愛染・不動一体の口決に付いて
(一)大日如来の脇侍明王の事 ―醍醐寺遍智院の本尊像―
平安時代末葉に醍醐寺の三綱を勤めていた従儀師慶延(―1144―86―)が記録・編集した『醍醐雑事記』という中世寺院史研究者の間で著名な書物があります。その記事は同寺の上下伽藍に関わる伝承や記録、行事、又諸院の由緒・本尊、或いは座主の拝堂日記や寺家の日誌等に及び、内容の広範な事と信頼性の故に大変貴重で有益な史料です。巻五「下醍醐雑事記巻第五」に於いては三宝院を除く同寺下伽藍の子院と末寺を取り扱っていて、その最初に義範僧都(1023―88)が建立した遍智院の記事を載せています。それに依れば、同院の「本仏」(本尊)は等身の阿弥陀三尊像でしたが、それが
今は中尊大日 不動 愛染王〔各三尺〕
と云い、慶延が活躍した時代には不動・愛染両明王を脇侍とする大日三尊に成っていたのです。誰が本尊の変更を行ったのか、又中尊大日如来が胎蔵・金剛何れの尊か注記されていませんが、平安時代を通じて此の三尊形式を本尊とする寺院は他に類例が知られていないのでは無いでしょうか。鎌倉時代後期以降に成ると本尊の脇侍に不動・愛染を配する様々な例が見られますが、平安末から鎌倉初期に於いては大変珍しい事例であると云えるのです。
又『醍醐雑事記』と並んで醍醐寺史を研究する上で重要な書物として『醍醐寺新要録』があります。是は近世初頭の座主義演准后(1558―1626)の編纂に成りますが、記事の大半は慶長九年(1604)に上醍醐の釈迦院経蔵に於いて義演自らが見出した膨大な古文書類から類別して抄出されたものであり、内容の信憑性は『雑事記』に劣らず大変高いものであると云えます。『雑事記』も「慶円記」という名称を用いて多くの記事が抄出されています。
此の『新要録』の巻第十一にある「遍智院篇」には、「或旧記(あるくき)」に依って同院潅頂堂の指図(さしず)と本尊像の説明が載せられています。それに依れば、潅頂堂の本仏(中尊)は金剛界大日如来、脇士は不動と二臂降三世であり(共に坐像)、不動は胎蔵の尊、降三世は金剛界の尊である事を注記して、暗に本尊は両部不二である事を示しています。此の三尊像は成賢僧正(1162―1231)が造立したものですが、更に「或記」に依って此の三尊形式が実には尊勝曼荼羅を顕している事が記されています。
此の特異な尊勝曼荼羅は智證大師によって請来されながら三井寺経蔵に秘蔵されて忘れ去られていたのを、中古に鳥羽僧正の名でよく知られた法輪院覚猷僧正(1053―1140)が見出して再び日の目を見る事に成ったのです。従って此の曼荼羅は元来三井寺だけに相承される秘伝となる筈(はず)でしたが、仁和寺の成蓮房兼意(1072―1145―)が覚猷僧正に師礼を取って相承した為に反って東密の伝と成りました。即ち兼意は弟子の常喜院心覚(1117―80)に伝え、心覚は醍醐の成賢に伝えたので、成賢の弟子の間ではよく知られた口伝に成ったのです。どうして成賢が心覚から秘伝の相承を許されたのかと云えば、師僧の勝賢僧正の命を受けて成賢は高野に於いて晩年の心覚の為に給仕の役を勤めていたからです。此の尊勝曼荼羅に関しては拙著『訳注薄草子口決 注釈篇』の補注15「智證請来の尊勝曼荼羅」に、成賢弟子の深賢・憲深・道教の三様の口決を載せてあります。又大阪府河内長野市にあり「女人高野」の名称で知られる金剛寺の本尊は此の尊勝曼荼羅三尊像です(中尊大日は藤原時代、不動・降三世両明王は南北朝期の制作)。
(二)両部明王に関する一般教理と愛染明王の事
