『三種悉地軌』『破地獄軌』と両部不二の事
目次
其の一
(一) 伝教大師の三種悉地法相伝の事
(二) 三種悉地法を記す経典(儀軌)の事
(三) 三種悉地真言の本説の事
(四) 『三種悉地軌』と両部不二の事
其の二
(五) 『破地獄軌』と両部不二の事
(六) 『尊勝破地獄陀羅尼』と両部不二、『尊勝軌』の事等
(七) 三種悉地法の生起(ショウキ)の事/『毘盧遮那心地法門』に付いて
(八) 『毘盧遮那別行経鈔』の事
(五)『破地獄軌』と両部不二の事
『三種悉地軌』には金剛界五佛の名称や「金剛頂経五部真言」なる語句が見られるにしても、別して三十七尊等の金剛頂経教理に言及する事はありません。その一方で下段に於いては胎蔵法門に関して支分生の三重曼荼羅をかなり詳しく説く等、明らかに『大日経』や同『疏』の影響下に成立した経典であると云えるでしょう。
是に対して此の『破地獄軌』は以下に見る如く随所に金剛界法と胎蔵法の合揉(ゴウジュウ)、即ち両部不二の説が記されています。後文に言及する如く、此の事が東密小野流の金剛界法次第や両部不二説に影響を与えた可能性があります。弘法大師を祖とする東密に於いては原則として両部合揉の経典である『蘇悉地経』を依用(エヨウ)しないので、平安中期までは両部不二に言及する事は無かったと思われます。但し四度加行(シドケギョウ)の「十八道法」は蘇悉地立(ダテ)ですから、東密に於いても当初から金胎合揉の考え方が無かった訳ではありません。
『破地獄軌』も最初にアバンランカンケンの五字と金剛界五部、内臓の対応関係を説いて、「
摩訶毘盧遮那如来は金鼓(コンク)して説く。口を開け舌を挙げて法界宮殿を震わしたれば、蓮華台蔵世界の諸如来は出定す。即ち以て地獄を摧破して七遍の殃(オウ わざわい)を滅し、起ちて菩薩を教えて五字秘密を説く。是の五字とは阿鎫覧唅欠なり。
阿字は金剛部主にして肝(臓)、鎫字は蓮華部主にして肺、覧字は宝部主にして心、唅字は羯磨部主にして胃、欠字は虚空部主にして脾なり。」
と述べています(大正蔵18 p.912b)。五字と内臓の対応を記して唅字は胃としていますが、『三種悉地軌』は腎臓に配当していました。胃は五臓では無く六腑の中の臓器であり、やゝ不審の事です。アバンランカンケンの五字は五臓六腑を主(ツカサド)る事を示しているらしく思われます。此の五字を金剛界五部、内臓に配当する文章は『三種悉地軌』に比べて至って簡略です。
次いで「阿字の意」を説いて、是は本「五部の梵本四十万言に出す。毘盧遮那経(大日経)・金剛頂経は要妙を採集せるが、最上の福田は唯此の五字真言なり。」と云う等、『三種悉地軌』と同文が記されていますが、その後は説文を異にしています。此の『破地獄軌』には、「
右五部真言は是れ一切如来無生甘露の珍漿、醍醐佛性の妙薬にして、一字しも五蔵に入れば万病生ぜず。況や日観・月観を修すれば即時に佛身の空寂なるを証さん。是の阿鎫覧唅欠の五字は法身の真言なり。」
と云い、次いで「阿字観」にも言及しています。上文の「一切如来」なる語は金剛頂系の経典に好んで頻繫に用いられる事も留意すべきでしょう。
前段の終りに阿鎫覧唅欠五字を各々金剛地部・金剛水部等に配当して其の形状等を示す事は『三種悉地軌』に同じですが、本軌には注目すべき補記が成されています。即ち五字と金剛界五智の対応関係を記して、阿は「大円鏡智なり。又金剛智と名く。」、鎫は「妙観察智なり。又は蓮華智、亦転法輪智と名く。」、覧は「平等性智なり。亦灌頂智と名く。」、唅は「成所作智(ジョウショサッチ)なり。亦羯磨智と名くなり。」、欠は「法界体性智」と記されています。是に依って本軌が両部不二の考え方に大きく足を踏み入れている事が伺えます。
(p.912c)
中段に於いては其の事が明確に示されています。即ち中段には金剛・胎蔵両界の道場観が記されていますが、此の金界道場観は器界観と本尊観を具備する本格的なものです。此の道場観に類する説は、金界法の典拠である『蓮華部心軌』に見られず、『蓮華部心軌』の本説である『初会金剛頂経』にも記されていません。金剛智三蔵(671-741)は『初会金剛頂経』を意楽(イギョウ)略出して『金剛頂瑜伽中略出念誦経』四巻(或いは六巻)を訳出しましたが、是には参考とすべき道場観が記されています。これ等の事は、以下に此の『破地獄軌』の道場観を全出する中で、逐次コメントを付して解説します。
先ず通例の如く須弥山(妙高山)の観想に至る器界観を記しています。器(世)界とは、本尊乃至その道場を取り巻く世界を云います(正報に対する依報(エホウ)の事です)。即ち「地水火風空五輪(五大)の種子(シュジ)は阿鎫覧唅欠の五字なり。」と述べてから、「
地輪の上に水輪あり。水輪の上に火輪あり。火輪の上に風輪あり。風輪の上に空輪あり。空輪の中に憾字(梵字のham)を想え。其(の字)は深玄色の如し。漸く舒(ノ)びて広成(コウジョウ)す。(斯くして広大なる風輪と成る。)風輪の上に鎫字を想え。変じて水輪と成る。上に鉢羅(pra ハラ)字の金色なるを想え。(鉢羅字)変じて一つの金亀(コンキ)と成る。(其の)背の上に素(su ソ)字を想え。即ち変じて妙高山王と成る。四宝を以て所成せり。亦(妙高山王の辺(ホトリ)に)剣(kam ケン)字あり。変じて(七)金山(コンゼン)と成り、(妙高山王を)七重に囲繞(イニョウ)す。虚空の中に毘盧遮那佛を想え。身の毛孔(モウク)より香乳を流出(ルシュツ)して、七金山の間に雨澍(アメフラ)す。以て八功徳香水の乳海を成ず。」
