『秘鈔』の調巻と愛染法脱落本の事

   『秘鈔』の調巻と愛染法脱落本の事

 

目次

緒言

(1)『秘鈔/白表紙』調巻に関する中性院頼瑜の説

(2)御室相伝十三巻本『秘鈔/白表紙』の事(一)

(3)御室相伝十三巻本『秘鈔/白表紙』の事(二)

(4)『野抄』十八巻と『野決(抄)』十二巻の事

(5)醍醐相伝『秘鈔』三本の各別相違の事(一)

(6)醍醐相伝『秘鈔』三本の各別相違の事(二)

(7)大正蔵本『秘鈔』に関わる問題(一)

(8)大正蔵本『秘鈔』に関わる問題(二)

(9)真福寺蔵の道教所持本『秘鈔』の事

(10)勝賢伝授本『秘鈔』の事(一)

 (11)勝賢伝授本『秘鈔』の事(二)

 

醍醐の覚洞院権僧正勝賢の伝授を受けて仁和寺御室守覚親王が三宝院流の諸尊法を記した『秘鈔』(別名:白表紙)には勿論「愛染(法)」が収載されていました。ところが『大正新修大蔵経』第78巻に採録する同書(全18巻)には同法が見当たりません。此の原本は「仁和寺塔頭蔵古写本」であり、対校甲本は「天保二年(1831)写の智積院蔵本」です(p.483脚注)。但し甲本の巻第十四「駄都(ダド)」法の題下に「愛染」と記してから、

秘鈔の中の仁王(経)・孔雀(経)・愛染法は三箇の秘法なり。当流は(巻)第十四愛染法を通伝授に之を許さず。

と云っています(p.559脚注)。即ち本来『秘鈔』の巻第十四に愛染法が記されていたのです。それが秘されて駄都法の巻になっているのは、愛染法は秘法なるが故に「通伝授」では授けないからだと説明しています。通伝授と云うのは、『秘鈔』収載の諸尊を通して(まとめて続けざまに)伝授する事であり、愛染法の場合は別して伝授を申請する必要があったらしいのです。

しかしこの様な愛染別伝授の主張は鎌倉時代に製作された三宝院流の諸尊法口決類に見当たらない説であり、恐らくは南北朝期に現れて徐々に普及し、近世に至って一般化したかと推測されます。後文に於いて各種の史料を検討しますが、ここでは参考までに金沢文庫保管称名寺聖教中に存する鎌倉後末期から南北朝期の写本と思われる「秘鈔目録」(25423)を見てみましょう。此の写本は乱丁本ですが、内容を理解する上で問題はありません。即ち此の『秘鈔』(本鈔部)は十七巻本であり、別巻として「北斗巻」と「異尊巻」四巻があり、総じて二十二巻本『秘鈔』と云う事もできるでしょう。愛染法に付いては「第十四 愛染王【付如法愛染】」と記されていて、上に見た如く巻第十四にあった事が確認できます。又「駄都」法は巻第七に配されています。

一方、太融寺版『三憲聖教』に収める『秘鈔』は大正蔵本と調巻を異にする十八巻本であり、実には巻第十八を欠いていますが、鈔末に別本の「巻四 駄都秘決」を付載して十八巻本に調えています。是も愛染法を脱落させている事は同じで、巻第十四には「北斗」を収めています。『国訳密教』の「事相部」巻三に収載する『秘鈔』は此の太融寺版を底本に用いています。猶「北斗」の巻は本鈔の最後に配されるのが普通ですから、是は十三巻本『秘鈔』に付されていたものを採録したと考えられます。十三巻本に付いては(2)以下に詳しく述べます。

 

1)『秘鈔/白表紙』調巻に関する中性院頼瑜の説

『秘抄』の愛染法は十八巻本では巻第十四に収められていた事を上にみましたが、既に鎌倉時代後期には調巻を異にする数種の『秘抄』伝本が存在していました。そうすると最初に守覚親王が製作した本は何巻に調巻されていたのか、又愛染法は第何巻に配されていたのか等が問題になります。各種相伝本の由緒も明らかにする必要があります。こうした問題を検討し、納得の行く結論に近づくために、先ずは鎌倉時代を通じて屈指の真言学僧として知られる中性院頼瑜(12261304)の説を見てみましょう。頼瑜が『秘鈔』収載の諸尊法に付いて詳しく口伝を記した『秘鈔問答』(22/17巻)の冒頭部に於いて、

此れ(『白表紙』)に重重の不同あり。初重の本は十五巻、第二重の本は十七巻なり。第三重の本も十七巻なるが、本に故遍智院僧正【成賢】(に依る)委細の裏書之あり。第四重は仁和寺禅覚委細を記して五十余尊之あり【云云】。

と述べています(大正蔵79 p.301a)。ここでは各重の本に付き内容の相異(諸尊の出没等)に付いて記していませんが、同書巻第十四「北斗」に於いて言及があります(本稿()参照)。又続けて記して、

頼瑜、仁和寺に於いて北院(御室守覚)御自筆本、之を拝せるが、彼の本は十七巻本なり。(中略)御自筆を以て表紙の端に勝勘畢(「勝賢の勘申畢んぬ」の意か)と書かしむなり。彼の本の中に少少色紙を以て二行、三行切り続()ぐ事之あり。彼の本は仁和寺遮那院(唯心房)僧都の許に之あり。故二位法印御房(経瑜)彼の本を以て書写セラル。十五巻本なり。又彼の(遮那院)僧都の本を以て書写セラル。彼は立紙(タテガミ)の巻物なり。彼(二位法印)の仰せに云く、仁和寺の十五巻本と云うは、再治本十七巻本の草木()か。

と述べています(p.301a)。文意に判然としない所がありますが要点を探れば、頼瑜の多年にわたる師僧である経瑜法印の推説に依れば、北院御室守覚の自筆本には十五巻の草本と十七巻の再治本の両種が存するという事でしょう。しかし守覚親王の自筆本が御室では無く遮那院僧都の所持本となっているのは何故でしょう。何かと腑に落ちない記述です。

『秘鈔』の原本である守覚御自筆本に付いては今一つ検討すべき事があります。それは『異尊(鈔)』四巻の問題です。頼瑜の『秘鈔問答』巻第十六「異尊第一」の最初「守護経」の冒頭部に、

北院御自筆御本の外題は異経法【云云】(と云い)、彼の本の題下に四尊の名を注す。(中略)彼の正本は仁和寺の遮那院唯心房僧都の所持なり。予(頼瑜)、正しく其の本を并(アワ)せ畢んぬ。

と記していますから(p.572c)、『秘鈔』の本鈔部に此の「異経法」(異尊)を合わせて一部としたのでしょう。単に『秘鈔』と云う時は通例本鈔部のみを指しますが、鎌倉時代後期には『異尊』『秘鈔表白』『秘鈔作法』等を合わせて『秘鈔』一部とする事が行われていたようです。