さて最初に大日如来の脇侍に不動・愛染両明王を配する事は大変珍しいと述べましたが、その理由は簡単で、不動と愛染を一対の相補的な明王と解すべき教理的な背景が存在しないからです。念の為に明王に付いて一言すれば、佛の至上の命令(教令/きょうりょう)を受けて折伏(しゃくふく)の境地に住し、恐るべき忿怒身を現して衆生の悪心を調伏する尊を教令輪身、或いは明王と云います。平安時代の初期に弘法大師によって初めて我が国に請来された両部密教は、その後も東密・台密の幾多の先徳名匠を輩出して独自の展開を遂げましたが、両部の教令輪身に関しては中古より近世に至るまで一貫して、不動は胎蔵法の総明王(明王部の代表)、降三世は金剛界の総明王という定式化した教理が用い続けられました。此の事を端的に示す例として別尊曼荼羅の作例としてよく紹介される尊勝曼荼羅を挙げる事が出来ます。当曼荼羅は尊勝陀羅尼の功徳を尊格化した尊勝仏頂を本尊として修する尊勝法に用いられますが、曼荼羅下方の右に三角火輪内の不動明王、左に半月風輪内の降三世明王が画かれて両尊の相補的な関係を示しています(左右反対の場合があります)。尊勝法の本軌である不空訳『仏頂尊勝陀羅尼念誦儀軌』は胎蔵法と金剛界法が合揉された胎金合軌であり、その為に両部の教令輪が左右対照の位置に配されているのです。
降三世を以って金剛界の教令輪身を代表する事は、『初会(しょえ)金剛頂経』四大品(しだいほん)の一つとして降三世教令輪品が説かれている事や、金剛界九会(くえ)曼荼羅に降三世会と同三昧耶会が画かれている事(向かって右中・下)から教理的に明白であると云えます。又密教修法の一座行法に於ける「勧請(かんじょう)」句も良い例です。即ち勧請の一段では先ず大日・四仏・四波羅蜜・十六大菩薩・八供養・四摂(ししょう)菩薩と金剛界の三十七尊を挙げ、次いで「教令輪者降三世」と唱えて金剛界の諸尊を網羅してから本尊名号を称します。このように教理的にも相承の口伝に於いても、降三世が金剛界の明王を代表する事に何の疑いも無いのです。従って密教修法を行う際の結界明王の場合も胎蔵法には不動、金剛界には降三世を用いる事を通則(一般則)としていたのであり、それは現在に至るまで変わる事はありません。更に不動は亦明王の主尊であるから胎蔵・金剛両部に用いる事が出来るとされました。
不動・降三世二明王の軽重に付いて考えてみると、不動明王は大日如来の教令輪身、化身であり、又弘法大師が造立した東寺講堂安置の五大明王の中尊ですから、胎蔵部の忿怒尊のみならず両部明王の主尊とする事に別して異論は無いでしょう。平安中期以降に盛行した主要な密教修法の一つである五壇法(五大明王法)に於いても最も重要な中壇の本尊は不動明王でした。一方、降三世は五壇法に於いては四方壇の中の東方明王に配されていますから、不動は主、降三世は従という役回りに成っていたのです。
それでは愛染明王の事はどのように考えれば良いのでしょうか。先ず伝統的な両部密教の教理体系に同明王が介入する余地は無いという事を確認する必要があります。愛染明王は真言密教の根本聖典とされる両部大経、即ち『大日経』『金剛頂経』に所見が無く、ただ『瑜祇経』の「染愛王心品」、「愛染王品」、「大勝金剛心品」に於いてのみその所説を見る事が出来ます。『瑜祇経』は早く弘法大師によって本邦に請来された由緒正しい経典であり、既に唐代中期に長安に於いて流布していたと考えられますから、後唐期にインドより将来、或いは中国で撰述された経軌類と同列に論じる事は出来ません。ただ同経は金剛智訳とされていますが、『貞元録』の金剛智訳経の条に記載されていませんから、『瑜祇経』の成立と漢訳の背景には両部大経系の諸経軌とは異なる何らかの特殊事情があったのでしょう。同経は更に恵運・宗叡によって重ねて請来され、又安然(841-915頃)の三巻の疏や真寂親王(886―927)の『瑜祇惣行私記』の撰述が示すように平安前期にあってはかなり注目されていたようですが、その後は白河天皇の時代に至って愛染明王が脚光を浴びるまで表面上は忘却されたかの如き状態が続きました。