と述べています(p.912b)。此の器界観の文は『破地獄軌』の作者が製作したものでは無く、不空訳二巻本『千手軌』から転載したのです(大正蔵20 p.75a)。此の『千手軌』は詳しくは『金剛頂瑜伽千手千眼観自在菩薩修行儀軌経』と云います。
ここで注目されるのは、此の器界観の文と醍醐寺の延命院元杲作『金剛界念誦私記』の道場観に親近性が認められる事です。元杲僧都(914―995)は、祈雨の効験が顕著な事から雨僧正と称された小野僧正仁海(955―1046)の師僧であり、此の元杲作『私記』は中古小野流の金剛界法次第の模範とされました。元杲『私記』道場観の器界観に於いては、初めの五輪の観想が『破地獄軌』とは上下逆の空風火水地の順に成っていますが、其れに続けて「
其の(地輪の)上に大海の八功徳水あり。其の上にハラ(梵字pra)字あり。金亀と成る。其の上にソ(su)字あり。妙高山王と成る。四宝の所成なり。其の辺にケン(kam)字あり。七金山及び大小鉄囲山(テッチセン)と成りて妙高山を囲繞(イニョウ)す。」
と記しています(『三憲聖教』本に依る)。直接かどうかはさて置き、此の文が不空訳『千手軌』或いは『破地獄軌』から採取されている事は明らかでしょう。
元杲の『私記』が此等両軌の何れに依るかを検討する前に、参考までに『略出経』に記す器界観を見ておきましょう。其れには「
復観ぜよ。(過去・現在・未来の)三世は虚空に等同なり。又琰(タン dham 法界の種子に空点?)字を想え。黒色の境と為り、地・風輪界を持す(通例は風輪の上に水輪があり、その上に地輪がある)。復剣(ケン kam)字を想え。囲輪山(七金山)と為る。勝宝を以て飾れる所なり。又虚空に於いて鎫(vam)字を想え。毘盧遮那佛と為る。慈悲を具するに由りて乳を流注す。両辺の輪囲山は便ち甘露大海と成る。其の海中に於いて復般喇(ハラ pra)字を想え。以て亀の形と為る。其の亀は由(ナオ)し金色の如し。身の広大なること無量由旬(ユジュン)なり。」
と云います(大正蔵18 p.227a)。内容に共通する所があるにしても、元杲の『私記』が是を等閑視している事は一目瞭然です。
それでは『私記』が『千手軌』『破地獄軌』の何れに依っているかと云えば、『破地獄軌』を本説としていると考えてほぼ間違いないのです。其れは器界観のみならず、本尊観の三昧耶形に於いても『破地獄軌』の影響が見られるからです。以下に『破地獄軌』の本尊観を全出する過程で、亦その事に付きコメントします。
即ち『破地獄軌』の金界道場観は、器界観に次いで本尊観を記して(初めの部分は別して道場の有様を述べます)、「
当に心想すべし。妙高山の頂上に於いて吉祥唎(吉唎? キリク hrih)字あり。変じて八葉蓮華と成り法界に遍ず。蓮華の上に阿字あり。変じて八華(峯?)八柱の宝楼閣と成る。高広にして中辺無し(あまりに大きくて中央と周辺を区別できない)。諸(モロモロ)の大なる微妙の宝王もて種種に荘厳す。六十恒河沙(ゴウガシャ)俱胝(クチ/クテイ)の如来及び諸天龍・八部(衆)、内外の諸供養菩薩は此の法界宮殿を囲繞す。又(宮殿の中に)(吉)唎字門あり。変じて大蓮華葉と成る。上に曼荼羅(此の曼荼羅は「壇」の意)あり。曼荼羅上に師子座あり。師子座の上に蓮華王あり。上に浄満月(ガチ)輪あり。」
と云います(p.913a)。大変詳しく丁寧な文章なので一旦区切りました。此の「浄満月輪」は曼荼羅の中尊大日如来の背後の円光です。続いて蓮華座と本尊大日の種三尊の転成(テンジョウ)を説いて、「
満月輪の上に吉唎(hrih キリク)字あり。変じて妙月大蓮華と成る。上に鎫(vam)字あり。大光明を放ちて普く法界を照らす。所有の(あらゆる)三界・六道・四生・八難の受苦の有情は、光の照触(ショウソク)に遇いて解脱することを得(ウ)。此の鎫字変じて卒都婆と成る。(其の形は下より)方・円・三角・半月(ハンガチ)・円形(団円)なること地水火風空の五大所成の故なり。此の卒都婆変じて摩訶毘盧遮那如来と成る。身色は月の如くして首(コウベ)に五佛冠を戴き、妙なる紗縠(シャコク/ちりめん)の天衣、瓔珞(ヨウラク)を以て其の身を荘厳す。光明は普く十方法界を照らせり。」
と記しています(p.913a)。此の毘盧遮那仏(大日如来)の種子・三昧耶形・本尊形(羯磨身)、即ち種三尊の転成観には奇妙な所があります。金剛界大日の三昧耶形は、金剛界大曼荼羅(九会曼荼羅)の三昧耶会に画かれている如く法界円塔(鎫一字塔)であり、同じく卒都婆(塔)と云っても上の道場観に記すが如き「五大所成の」五輪塔ではありません。五輪塔は胎蔵大日の三昧耶形です。此の事から『破地獄軌』の作者は、金界法と胎蔵法門の一如、即ち蘇悉地法、或いは金胎両部の不二という考え方を積極的に推し進めようとしていた事が伺えるのです。
ここで又延命院元杲の『金剛界念誦私記』を見てみましょう。その本尊(中尊)大日の種三尊の転成を述べる部分に、「
曼荼羅(是は「壇」の事です)の上に月輪あり。月輪の上に亦キリク(hrih)字あり。蓮華と成る。蓮華の上にアバンランカンケン(梵字 a vam ram ham kham)の五字あり。各(オノオノ)大光明を放ちて遍く法界を照らす。此の五字変じて卒都婆と成る。方・円・三角・半月・団形なり。地水火風空の五大所成なり。光を放ちて普く法界の衆生を照らして抜苦与楽す。此の卒都婆変じて毘盧遮那如来の羯磨身と成る。身相は白肉色にして五智の宝冠を著(キ)たり。結跏趺坐して大智拳印に住せり。」