又『秘鈔問答』巻第十七「異尊法第四」の最初に、

北院御本に云く、異法抄第四【是の下に尊名を別す((つら))】此の巻は又表紙の内に別名無し。】

と記しています(p.581a)。

さて『秘鈔問答』巻第一の冒頭部に戻れば、上述部に続けて、

又成賢(より御室に)所進の本にして秘蔵せらる本之あり【云云】。私推するに、成賢所進の本とは、裏書付ある三宝院第三重の本か。予、高野禅定院に於いて十五巻本并に異尊を彼の法印御房(経瑜)より伝受し奉り畢んぬ。聞書(キキガキ)之あり。

と記しています(p.301a)。上の「成賢所進の本」に付いては、次項(2)に於いて是に関連する御室法助准后の証言を紹介します。

 

(2)御室相伝十三巻本『秘鈔/白表紙』の事(一)

近世の『秘鈔』流布本は概ね18巻に調巻されていますが、前項に於いて北院御室守覚が撰述した原本には15巻と17巻の両本があると云う説を見ました。

一方、称名寺聖教の中には13巻に調巻された鎌倉時代後末期の御室相伝本が二部存しています。是に付いては次項(3)に詳しく記しますが、『秘鈔/白表紙』の原形態を探る試みとして、ここでは先ず三宝院流憲深方の元祖である報恩院権僧正憲深の口説を見ましょう。即ち憲深の口説を弟子の賢親が記した『報物集』の中で憲深は、『白表紙』は勝賢僧正の(諸尊法)口伝を受けて「宮」(守覚)が製作した書物であると説明してから、

(宮より)此の如く鈔シタルトテ覚洞院(勝賢)に見せしめ給えるを、(覚洞院が)カキウツシテ此の流に(伝う)なり。其の本は十二、三巻にはス(過)キサルなり。

と述べています(醍醐寺『研究紀要』14の翻刻『報物集』p.198下)。即ち守覚が勝賢に見せた『白表紙』は「十二、三巻」に調巻されていたと断言しています。憲深は師僧である成賢から此の事を聞かされたのでしょうから、前項に見た二位法印経瑜の説の如き鎌倉後期の諸説に比してその信憑性は高いと云えるでしょう。

次に『秘鈔/白表紙』の原形態を留めている可能性がある仁和寺御室の相伝本に付いて検討します。中性院頼瑜の『真俗雑記問答鈔』第九の「九十三。秘鈔伝受の事」には、鎌倉時代文永年間(126475)に於ける(前)御室(開田准后法助 122784)相伝本に関する記事があります。是は頼瑜入壇の師僧である蓮蔵院実深僧正の後継者と目されながらも早逝した蓮蔵院公惟法印(123472頃)の口説を記したものであり、

文永八年(1271)十二月二日夜、蓮蔵院法印御房【公雅(雅は惟の誤り)】の仰せ云く、開田(カイダ/カイデン)準后(法助)に対面し奉る次いで、(準后の)仰されて云く、白表紙は我が許には二本あり。一本は覚洞院僧正(勝賢)の撰進して法皇(守覚法親王)御伝受あり、(撰進分に加えて守覚が勝賢の)口決等を記されし(本)なり。僧正は見合せられて神妙なる由申されて、一本をば門弟の為に書き留められき【云々】。(今)一本は(勝賢が)遍智院僧正(成賢)に伝授せる時、覚洞院僧正の裏書等をセラレタル本なり【云々】。此の外には全く別本無し【云々】。

と述べています(『真言宗全書』37 p.170 イ本)。即ち法助の証言に依れば、他所の伝本は兎も角、御室に於いては守覚御草の本と勝賢が裏書を加えた本の両本しか相伝していなかったのです。ここで注意すべきは、守覚撰述の本に付いて調巻を異にする両本があるとは云っていない事であり、前項に見た頼瑜の証言とは異なります。守覚以後の御室(仁和寺々務/検校)の師資相承が単純なものでは無かったとしても、守覚撰『秘鈔』に関する前御室法助の証言は他師の諸説に比して別段の重みがあると云えるでしょう。

但し「覚洞院僧正」裏書本と云うのは、実には「遍智院僧正」裏書本と考えられます。即ち前項の終わりで述べた「成賢所進」の「裏書付ある三宝院第三重の本」に当たると考えられますが、話が煩雑になるのでここでは是以上の言及を控えます(後文を参照してください)

 

(3)御室相伝十三巻本『秘鈔/白表紙』の事(

これから煩雑な事柄について記述を続けなければなりません。先ずは近世に広く流布した醍醐三宝院の18巻本の中、巻第十八「北斗(法)」は追加分であって、守覚撰述の『秘鈔』には無かった事を確認しましょう。大正蔵78に収載する18巻本『秘鈔』の巻第十八「北斗」の対校甲本巻末識語(奥書)に、

本抄並びに御抄を引き合わせて、私に之を書く。示見(禅覚)

と記されていて(p.583脚注)、当巻が御室房官の相応院禅覚(11741220)による撰述と知れます。「本抄」「御抄」に付いて確かな事は云えませんが、「本抄」とは勝賢僧正所進の諸尊法(『野抄』18巻)、「御抄」は其れに守覚親王が僧正の口決を書き加えて編集した抄物(『野決抄』12巻)を指すかと思われます。又「示見」は、「禅覚」二字をそれぞれ片字で記したものです。猶、大正蔵『秘鈔』の対校甲本は「天保二年(1831)写の智積院蔵本」です。

次に金沢文庫保管称名寺聖教中に存する御室相伝の『秘抄/鈔』写本二部に付いて述べます。その一つは法助准后が佐々目大僧正頼助(124697)に授けたもので、鎌倉後末期の転写本です。『称名寺聖教目録(一)』に依れば、その『秘鈔』は「北斗(等)」「作法(集)」「異尊」を除く本鈔部は十三巻に調巻されていますが、巻第七は欠巻です(p.147 1251.18、第1261.912)。此の法助伝授本は頼助から上乗院益助(宮僧正 12561305)、次いで益助から遍照寺二品法親王益性(上乗院宮 12841352)へと伝えられ、益性は称名寺に於いて是を同寺第二世明忍上人(釼阿 12611338)に授けました。是が今一部の『秘鈔』であり、釼阿自筆の原本が今も称名寺聖教中に存在しています(第1241.112)。

前項(2)に記した如く、(前)御室の法助准后は御室相伝の『秘鈔』は二本だけであり、一本は守覚撰述本、今一本は勝賢裏書本であると断言していますから、上述した称名寺聖教中の十三巻本『秘鈔』は取りも直さず守覚撰述原本の転写本と考えられます(法助がわざわざ覚洞院勝賢の裏書本を伝授に用いる事は無いでしょう)。『秘鈔/白表紙』が元は13巻に調巻されていた事を不審に思う人は多いでしょう。しかし是は前項に記した憲深僧正の証言「其の本は十二、三巻にはス(過)キサルなり」とも合致しますし、此の説を補強し裏付けする信憑性の高い史料は他にもあります。今は煩雑さを避ける為にこれ以上述べる事は出来ませんが、本稿の後文で取り上げて言及します