白河天皇が愛染明王に特別な信仰心を有していた事は、同天皇が発願建立した白河法勝寺に別して愛染堂(円堂)を造営した事からも伺えますが、白河院政期になると愛染王の像供養や修法の記録が大変多くなり、以後皇族・摂関家を中心とする貴族階級の同明王に対する信仰は隆盛の一途をたどります。亦不動尊に対する僧俗の信仰も平安時代を通じて衰える事が無かった事は云うまでもありません。一方、降三世明王は金剛界密教の教理体系では大日如来、金剛薩埵と並ぶ最重要な尊格でありながら、当尊に対する独立した信仰が高揚する事は無かったのです。東密・台密を問わず、一般に真言行者は修行中に不動尊の守護・加被を願ったのであり、降三世は教理的な存在から抜け出して現実の祈願に応える仏には成れなかったのです。
従って平安時代後末期になると、降三世に替えて不動・愛染二明王を以って両部の教令身にしようとする欲求が高まったであろう事は容易に推察されます。しかし上文に見た如く、その事は教理的には不可能でした。それであからさまに愛染王を以って金剛界の教令輪とする事は出来ないにしても、一つには本尊の両脇侍に不動と愛染を安置する事が行われました。その一例が本篇の冒頭に紹介した醍醐寺遍智院の大日三尊像です。又愛染王も不動・降三世と同じく毘盧遮那仏の教令輪身であり、実には不動と愛染は同一尊であるという口決が流布するように成りました。此の事に付いて、章を改めて詳しく見てみましょう。
(三)不動・愛染一体の口決と『毘盧遮那三菩提経』
『園城寺文書』第七巻に慶範撰『宝秘記』なる大部の諸尊口決集が収載されています。慶範法印(1155―1221)は大宝院大僧正真円(1117―1204)の写瓶資と目される学僧であり、亦同文書同巻の『伝法潅頂血脈譜』に依れば証月上人慶政(1155―1221)に伝法潅頂を授ける等、鎌倉前期に於ける三井寺の法流を知る上で興味ある重要な人物です。従って『宝秘記』の内容も基本的には真円僧正の口決を記したものであり、平安末から鎌倉初の三井寺本流の相承口伝を直接伺う事ができる好個の史料です。同寺の法流は智弁(余慶)の次に智静(観修)方と智観(勝算)方に分かれますが、真円の師である大宝坊良修法眼は両方を相承して是を真円に伝えています。
さて『宝秘記』第三十二に「不動・愛染一体事」という項目があり、先ず「
(真円)仰せ云く、台蔵をば不動尊、金剛界にて愛染王、是は愛菩薩なり。不動と愛染王と一体の事は三菩提経に見たり。
建久三―(1192)八月五日(下文に係るか)
仁和寺の勝遍律師云く、不動と愛染王とは一体なる事、随分の秘事なり。法性寺殿(藤原/九条兼実か)御尋ね候いしかば、件の証文・本経并びに儀軌等を検べ申せしに御感あり云々。
予(慶範)申し云く、此の事は如何。
仰せ云く、(不動・愛染)一仏の証文を検ぶ(べき)なり。彼の門跡には秘事とて一仏と習学するか。但し、此の門跡は別して一仏と云いて習う事は無けれども、一仏と云うべきにや。検文等、之あり云々。 」
と述べています。
冒頭の「仰せ」の意は、「胎蔵界の総明王である不動尊は金剛界に於いては愛染明王と成って出現するが、実には金界三十七尊中の十六大菩薩の金剛愛菩薩が愛染王なのである。即ち不動と愛染王は同一尊であり、その事は『(毘盧遮那)三菩提経』の中に証文がある。」という事でしょう。此の慶範の記述に依って、平安末から鎌倉初の仁和寺に於いて不動・愛染一体の口決が成立していて、三井寺でもそれが受け入れられようとしていた事が分かります。
仁和寺理智院の学匠として知られた勝遍律師(1130―1192.12.14)は忍辱山(にんにくせん)流祖寛遍大僧正の潅頂弟子であり、自らも同流勝遍方の祖とされています。勝遍の口決と関連して興味深いのは、本篇の最初に述べた慶円従儀師が『醍醐雑事記』を撰述していた頃の醍醐寺座主である勝賢僧正(1138―96)の初めの師匠は仁和寺宝乗院の最源法印(1105―85)であった事です。即ち最源も勝遍と同じく寛遍大僧正の潅頂資であり、勝賢は最源から伝法潅頂を受ける事は無かったにしても何かと寛遍の法流と繋がりのあった事が伺われます(勝賢の最初の師僧に付いては『日本密教人物事典』上巻の「勝賢」の条第2・3項参照)。従って醍醐寺遍智院の本尊が不動・愛染を両脇侍とする大日三尊像に成ったのも、若しや忍辱山流の口決が影響したのかもしれません。
