〔実賢記『秘法記録』現代語訳〕
秘法記録
寛元四年(1246)〔歳次丙午〕閏四月二十五日癸丑〔婁宿・日曜〕。今日から三七箇日(さんしちかにち)即ち二十一日間にわたる加行(けぎょう)を始める。金銀・香木等を加持する為の作法は別紙に記してある。
同五月十二日己巳、賀茂社の上宮に参籠する。社殿の前で此の事を成し遂げるべきだからである。それは神々を仰ぎ尊ぶ思いからであり、亦乱れた世界から遠ざかる為である。本来は七箇日間参籠すべきであるが、先だって内相府(内大臣九条忠家 1229―75)の御祈りに関して禅定太閤(入道前摂政九条道家 1193―1252)から特別に教命があり、固辞するにも方策が無いまま何とか延ばして今日にまでなってしまった。
十四日辛未、太相国(太政大臣西園寺実氏 1194―1269)からお手紙があった。ご覧になった夢の事に付いて〔云々〕。
十六日癸酉〔斗宿・土曜〕亥刻、無事何事も無く大事を成し遂げる事が出来た。其の間の作法・支度(したく)等は別に記してあるので、ここに詳しくは記さない。高祖(真言開祖)大師の『御遺告』の趣旨を守り、亡くなられた師匠勝賢僧正の先例を調べ訪ね、自らの狭隘(きょうあい)な見識のままに口伝に頼って、この大事を完遂したのである。今よくよく此の事に付いて考えてみると、此の法は秘密法門の肝心であり、真言門徒が最も秘密にすべき事柄である。ところが末の世と成って軽薄な風潮がもてはやされ道理が通じなくなって、自分の様な愚かでまともな見識も無い人間がやすやすと此の大事を成し遂げてしまった。仏神がどのように見ておいでになり、また実際にどのような事になるのかと思うと、まことに恐れ多く慎むべきである。
此の事は東大寺が治承年間(1177―81)に焼失した時、先師僧正(勝賢)が是を深く歎き悲しまれて静賢法印(1124―96―)と相談し、南無阿弥陀仏重源(ちょうげん1121―1206)や蓮阿上人等の人々を勧誘して再建事業に全力で取り組むようになされたのである。ところが世の中は諸人悉く衰えて、此の莫大なる費用を要する事業を成し遂げるのは困難であった。それで此の如意宝珠を造顕して廬遮那仏(るしゃなぶつ)すなわち大仏の御身に籠め奉って事業の完遂を祈るべきであると密かに話し合われ、実際に宝珠を製作したのであった。其の後は朝廷から周防・備前の両国が東大寺の再建事業に寄付され、世間の人々も悉く金品を寄付するようになって、思いのままに再建事業を果たすことが出来た。当時、是は如意宝珠造顕の法験であろうかと云われたのである。また宝珠を造立する時は総て南無阿弥陀仏重源が責任を以って作法を行ったのである。その時の口伝や作法次第を書き記した日記は南無阿弥陀仏から蓮阿上人に授けられ、更に蓮阿上人から愚老実賢に授けられた。今回も大体は此の日記に記されている作法に則って造るのが当然であった。
愚老はずっと前から今に至るまで、此の宝珠法(醍醐では駄都法と云う)を修す事を毎日の勤めとして来たから、随分と修行の功徳が身に具わっているであろう。又実際に宝珠を造立しようという大願を発(おこ)してからも、何年もの間悩み苦しむ日々を送ったのであった。それが今は機縁が成熟して遂に時が至り、図らずも此の事を完遂することが出来た。自分の念願がただの思いつきでは無く誠実心から発したのであると確信すると共に、若しや過去世からの執着心が今このように実現する運びと成ったものかとも思うのである。この事業によって世の中の為にわずかでも寄与する事になるであろう。分際を弁(わきま)えずに大それた事をする等と多くの非難叱責を蒙るであろうが、自分はその事を一向気にしていない。自分が心の中で願い希望している事については、必ず仏神が明らかに御覧になっているに違いないのである。
十七日甲戌、早朝から十二人の僧侶を色衆(しきしゅ)に定めて不断宝篋(ほうきょう)印陀羅尼を誦し始めた。是は一百箇日の行である。