さて御室相伝本二部の中、第125函法助伝授本の巻第三奥書に、

文永六年(1269)八月十九日、頼助僧都に授け了んぬ。 沙門法助

と云い、巻第十一にも同年四月十一日付の同趣奥書が見られます。

次に『称名寺聖教目録(一)』、同聖教写真帳等に依って、これら両本『秘鈔』の本鈔部十三巻の題名/外題を記せば、

巻第一「如来・佛頂」、第二「金輪・尊勝」、第三「雑秘(後七日 光明真言 宝珠 舎利)」、第四「孔雀経 仁王経 請雨経」、第五「法華経 理趣経 六字経」、第六「 」、(第七「 」)、第八「菩薩上」、第九「菩薩下」、第十「忿怒上」、第十一「忿怒下」、第十二「天等上」、第十三「天等下」

となります。

此の中、第八「菩薩上」の尊名は「延命 普賢延命 五秘密 普賢 金剛薩埵 五大虚空蔵 虚空蔵」、第九「菩薩下」は「八字文殊 五字文殊 弥勒 大勝金剛 般若菩薩 随求 地蔵 転法輪」であり、又第十「忿怒上」は「愛染 不動」、第十一「忿怒下」は「降三世 軍荼利 大威徳 金剛薬叉 烏枢沙摩 金剛童子」であり、又第十二「天等上」は「毘沙門 吉祥天 焔魔天 水天 地天」、第十三「天等下」は「十二天 聖天 訶利帝 呪賊経 童子経 摩利支天」となっています。

そうすると聖観音・十一面等の諸観音が見えないので、欠巻の巻第七は「諸観音」に比定して間違いないでしょう。又巻第六には太元法と求聞持法が配当されていたかと推測されますが確かな事は分かりません。現状では第124函の第六は「御衣木(ミソギ)加持次第」であり、作法集から紛れ込んだものです。第125函の第六は「毘沙門 吉祥天 焔魔天 水天 地天」であって、取りも直さず第十二「天等上」に他なりません。

以上で十三巻本『秘鈔』の概要を説明しましたが、第124函の『秘鈔』には第十四「北斗 大北斗 本命星 当年星供 属星供」があります。是が若し守覚親王の撰述であり、『秘鈔』原本の本鈔部に含まれていたのなら、是を無視して(削除して)禅覚の記に差し替える事は無かったでしょう。

 

 

(4)『野抄』十八巻と『野決(抄)』十二巻の事

一方、守覚親王が『秘鈔』を製作する上で典拠とした勝賢撰述の『野抄』は全十八巻であり、諸尊の配列も大体十八巻本『秘鈔』と同じですから、最初に作られた『秘鈔』も18巻(「北斗」の巻を除けば17巻)に調巻されていたと考えるのは自然な事です。しかし上述の憲深僧正や法助准后の証言と、其れに相応する十三巻本『秘鈔』の存在は、最初撰述の『秘鈔』が13巻であった事を示しています。

ここでは先ず『野抄』の巻第十八「北斗法」の末尾に記されている守覚識語(奥書)を見ましょう。東寺観智院金剛蔵聖教の第78箱に存する『野抄』は、先年書写の或る本を「応安五年(1372)九月日に、重ねて上乗院法親王(乗朝)御自筆本を申し出して大概比校」したものであり(『金剛蔵目録』五pp.11,12)、守覚識語に、

全部十八箇巻、併(シカシナガ)ら醍醐座主僧正勝賢の抄たり。年々の間に度々書き献ず。予、新たに類聚を成し、豫(カネ)て巻軸を調う。此の内に所載の尊法は悉く皆、彼の僧正より伝え畢んぬ。高野御室(覚法)の範俊僧正に随いて深秘の雅訓を禀()けてより以降(コノカタ)、累代小野流を知ると雖も、異説を習わんが為に剰(アマツサ)え広学を好む者なり。

(以下一字下げ)伝法の時、当座に染筆して裏書等を加えたれば狼藉多端なり。他見に恥あり。更に披露すべからず。若し此の命に背く門弟には大師の証罰あり。今抄は多く是れ僧正の手跡たり。仍って留め置く許りなり。【若し自ら他人に校()くる時は、傍注・裏書等を除きて之を書き出すべきなり。】

        沙門子()

と記されています(pp.10,11)。

称名寺聖教中の『野抄』「北斗法」(第22315)の奥書も同文です。同聖教中には全18巻具足本『野抄』(但し巻第13欠)もありますが、巻第十八「北斗法」は一紙を存するのみで此の守覚識語を確認する事はできません(『称名寺聖教目録(一)』第2374.117)。

此の守覚識語の云う所は、『野抄』の原本は勝賢所進の自筆尊法であり、是に守覚が裏書等を加えて18巻に類集したという事でしょう。

さて通説に随えば、守覚法親王は勝賢僧正から三宝院流の諸尊法伝授を受けた後に重ねて不審を問い質(タダ)したので、勝賢は一々の質問に注付して回答したとされ、その質疑応答を守覚が類聚して『野決(抄)』十二巻を製作したのです。『秘鈔』の調巻を考える上で、此の『野決』の調巻が大変参考になります。先ずは参考までに『野決』の抄末に記された守覚識語を見てみましょう。真福寺蔵の南北朝期写『野決抄』(巻第一を欠く)の巻第十二奥書に、「御本に云々」と記してから、

全部十二箇巻は皆、予(守覚)、不審を書きて醍醐勝賢僧正に賜い、僧正は委しく注付せられたり【併(シカシナガ)ら彼の自筆なり】。元より知る所なれば強ちに其の蒙りに及ぶべからずと雖も、僧正の説を聞かんが為に、今更に疑いを発(オコ)して相尋ぬる所なり。文体甚だ以て見苦しければ一切披露すべからず。若し問輩あれば詞(コトバ)を以て答うべし。此の命に背く門弟には、本尊・大師速やかに冥罰を加う而已(ノミ)。     (沙門守覚)

(以下に「親王御自筆本」を以て一筆にて書写した旨の識語あり)

と述べています(『真福寺善本目録【続輯】』p.355)。

次に称名寺聖教中の『野決目録』(第3994号)を用いて、『野決(抄)』と13巻本『秘鈔』の調巻を対照させたいと思います(此の『目録』の奥にも上の守覚識語が記されています)。此の『目録』は前欠本で「第七」巻以降しか記されていませんが、是を以て13巻本『秘鈔』の後半部と対照すれば、

『野決目録』       13巻本『秘鈔』

野決第七          巻第七

 聖観音以下十尊       (諸観音?)