さて『宝秘記』に戻れば、上文に続けて「
毘盧遮那三母提経に云く、ヒルサナ○後に三界の有情の生死に輪転するを見て、大悲台蔵より吽(ウン)字を流出して、調伏の為の故に金剛愛染三昧に入る。神変加持の為の故に三昧より起って「ウン・ウーン」(特殊字の為入力不可)を字輪中に出だして、後に金剛光明郝奕(かくやく)大火光三昧を現す。■諸菩薩の微細煩悩習摂及び所知障を(「破し」か)、後に諸摩羅及び諸部衆を焼く。此の三昧の中に於いて証成せる応身金剛明王聖者を無動明王と名く。〔文〕
私に云く、大日の愛染三昧等に入り了んぬ、無動尊と名く〔文〕とあり。此の文は愛染即不動を明かす証なるか。
仰せ云く、尤も然るべし。此の文は其の証なり云々。予の申し云く、東寺の人は瑜祇経に証文ある事云々(と云えり)。
仰せ云く、(愛染王の)一字心真言ト(大日経)息障(品)の下文とは、断障の文義相い叶えり。故に彼(瑜祇経)を以って其の証と為す。之を検ぶべし云々。 」
と記されています。
此の『毘盧遮那三菩提経』なる経典の由緒に付いては不詳と云う他ありませんが、平安時代後期に制作された各種の真言典籍にも所見が無いので、一応台密の阿闍利による本邦撰述の経軌であろうと考えられます。又撰述の主要な意図が不動・愛染一体の口決を保証する事にあったろう事も容易に推察されます。ここに引用された文の肝要は、大日如来が調伏の為に先ず愛染王の三昧に入り、次いで三昧より起って無動尊なる応身明王を現して諸菩薩の煩悩を摧破すると云う事です。
「東寺の人」とは弘法大師の門徒という事であり、東寺に居住する僧侶という意味ではありません。仁和寺の勝遍律師が東寺の人である事は云うまでもありません。
「仰せ」に云う「一字心真言」とは、恐らく『瑜祇経』の「一切如来大勝金剛心瑜伽成就品第七」に説く「ウン・シッチ」であり、同経「愛染王品第五」に説く「一字心明」である「ウン・タキウン・ジャク」(五字明)では無いと思われます。大勝金剛心品の真言は、経に「成就金剛薩埵一字心大勝心相応」と称されていますが、頌文の中では「愛染王根本一字心」と言っています。此の大勝金剛心品の「(愛染)一字心」の功能と(不動の本説である)「(大日経)息障(品)の下文」とは、共に煩悩・障碍(しょうげ)の浄除を説いて「断障の文義相い叶」うからです。是に対して愛染王品の真言では別して煩悩浄除の事を説いていません。
(四)不動・愛染一体の諸相(其の一)
伝実賢口・如実記『厚双紙口決』の中に見える口伝
これから以下は不動・愛染一体の口決が鎌倉時代以後の中世密教界に於いてどの様に展開したか、その具体的な諸相に付いて見て行きます。
先ず最初に金沢文庫保管称名寺聖教中にある、金剛王院大僧正実賢の口説を加茂の空観上人如実(1206―66―)が記したとされる短篇の口決集を紹介します(第329箱40号)。本書は外題に「厚双紙口決〔大僧正実―〕」と題し、巻末には如実奥書に加えて実賢の識語と証判まで添えられていますが、内容を通読すれば鎌倉後末期の製作であろうと考えられます。ただ全くの偽撰と云うよりは、何かしら「如実の記」に加筆改変したらしく思われる事と、愛染・不動の一体義を明白に述べている事により初めに取り上げます。
本書は冒頭に『(三宝院)厚双紙』の由緒に関わる実賢の口説を記して、「
仁治三年(1242)八月十日 仰せ云く、厚双紙は第孔抄と云うなり。是は酉酉(だいご)の口伝と云う事なり。コレヲツクリ文字にて第孔抄とはツケラレタリ。元海の定海僧正に習いタマウ所の諸尊并に潅頂等の事を記しタマヘルなり。三宝院の(口伝)書のハシメなり。 」