等と記しています(太融寺版『三憲聖教』本に依る)。『破地獄軌』の文と比較して同文とは云えないにしても、肝心の種三尊の転成部は種子を除いて同じです。延命院の『私記』は「鎫字」に変えて「アバンランカンケン」としていますが、是は勿論三種悉地法の上品悉地の真言です。これらの事と前述の器界観の共通性を考慮すれば、延命院『私記』の道場観は半ば以上『破地獄軌』に記す金界道場観に基づいて製作されていると云って過言で無いでしょう。
此の事は小野流の歴史を考える上で見過ごすことが出来ない事柄です。元杲の師僧である石山内供淳祐(890~953)は中古の東密事相の礎(イシズエ)を築いた大学僧です。元杲は其の師伝を離れて、新しく『破地獄軌』を依用した金界次第を製作したのです。
此の事を確認する為に、淳祐の説を見ましょう。淳祐には『真言宗全書』24に収載する『金剛界次第法』四巻(石山四巻次第)があります。その巻第二の「入道場観」の条に本尊の種三尊転成を記して、「
其の(月輪の)上にバン(vam)字あり。変じて法界窣堵婆と成る。窣堵婆変じて毘盧遮那如来と成る。身は白肉色にして五佛の宝冠を着け、結跏趺坐して大智拳印に住せり。一身四面の義あり。」、
等と述べています(p.420上 イ本)。此の淳祐の説は恐らく弘法大師真撰とされていた(実には禅林寺宗叡作)『金剛界大儀軌』の説を踏襲しているのです(『弘法大師全集』第四輯、巻第十二 p.476)。「四面」の事は『略出経』の道場観にも見えますが、是には大日如来の種三尊転成が記されていません(大正蔵18 p.227b)。
元杲は師伝に依らず、何故か『破地獄軌』の文を自ら製作の金界道場観に採用したのです。而も当該軌は伝教大師相伝の三種悉地法に関連する典籍ですから、天台僧の間では良く知られていても、元杲のような東密僧には疎遠な書であったと思われます。此の事は一見不可解ですが、実は元杲は山門の巨星良源大僧正(912~985)と親交があり、金剛界法に関しては別して両人の間に詳しい意見の交換があったようです。
その事は醍醐寺座主勝賢僧正(1138―96)作「金剛界念誦賦」に記されています。此の中で勝賢は「金剛界念誦賦」製作の動機に付いて記して、「
近日、醍醐の経蔵を開きて多く旧記を覧(ミ)れる間、天台の慈恵僧正(良源)と醍醐の元杲僧都とが贈答せしめる金剛界念誦賦を求得せり。」
と語っています(『日本密教人物事典』上巻の「勝賢」の条第32項)。従って元杲は良源を介して『破地獄軌』を知り、その中の金界道場観に感銘して自らの『念誦私記』に依用したと推測することが可能です。
次に『破地獄軌』に戻って、金界道場観の続きの部分を和訳全出しましょう(但し煩雑を避ける為に曼荼羅諸菩薩の個々の名称を略します)。即ち先ず曼荼羅の諸尊を説いて、「
皆月輪に倚りて(寄りかかって)四佛・四波羅蜜・十六(大菩薩)・八供・四摂・賢劫千佛・(外金剛部)二十天あり。無量無辺の菩薩を以て眷属とす。四佛とは金剛堅固自性身阿閦佛・福徳荘厳身宝生佛・受用(ジュユウ)智慧身阿弥陀仏・作変化(サヘンゲ)身釈迦牟尼佛なり。四(波羅蜜)菩薩とは(中略)。十六菩薩とは(中略)。八供養菩薩とは(中略)。四摂菩薩とは(中略)。是の如き眷属を以て是の如く観ずること已(オワ)る。」
と記しています(p.913a,b)。次いで曼荼羅観想の功徳と神変を説いて、「
証心の清浄なるを以て自心(原本イ「自身」)は佛と為り、衆相(三十二相)は皆円満す。即ち薩波若(サハンニャ/一切智)を証して、(自身に)三十七尊聖を具して円(マドカ)なり。即ち空中を観ずるに諸佛は胡麻の如く虚空界に遍(アマネ)し。身を想えば十地を証せり。鎫字変じて大悲水と成り、擬するに、我及び一切有情の菩提心の大地に散灑して百六十心の戯論の垢を洗浄す。皆悉く煩悩罪垢を断じて、即身に父母(ブモ)所生の身を捨てずして、現身に大菩提なる佛果の位を証得す。」
と述べて、是を以て金界道場観の段を結んでいます(p.913b)。
『破地獄軌』は次に胎蔵道場観を説きます。ここで特に注目すべきは本尊毘盧遮那佛の外に別して不動明王を説いている事でしょう。先ず器界観を記しています。即ち「
観ぜよ。身内に大海あり。其の底に鉢羅(ハラ pra)字あり。色は金色なり。其の字変じて金亀と成る。是は佛性なり。其の亀の上に蘇(ソ su)字あり。変じて須弥山王と成る。其の山の上に阿字あり。変じて種種色微妙(ミミョウ)の金剛地輪と成る。」
と云います(p.913b)。続けて道場と本尊大日を説いて、「
輪上に三十八肘(チュウ)の道場あり。(其の中の)暗(am)字変じて三重の摩尼宝殿と成る。即ち(三重とは)欲・色・無色界なり。七宝を以て荘厳す。其の妙宮内に十肘の壇場あり。即ち是は十法界(地獄より佛に至る十界)なり。其の場中に大覚師子座あり。其の中に阿字あり。変じて四肘の瑟石(シツセキ)と成る。即ち重曼荼羅なり。其の重とは発心・修行・菩提・涅槃なり(四阿字の功徳を具する意)。其の上に大白蓮華あり。其の華の上に阿字(是は種三尊の種子。三昧耶形は説かず。)あり。変じて法身摩訶毘盧遮那如来身と成り、阿鎫覧唅欠(アバンランカンケン)を説く。此の五字変じて(金剛界)五智如来身と成る。又(胎蔵)八葉九尊身と成る。又五大明王身と成る。」