野決第八          巻第八

 延命以下五尊        菩薩上

野決第九          巻第九

八字文殊以下五尊       菩薩下

野決第十          巻第十

 転法輪一尊         忿怒上  

野決第十一         巻第十一  

 愛染王 不動 安鎮     忿怒下

野決第十二         巻第十二

 降三世以下六尊       天等上

              巻第十三

               天等下

 

の如くであり、『野決』と13巻本『秘鈔』の調巻が近似している事は明らかです。『野決』第十の「転法輪」を13巻本『秘鈔』のように巻第九「菩薩下」に移して、後に「天等上・下」二巻を加えて13巻にすれば、両書の基本構成は同じになります。即ち勝賢記・守覚加筆『野抄』18巻を基にしつつも、守覚記・勝賢加筆『野決』は(天等部を除いて)12巻に調巻し直され、此の調巻法に基づいて守覚は『秘鈔』十三巻を撰述したと考えられます。

 

 (5)醍醐相伝『秘鈔』三本の各別相違の事(一)

ここでは先ず『秘鈔』の駄都法も、(少なくとも一部は)北斗法と同じく三位僧都禅覚の撰述らしい事に付いて述べます。大正蔵本『秘鈔』巻第十四「駄都」の

「次大精進如意宝珠印」の項裏書に、

大精進如意宝珠印は、禅覚私に云く、本鈔の説文に云く、(中略)【云云】。今面(オモテ)に書ける所は勘物の説なり。

と云い(p.560a)、是は「面」(本文)の記者自らが裏書を加えたものでしょう。即ち此の「駄都」も少なくとも部分的には禅覚の撰述らしく思われます。従って守覚製作の原『秘鈔』、即ち13巻本『秘鈔/白表紙』には「北斗法」のみならず、「駄都」も無かったと思われます。駄都法は醍醐に於いて、舎利法と宝珠法を合揉し発展させた新案の法であり、保守的な守覚親王の思想に合致しなかった事も考えられます。前記13巻本『秘鈔』に於いては、巻第三「雑秘」に於いて「宝珠 舎利」両法が取り上げられていました。

さて本稿(1)に紹介した中性院頼瑜の説に依れば、当時醍醐に相伝していた『秘鈔』には初重の15巻本、第二重の17巻本、第三重の17巻裏書本、第四重の仁和寺禅覚委細記本の四種が存在していたのですが、頼瑜は『秘鈔問答』第十四「北斗」の冒頭部に於いて再度『秘鈔』の初・第二・第三重の三本各別相違に付いて言及しています。是には『秘鈔』の調巻を考える上で大変重要な情報が含まれていますから、少し長くなりますが順次和訳して引載します。先ず初重の15巻本に付き述べて、

私に云く、秘鈔三本の中、十五巻本は駄都を第四(甲本:第十四)巻と為し、北斗を第十五巻と為す。此の十五巻本は三宝院に初重本と為し、仁和寺には再治本と云い、又野月と名くなり。

と記しています(p.543b)。「駄都」「北斗」は後補と考えられるので、これら両巻を除いた原本は13巻本であった事になります。即ち勝賢僧正が最初に御室守覚の御本『白表紙』を写し取った分に、「駄都」「北斗」両巻を加えたのが此の初重15巻本でしょう。又本稿(1)に於いて頼瑜は二位法印(経瑜)の説を示して、「仁和寺の十五巻本と云うは、再治本十七巻本の草木()か。」と述べていますが、今は十五巻本を「仁和寺には再治本と云」うと、異説を記しています。又此の駄都・北斗を除いた13巻にしても、駄都を巻四として巻次にずれが生じる他に、諸尊の配巻が前述の御室相伝本と同じかどうか確認は出来ません。

次いで17巻本に付き述べて、

十七巻本は(北斗・駄都)二尊俱に之を入れず。此の本は醍醐(の第二重)【云云】。第二重本は(醍醐・仁和)両寺の本全同なり。十五巻本は少異あるか。

と記しています(p.543b)。即ち此の本は13巻本中の4巻分を両巻に開いて17巻に調巻したとも、或いは『野抄』18巻(第18巻は北斗法)に準じて13巻本の諸尊を再編成したとも考えられます。前者の場合は内容の次第配列に変わりが無いので、わざわざ「第二重」と称して区別する必要はないでしょう。従って此の17巻本は、醍醐寺に於いて相伝の諸尊法構成を守るために、守覚親王に依る『野抄』諸尊の再編成を再度元に戻したとも考えられます。

頼瑜は次いで第三重の18巻本に付き述べて、

第三重の裏付秘本十八巻は駄都を第四と為し(甲本:に属()け)、北斗を第十八と為すなり。仁和寺には遍知院僧正(成賢)の時、此の本を進められき。云く、成賢前()進本【云云】。彼の本の裏付は遍知院僧正の付せられし故なり。

と記しています(p.543b)。此の裏付/裏書本に関しては、本稿(2)で見た如く、開田御室法助もその存在を証言しています(但し覚洞院勝賢の裏書と云っています)。此の本は第二重17巻本の末尾に「北斗」の巻を加えて18巻にしたのでしょうが、「駄都」の配巻に付いては少し考える必要があります。即ち「駄都」を第四巻として加えたのであれば、元々あった巻第四の尊法は何処に配されたのか問題になります。是に付いては判然としませんが、時代が下がって巻第十四の「愛染」を抜き去って替わりに「駄都」を入れた後に、巻第四は元通りになったとも考えられます。大正蔵本『秘鈔』の巻第四は「孔雀経 仁王経」です。

 

(6)醍醐相伝『秘鈔』三本の各別相違の事(二)

前項に紹介した頼瑜の所説に依って、鎌倉時代の中後期にあっては地蔵院/西南院、報恩院等の三宝院流諸派に於いては、『秘鈔』の通伝授(普通伝授)に初重とされる15巻本が用いられたと考えられます。大正蔵本『秘鈔』全18巻も祖本は15巻本であって、それが様々な改変を経て現状に落ち着いた可能性があります。以下、その事に付いて少しく言及したいと思います。

大正蔵本『秘鈔』の対校甲本の祖本は、東大寺真言院の中道上人聖守(121591)が東福寺に於いて書写した道教本であり、上人は此の本を以て報恩院憲深僧正から伝受したのです。「巻第十八 北斗」の奥書に、「写本に云く」として、

正元元年(1259)五月二十九日、之を授け了んぬ。 前権僧正憲深

と記されていますが(p.583脚注)、是と同じ奥書が東寺観智院金剛蔵聖教の第71箱5『秘鈔』の巻第十五(明徳五年(1394)賢宝写)にも見えて、本奥書に、

正元々年五月廿九日、之を授け了んぬ。/前権僧正憲深

永仁三年(1295)十月廿三日、行乗上人に授け奉り了んぬ。/沙門聖然【在判】

と云います(『金剛蔵目録』4 p.169)。聖然は聖守の弟子であり、師より此の本を相伝したのでしょう。此の金剛蔵本は、『作法』上下2巻と『表白』上下2巻を併せて11巻が現存していて、本鈔部は7巻が残存しています。又本鈔部には奥書を異にする巻第一が二部ある等、同一祖本の写本ではありませんが、「北斗」を巻第十五とする醍醐初重の15巻本に調巻されている事は認められます。猶巻第十五の憲深・聖然の奥書に続けて賢宝識語があり、その中で賢宝は、