と述べています。此の『厚双紙』を「第吼抄」と称する事は、加茂流(金剛王院相承三宝院流如実方)の通口伝とされています。次に「ボロン(梵字 bhrum)字の事」、その次に「潅頂の大事」の項目があって、その中で潅頂第三重の真言「ア・バン・ラン・カン・ケン」の第四字カン(梵字 hamの長音)に付いて、「
又即ち不動の種字なり。不動をば風動とは習うなり(カン字は風大の種字であるから)。即ち息風の義なり。最秘なり。
又愛染なり。愛染王の種子のウン(梵字 humの長音)字は、即ちカン(前に同じ)字が本体にてはアルナリ。故に不動と愛染と又一体なり。 」
と述べていますが、是だけでは不動・愛染一体義の説明として不十分の感は否めません。しかし此の項目の終わりに於いて亦、「
一佛二明王と習うもカン(前に同じ)に不動・愛染と意得(こころえ)て、ア・バン(梵字 avam)を両部の大日と習うなり。不動・愛染を此のカン(前に同じ)に習うは、則ち又(不動明王の)瑟々(座)の下の水と(愛染明王の)宝瓶の中の水と合して宝鉢(佛)とナル義なり。能々(よくよく)之を思うべし。 」
と述べて、不動・愛染両尊の相補性を明かしています。
(五)不動・愛染一体の諸相(其の二)
駄都法と如意宝輪華法の事
現在に至るまで、仏像や舎利容器を納める厨子の内側に左右相対して不動・愛染二明王が画かれている古い遺品が多く伝わっていますが、その事の意味合い等に関しては今までの記述によって概略明らかになったと思います。さて、これらの厨子の本尊は大日金輪(きんりん)・如意輪観音等の仏菩薩、或いは仏舎利・五輪塔・火焔宝珠と様々ですが、特に遺例が多く注目すべきものとして如意宝珠に見立てた仏舎利容器を安置する厨子があります。これは装飾的な観点から仏舎利を納める容器に宝珠形が好まれたと云うより、舎利に関する相承の口決によって此の形式が生まれたと考えるべきです。
即ち平安末から鎌倉初にかけて特に醍醐寺に於いて仏舎利を駄都(だど)と称して如意宝珠と同体と見なす口伝が成立し、是を供養念誦する為の法である駄都法の本尊として、仏舎利を納めた水晶玉を宝珠に見立てて様々工夫を凝らして荘厳する各種の舎利容器が製作されたと考えられます。鎌倉後期の密教界に於いて此の駄都法が好まれて大変流行していた事は、金沢文庫保管称名寺聖教の中に駄都法の次第・口決類が数多く存在している事からも伺われます。そして本尊である駄都(如意宝珠)を納める厨子の左右の扉裏側や内壁に不動・愛染両尊を描く事が好まれたのであろうと考えられます。しかし、此の事も単なる趣向と云うより相承の口伝に依るらしいのです。その口伝の一例が西大寺の中興上人叡尊が創案した「如意宝輪華法」です。
此の事を始めて系統的に紹介解説したのは奈良国立博物館研究紀要『鹿園雑集』創刊号の内藤榮「密観宝珠形舎利容器について」です。「密観宝珠」とは密教の観法に依る如意宝珠(形舎利容器)と云うような意味で、その形体は直立した金剛杵に支えられた蓮花台の上に宝珠に見立てた水晶球を安置したものであり、水晶球の中をくりぬいて仏舎利(駄都)が込められています。内藤論文によると、密観宝珠やそれを本尊とする不動・愛染三尊の作例は鎌倉後末期から室町時代にかけて集中的に見られ、しかも「西大寺派の真言律宗寺院に作例が多く残る傾向を指摘できる」のです。亦どうして多くの作品が西大寺末の真言律寺院に伝わっているのかと云えば、それは興正菩薩が創案して文応元年(1260)の後七日(八日から十四日)に始修した如意宝輪華法の本尊に用いられたらしいからであると、叡尊の詳しい伝記年表である『行実年譜』(詳しくは『西大寺勅諡興正菩薩行実年譜』)等を引用して解説しています。