と述べています(同)。大日如来が三種悉地法の上品悉地真言であるアバンランカンケン五字を説き、此の五字が金界五佛と胎蔵中台八葉院の諸尊に成ると述べて、ここでも両部一如の考えを示しています。又五大明王は通例不動・降三世・軍荼利・大威徳(六足尊)・金剛夜叉の五尊であり、是も両部の尊が合揉されていますから『大日経』『金剛頂経』に直接その典拠を求める事は出来ません。次に別して不動尊に付いて記して、「
大日如来変じて憾(カン haan)字と成り、字変じて剣と成り、剣変じて不動明王身と成る。明王変じて瞿利伽羅大龍と成る。忿怒相を現して利剣に纏う。龍王変じて二人の使者と成る。矜迦羅(コンガラ)使者と制咤伽羅(セイタキャラ)使者が此なり。」
と云います(同)。
次いで『三種悉地軌』が上品悉地の別称と功能に付いて記す部分を載せていますが、本軌に於いても下(後段)に三種悉地法を記しています。上の胎蔵道場観に上品悉地の五字真言アバンランカンケンを説くことから、此の部分をここに別出したのでしょう。又『三種悉地軌』が後段に長々と胎蔵教理を述べるのに対して、此の『破地獄軌』が胎蔵教理に言及する部分は短文です。従って本軌は『三種悉地軌』の胎蔵教理を説く文章に替えて金胎両部の道場観を記していると云えるでしょう。本軌の此の上品悉地に付いて記す部分は長い文章ではありませんから、是も全文和訳して下に示します。即ち、「
是の(アバンランカンケン)五字は是を秘密悉地と名くなり。亦成就悉地と名く。亦蘇悉地と名く。蘇悉地とは遍法界なり。(即ち)佛果を成就して大菩提を証す。法界秘密の言は光明遍満して唯佛と佛とのみ能く此の門に入り、縁覚・声聞は此を照すこと能(アタ)わざれば亦秘密悉地と名く。若し誦すること一遍すれば当に一切経一百万遍を転ずるが如くなるべし。秘密悉地は心より頂きに至る。秘密悉地は即ち法身成就にして、即ち是れ(化身・報身・法身)三種常身の正法蔵なり。是の故に稽首して尾(毘)盧遮那佛を礼す。」
と云い(p.913b,c)、終わりの部分を簡略にしている以外『三種悉地軌』と全く同文です。
続けて『三種悉地軌』が初めに記す偈頌(ゲジュ)を抄出して、毘盧遮那佛の「深妙なる真言加持法は 無生阿字門に流入(ルニュウ)す」と云い、是を受けて「
阿字は阿摩羅識(無垢識/自性清浄心)の如し。阿摩羅識の体は阿梨耶識(第八識/蔵識)なり。阿字を用いて万法を含蔵すること、猶し蔵識の諸法を含めるが如きなり。故に毘盧遮那の四字は四教義を含み、九重の月輪(ガチリン)は八葉九尊を表す。」
と記しています(p.913c)。
以上が中段の文です。以下(下段)に上中下の三品(三種)悉地を説きます。先ず下品の文殊真言アラワシャノウ、次に中品の大日真言アビラウン「キャ」、そして上品の毘盧遮那真言アバンランカンケンを説いていますが、『三種悉地軌』の所説に同じですから省略します(上品悉地の文は上に記しました)。ただ下品の真言には「一字、唵慈臨【二合】(om dhrim?) 万事に通用す。」なる記があります。(p.913c)
次いで『三種悉地軌』に無い尊勝佛頂に関する文を記して、「
是の如き三種悉地真言は佛頂尊勝の心真言なりと雖も、皆是れ大日如来の三身真言なり。此に由りて当に知るべし。尊勝佛頂は即ち是れ毘盧遮那如来身にして、即ち是れ三部の佛頂身なり。」
と述べていますが(同)、どうして「三種悉地真言は佛頂尊勝の心真言」なのか説明がありません。
次に三品悉地各々に付いて説いていますが、その内容は『三種悉地軌』に異なる所がありませんから省略します。
続けて三種悉地真言の功徳を説く流通文(ルヅウモン)を記しています。その中で即身成佛を説いて、「
若し最上根の人ありて常に日夜(初夜・後夜・日中)三時に持念し、若しは時時剋剋に憶念すれば、定めて此の人は父母所生(ブモショショウ)の身を捨てずして、現身に当に不思議難得の佛身を得べし。」
と述べています(p.914a)。
又最後に来世浄土と阿字の功徳を説いて、「
願いに随って命終(ミョウジュウ)の後に蓮華台蔵世界の中に生まれて、常に本覚阿字の本佛毘盧遮那如来の妙体身を見奉り、常に彼の世界にて自受法楽す。是は毘盧遮那如来金口(コンク)の説なり。(金剛界)五智如来は阿字の中より出生して無量身を化(作)す。」
等と云います(p.914b)。最後の一文に依って、『破地獄軌』の作者の両部不二観が明らかです。即ち金剛界は胎蔵根本阿字の派生説と見ているのです。
末尾に『三種悉地軌』の始め(p.909b,c)と終り(p.912a,b)に載せる偈頌を合わせて抄出しています。是も和訳して下に全出します。
「白毫の光相なる正遍知は/円満恒照すること日月の如し。/阿閦・宝生救世(グゼ)者と/弥陀・成就不空王とは/咸(ミナ)悉地の吉祥輪に於いて/斯(コ)の妙法を伝えて諸有を化(導)す。/慈心自在降三世/金剛薩埵・不動尊は/誓願に違(タガ)うこと無く時期に応じて/瑜伽事畢れば金剛に還る。/
我は毘盧遮那佛に依りて/心の智印を開きて標儀を建て/無量の功徳もて普く荘厳したれば/同じく総持諸善逝に入らん。/願わくは有縁の修学者と共に/無上清浄海に安住せんことを。」(p.914b)
(六)『尊勝破地獄陀羅尼』と両部不二、『尊勝軌』の事等