八月二十九日〔乙卯〕、陀羅尼を誦すことが百箇日に達したので結願(けちがん)を行った。昨日で百箇日と成っていたのであるが心中に思う所があり、今日の結願としたのである。
九月四日〔己未〕、天晴れる。大相国(西園寺実氏)の御屋敷に出向き、面会して宝珠を授け申し上げた。このような事の運びとなった次第を思うと、自分には何かと浅からぬ因縁があったのであろう。宝珠を頂礼(ちょうらい)してから退出したのであった。〔愚老実賢が是を記した。〕
〔原写本に云う、私に云わく、以上は(実賢僧正の)御自筆(の本を以って写したの)である。〕
(追記)
去年(寛元三年 1245)五月十六日、八幡宮に七箇日参籠し、一日三時(三回)の護摩〔秘法〕を修して祈願する事があった〔専ら如意宝珠を造顕することに関してである〕。その時、八幡宮別当の耀清が面会に訪れ二人で話し合った。耀清が云うのに、去る十二日に夢に見る事があったと〔云々〕。「記」〔別に在り〕と同じく重宝すなわち宝珠に関する事であったと云う〔その記は別に在り〕。耀清は随喜する気配があった。それと云うのも今回参籠したのは、去る十二日から心中に発願(ほつがん)していたからである。
〔愚老が是を記した。生年ゝゝ〕
〔写本に云わく〕
文永五年(1268)八月十六日、山本禅室に於いて書写し了る。
権大僧都勝―(円) 〔春秋四十〕
弘安元年(1278)二月二十四日、亀谷(かめがやつ)尺迦堂に於いて書写し了る。 定仙 〔春秋四十七〕
〔師の口伝に云わく、此の抄(日記)は実賢僧正が記したものである。〕
(以上で現代語訳終り)
〔解説〕
其の一 如意宝珠造顕の歴史
弘法大師の作とされる『(二十五箇条)御遺告(ごゆいごう)』はアカデミックな研究者の間では大師の真撰(真作)とは考えられていませんが、真言法流を継承実践する者にとって重要な著作である事に今も変わりありません。此の『御遺告』の第二十四条に如意宝珠の事が説かれています。
此の『御遺告』の存在がいつの頃から確かめられるかと云うと、白河上皇の寵僧で東寺長者にもなった小野曼荼羅寺の範俊僧正が所持していた事が知られます。即ち白河上皇の近臣の大外記中原師遠(1070-1130)が記した『大外記師遠記』の中で上皇が師遠に向かって、
如意宝珠は先年範俊から進上されたものである。弘法大師御遺告と称する書物を師遠は見たことがあるか。(中略)弘法大師の自筆である。(初めに)「遺告尓弟子等」と書いてある。其の中に宝珠のことがある。
と語っているのです。
範俊が進呈した如意宝珠は白河法皇によって鳥羽殿の勝光明院宝蔵に納められたとも、法勝寺の円堂(愛染堂)の壇下に埋められたとも云います。何れにしても此の宝珠は後白河法皇の時代には勝光明院宝蔵にあり、法皇は晩年に至って自らの御病気平癒を祈願させるために醍醐の勝賢僧正に宝珠を渡しました。法皇崩御の後に九条兼実と勝賢が此の宝珠の外装を解いて中身の実見を行いましたが、其の間の経緯と実見の結果は兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』に詳しく記されています。其の後鎌倉時代を通じて此の如意宝珠は鳥羽の勝光明院で保管されていましたが、如法愛染王法や如法尊勝法が修される時だけ鳥羽宝蔵から修法の壇所に運ばれました。因みに如法愛染王法等の「如法」は「如宝」と書いた方が意味がよく通じます。即ち是は修法壇の上に本尊として弘法大師以来相承され来ったと称する如意宝珠を安置して修される特殊な御修法(みしほ)なのです。
さて鎌倉時代中葉には当『秘法記録』に見られるように、醍醐の勝賢僧正が『御遺告』の説に基づいて新たに如意宝珠を造顕すなわち製造したとする口説が行われていました。しかし事の当否を勝賢の同時代史料によって明らかにするのは困難です。ただ勝賢が重源(ちょうげん)上人の依頼を受けて、東大寺大仏に籠め奉るために上醍醐に於いて百箇日の間仏舎利を供養する法を修した事が確認できます(仏舎利を供養する法すなわち舎利法を三宝院流では「駄都法」と云い、是即ち如意宝珠法であると云います)。此の事は如意宝珠の造顕を論じる際に極めて重要な出来事ですから以下に少し詳しく見てみましょう。