此の(北斗)次第は北院御室(守覚)の御記に非ず、禅覚僧都私の集記なり。成賢僧正私に之を用いられしか。

等と批記を加えています(同 p.170)。

さて再度『秘鈔問答』第十四「北斗」の冒頭部に戻れば、「秘鈔三本」の各別相違に付き述べた後で続けて、

又遍知院僧正【成―()】御自筆の目録には、異尊を加えて二十巻に調えられき。又(此の目録は)彼の二尊(駄都・北斗)を除けり。故に彼の目録の奥に云く、此の外に駄都一巻、北斗一巻【云云】。但し此れは目録許りにて未だ調巻せざるか。二十巻本は報恩院等に之無し。但し此の目録は、報恩院(憲深)と西南院(親快)と伝写異なり。(以下略す)

と記しています(大正蔵79 p.543b)。此の成賢作の目録は本鈔と異尊の調巻配分を確認できませんが、いずれにしても駄都・北斗両巻を除いた第二重とされる17巻本を基にしている事は間違いないでしょう。是も亦近世に流布した北斗・駄都を含む18巻本が、醍醐に於いて普通伝授に用いられていなかった事を示していると思われます。即ち時代が下がって、「秘本」を求め重視する人情、或いは風潮の故に、『秘鈔/白表紙』の伝本の多くが「第三重の裏付秘本」である十八巻本に倣って18巻に調巻し直された事が考えられます。

 

(7)大正蔵本『秘鈔』に関わる問題(一)

近世に相伝、或いは書写された『秘鈔』伝本の多くは愛染法を秘して欠き、その跡に駄都(秘決)を挿入して調巻する等の事が行われたのです。又本稿(5)に於いて頼瑜の説を引用して、醍醐(三宝院)所伝の『秘鈔』は三本あり、その中で駄都・北斗両巻を収めるのは初重の15巻本と第三重の裏付18巻本であり、第二重の17巻本には両法が無いと云いました。更に北斗法は両本ともに巻末、即ち15巻本は第15巻、18巻本は第18巻にあり、駄都(秘決)は両本ともに第4巻に収められていた事も説明しました。

一方、又(6)に於いて、大正蔵18巻本の巻第十八「北斗」は、元々15巻本『秘鈔』の巻第十五として調巻されていた事を述べました。ここでは此の大正蔵本の由来・性格に付いて、少し立ち入って検討します。それは此の18巻本がたとえ原状を変改されているとしても、やはり第三重の裏付秘本を基に調巻されている可能性があるからです。それと云うのも此の『秘鈔』の原本・対校甲本ともに裏書を有しますが、特に甲本には各巻にわたって多く見受けられるからです。

大正蔵本『秘鈔』各巻の識語(奥書)を見ると、一見して大変奇妙な印象を受けます。それは(特に甲本の)各巻祖本の多くが道教書写本であり、此の本を以て真言院上人聖守が憲深から伝授を受けているからです。甲本は奥書が各巻にありますが、原本は巻第三・五・六・十一・十四・十五にのみ奥書が記されています。その中、両本の奥書が共通している巻第三「光明真言 後七日」を例に取って奥書を見れば、

奥書に云く、

貞応元年(1222)八月二十三日、遍智院に於て伝受し了んぬ。

同二年(1223)六月四日、御本を以て之を校合す。  金剛佛子道教

建長四年(1252)五月二十四日、北京東福寺禅堂に於て之を写し了んぬ。

   金剛佛子求法沙門聖守

正元元年(1259)八月五日、之を授け了んぬ。   前権僧正憲深

と記されています(p.499c)。道教・憲深共に遍智院僧正成賢の弟子とは云え、両人の間に師弟関係や互授はありませんから、憲深の弟子聖守が道教本を以て伝受するのは腑に落ちません。しかし此の事に付いても頼瑜の著作中に言及があります。少し長くなりますが以下、是に付いて説明しましょう。

即ち『秘鈔問答』巻第十一末「円満金剛」(檀波羅蜜菩薩)の中で本尊秘印伝受の事に付き記して、

予(頼瑜)、先師僧正御房(憲深)より台()蔵(法)を重受せる時、御門弟の僧綱・凡僧数輩列座しき。彼等の人起去せる後、檀波羅蜜の秘印、之を授けられき。斯()れ則ち此の(相伝本)秘鈔を秘蔵せらるればなり。仍って南都中道上人(聖守)・高野空教上人等は、伝法(灌頂)の節を遂げし後、秘鈔伝受を申請せる時、御本を出されずして各【々】の(所持)本を以て大法・秘法・外尊、之を授けらる【云云】。醍醐寺の(憲深より)伝法を遂げし(人々)の中、蓮蔵院(実深)・宝池院(定済)両僧正・松橋法印(俊誉)・弘義律師の外は之を授けられず。予は伝法を遂げずと雖も、彼の御本を賜り畢んぬ。

等と述べています(大正蔵79 p.490c)。

即ち頼瑜の所説を勘案すれば、中道上人聖守は憲深からの『秘鈔』伝受に際して師の御本を許されずして、自らが東福寺に於いて書写した道教本を以て受法を遂げたのです。

一方、ここに頼瑜が言及する憲深「秘蔵」の御本である『秘鈔』とは第三重の裏付18巻本なのでしょうか。但し『秘鈔』の「円満金剛」は本鈔部では無く、『異尊』に収められています。大正蔵本『異尊抄』(天保三年(1832)写の智積院蔵本)巻上の「円満金剛」は同尊の印に関する裏書を載せていますが、その口伝は強いて「秘印」と云うほどの内容とは思われません(煩雑になるので説明を省きます。大正蔵78 p.593bを参照して下さい。)。何れにしろ、此の「御本」の事は別して考える必要がありそうです。

 

(8)大正蔵本『秘鈔』に関わる問題(二)

次に大正蔵本『秘鈔』が異系統の祖本を含んでいる事に付いて述べます。その事を顕著に示す例が巻第十四「駄都」であり、三宝院流実賢方(金剛王院相承三宝院流)の伝本です。即ち原本・甲本共通の奥書に、

建久九年(1198)臘月(12)四日、之を写す。 求法沙門実―(賢)

建長二年(1250)九月九日、申刻(サルノコク)許りに書写し了んぬ。

故大僧正御房(実賢)の御本を座主御房(勝尊)、取りて談じ申せり。

東寺末葉求法沙門勝円【春秋二十二】

等と記されています(p.563脚注)。実賢(11761249)は勝賢僧正の最晩年建久七年(1196)五月三日に伝法入壇を遂げましたが、勝賢は同年六月二十二日に入滅しましたから、実賢は師からの委悉の伝法に及ばなかったと考えられます。しかし鎌倉後末期の著名な真言学僧我宝が撰述した『駄都秘決鈔』巻七の奥に依れば、実賢は勝賢から駄都秘決を相承したのです(『真言宗全書』23 p.290上)。

