法話第二集

第一回 パワースポットは自分の中にある

数年前から新聞・雑誌・ネット、或いはテレビ・ラジオなどで全国津々浦々にあるパワースポットを紹介する記事が目立つように成り、その人気は一向に衰える気配が無いようです。遠く離れた評判の場所まで旅行に出かける熱心な人も多く、中にはそうした来訪者に刺激されて「村おこし」に役立てようと地域で取り組んでいる町村もあります。古くからある寺院や神社の多くは大抵何かしら「霊気」が漂う聖なる場所に立地しているのであり、そういう意味ではパワースポットに対する関心は今に始まった訳ではありません。

しかし人気のパワースポットを追いかけて自身を等閑(なおざり)にするようでは本末転倒しています。誰でも自分自身が最大のパワースポットであるからです。今の若い人は知らないでしょうが、一昔前のテレビの人気者で指圧療法の創始者とされる浪越徳次郎という大先生がおられました。その浪越先生が番組で指圧を行う時に必ず語ったのが「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」というキャッチフレーズ(決め台詞)であり、当時その言葉を知らない人はいなかったのです。

指圧という外的な刺激に誘発されるにしても、「命の泉」そのものは自身の中にあります。その事がとても大事なのです。自分自身の中に強力なパワースポットである「命の泉」が存在しているのです。ただ多くの人がその「命の泉」から流れ出るエネルギーを取り出し活用する事に無関心なのです。此の事も亦今に始まった事ではありません。いつの時代も人々は、どこか遠くに救いと解決策があると信じてそれを探し回り、自分の外側にばかり目を向けて自信を顧みないのです。しかし覚りを開いた禅僧の言葉によれば、自身は世界と同じくらい大きいどころか世界を突き破るくらいの力に満ち溢れています。

だからと云って必ずしも座禅やヨガの瞑想を勧めている訳ではありません。そうした修行を行って好ましい成果を得る為にはそれなりの準備や条件が必要です。実際にはごく簡単な日常的行為によって「命の泉」を湧き出させる事ができます。それは自分の身の回りをきれいに掃除して整理整頓することです。何も一気に全部する必要はありません。少しだけでよいのです。それと約束した時間を守ろうと努力する事も大変な効果があります。それだけで少なくとも遠くのパワースポットを訪れたのと同じくらいのエネルギーが得られます。

第二回 宗教と宗教心

世の中には伝統的な宗教・宗派、或いは新興の諸宗教など、数え切れないほどの宗教教団が存在し、それぞれ自分たちの教えが一番すぐれていると主張しています。中には人類史上最高の教えである等々と仰々(ぎょうぎょう)しく宣伝する人達もいます。そんな風に云われると反って、「あなたの知性と人格がそんなに下らないのはその最高の宗教のせいですか?」と皮肉を言いたくもなります。それは兎も角、この教えを信じれば「どんな悩みも解決する」とか、是を行えば「どんな苦しみからも解放される」とか、そういう都合のよいものは世の中に存在しないのです。何を信じても無駄であるし、何を行っても無益であるとさえ言うことが出来ます。

 

一方、その逆もまた真なりです。人類が誕生して何かしら知的な活動を開始し、いかに原始的であっても文化的な生活を営むようになって以来、無数のすばらしい考えや教えが生み出されて、それによって人々は救われて来たのです。私達が名前や教義に付いて何も知らない無数の過去の宗教の中でも、きっと数限りない人達が恐ろしい暗闇から救い出されて光明の世界を知ったに違いありません。「古い」という事と「原始的/非文化的」という事は全く別の事です。文字の記録が存在しない時代については証明する事が難しいのですが、洞穴に住んで狩猟生活をして暮らしていた時代にあっても、やはり様々な精神的な葛藤(かっとう)があり、又すぐれた人格者もいれば短気で自己中心的な人もいた訳です。

 

しかし時代を遡(さかのぼ)る程、自然の力と脅威が人々に及ぼす影響力は強大であり、それと切り離して自分の心を冷静に観察する事は不可能であったでしょう。それでも何であれ自分より遥かにすぐれた存在を崇拝し、それに対して自分の行いを謝り卑下すれば、それだけで心がすがすがしく清らかになる事は、原始時代に於いても多くの人々が経験していたのです。それは人間というのはそのように出来ているからです。「イワシの頭も信心から」と云いますが、霊験あらたかな観世音菩薩どころか鰯(いわし)の頭のような捨てるしか用が無いものでさえ、心から信じて拝めば利益(りやく)を施すのです。そうすると世の中には救いが満ち満ちているとさえ言うことが出来ます。

 