『尊勝破地獄陀羅尼』は『佛頂尊勝心破地獄転業障出三界秘密陀羅尼』の略称(仮称)です。名称からして『破地獄軌』との関連が明らかですが、当『陀羅尼』は短編であり、『破地獄軌』の略出本に近いと云えます。
初めの九行分は文章が前後乱れていますが、是を訂正するための原注記があって簡単に本来の文章に直せます。
『破地獄軌』と同じく初めに、蓮華蔵の諸如来が出定して菩薩の為に「五字秘密を説く」事を述べます。但し『破地獄軌』と違って、「菩薩」に「善住天子なり」と細注し、又「五字」を具体的に明らかにしていません。
善住天子は尊勝曼荼羅の両辺に画かれる六個の飛天中の一天で、『佛頂尊勝陀羅尼経』の物語に於いて命終後に七反畜生の身を受けると予言されます。此の事が機縁となって世尊が佛頂尊勝陀羅尼を説いたのです(大正蔵19 p.361c~363a)。此の中に「尊勝心破地獄」なる題名の由来が知れる文章があるので参考までに紹介しましょう。即ち「
爾(ソ)の時世尊は此の陀羅尼を説き已って(付嘱者の)帝釈に告げて曰く、此の陀羅尼印を浄除一切悪趣佛頂尊勝陀羅尼法と名づく。亦能く一切の罪業等の障りを除滅し、能く一切の穢悪道の苦を浄(キヨ)む。(中略)大日如来の智印を以て之を印すること、一切有情の三悪趣の網を破する為なり。一切の地獄傍生なる琰摩王界の所の有情をして而も解脱を得せしめ、衆苦逼迫して生死海に堕せる有情をして解脱を得せしめんが故なり。」
等と述べています(p.362c,363a)。三種悉地法を説く三本の経軌が尊勝佛頂(陀羅尼)と関連付けられる理由については、既に本稿(二)「三種悉地法を記す経典(儀軌)の事」に於いて『三種悉地軌』が説く五字各々の図形や五輪塔の本説が『尊勝軌』にある事を指摘しました。
さて「五字」に付いて此の『尊勝破地獄陀羅尼』は此の箇所で具体的に何も記していませんが、其の替わりに五字の功能(呪力)を説いて、「
如法の布字は、人主(王)の冠中に頂戴すれば、万国清泰にして節度を観察す。旌旗(ショウキ/ハタ)の上に(五字)真言を書けば四方晏静(アンジョウ)にして、専ら城の大守は総て戎(エビス/蛮族)を鎮遏(チンアツ)す。」
等と記しています。(p.915a)。
次に『破地獄軌』と同文が続きます。即ち先ず阿鎫覧唅欠(アバンランカンケン)五字と金剛界五部・五臓(六腑)との配当を説きますが、『三種悉地軌』と違って唅字を五臓の腎臓では無く六腑の胃に配当する事は『破地獄軌』で述べた通りです(同)。
次いで「山海大地は阿字より出で」等と世界の有り様を五字の功徳に帰し、又五字を五方五佛に配当して「
阿字は是れ東方阿閦如来、鎫字は西方阿弥陀如来、覧字は是れ南方宝生如来、唅字は北方不空成就如来、欠字は是れ上方毘盧遮那大日如来」
と述べる事も『破地獄軌』に同じです(同)。
次(中段)に「阿字は甚深空寂の体にして、之を取るとも取るべからず」以下の文章も大体は『破地獄軌』に同じですが、少しく異なる文章に「
金剛頂経五部真言(アバンランカンケン)を受持読誦して理性を観照すれば、人をして獲福(ギャクフク)して骨堅・体健ならしめ、永く災障と及び諸病苦無くして長寿を摂養(ショウヨウ)せしむ。【五臓曼荼羅は是れ五部法身なり。】」
と云います(p.915a)。此の文章に於いて、胎蔵五字真言を「金剛頂経五部真言」と強弁して、殊更に両部不二(蘇悉地)を説くのが注目されます。又注記中の「五臓曼荼羅」とは、『三種悉地軌』に見た如く五字を五方・五部・五臓・五大等に配当する事を指すのでしょうが、『破地獄軌』と此の『陀羅尼』では五部・五臓(六腑)に対する配当のみを記しています。
次に阿鎫覧唅欠五字をそれぞれ「金剛地部」「金剛水部」「金剛火部」「金剛風部」「金剛空部」に配する文章が続きますが、此の部分は『破地獄軌』の文章配列に異なって何故か前方に移動しています(p.915a,b)。
又『破地獄軌』に説く金胎道場観の如きは此の『尊勝破地獄陀羅尼』に全く記されていません。
次(下段)に「已下の三箇真言は是れ三種悉地なり。成就法中に上中下品の差別を立つるなり。」と述べて、下品(出悉地)「阿羅波遮那(アラハシャノウ)」、中品(入悉地)「阿微羅吽佉(アビラウンキャ)」、上品(秘密悉地)「阿鎫藍唅欠(アバンランカンケン)」の三真言を説きます。是も『破地獄軌』に同じですが、中品真言に付いて「大日経悉地(出現)品に降伏四魔・解脱六趣・満足一切智智金剛字句と名くなり。」と説明を加えています。又上品真言の後に注記して、「
前の五(字)の三印(真?)言を以て順に一遍、逆に一遍(を誦し)、次に順に旋転(セテン)すること四遍、次に逆に旋転すること四遍せよ。此れ即ち一切衆生を利益して、皆以て悉地(を成就)する義なり。」
と述べています。(p.915b)
上品悉地を説いた後に三種悉地に付いて総説する事も『破地獄軌』に同じですが、その文章は大いに短縮されて僅かに、「
出悉地は足より腰に至り、入悉地は臍より心に至り、秘密悉地は心より頂きに至る。是の如き三悉地(の中)、出悉地は化身成就、入悉地は報身成就、秘密悉地は蘇悉地法身成就なり。即ち是れ三種常身の正法蔵なり。是の故に稽首して毘盧遮那佛を礼す。」
とのみ述べています(p.915b)。
最後に「稽首毘盧遮那佛」以下七字二十二句の偈頌(ゲジュ)を載せていますが(p.915c)、是は『破地獄軌』に於いて三種真言の前と全篇の最後に分出していたのを一箇所にまとめたものです。『三種悉地軌』の字句と同じであること等、前項に述べた通りですから再説しません。