興正菩薩は一般に戒律復興と社会事業に尽力した南都(奈良)の上人として知られていますが、一方に於いて醍醐の松橋(まつはし)流を本流として同寺諸流の伝を広く相承した真言僧でもありました。松橋流は松橋大僧都元海の写瓶資一海を祖とする古流の「三宝院」とでも云うべき法流であり、本寺(醍醐寺)のみならず西大寺等に於いて近世に至るまで断絶する事なく相伝された有力な法流です。
さて『行実年譜』の正元元年(1259)の条に依れば上人は、
冬十月、如意輪・不動・愛染三顆宝輪華秘法一巻を製す。十二月、年始の後七日に修する所の如意輪法一帖、重ねて之を記す。
と述べて、また翌文応元年(1260)の条では、
正月八日より七箇日を点定して(八日から十四日まで)、如意宝輪華の法を修す。合山(全寺)の衆僧、七昼夜不断に随心如意宝珠根本陀羅尼を念誦して、以って国家安全を祝し、兼ねて寺門粛清を祈る。此より厥(そ)の後、歳毎に之を修す。俗に之を西大寺後七日長陀羅尼会と曰う。
と記しています。
話が長くなるので先に内藤論文を踏まえて私なりに概要を述べれば、叡尊はかねて如意輪観音と駄都(仏舎利/如意宝珠)を深く崇敬していたが、一方で宮中の正月恒例行事である後七日法に準じて西大寺に於いても正月後七日に独自の秘法を修して国家の安寧を祈る事を願った。宮中の御修法が宝生如来乃至如意宝珠を本尊とする事を考慮して、上人は如法(宝)愛染法に準じた如法如意輪法を構想し、その際本尊如意輪に加えてその左右に愛染・不動二明王を観想する秘法を創案した、と考えられます。内藤論文に叡尊の撰述になると考えられる如意宝輪華法の道場観を翻刻掲載して解説していますから(高野山金剛三昧院蔵の写本による)、以下是に付いて以下簡単に見て行きます。
道場観の初めの器界観に於いて五輪塔を想い、次いで其の中にキリク(梵字 hrih)タラク(梵字 trah)タラク(同)の三字を観想しますが、此の三字から成る本尊の種子(しゅじ)は常の醍醐の如意輪法次第と同じです。しかし其の次から本形(如意輪観音の尊容)に至る間の観想は複雑で、恐らく上人自身が独自に考案したのであろうと考えられます。即ち次いで、
キリク字変じて紅蓮花と成る。紅蓮花の上にタラク字あり。変じて八輻の金輪(こんりん)と成る。輪上にタラク字あり。変じて三弁宝珠と成る。即ち自然(じねん)道理の如来駄都にして真実の如意宝珠なり。(以下に醍醐の『駄都(法次第)』の道場観に見える観文が続く)
と云い、「紅蓮花」「八輻金輪」「三弁宝珠」は皆な本尊如意輪の三昧耶形ですが、その中でも最後に出現する宝珠が特に重要で、「自然道理の如来駄都」以下の『駄都』道場観の文を載せて本尊が「宝珠の三昧」に入った事を示しています。次いで此の宝珠が転じて六臂の如意輪観音と成る事を述べていますが、尤も注意すべきは本尊形として「真実の如意宝珠」である駄都と常の六臂如意輪の両様が表裏の如くにある事です。
道場観の後半部は愛染・不動二明王であり、先ず本尊の左辺に於ける愛染の種子・三昧耶形・本尊形の転成(てんじょう)を説いていますが、是は常の愛染法道場観と変わりません。本尊右辺に於ける不動の種・三・尊の転成は倶利伽羅が「転じて如意宝珠と成る。即ち不動尊と成る」と云うなど常の道場観とは相違していて、最後に「八大観音等の無量の聖衆は各(おのおの)宝部の三摩地に入る」と述べて道場観を締めくくっています。
叡尊は此の西大寺の後七日法である宝輪華秘法を後代に伝えるよう弟子達に遺言しましたが、残念ながら本尊・修法共にいつしか断絶して近世までは伝わらなかったようです。従って確かな事は云えないにしても内藤論文は、「宝珠(如意輪)・不動・愛染の三尊形式の作品には、西大寺の如意宝輪華法の影響を受けて制作されたものが数多く含まれているものと推測」されると述べています。
猶『密教大辞典』の「三尊合行(ごうぎょう)」の項に、