勝賢の時代に醍醐寺の寺官として活躍した慶延(―1144―86―)が著した『醍醐雑事記』と云う大部の書があり、本書は醍醐寺史の研究に欠く事が出来ない重要な史料ですが、その中の巻第十に是に関する記事があります。それに依りますと、元暦二年(1185)七月十七日に座主勝賢は上醍醐より下山して小院(六条上皇)の御忌日追善の導師を勤めたが、事が終わると再び登山(とうざん)した。それは重源上人が東大寺大仏の中に仏舎利を奉納する事を計画し、先ずは勝賢に対して清浄なる所で百箇日の間その仏舎利を供養するよう依頼していたからである。勝賢は四月二十三日以来、上醍醐に於いて此の供養法を修していたのであると説明しています。
同書は更に続けて八月十八日に鎮守清瀧宮に於いて行われた七ケ日不断宝篋印陀羅尼の結願(けちがん)法会に付いて記していますが、是は導師の勝賢が上醍醐に於いて百箇日間祈りを凝らした仏舎利の供養法会であり、願主の重源上人も聴聞(ちょうもん)に訪れていたと述べています。後には此の重源の依頼による勝賢僧正の百箇日仏舎利供の事が「駄都秘法三百座」等と称されて如意宝珠に関する講伝の重要口決と成るのですが、同時代史料に依る限り実際に勝賢がどのような作法を行っていたのかは確認できないのです。
次に重要な史料は禅林寺僧都静遍(じょうへん 1165―1223)が勝賢とその付法資成賢(せいげん)の口決を記した『三角院物語』二巻です。(本書は鎌倉後期の写本が金沢文庫にありますが、真福寺大須文庫蔵の同本は『大僧正御房御物語記』と題されています。また下巻は内題に「醍醐寺三宝院流伝受目録」と云い、是を別出して多くの真言寺院に蔵されています。)一般にはあまり知られていませんが『秘法記録』の作者実賢大僧正は金剛王院賢海の弟子でありながら一方に於いて此の静遍の同宿の弟子でもあり、実賢相承の三宝院流は静遍僧都に負う所が多かったであろうと考えられます。
さて『三角院物語』巻上によれば、静遍は承元三年(1209)正月十九日に後鳥羽上皇が新たに建立した最勝四天王院に於いて醍醐寺座主の成賢法印(1162―1231)に面謁し、以前からの願望であった三宝院流の諸秘伝の伝授を受ける事が出来ました。その中でも最初に静遍が質問したのが「能作宝(のうさほう)」すなわち如意宝珠に関する口決でした。それに対する成賢の返答はまことに興味深いものですが、今ここでは宝珠の造顕との関連で二点の口決を紹介して置きましょう。
その第一は、勝賢僧正の先師勝倶胝院僧都実運が如意宝珠を新作し、是を勝賢が伝領して所持し、今は持宝王院の護摩堂に安置されていると云う事です。実運の宝珠造顕については他書に見えない説であり、今後研究の必要があります。
その第二は大仏の中に納め奉った「能作宝」に関するものです。成賢の語る所によれば、重源上人が仏舎利を大仏に籠め奉る事を勝賢に相談した時、勝賢は『御遺告』に説く作法に基づいて安置することを提案し了解を得た。勝賢が百箇日の間、一日三座の駄都秘法を修して仏舎利を供養してから、重源と勝賢は「額を合わせて之を始終した」。特に安置の「円体」(能作宝/如意宝珠)の製作は本願の上人即ち重源が行ったと述べています。此の成賢の証言を信じれば後の伝承の如く、確かに勝賢僧正は大仏上人こと俊乗房重源と協同して如説に如意宝珠を造った事になります。
次に取り上げるべき重要史料が実賢(1176―1249)の『秘法記録』ですが、是は当事者自らが宝珠造立の経緯を記している点で今まで述べた史料と異なります。記述の内容も具体的で現実性があり強いて作者の真偽を問い質す必要もないように思われます。次項に於いて詳しく見ます。
実賢以降の事例についてはよく知らないのですが、近世に至って仁和寺御室寛隆(1672―1707)が同寺真乗院の孝源僧正(1638―1702)に命じて二顆の如意宝珠を製作しています。それは宮内庁書陵部本『仁和寺御伝』の「後金剛定院御室寛隆」の条に、