尾題に「佛頂尊勝心破地獄法一巻」と云います(同)。
さて三種悉地法を説く三本の経軌の中、『三種悉地軌』を除く他の二本には題目に「佛頂尊勝心」なる語が冠されています。ここで「心」は真言(陀羅尼)の意と思われるので、題目だけを見ると以下に記す「破地獄転業障」等の効験は佛頂尊勝陀羅尼の功徳に依る事を説いているかの如き印象を与えます。しかし実際には三本共に同陀羅尼に言及する事は全くありません。
又三本の経軌に共通して記す所の、上品悉地の五字真言阿鎫覧唅欠(アバンランカンケン)の各字を金剛界五部、五臓等に配当する文章の広略を考慮すれば、最初に成立したのは『三種悉地軌』であろうと考えられます。『三種悉地軌』に付いて尊勝陀羅尼との関連を探ると、善無畏訳の『尊勝軌』(具には『尊勝佛頂修瑜伽法軌儀』)二巻の上巻にアバンランカンケン五字と五輪塔を説く部分があるのが注目されます。即ち「尊勝真言持誦法則(ホッソク)品第二」に於いて先ずラン字観を説き、次いで「次に即ち五輪三摩地に入れ。」と云い、以下に各輪の字と形色を述べてから金剛合掌を以て五処加持する事を説いています(大正蔵19 p.368c,369a)。
その次に有為(生滅転変の世界)と無為(恒常不変の世界)との二種の五輪塔図を載せていますが、先ず有為の五輪塔を説いて「
大空点は種種色を具す。名づけてケン(梵字:kham)欠字と為す。カン(梵字:ham)唅字は風大なり。ラン(梵字:ram)藍字は火大なり。バン(梵字:vam)鎫字は水大なり。ア(梵字:a)阿字は地大なり。金剛輪(地輪)は腰より下、大空輪は頂上、風輪は眉の上、火輪は心上、水輪は臍中なり。」
と述べて、次に五輪塔図を載せています(上下普通の五輪塔 p.369b)。続けて無為の五輪塔を説いて「
既に有為の五蘊・四大を去りたれば、無為の金剛不壊の五蘊を立つ。即ち無漏智身と名く。即ち無為の曼荼羅地も亦然り。其の曼荼羅を五輪加持し、名づけて地水火風空と為す。有為の五大を去りて無為の五大を立つ。故に先ず曼荼羅地の相を観ずる時、先ず空より起り(空を起点として)上に風等を観ずること左【図】の如し。
アンバンランカンケン(梵字:am vam ram ham kham)」
と述べて次に五輪塔図を載せていますが、是は普通の五輪塔と上下が逆に成っています(同)。
既に第二章「三種悉地法を記す経典(儀軌)の事」に於いて『三種悉地軌』を概説する中で言及しましたが、『尊勝軌』の有為の五輪塔図は『三種悉地軌』に於いて上品悉地真言アバンランカンケンの各字の形や金剛地部・金剛水部等五部に配当する事を説いた後で掲出されています。亦アバンランカンケン五字/五輪を「而して即ち腰下より頂上に至る身の五処に安立す」る事も上出の『尊勝軌』の文に依ったのでしょう。即ち『三種悉地軌』は題名にこそ「尊勝」の語を欠いていますが、実には上品悉地真言を説く上で『尊勝軌』を参照しているのです。
因みに『尊勝軌』の文をもう少し続けて出すと、「
浄法界心を以て先ず曼荼羅地の中の穢悪触等を焼く。然る後に次第に依りて五大輪を安立す。即ち結界・護身・辟除(ビャクジョ)を以て光顕して三業を浄除し、菩提心等を堅固にす。是の故に復金剛三昧耶の真言及び印に入る。真言に曰く、
オン・バザラマンダ・タラタ(原文は漢字表記 是は金剛界法「合智(ガッチ)」の真言)
其の手印の相は(以下に「合智」の印文を説く)。」
と云います(p.369b)。即ち胎蔵五輪塔(行者の身体)を浄めて堅固にする為に金剛界法を用いています。従って『三種悉地軌』の作者は、当初から『尊勝軌』に依って両部不二/蘇悉地思想の影響を受けていたでしょう。しかし其れは部分的であり、全体としては胎蔵法に依る記述が為されています。是に対して『破地獄軌』に於いては大胆に金剛界法が取り入れられた事は既述の通りです。
『尊勝軌』は亦「上中下の三種悉地」を説いている事も留意すべきです。説処は巻下の「尊勝真言証瑜伽悉地品第九」です。『三種悉地軌』等の説と内容を異にしますが、参考の為に抄出して大概を示しましょう。先ず冒頭に「
復次に是の如く上中下の曼荼羅を画き、如法に供養作法して(尊勝陀羅尼を)念誦すること十万遍すれば、必ず上悉地を得ん。若し一百、二百、三百、四百万遍すれば作法せざるも亦成就を得ん。一切世間に求むる所の勝事にして意の随(ママ)ならざるは無し。五逆の事、恩徳に背く等を除遣して、余は皆成就す。若し千万遍すれば必ず無生(法忍)の悉地を獲て、即ち本尊の身に同じ。」
と述べています(大正蔵19 p.379c)。
次いで悉地成就の近き事を示す種種奇徳の相を説いてから悉地成就の効験を記して、「
悉地に三種あり。下悉地は長生不死にして地仙(地居天/ヂゴテン)中の王と為る。或いは世間の一切勝事に巧妙にして赤白を合練す。種種の勝事、多聞智慧、福徳は具足せざること無し。住寿は万万歳なり。中悉地は隠形(隠身)なり。悉地中に転輪聖王と為る。住寿は一劫なり。上悉地は加持する所の薬物・器杖等に三相具現す。五地已上八地已来(以前)の菩薩の身を証することを得ん。一念の間に無量の諸天、大梵天王、無量の帝釈天衆、毘沙門天王等は,各(オノオ)の無量の大威徳天衆を領して迎え来たらん。(中略)是の如き説は名けて有相悉地の法と為す。」
と云い、続けて「其の念誦(に用いる)薬物・器杖」等に付いて述べています(p.380a)。