金剛王院相伝三宝院流岩蔵方印信百八通中求聞持(ぐもんじ)十五通の一。二通あり、一通は不動・虚空蔵(中尊)・愛染の三尊を同一体の尊と観じて印明を結誦す。
等と云い、又『金沢文庫研究』第295号に所収の真鍋俊照「虚空蔵求聞持法画像と儀軌の東国進出(下)」に紹介する群馬県慈眼寺蔵『東長大事』に、
師主御口伝に云く、(中略)更に三尊各別の法に亦一の秘伝あり。即ち如意輪観音を本尊と為して常の不動愛染の像を左右に之を安ず。祖師勝賢僧正、此の習を以て北院御室に之を授け奉る。此を三仏如意輪の法と号す。〔甚秘々々。〕
等と記されています。此の醍醐の勝賢が御室守覚に授けたと伝える「秘伝」に付いては、真偽の問題も含めて別稿で論じる予定です。
(六)不動・愛染一体の諸相(其の三)
日蓮作「大曼荼羅」と神祇口決の事
次に世上よく知られた日蓮上人の創案になる所謂(いわゆる)「大曼荼羅」に言及すべきでしょう。現在上人真筆と考えられる「大曼荼羅」の遺品は百二十余幅も伝わっているそうですが、文永八年(1271)、或いは同十年に日蓮が初めて是を図顕した時から悉曇(しったん/梵字)を用いて画面の左右に大きく不動・愛染二明王が配されていました。両尊の悉曇文字は縦に長く引き伸ばされた異形字で書かれていますが、向かって右がカン(ham)字、向かって左がウーン(hum)字である事は比較的容易に判別でき、日蓮門徒の間に古来相伝された口伝によって右は不動明王、左は愛染明王とされています。此の事は密教の一般教理からも納得できます。詳しく云うと不動尊の種子は短音の「カン」では無く長音の「カーン」であり、又「ウーン」字は忿怒尊に通じて用いられて愛染明王の種子とは限りませんが、門徒相承の口伝に異を唱えて強いて其の事を問題にする必要は無いでしょう。
上人は有名な四箇(しか)格言に於いて「真言亡国」と述べて真言宗(密教)を糾弾しているのですが、一面に於いて日蓮は密教に親近感を抱いていたように思えます。その事は、そもそも上述の「大曼荼羅」が顕教の曼荼羅(変相図)ではなく密教の曼荼羅に倣って構想されたと考えられる上に、護法尊として四大天王だけで満足せず、不動・愛染両明王という最も密教的な尊を目立つ形で取り入れている事から推測されるのです。此の「大曼荼羅」は、鎌倉時代中後期になると両部教令輪として伝統的な不動・降三世に替えて不動・愛染両尊が好まれるように成っていた事を示す好個の史料と云えるでしょう。即ち純粋な密教教理は捨てられて、本来教理的に疎遠な不動・愛染二明王が互いに相補的な関係にあると密接な二尊と考えられるように成っていたのです。
時代が下がると此の考えは更に普及・一般化して、神祇関係の伝書に於いて不動・愛染を以って両部大日に准ずる思想がみられます。特に伊勢神宮に於いては内外両宮を金胎両部に見立てる思想(両部神道)が遅くとも鎌倉中期に成立していたと考えられていますから、南北朝以降に朝廷の権威が急速に衰えるようになると、御神体に関する密教的な諸説が自由に表明されました。『思想』第844号に収載の山本ひろ子「迷宮としての伊勢神宮」では、
『天照大神口決』と『鼻帰書』を見ると、中世の伊勢神宮(の神)は、(一)両部の大日如来、(二)不動・愛染、(三)大梵天王、(四)閻魔大王、(五)大師の化身という五つの説があったことがわかる。
と述べています。
中世における三輪神道の密教化は伊勢よりも更に徹底していました。『実践国文学』第51号に収載の牧野和夫「『〔日本記抄〕』翻刻・略解 -『日本記〔三輪流〕』系神祇書の一伝本- 」に紹介する『日本記当流目録 次第事』に於いて、
二重四 神祇口決 能仁伝
神体は亡者不壊不動の正体なり。正は蛇形なり。仏法護持とは竜神なり。形を現せば烏なり。正体は釼なり。深秘には両部大日なり。不動・受(愛)染なり。両部とは日○・月○なり。我等衆生の両眼なり。右目は金剛界にして不動の体なり。左目は台蔵界にして愛染の正体なり。(以下略す)