元禄七年(1694)十二月二十九日、以前から孝源僧正に対して能作生(のうさしょう)宝珠二顆を製造するよう命じておられたが、その事が成就したと云うので僧正が御室御所に持参して献呈した。
と云い、更に翌八年正月二日に是を供養して一顆は真乗院に納め、他の一顆は関東(江戸)の護国寺に納めたと記しています(『仁和寺史料 寺誌編二』)。
其の二 実賢記『秘法記録』について
内容の大体は既に現代語訳で明らかになっていると思いますので、ここでは文章に沿って幾つか問題点を拾い上げ解説しましょう。その前に一つだけ注意して置きたいのは、現代語訳では頻繁に「(如意)宝珠」という語を用いましたが原テキストには一度も此の言葉は使われていません。わずかに「宝体を造顕して廬遮那仏の御身に籠め奉る」と云う程度です。しかし全体を通覧する時、此の記録(日記)が『御遺告』に説く如意宝珠の造立に関わるものであることは真言事相の研究者にとってほとんど自明の事と言えます。それを一々説明するのは煩雑でもあり長くなりますので別の機会に譲り、今はその事を前提にした訳文と此の「解説」に止めておきます。ブログ『柴田賢龍密教文庫「研究報告」』に載せた国訳文を印刷して現代語訳と合わせ読まれる事をお勧めします。
内容に付いて先ず最初に実賢はどうして宝珠造顕の場所として特に上賀茂社を撰んだのであろうかという問題があります。単に神域が清浄であるという以上に何かもっと具体的な理由もあったに違いないのですがよく分かりません。
次に内大臣九条忠家の御祈りの事について忠家の祖父に当たる入道太政大臣道家から別段の催促を受けて断ることも出来ないまま今日(五月十二日)に及び、その為に参籠の日数を短縮しなければならなかった事を述べていますが、実賢と此の道家とは非常に深い繋がりがあります。九条(藤原)道家は九条河原にあった法性寺(ほっしょうじ)の東に聖一国師(円爾弁円 えんにべんねん)を招いて禅宗の巨刹東福寺を建立したことで知られていますが、実際には勧修寺慈尊院の栄然(ようぜん)僧都に入壇して伝法潅頂を受けるほど密教に傾倒した人でもありました。実賢との関係では仁治二年(1241)十一月一日から三十日まで法性寺に於いて『瑜祇経』の講伝を受けた事が特筆されるべきでしょう。此の時同席していた高野の道範が禅定殿下(出家入道した摂政関白)道家の厳命を受けて実賢の口説を記したのが『瑜祇経口決』五巻です(『密教大辞典』の同項に「禅定殿下道助が法性寺御所に醍醐寺座主実賢を召して」と云うのは間違いです)。さて実は実賢が宝珠を造顕した此の寛元四年(1246)は九条道家にとって大変な災厄の年でした。五月に子息の前将軍頼経が北条光時の陰謀に加担して執権時頼を追放しようとした事が発覚し、七月になると頼経は鎌倉を追い払われて上洛しましたが、それと共に道家は関東申次(もうしつぎ)を解任され政治的影響力を喪失してしまいました。
次に太政大臣西園寺(藤原)実氏(1194―1269)から手紙が届けられた事を記していますが、後に見るごとく実賢は新造の宝珠を実氏に手渡しています。実氏の娘姞子(大宮院)は仁治三年(1242)に後嵯峨天皇の中宮となって久仁親王(後深草天皇)を生み、また失脚した九条道家に替って関東申次に任ぜられるなど当時日の出の勢いにあった人です。又よく知られているように道家の妻で将軍頼経の母親である藤原掄子(淑子)は、実氏の父親太政大臣公経の娘です。
五月十六日に無事に大事を成就し得たことを記してから先師勝賢僧正(1138―96)の先例に付いて述べています。焼失後の東大寺復興について勝賢は静賢法印(1124―96―)に相談したと云っていますが、この二人は共に信西入道こと藤原通憲(みちのり)の子息であり、特に静賢(憲)は実賢の母方の祖父に当たります。実賢の母親は静憲法印の娘であり、勝賢僧正の姪になります。勝賢は建久三年(1192)十月に東大寺別当になり、同六年三月の大仏殿落慶供養に於いては呪願(しゅがん)師を勤めました。また其れより以前の文治五年(1189)七月に東大寺東南院の院主(住職)になっていますから勝賢にとって東大寺は随分と深い繋がりがあると言えますが、東大寺が回録(焼失)した治承四年(1180)十二月の時点では職務上の結びつきは特にありませんでした。