次いで「有相悉地」に対する「無相悉地」を説いて、「
無相悉地は、前の三種悉地を下悉地と為す。若し無相中悉地(を云えば)、或いは本尊身を得、若しは応化身乃至十地位の菩薩の身を得(ウ)。号して中悉地と曰う。其の上悉地は、三業即ち是れ三密、三密即ち是れ(応報法)三身(と成る)。三身は即ち是れ大毘盧遮那如来智なり。若しは是の如き毘盧遮那の身を得、若しは法界に普く現る色身(法界普現色身)を証す。同一法界、同一体性にして、一心の外に更に一物無く、而も立つことを得べし。諸佛は虚空の相なり。虚空は亦無相なり。心は虚空に同じきが故に修瑜祇者は亦同一体なり。一念の頃(アイダ)に三妄執を越え、三(阿)僧祇の行を度す(完成/成就する)。初めて(菩提)心を発す時(初発心時)に便(スナワ)ち正覚を成ず。即ち是れ悉地の身なり。此れは是れ無相悉地中の最上悉地の法なり。」
と記しています(p.380a,b)。
以上『三種悉地軌』と『尊勝軌』の関連性を一見しました。此の『尊勝軌』は題目の下に「三蔵善無畏(訳)」と記していますが、最澄・空海の請来目録には見えず、円仁・円行・恵運の請来とされていますから(『八家秘録』 大正蔵55 p.1119a)、善無畏訳と云うより尊勝陀羅尼の盛行を受けて其の弟子達に依って撰述された可能性が高いと云えるでしょう。
此の事を訳/撰述者に付いての大正蔵本『尊勝軌』の注記から検(シラ)べると、対校甲本(高山寺蔵古写本)丙本(寛治八年(1094)写仁和寺蔵本)には「三蔵善無畏奉詔訳」と云いますが、原本(享保年間(1716―36)刊豊山大学蔵本)イに「三蔵善無畏弟子喜無異集」と記されています(p.368脚注22,26)。原本イのような注記を敢えて捏造する理由も考え難いので、是が当初からの注記であったものゝ「喜無畏」なる人が経歴等未詳の故に敬遠されて、徐々に善無畏訳という説が普及し定着したかと思われるのです。
(七) 三種悉地法の生起(ショウキ)の事/『毘盧遮那心地法門』に付いて
今まで『三種悉地軌』『破地獄軌』『尊勝破地獄陀羅尼』の内容に付いて述べて来ましたが、これらの経軌が記す「三種悉地」法には何かしら本説があるのでしょうか。真言を誦する成果(悉地)に上中下の三種悉地があるという考えは特殊なものでは無いので、別して本説とすべき経軌は無いのかもしれません。上述した如く『尊勝軌』に於いても「有相悉地」「無相悉地」それぞれの上中下三種悉地を説いています。
此の事を考える時、『大正大蔵経』第18巻に収載する失訳『毘盧遮那心地法門』が注目されます。詳しい題目は『清浄法身毘盧遮那心地法門成就一切陀羅尼三種悉地』と云い、又尾題に「毘盧遮那別行経」と記されています。是に説く「三種悉地」に付いては本文の解説で紹介しますが、今は題名に「三種悉地」の語句を含むとだけ覚えて下さい。此の経典は失訳ですから正確な訳出年時は分かりませんが、訳語と其の語法から善無畏・金剛智の訳経活動以前である事は明らかであり、恐らく『陀羅尼集経』と同じ頃の訳出と思われます。
又『日本大蔵経』の「密教部章疏下二」には当経の注釈書である『毘盧遮那別行経鈔』上下巻が収載されています。撰者は特定できませんが青蓮院の慈鎮和尚(慈円僧正 1155―1225)の弟子か、其の門流に属する人の作です。
以下に当経を抄出してコメントを交えながら概説を試みましょう。
最初に当経所説の発端(序)を記して、「
爾の時毘盧遮那佛は蓮華蔵世界に在りて、百千億の化身釈迦牟尼佛と与(トモ)に心地尸羅(シラ/戒)浄行品を説きて、菩薩の法と菩提を証する道を教う。爾の時千百億の釈迦は異口同音に白(モウ)して言(モウサ)く、法身世尊よ、一切衆生は心地法門を得(ウ)と雖も而も専精修学すること能わず。」
と云い、更に一切衆生の心身放逸に傾きやすい事、又誤って得道せりと思い込む事、或いは生死の中に悪業を重ねて「心地の法を思惟せず、悪趣に輪廻して出期(シュツゴ)あること無」き事を述べています(大正蔵18 p.777a)。
コメント:先ず教主たる毘盧遮那佛の住所/説処を「蓮華蔵世界」としている事が注目されます。『大日経』の説処は「如来加持広大金剛法界宮」(大正蔵18 p.1a)、『初会金剛頂経』(教王経)の説処は不空訳三巻本に「阿迦尼咜(アカニダ)天王宮」(同 p.207a),施護訳三十巻本に漢語で「色究竟天王宮」(同 p.341a)と云います。アカニダ天は色界十八天の最高天ですから「色究竟天」の他にも「有頂天」と漢訳されます。東密に於いては『大日経』の説処である「金剛法界宮」も此の色究竟天王宮に同じであるとしています(『密教大辞典』p.11中)。
「(蓮)華蔵世界」は『華厳経』に説く所の毘盧遮那如来の報土(浄土)ですから、此の『毘盧遮那心地法門』はインドに於いて『大日経』や『初会金剛頂経』が体系化される以前の成立でしょう。それでも教主が雑密諸経軌の釈迦如来では無く其の本佛とされる毘盧遮那佛に成っていますから、所謂(イワユ)る純密経典成立の過程で誕生したと思われる多くの経軌の一端を伝えていると考える事が出来るでしょう。
次いで毘盧遮那佛は千百億の化身釈迦に対して、「
汝は今諦(アキラ)かに聴け。吾は汝が為に調伏之法を説きて、一切衆生をして普く安楽を得せしめん。一切衆生は心地法に於いて有聞と不聞の者あれども倶(トモ)に調伏を得べし。」