是を以て考えるに、成賢流(道教・憲深・光宝等の各派)には元来「駄都(秘決)」の相伝が無かったようです。

次に石山座主範賢(11641205―)が遍智院成賢に授け、是を以て憲深が伝受した本があります。是は巻第四「孔雀経法 仁王経法」と巻第十七「聖天等」の甲本奥書に依って知られる事であり、巻第四の奥書に、

元久二年(1205)二月二十六日、遍智院に於いて(範賢より?)伝受し奉り了んぬ。

                   権少僧都成賢

安貞二年(1228)十二月三日、遍智院に於いて伝受し奉り了んぬ。 権律師憲深

と云い(p.505c)、巻第十七の奥書中に、

建久七年(1196)十月二十日、移点せしめ了んぬ。   範賢

正治二年(1200)閏二月十四日、遍智院に於て伝受し奉り了んぬ。  成賢

                   権少僧都範賢(証判の為の記)

建保五年(1217)五月十日、遍智院に於て伝受し了んぬ。 憲深【生年二十六】       

等と記されています(p.578脚注)。範賢は元久二年二月九日に成賢から伝法潅頂を重受しているので(『日本密教人物事典』中巻 p..62上)、師僧の成賢が弟子の範賢から受法しているのは奇妙に思えますが、是に付いては『日本密教人物事典』中巻の「範賢」の条第9項等を参照して下さい。又本稿(7)に於いて頼瑜が言及していた報恩院憲深の「御本」と云うのは、此の範賢―成賢―憲深と相伝された本を指しているように思われます。

以上の所見に基づいて醍醐相伝の『秘鈔』三本と大正蔵本『秘鈔』の原本・甲本との関係を考えると、先ず原本は裏書部が少ないので初重の15巻本を祖本とするかと思われます。甲本は裏書部が随所にある事から、裏付秘本とされる第三重18巻本を祖本とするかも知れません。しかし其の巻第四「駄都」(大正蔵本は巻第十四)の祖本が金剛王院実賢本である事は、どの様に理解すべきでしょうか。

 

(9)真福寺蔵の道教所持本『秘鈔』の事

次に真福寺聖教中にも大正蔵甲本と同じ道教本を祖本とする『秘鈔』が存するので、此の本に付いて簡単に言及します。(写本の所見は無く、『真福寺善本目録【続輯】』に依ります。)此の本は嘉暦元年(1326)能信写本ですが、醍醐の地蔵院大僧正親玄(12491322)が関東(鎌倉)に於いて亀谷(カメガヤツ)清凉寺の定仙(1232/31302)に授けた本が元になっていて、道教方の『秘鈔』伝本として非常に研究価値の高い史料です。

先ず巻第一の奥書に付いては、大正蔵甲本には聖守の書写識語と憲深の伝授記のみで道教の識語はありませんが、真福寺本には、

貞応元年(1222)六月十四日、僧正御房(成賢)より之を伝賜して、同八月廿二日より始めて之を伝受す。同二年(1223)五月晦日、僧正御房の御本を以て之を校合す。仍って彼の裏付等、見及べるに口(随いて)之を承付し了んぬ。 (道教)

正応三年(1290)九月一日、鎌倉亀谷清凉寺に於いて醍醐山太政法印親玄より道教所持の本を賜り、書写校点すること了んぬ。       金剛佛子定仙

と記されています(『真福寺善本目録【続輯】』p.262)。恐らく道教は成賢から第二重17巻本を与えられ(北斗・駄都両法を欠く。後述)、伝受の後に第三重18巻本を以て裏付部を書き加えたのでしょう。

次に巻第五「請雨経(法)」の大正蔵本は聖守・憲深の識語を欠く異系統の本であり、今の真福寺本は仁和寺本を金剛王院実賢が書写したものです。即ち其の奥書に「御本に云く」として、

仁治三年(1242)二月十三日、一条殿の壇所に於いて仁和(寺)の御本を以て老眼を拭いて書写し了んぬ。多年求法の志、爰(ココ)に満足し了んぬ。涙して筆を下せり。

一昨日十一日、口(忝けなくも)大聖院(御室道深)より面(マノアタ)りに伝受し奉り了んぬ。               僧正実―()【生年六十七】

私に云く、

文永二年(1265)七月廿日、(香隆寺)山本の禅室に於いて先師大僧正(実賢)の御本を以て之を書写す。同日、一校し了んぬ。 権大僧都勝円【春秋三十七】

建治三年(1277)七月中旬、亀谷釈迦堂(清凉寺)に於いて山本の御本を賜り書写し了んぬ。

同中旬の比(コロ)、阿弥陀堂に参じて親(マノアタ)りに松殿法印御房(勝円)に対し奉り、伝受し奉り畢んぬ。           [定仙を脱するカ]

と記されています(同 p.264)。即ち定仙は親玄から巻第五「請雨経(法)」を授けられなかったようです。それで親玄から『秘鈔』の伝授を受ける以前に同鈔を伝受していた勝円法印(1230/2978)の相伝本を使って欠巻を補ったと考えられます。此の事に付いては様々に推測されますが、所詮は憶測の域を出ないので言及を控えます。

次に巻第十四「愛染(法)」を見ます(内容を見ていないので「愛染」は推測です)。大正蔵本は後代の改変で「駄都」になっていますが、此の本は「愛染」の儘(ママ)でしょうか。奥書には、

建長四年(1252)二月、東山大谷の草宿に於いて賢紹律師の本を以て之を書く。

     実―

此の秘抄の内に口口(愛染?)は之無し。仍って改めて成賢僧正、私に密々之を注(シル)せるか。     佛子定仙

と記されています(p.268)。「賢紹律師」に付いては知る所がありません。又定仙は此の巻を誰から相伝したのか記していませんから、何かしら不都合な真実があるのでしょう。上の欠失部が「愛染」で正しければ、抑(ソモソ)も醍醐の、或いは成賢の『秘鈔』伝本には愛染法が欠けていた為に、成賢が私に是を補って一具の本とした、という意味でしょう。

流布本『秘鈔』(18巻本)の巻第十四「愛染」を成賢の私撰とする説は他に見ない所ですが、是に関連する口決が無いでもありません。『秘鈔問答』巻第十二末「raga(梵字)第十四」の冒頭部に於いて(憲深の)「御口決」を引き、『秘鈔』の愛染法成立の由緒を記して、

而してraga(梵字)・如宝(愛染)二尊は、(勝賢僧正より)範俊製作の本を以て(守覚)法親王に授け奉り畢んぬ。爰に親王は、余巻等は覚洞院(勝賢)の草(『野抄』18巻)を本と為し、彼の口伝等を加えて再治せられ畢んぬ(『野決』12巻)。然れどもraga(梵字)・如宝二尊に於いては私の御詞を加えずに、正本を以て秘抄第十四と為されしなり。但し立題を異にして、raga(梵字)【第十四】、如宝【第十四】と為す。

と述べています(p.499b)。憲深は成賢私撰に付いて何も言及していませんが、定仙の言を勘案すれば、原『秘鈔』の愛染・如宝愛染二法が小野曼荼羅寺の範俊僧正の本である事を問題視して、成賢が醍醐の伝に依る次第を作って置き換えた事は十分ありうると考えられます。