次に如意宝珠を造立した経緯を記していますが、是については諸書により伝承が少しく異なります。例えば鎌倉後期の醍醐の学僧教舜の『秘鈔口決』では、
実賢僧正云く、故勝賢は自分自身で宝珠を作った。その宝珠を大仏の上人重源が申請して(入手し、)東大寺大仏の眉間の底に収めた。
と述べていますが、前項に見た『三角院物語』の成賢の口決も今の『秘法記録』も如意宝珠そのものは重源が作ったと云っています。但し『醍醐雑事記』や『三角院物語』では重源上人が大仏に仏舎利を籠め奉ることを発願して、其れに勝賢が協力したと述べていますが、『秘法記録』は総て勝賢がイニシアティブを取っているかのように記しています。
法流史を研究している人間にとって興味深いのは、南無阿弥陀仏重源が宝珠造立の口伝日記を蓮阿上人に授け、蓮阿上人は愚老実賢に授けたと記している事です。蓮阿については先に勝賢が東大寺復興の事を働きかけた人物として重源と共に名前を挙げていますが、ほとんど徴証とすべき史料がありません。しかし実賢は此の蓮阿上人より伝領した口伝日記に基づいて造立の作法を行った訳ですから見過ごすことが出来ません。この蓮阿上人と若しかしたら同一人物かも知れない「蓮南」の事が鎌倉釈迦堂の学僧定仙(次項に説明)が著した『能造〔秘秘〕』なる書に記されていますので参考までに紹介します。それには(勝円僧都の?)「仰せ云く」として、
此の宝珠造立の大事は我が流(金剛王院相承三宝院流)の他は醍醐に於いても既に断絶してしまった。此れは勝賢僧正の口伝である。僧正に年来給仕として仕えていたものに蓮南という人物がいた。或いは一阿弥陀仏とも称していた。長い間勝賢に給仕して浄行に勤めていた者である。勝賢が最初醍醐寺座主になった時、乗海の為に寺を追い出されて高野山に籠居したが、その時も蓮南は勝賢に随行して高野に居住した。勝賢が再度座主として醍醐寺に戻ってから蓮南は暇を乞い、高野に住んでそこで生涯を終えた。蓮南は此のように道心堅固の者であったから、勝賢は此の大事を授けたのであった。其の外の大事等も悉く蓮南に授けたのである。勝賢僧正は蓮南の外にはこれらの大事を一向に授けようとはしなかった。蓮南は亦故大僧正(実賢)一人にだけ是を授けたのである。
と述べています。今後更に研究すべき事柄です。
其の三 原テキスト(写本)の奥書に付いて
先ず現代語訳の原本は金沢文庫に保管する重文称名寺聖教(しょうぎょう)中の整理番号328-132「秘法記録」であり、奥書も含めてほとんど全同の本が『称名寺の新発見資料』に28「秘法記録」として紹介され翻刻もされています。
奥書中の権大僧都勝円(1229―78)は大納言藤原基嗣の子であり、実賢大僧正の潅頂弟子として比較的名前の知られた人物です。実賢の跡を継いで醍醐寺座主になった勝尊僧正(生没年未詳)は勝円の師であると共に叔父に当たる人でしたから勝円の将来は明るいものでしたが、それも建長三年(1251)六月に勝尊の座主職が罷免されるに及んで暗転してしまいました。その後勝円は勝尊の隠居所法性寺(ほっしょうじ)に於いて師より重ねて潅頂を受け、又関東に移って伝法活動を盛んに行い法流史に名を残すことと成りました。
次に鎌倉亀谷(かめがやつ)釈迦堂の定仙(1232―96―)は直接勝円から伝法した事があったのかどうか分かりませんが、卿阿闍利増瑜を始めとする小野流諸師から広範な受法を遂げた学僧です。称名寺聖教中には定仙に関わる大量の印信類に加えてその撰述(著作)と考えられる大部の口決書『仙芥集』があり、鎌倉の真言法流を研究する上で今後もっと注目されるべき人物でしょう。
(以上)