体に内在する「自然回復力」とでも云うべきモノと交渉する事が可能になり、「若さと元気の秘密」を垣間見る事が出来るようになります。

更に云えば、言葉では言い表しにくいけれども何かエネルギーの塊(かたまり)のようなもの、一応「気」として置きましょうか、それが体内に入って来るのをコントロール出来るように成ります。それは非常に大きな力であり、初めて体験する時には何か神秘的な出来事と思い込むかも知れません。またその事で色々な問題が一気に解決するように感じられるかも知れません。しかし大抵の場合、その大きな力はすぐに姿を消してしまい、再び遭遇するまで又大分と長い間待たなければならないでしょう。ですから此の体験は問題の解決と云うよりは、解決の始まりと云うべきものです。それでも人によっては直感的に本来の自分というものが驚くほど強靭で立派である事、簡単に云ってしまえば「完璧(かんぺき)」である事に気付くでしょう。

話を再び「若さ」に戻します。若さを保つ上では又バランスが非常に大事なのですが、此の事も一般にはそれ程注目されていないようです。バランスと云っても「情緒の」「栄養の」と色々あって何れも重要である事は言うまでもありませんが、今は身体のバランス、つまり左右均等ということを中心に考えてみます。身体が疲れる、或いは思うように動かないと感じる時があります。それはどうしてでしょうか。それは要するに身体や動作に何か無理があるのです。どうして無理が生じるのかと云えば、その根源は身体のバランスが崩れている事にあります。言葉を変えれば、身体が何かしら「歪(ゆが)んでいる」のです。

若い間は筋力があって関節が柔軟なので少々無理な動きも簡単にできますが、年齢を重ねるに従って以前は簡単にできた動作が難しくなる事が多々あります。それは年を取ってもう若くは無いのだから当然だと思うかもしれません。しかし、繰り返しますがそれは無理な動きをしようとしているのです。自然の道理と相応してバランスのとれた動きをしている限り、たとえ筋力が衰えるにしても動作に困難が生じる事はありません。自然と相応した身体のバランスは自由で気分のいい動作活動の基礎であり、その事に気付かせるのがユガの訓練の重要な目標の一つであると云えます。

ユガの特徴は、人間が本来持っているバランス回復力を引き出して、自分の力で身体の歪みを補正する事にあります。それは外的な矯正とは全く違います。人間の身体の中には肉体的・生理的にバランスを維持、或いは回復しようとする、一種の非常に強い力があります。しかし此の力はエクササイズで引き出すことは出来ません。それを引き出す方法は、自分の身体という自然と相応した意識集中以外に無いのです。ユガの訓練は一種の意識集中の技術です。それでいて驚くほど身体に働きかけてバランスを回復させます。

○自分自身が邪魔になる事

それでは次の話に移りましょう。それは世間でよく言われる「継続は力なり」という事です。稽古・練習という点で人は二つのタイプに分かれます。何事も根気強く続ける人とすぐ退屈して嫌になり止めてしまう人との二種類です。すぐ退屈になってしまう人も最初は興味があり熱心に頑張ります。「これこそ自分が求めていたものだ」と思ったりもします。しかし何事であれ、一定期間が過ぎれば練習しても一向に上達しなくなる時、或いは事が複雑で自分の能力では理解できそうもないと思える時が必ずやって来ます。それは自分の前に立ちはだかる大きな壁であり、とても乗り越えるのは難しいと感じられるのです。

その壁の正体は何でしょうか。それは自分自身です。正確に云えば自分自身と思い込んでいるモノです。実は稽古・練習を通じて身に付いた能力が自分の殻を打ち壊そうとしているのです。それはどういう事かと云えば、多くのすぐれた先人によって長年月を通じて形成された技術や知識の体系はその中に「道理の力」を内包しています。ですから、それを習得する人も亦自然にその力が身について立派になります。此の「道理の力」は大袈裟に云えば「宇宙を貫(つらぬ)く生命」であり、人間の心身という観点からは「生命力」「若さ」「気」に他なりません。問題は此の道理の力が、偏った(つまり道理に反している)自分に執着する力と真っ向から衝突することです。是が表面的には気持ちの上で退屈、ストレス、無気力となって現れるのです。