「心から信じる」とはどういう事でしょう。イワシの頭を信じる盲信を言うのでしょうか。人は悩み・苦しみから逃れようとして何かに頼ろうとします。しかしどのような神や仏を信じようとも、もし自分自身の行いを振り返って反省しようとしないのであれば、それはイワシの頭を信じるのと大して変りがありません。たとえその宗教が世界最高の教えであっても、その仏や神はイワシの頭にすぎないのです。「心から信じる」とは「自分を捨てる」事です。言葉を変えれば、自分中心の考え方から離れて、自分が生きているのは両親を始めとする無数の人々のお陰であると気が付くことです。この事に気が付けば、又自分は自由であり豊かで大きな可能性が備わっている事に目覚めるのです。

 

第三回 価値ある人生

仏とその教えを尊び敬うこと、是が価値ある人生の出発点です。自ら楽しみ、他人にもその楽しみを分け与えることが出来るようになります。世の中にはお金も時間もあるのに自ら喜び楽しむことが出来ず、他人には不快な思いをさせてばかりいるような人がいます。それは自分よりすぐれた存在を敬い、自ら卑下する事を知らないからです。 

仏とその守護者である神々を信仰すること、是が良き運にめぐり会い人生に花を添える秘決です。仏を敬う生活を喜び楽しみ、仏から愛され大事にされるようになれば、運勢は自然とよくなって行きます。人生に悪運は付きものです。誰もそれから逃れる事は出来ません。しかしその悪運を転じてよい方向にもって行く事は可能です。 

悪運を転じて幸運とする秘決は何でしょうか。それは二つの事を実行することです。二つとは布施(寄付)と忍耐です。「何だ、下らない。」と思う人がいるでしょう。しかし何事に於いても秘決は簡単であり、また最もむずかしいのです。 

布施というのは自分の持ち物の一部を削って、それをより必要としている人達に分け与える事です。布施ができない人の心は閉ざされています。閉ざされた心で人生を楽しむ事は出来ないのです。忍耐は仏教用語では忍辱(にんにく)と云いますが、人からの辱(はずかし)めに対して仕返しをしないで耐える事です。勇気が無くてそうするのではありません。仕返しのやり合いはお互いに無益であるからそうするのです。布施も忍辱も実行するのは難しいのですが、どちらかと云えば布施の方が簡単です。その気にさえなれば出来るからです。 

生きているものは人でも動物でも楽しみを求めます。それは当たり前です。仏の教えを信じて修行するのも同じです。誰も苦しみを求める人はいないのです。ただ仏の教えは世間一般の考え方と較(くら)べると、少しばかり目に見えない心の世界に重点が置かれていると云えます。正確に云えば、感覚ではとらえる事ができない心の世界の豊かさを楽しみなさいと教えています。 

仏の教えは難(むずか)しいものではありません。よく仏教哲学は深遠で難解であるなどと言われますが、是は仏の教えそのものとはまた別の事柄です。教えを実際に行うことが大事で、教えについてアレコレ考えることはそれが好きな人に任せておけばよいのです。それでは仏の教えとは何でしょうか。 

「もろもろの悪い事をしないように慎み注意しなさい。善いと思う事は積極的に行いなさい。」 これが仏の教えです。簡単です。実は何事につけよくデキル人は、大抵このように考え行動しています。あまり余計な事は考えないのです。何をやってもデキナイ人はそれが出来ないのです。すぐに「世の中は悪智恵のはたらく連中が成功して威張っているではないか。いつもバカを見るのは善人だ。」などと考えてしまいます。それはそれとして、「良いことはすぐに実行する」というのが一番大事なことです。

 

第四回 生命(いのち)は一つ

地球上には生命が満ち溢れています。最近の調査研究で明らかになったように、太陽の光が全く届かない漆黒の深海の底にも、万年雪に閉ざされた高山の頂きや南極の奥深くにも、実に多種多様な生き物が生息しています。人間の数だけでもこのまま増加すれば、遠からず百億人を突破するでしょう。その分、野生動物は減少して環境は悪化するでしょうが、とにかく大変な数の動物・植物が存在しているのです。

 

一方、生物の進化という事を考えてみると、日本人であれ、或いは中国人・アメリカ人であれ、その祖先をずっと遡(さかのぼ)って行けば遂には猿とも人とも見分けがつかない原人類に到達します。更に遡って一千万年近くも前の時代になると、我々の祖先はアフリカ大陸のジャングルの樹の上で生活する原始的な猿の一種であり、現在生きている私達は皆その生命(いのち)/DNAを受け継いでいるのです。

 

同様に全ての哺乳類・爬虫類・鳥類・両生類・魚類等は何億年もその祖先を求めて遡っていけば、遂には共通の祖先である原始的な脊椎動物にたどり着きます。そういう点では犬・猫ばかりでなくカエルも蛇もスズメも鯉(こい)も、皆私達は親類です。更に祖先を遡って行けば、すべての動物と植物の共通の祖先である原始的な単細胞生物にたどり着きます。それが三十億年前か、或いは五十億年前かは兎も角、遥か昔に地球上に生命が誕生し、その生命が様々に姿形を変えながら今も生き延びているのです。そうすると何十億年という長い年月をかけて幾ら多種多様に分化発展したにしても、「生命そのもの」は二種類も三種類も無いのです。人間も、アリも、細菌やウィルスも、ある唯一の生命を生きているのです。