範俊も醍醐寺僧ですが、成尊僧都の二人の写瓶弟子である義範・範俊の中、醍醐に於いては専ら義範の伝を重視したからです。範俊の嫡資とされる勧修寺大僧都厳覚も元は醍醐寺僧であり、醍醐寺大谷の覚俊阿闍梨の下で四度加行(シドケギョウ)を受習しました。その為に厳覚の嫡弟であり勧修寺流祖とされる勧修寺法務寛信は、「祖師大谷阿闍梨【覚俊】」と称しています(『金剛蔵目録』五の第8044『胎蔵界念誦私次第』巻下の奥書)。従って勝賢は守覚に範俊製作の次第を授ける事に特段の違和感を憶えなかったのでしょう。しかし鎌倉時代になると徐々に醍醐寺と勧修寺の法流は明確に区別されるようになりました。

次に真福寺本の巻第十八「北斗」の奥書には(是も内容を見ていないので「北斗」は推測です)、

正応四年(1291)三月十二日、亀谷清凉寺に於いて御本を以て書写し了んぬ。

     金剛佛子賢誉

等と云い(p.269)、その前に当然あるべき定仙の識語が見当たりません。理由は分かりませんが、此の巻には何かしら子細があるのでしょう。

又真福寺本には巻第十九があって、その奥書に、

弘安十年(1287)二月一日、佐々目僧正御房(頼助)の御本を申し出だして書写し畢んぬ。     金剛佛子定仙

等と記しています(p.269)。

 

(10)勝賢伝授本『秘鈔』の事(一)

守覚法親王撰述の『秘鈔/白表紙』原本の調巻は、現に金沢文庫保管称名寺聖教中に存する13巻本(欠巻あり)の如きらしい事、醍醐に於いても初重の15巻本は後補の北斗・駄都二巻を除けばやはり13巻本である事(但し尊法の調巻配分は未詳)を述べました。しかし13巻本、或いは15巻本は流布本にはならず、 大抵の伝本は18巻に調巻されています。是は巻第十八「北斗」を除けば17巻ですから、醍醐第二重の17巻本が『秘鈔』調巻の規範とされていた事を示しているようです。「駄都(秘決)」は元来別巻であったと思われますが、煩雑になるので今は此れ以上の言及を控えます(次項に関連記事があります)。

『秘鈔』本鈔部の具足本を整える上で、全体を18巻にするのは必須の事柄であったようです。その事を顕著に示す例として、本稿冒頭部に言及した太融寺版『三憲聖教』に収める『秘鈔』三帖の本鈔部上中二帖があります(下帖は『増益護摩』)。是は本来の調巻順序を無視して各巻を配列していますが、全体として17巻であり、最後に「巻四 駄都秘決」を付して「以上、正秘鈔十八巻畢んぬ。」と結んでいます。「駄都(秘決)」を巻第四とするのは三宝院初重の15巻本であると頼瑜は明言していました(本稿の第5項)。因みに17巻中の巻第四は「孔雀経 仁王経」であり、「北斗」は巻第十四です。即ち第14巻の「愛染」を抜き去った後に「北斗」を挿入したのです。

それでは何故に17巻本が『秘鈔』の基準とされたのでしょうか。それは『秘鈔』製作の原次第に用いられた『野抄』18巻の作者である勝賢僧正の考え方に起因する事かも知れません。本稿(2)に於いて、勝賢が宮(守覚)より見せられた「十二、三巻にはス(過)キサル」『秘鈔』を書写したという憲深の口説を紹介しましたが、そうは云っても勝賢が是をその儘(ママ)伝授したとは思えません。即ち勝賢は自らの諸尊法に対する考え方を『野抄』18巻に類集して守覚に授けましたが、親王は亦自らの考えに基づいて『秘鈔』13巻を撰述したのです(但し『野抄』巻第十八「北斗法」は入れず)。従って勝賢が若し『秘鈔』を伝授したとしても、弟子守覚親王の類集方針に随う事を好とせずして、元の『野抄』の調巻に依って是を行ったとしても不思議では無いでしょう。

『秘鈔』伝本の中に、明確に勝賢からの伝受を記す識語(奥書)は見当たりません。しかし称名寺聖教中には建久三、四(1992,3)年に勝賢が三宝院、清浄光院に於いて禅林寺静遍(11661224)に『秘抄』を伝授した時の、受者静遍の伝授録が存在します。それは第669.17と第6811.17『秘抄(口伝)』であり、二部は同本です(鎌倉時代後期の写本。書誌に付いては『称名寺聖教目録(一)』を参照して下さい)。巻第一の奥にある書写時の注記に、

表 問者 禅林寺静遍

  答者 覚東院勝憲 秘抄作者なり。

裏 問者 正智院道範(1178頃―1252

  答者 金剛王院実賢(11761249

見安きが為に裏書を面(オモテ)に一字を下げて之を書く。

と述べています。「表」の問答はほとんど至って簡単なものですが、「裏」には委細の注記が見受けられます。又本書成立の由緒を示す好個の識語が巻第十一の末尾に見られ、

建久四年(1193)六月二十日、三宝院に於いて伝受し了んぬ。   (静遍)

貞応元年(1222)八月廿六日、北白川の石峯草菴に於いて心円房(静遍)御伝受の本を以て書写し了んぬ。再び先師(勝賢)に遇()えるが如し。感渡(渡は涙の誤写)、眼に浮かべり。   (実賢)

 

と記されています。心円房静遍は貞応三年(1224)四月廿日の入滅です。又「北白川の石峯草菴」に付いては、『日本密教人物事典』中巻の「実賢」の条第7・8項を参照して下さい。

 

猶称名寺聖教中には上記『秘抄(口伝)』と同本の『秘抄口决』上・中があります(第4951,2)。

 

(11)勝賢伝授本『秘鈔』の事(二)

此の称名寺蔵『秘抄(口伝)』は巻第1,6・7,9,11,12,13,16・17があり、写本の写真帳に依って諸尊の各巻配分を示せば下記の通りになります。

巻第一:datu(梵字)法(舎利/宝珠法) 阿閦佛 宝生法 阿弥陀 尺迦法 薬師 佛眼法 尊勝法

巻第六・七:法花(経)法 理趣経法 (巻第七)六字法

巻第九:延命【普賢延命を付す】 五秘密 五大虚空蔵

巻第十一:菩薩聞書(キキガキ);普賢 文殊 八字文殊 三六(ミロク) 大勝金剛 随求(ズイグ) 地蔵

巻第十二【第十三】:五大尊等聞書;不動【安鎮を付す】 降三世(ゴウザンゼ) 軍タリ 大威徳 金剛薬叉 烏蒭沙摩 金剛童子

巻第十三: 佛眼 薬師 北斗 御衣木(ミソギ)加持 御修法御加持(ゴカジ) 朝暮護身 不空羂索(ケンジャク) 千手 正(観音) 馬(頭) 十一(面) 准(胝) 如(意輪) 白(衣) 葉(衣) 雑(「大勢至」等)