自分の殻を打ち破るのは大変難しい事です。いくら自分がイヤになっても、結局は今の自分を愛しているからです。しかし「自分」には二種類ある事を考えるべきです。それは本来の自分、いわゆるDNA(ディーエヌエー)と、長年にわたる学習と行為によって形成された「癖になっている自分」との二種類の自分です。この二人の自分の葛藤(かっとう)というのは、いつの時代も文芸作品の基本的なテーマの一つであると云えます。さて問題は、自分の殻を打ち壊して新しいより大きな自分を見出す事ですが、それは「癖になっている自分」から癖を取り除いて抑圧されている「本来の自分」を取り戻してやる事です。

その為にはこうすれば好い、ああすれば好い、というような決まり切ったものはありません。しかし一番簡単で確実性も高いのは信仰であると云えます。信仰に付いてアレコレ意見を述べると際限が無いから止めておきますが、要は自分よりすぐれた何かを敬い尊び、それに対して自分を謙遜卑下する事です。そうすると心身はリラックスして自由になり、新しい意欲・エネルギーが湧いてきます。とにかく人間はそのように出来ているのです。「三密ユガ」と銘打ちながら、今まで真言密教の行である三密の事は何も言いませんでした。それはここで三密に付いて説明してもあまり意味が無いからです。ですから三密行とユガを組み合わせれば、退屈して飽きないで長続きしやすくなり、より大きな成果が期待できるのだとだけ言っておきます。

○ユガの成果(効能)

最近のニューヨークタイムズ紙の記事によると、米国でヨガのエクササイズや瞑想をしている人は1800万人もいて、それと関連するビジネスの市場規模も大変大きいそうです。しかしほとんどのアメリカ人はヨガの起源が古いインドの宗教にある事に無関心か、全く知らないかです。それでインド系米国人社会の間では近年になって、ヨガとヒンズー教の深い結びつきを積極的に知らせ教えるべきだと主張して活動するグループが増えているという事です。

確かに今世界で流行のヨガは、そのルーツを探ればヒンズー教のヨガ派に行き着くでしょう。しかしヨガ/ユガの起源ははるかに古く、古代インドのバラモン教時代にまで遡ります。シャカムニ仏(お釈迦様)もヨガの行である結跏趺坐(けっかふざ)、すなわち座禅の瞑想行を深めて覚りを開かれたのです。人間の身体のなかには、或いは心の中には、一種の完璧(かんぺき)性に向かう非常に強い力があります。その力が何であれ、古代インド人はその力と相応する法を習熟する事に熱中し、それを継承した人達はその法をユガ/ヨガと言っていた訳です。

実は「三密ユガ」などと云ってはいますが、その一応の目標は結跏趺坐を「楽しんで行う」事にあるのです。人間は、お金になる事か楽しいか、その二つの事しか熱心には行いません。しかし十分な準備と訓練無しに最初から座禅や三密の行を行っても、それを楽しむ事は困難であり、ほとんど何の成果も期待できないと云えます。それと反対に、系統的な訓練を受けて十分な準備を整えてから結跏趺坐の行に進めば、誰でも本当に座禅瞑想を楽しみ喜ぶことが出来ます。

それは自分の心と身体を楽しむ事でもあります。息をしているだけでスガスガしい充実感を味わうことが出来、歩いているだけで自分と世界の素晴らしさを堪能できます。心身に余裕が生じて自分の大きな可能性を信じる事ができ、周りの世界に対する見方もすっかり変わります。一個の自分自身も世界全体も共に一つの大きな調和に向かって進んでいるのが感じられようになるでしょう。