 

人は心臓が止まって死亡すれば急速に只の物体となり、そのまま放置すれば遂には腐敗してしまいます。ですから見かけの上では、心臓を始めとする身体維持組織が働いて人を生かしているように思えます。しかし、「生命そのもの」は身体機能とは別の次元に存在しています。「生命そのもの」とは何でしょうか。それは「魂(たましい)」の事でしょうか。そうかも知れません。それは意識・無意識を超えたもの、「生命を生かしている何か」です。人間や動物に限らずあらゆる生命体にとって、生きているとは此の「生命を生かしている何か」が宿っていることです。たとえ身体機能が万全でも、若し「生命そのもの」が宿っていなければ、それは生きる事が出来ないのです。

 

今から何十億年も昔、ある有機体に此の「生命を生かしている何か」が相応して宿り、それは生き物となりました。それ以後、個々の生命体は生滅と進化・発展・衰退を繰り返して、驚くほど豊かで多様な生命の世界を作り上げて来ました。しかし最初の生物に宿った「生命そのもの」は只一つであり、増える事も変化する事も無くなる事もありません。それは過去・現在・未来を通じて世界に遍(あまね)く存在する宇宙の生命、宇宙の息吹(いぶき)であるからです。

第五回 修行の楽しみ

六波羅蜜という言葉があります。修行をしてその成果を得る為には、何を目的にして、どのような事を心がければよいのか、それらを六つの項目にまとめたものです。具体的には、布施(寄付)・持戒・忍辱(にんにく/忍耐)・精進・禅定・智恵の六つです。しかし簡単にまとめれば二つの事です。それは自利と利他の二つの行いです。自利とは、修行をして自分が楽になる事です。利他は、他人が楽になるよう奉仕する事です。

 

先ず「修行」という事について考えてみましょう。修行は第一に「楽の行い」です。世の中に修行と称するものは色々あって、多かれ少なかれ、それらは苦行であると考えられています。また苦しい行を乗り越えるから、それなりに好ましい成果が得られるのだとも云えるでしょう。只、そもそも修行を始めるに至ったのは、何らかの意味で「心の苦しみから逃れて楽になりたい」からです。ですから是は「楽を求める行い」に他なりません。また何事にせよ、一時の決意だけで三カ月、一年と長い間努力を続けることは出来ません。それが直接の利得に結び付かない、長くて苦しい修行であればなおさらの事です。ですから何年も、何十年も行を続けられるのは、各人なりに何か楽しみを見つけているからです。そういう人達は皆「行の楽しみ」を知っているのです。苦しい修行を楽しんでいるとさえいえるでしょう。是は「楽の行いそのもの」です。

 

実際には正しいやり方で修行を続ければ、心と身体の両面に於いて偏(かたよ)った歪みが取れてバランスを回復しますから、それだけ心身の自由度が増して普段の生活が楽になります。生活の質が向上するとも云えます。何年も修行を続けて何の目に見える成果も無いというのは、修行の仕方が全く間違っているか、或いは言葉だけで実際には修行をしていないかどちらかです。それ以外の理由は無いのです。

 

次に利他の事は、観世音菩薩と阿弥陀如来の話から始めましょう。人が苦しみ助けを求める時、そこには必ず観世音菩薩の救いがあると『観音経』に説かれています。その観世音菩薩がしばし深い座禅瞑想に入る時、その心と身体は時空を超越して阿弥陀如来と一体になります。その阿弥陀如来が禅定から出でて人々の救済の為に汗を流す時、その姿は観世音菩薩に他なりません。そういう点では、阿弥陀如来と観世音菩薩は、性善説を人格的に表現したものであるとも云えるでしょう。

 

普段の生活で私達が一番やり甲斐を感じ、心に充実感を味わうのは、人の役に立ったと思える時です。それは誰でも同じなのですが、実際には積極的に他人や社会に貢献しようとする人々と、そんな事の為に自分の時間やエネルギーを消費するのは愚かな事であると考える人々がいる訳です。それはどちらが正しいとも云えません。それぞれの人々に、それぞれの事情・経験があり、考え方も千差万別あって当然なのです。只、自分や家族だけの喜びは、美しいけれども砕けやすいガラス製品のように一時的であり、他人と分かち合う喜びには永続性があると云えるでしょう。それは意識の深いところで「大きな一つの生命(いのち)」と結び付いているからです。その大生命は唯一であり、生滅(しょうめつ)と変化を離れているから、初めも終わりも無く永遠であり、常住にして世界に遍満しているのです。