巻第十六・十七:諸天聞書 毘沙門 吉祥 焔魔天 地天 聖天 十二天 訶利帝 大仏頂法

(以上)

一見して目を惹くのは、巻第一即ち一部全体の初めに舎利宝珠法である駄都法が配されている事です。佛舎利は即ち如意宝珠であり、佛菩薩以下諸尊の功徳威光の根源であるという考えから、此の事が成されたのでしょう。抑(ソモソ)も駄都法は、舎利法に関する醍醐の相承口決と二十五箇条『御遺告(ゴユイゴウ)』に基づいて勝賢自らが製作した新案の法ですから、勝賢にとっては何よりも大事な法であったのでしょう。

又巻第十三の内容は大変奇妙です。佛眼・薬師は巻第一に既出していますし、御衣木加持以下の三項は作法集に収めるべき項目です。又諸観音は当該史料に欠いている巻第八の諸尊である筈です。注意すべきは「北斗」法がある事ですが、全体として此の巻の製作意図は測りかねます。

以上を通観すると、大体に於いて大正蔵本等の流布本と各巻の諸尊配分が一致している事が分かります。又一部の冒頭に駄都法を配置するのは、相伝の諸尊法に照らして余りに唐突な感がするので、勝賢以後は是を別巻とした事が考えられます。そうすると若し巻第十八「北斗」が無かったとすれば、此の勝賢伝授本が醍醐第二重の17巻本の祖本と成ったと推測されるのです。

猶真福寺にも此の称名寺蔵『秘抄(口伝)』と同本らしい永仁六年(1298)写『秘抄口伝』六帖が蔵されています(『真福寺善本目録【続輯】 p.281~』)。

 

以上、長々と煩瑣な言辞を連ねてきましたが、所論の要点は二つの推論です。即ち守覚法親王撰述の『秘鈔』は十三巻本であり、現に金沢文庫保管称名寺聖教中にその転写本が存する事。今一つは、『秘鈔』の原作者とも云うべき勝賢僧正は是を『野抄』に準じて17巻に調巻し直して伝授し、是に巻第十八「北斗」を加えた本が後世の18巻流布本の祖本と成ったという事です。

 

令和四年(2022)三月吉日   柴田賢龍

 

 

(以上) 

 

本稿には『秘鈔』伝本の内容所見が無いまゝ奥書に頼って記述した部分が多くあり、誤謬も亦多々あるに違いありません。又新しく重要な所見を得る事もあるでしょう。その場合にも原則として本文の改訂はせず、「追記」の形で増補改訂を行います。

 

 

 追記

(1)『秘鈔/白表紙』に於ける「駄都」調巻の事

本篇の(10)「勝賢伝授本『秘鈔』の事(一)」(11)「勝賢伝授本『秘鈔』の事(二)」に於いて「駄都(秘決)」に言及して、此の法は元来別巻であった可能性があると云いました。此の事に付いて幾つかの『秘鈔』伝本を例に考えてみたいと思います。

本篇(5)「醍醐相伝『秘鈔』三本の各別相違の事(一)」に於いて頼瑜撰『秘鈔問答』の説を引用して、醍醐初重の15巻本に於いて「駄都」は巻第四に調巻されている旨述べました。又(10)に於いて、太融寺版『秘鈔』(本鈔部)の最後に「巻四 駄都秘決」を付して「以上、正秘鈔十八巻畢んぬ。」と記している事を紹介しました。

しかし「駄都」が当初『秘鈔』の別巻であったとすれば、必ずしも巻第四に調巻する必要は無かった筈です。駄都法は舎利/宝珠法ですから、壇上に東寺佛舎利を安置して修法中に如意宝珠を観想する後七日法と繋がりがあると云えます。実際巻第三「光明真言 後七日」に「駄都」を追加した『秘鈔』伝本があります。本篇(6)「醍醐相伝『秘鈔』三本の各別相違の事(二)」に15巻本として言及した東寺観智院金剛蔵聖教の第71箱5『秘鈔』がその一例であり(金剛蔵聖教「調査用写真」第41分冊により確認)、又同聖教の18巻本らしき第72箱3『秘鈔』も同様です(「調査用写真」第42分冊)。とりわけ初重の15巻本に付いては、頼瑜が「駄都」を巻第四に配すと明言しているので、其の説に該当しない相伝本の存在が確認できるのです。

又金沢文庫保管称名寺聖教中には「駄都(秘決)」を『秘抄』巻第六とする伝本があります(『称名寺聖教目録(一)』第261110,11,27)。但し、これらは(後補の)外題に巻「第六」と記されているだけで、本来の調巻は未詳というべきでしょう。それでも「駄都」を『秘鈔』の巻第六に調巻すべきとする考え方、或いは口決が存した事は確認できます。

一方、「駄都」を独立させて巻第四とした場合、本来の巻第四「孔雀経 仁王経」以下を調巻し直す必要が生じます。巻第六とした場合も同様であり、本来の巻第六「法花経 理趣経」以下を調巻し直す必要があります。称名寺聖教の中には巻第四を「駄都」、巻第七を「孔雀経 仁王経」として、本来の巻第七である「六字(経法)」を欠失させた『秘抄目録』があります(『仁和寺御流の聖教【京・鎌倉の交流】』写真6 金古5770)。又金剛蔵聖教第17315(外題)『秘鈔目録并巻付不同』に於いては、巻第四を「駄都」として其の左側を空白部にし、本来「孔雀経 仁王経」があるべき事を暗示しています(調査用写真第125分冊)。

又金剛蔵聖教の中には此の再調巻を避ける為に巻第四を二本揃えて一部とした伝本があります。それは又別第一箱の第一号『秘鈔』であり、道教より道快(聖快)大僧正(1343/41415―)に至る地蔵院の正本とも云うべき19巻本の善本です(道快は地蔵院流中興と称されました)。巻第四「駄都」に奥書はありませんが、巻第四「孔雀経 仁王経」の奥書を示せば、

安貞二年(1228)十月廿九日、醍醐寺西南院に於いて遍知院(成賢)の御本を以て之を書写す。  金剛佛子道教【生年廿九才】

と記されています(『金剛蔵目録』十七p.358)。本篇(10)に言及した太融寺版『三憲聖教』に収める『秘鈔』の本鈔部も、各別相違の巻第四を二本有する点で是と同じです(但し調巻の仕方が異なります)。

猶此の又別第一箱第一号本の巻第十八は「北斗 本命星 当年星」、巻第十九は「属星供 本命星供 本命供 知元辰(ガンジン)法」であり(p.360)、本篇(9)に紹介した真福寺本も是に同じかと思われます。

以上に見た如く、『秘鈔』の「駄都」が元は別巻であって適宜調巻されていた事が明らかであり、何時しか巻第十四「愛染」が秘法の故に通伝授から抜き去られて空白と成った跡に移されて、是が流布本の一典型と成ったのです。

(令和4(2022)5月14日)