と記されています(翻刻原文は漢字カナ混り文)。
(七)不動・愛染一体の諸相(其の四)
愛染・不動合体尊の事
不動・愛染二明王の相補的な関係、或いは同一体の口決を視覚的に表現すれば両尊の合体像に行き着くでしょう。
『大正大蔵経 図像』第12巻に収載する別紙36「厄神明王像」(兵庫武藤金太氏蔵本)はカッコ注に「愛染不動合体」と云うように、両尊を合体させた両面八臂の白描図像です。写真で見る限り描線が固く、表情にも深みが感じられないので、恐らく室町時代以後の作と思われますが詳しい事は知りません。本像は合体尊とは云っても、愛染の六臂に対して不動は剣・索の二臂のみである上、獅子の背に置かれた宝瓶上の蓮花に坐していますから、愛染明王の性格が強く出て不動尊の面影はかなり希薄であると云えます。「宝瓶の両畔より諸宝を吐」く事も『瑜祇経』「愛染王品」の所説による常の愛染道場観の通りですが、注意すべきは矢を上方に向けた弓箭の構え方です。『覚禅鈔』に於いては此の様式の愛染王を「智証(大師)」様と称していますから、此の合体尊はやはり三井寺の法流を伝える僧侶グループの中で生み出されたのでしょう。
同趣の白描図像が京都市立芸術大学芸術資料館編『仏教図像聚成 上巻 六角堂能満院仏画粉本』の中に見出せます。それはNo. 2178「両頭愛染明王二童子像」であり、その尊容は、宝瓶の円く張った胴部が消滅している事を除けば獅子を含めて上記「厄神明王像」と全く同じと云えます。本図像に於いては、上方に火焔に包まれた五股杵、下方左右にそれぞれ白象と獅子に乗って弓を射る童子の姿が描き加えられています。更に右方(向かって左)の獅子に追い立てられて狐(尾の端に宝珠がある)が象の下に逃げ込もうとするかのように描かれていて、その意味する所はよく分りませんが稲荷曼荼羅の影響が伺えます。本図の右上部に墨書があり、
愛染不動明王
文政十二年(1829)己丑三月十二日、和州(奈良県)忍辱山(にんにくせん)知恩院道場に於いて之を写す。原本一軸、紀州(和歌山県)ノ僧の持ち来れるなり。
等と記されています。本稿の第三章「不動・愛染一体の口決と『毘盧遮那三菩提経』」に於いて、仁和寺の勝遍律師が両尊一体の口決を説いている事を見ました。此の勝遍の法流は忍辱山流でしたから、後世に至っても此の口決と忍辱山(円成寺)との間には何かしら深い繋がりがあったかのようです。
(以上)
補記(一)愛染・不動一体に関する覚洞院権僧正勝賢の口説
大正大蔵経『図像』第五巻の『覚禅鈔』81「愛染法下」に於いて、
御抄に云く、前唐院(慈覚大師)証本の染愛王像は両頭・両臂なり。全く愛染王に非ず〔云々〕。秘釈には、醍醐僧正(勝賢)云く、不動と愛染王とは差別無し。一身両頭の左面は不動尊なり。右面は愛染〔云々〕。
と云いますから、此の勝賢の口説が不動・愛染一体の口伝に関して明白に言及している最も古い証言かも知れません。本文の第三節に於いて述べたように勝賢は始め仁和寺の僧として忍辱山流を習っていましたし、醍醐に移ってからも師僧の最源等の仁和寺僧と親交があったと考えられるので、今の口説も仁和寺から出たものかも知れません。それと云うのも同じく「愛染法下」の裏書644に於いて、愛染曼荼羅(九仏愛染/図像287)に十二臂大日が描かれている事に関連して、
権僧正(勝賢)云く、大勝金剛(『瑜祇経』に説く十二臂の尊)を十二臂の愛染王と習う事は仁和寺の秘事なり〔云々〕。
と云い、勝賢が愛染明王に関する仁和寺の秘説に通暁していた事を伺わせるからです。
補記(二) 六角堂能満院仏画粉本の中の「両頭愛染明王二童子像」の原画の事
本文製作の最中には気が付かなかったのですが、上記粉本の原画は金剛峯寺蔵の鎌倉時代末の作とされる絹本著色画像です。粉本の如き宝瓶部の不完全な描写が無いのは勿論の事です。