と語ります。此の「調伏」とは、精進を怠り放逸に馴染む人々は道理として苦の世界に陥る事を云うようです。「有聞」の人はその時に思惟して再び道心を起こして精勤するであろうが、「不聞」の人は道心を起こしても心地の法門を知らない。此の様な人々を必ず「引摂(インジョウ)して佛道に入らしむべき」であると説いています。(p.777a)
釈迦は是の説を聞き終わって頂礼して去り、「本源の世界(娑婆世界)に至りて道場處に坐」して諸菩薩・声聞・天龍等に対して、「
汝等(ナンダチ)当に知るべし。心地尸羅浄行法門は聞くを得べきこと難し。得見すべきこと難し。(中略)応当(マサ)に修学して一心に精懃(ショウゴン)し憶持して忘れざれば、当に佛と作るを得べし。」と説法します。その時「大忿怒(軍荼利)金剛は座より起ちて」(執)金剛に対して、「
大士よ、我聞けり。諸佛は道處に坐せるとき、皆悉く陀羅尼門総持法要を称賛して無量難思の事を建立せること不可思議なり。」と語り、続けて薄福の人々は是を受持しても成就できないから「大方便」を設ける必要があると云います。更に是を敷衍して、「
云何(イカン)がして当に三種悉地を得べきや。云何がして九種の壇を造るべきや。云何がして身心を安置して神呪を誦念すべきや。」
等と悉地成就の為の威儀作法に付いて具体的な質問を続けます。ここに「三種悉地」の語が出ていますが、全編を通して三種悉地や九種壇に付いて別説する事はありません。それでも三種悉地(法)という考え方(概念)が純密興隆の当初より存した事が知られます。
此の忿怒軍荼利の質問に対して執金剛は、自分は答える力が無いから佛に聞くべきであると述べます。依って両金剛は世尊に向って同じ質問をします。
(以上 p.777a,b)
是に対して(釈迦)佛は、三昧神通力を以て一切衆会を蓮華蔵世界に到らしめてから、「
稽首作礼(サライ)して法身世尊(毘盧遮那佛)に白して言(モウサ)く、我今(思惟するに)、衆生の総持法要は多く成ぜざる所なり。縦(タト)い少功あれども即ち彼の毘那夜迦は与(タメ)に種種の障難を作し、遣じて(功徳を放捨して)成ぜざらしむ。復其の人をして即ち本性を生じて厭離(オンリ)心を生じさせ、退意して(意欲を削いで)棄捨せしむ。斯(コレ)等の衆生は即ち心地の妙法なる諸佛の境界を知らざるが為に、是を以て三種悉地を成ぜず。返りて鬼神の惑乱を被る。」
等と述べて毘盧遮那佛の教示を請います。是より以下が此の『毘盧遮那心地法門』の本説に成ります。
毘盧遮那は過去道場に坐して心地法門を修行せる時、魔の妨げに依って成就を得ざるのみか魔境に陥った事を明かします。その時毘盧遮那は本心に立ち返って、「
諸佛(一切如来)に告げて言く、佛に恵眼あり。何(イカン)がして我、魔の為に所悩するを見ざるや。当時空中に無数の化佛ありて即ち我に告げて白して言く、善哉、菩薩よ。汝は今諦かに聴け。汝が為に去魔の法を説かん。大神呪あり。心地呪の法と名く。之を誦持すれば速やかに一切種智を得て、諸魔も其の便り得んと為(セ)ざるなり。我は是の語を聞きて心は大に歓喜す。」
と記しています(p.777c)。此の部分は虚空に遍満せる諸如来の教示を蒙る点に於いて、金界法の肝要である「五相成身観」の導入部と似た所があります。しかし五相成身観が心地の法として心月輪の観想を説くのに対して、此の『毘盧遮那心地法門』は後文に於いて真言の誦持を説くに止(トド)まっています。
次いで毘盧遮那佛は、空中の諸佛より授けられた心地呪を憶持する事に依って菩提円満した事を述べてから、一切諸佛も此の「心地神呪」を修したのであり、「此の呪を誦さずして而も得成(佛の覚りを得る事)する者、是の處に有ること無し。」と云い切っています。又諸呪を誦す時は、先に此の呪を誦すれば必ず成験するとも述べています。次いで釈迦と諸大衆は世尊(毘盧遮那)に対して心地神呪を説き明かすよう請願します。依って毘盧遮那佛は「即ち呪を説きて曰く、
オン・ソ(妙)チシュタ(加持)バザラ(金剛)」
と云い、遂に心地神呪が示されます。(p.777c,778a)
しかし衆会の中には是を聞く者と聞かない者がいました。心に解脱を得た者、諸佛の境界に入った者、「一切法は幻相の如きなるを了せし者」等は聞くことが出来ても、「如上の智を具さざる者」は誰も聞くことが出来なかったのです。毘盧遮那は此の呪を説き終わるや虚空の如き遍法界の身と成り、釈迦も是に随って「法界同一の真体に入って」衆会の大衆からは見えなくなりました。又「
文殊・普賢・観音・弥勒・金剛蔵等の五大菩薩も総て釈迦に随侍して深法界に入り、毘盧遮那佛が心地法要之門なる甚深境界を説けるを聴く。」と云います。(p.778a)
即ち佛(毘盧遮那)は此の法門の「軌則と威儀、悉地之相」を説いて、「
先ず心地(神)呪百万遍を誦すること訖(オワ)れ。然る後に結跏趺坐して右手にて左手を押して閉眼し、無處所を観じて一切の念を断てよ。亦念を離れずして一切の諸縁を断て。亦縁を離れずして、先ず四大(地水火風)五陰(ゴオン/色受行想識)の無所有なるを観ず。是の観を作し已れば乃ち此の心地呪を誦すること二十一遍せよ。即ち自然(ジネン)に無量三昧に入ることを得て、無生法忍(ムショウボウニン)を得ん。」
と禅定に入って空観を修すべき事を述べています。又続けて誦呪の法を説いて、「
当に此の呪を誦すること、口舌咽等を動かしめず、心に之を念ずべし。仍ち須らく無念之念に入るべし。是を真念と名く。」
と云います。但し宿業に依る差異に言及して、宿世の修学無き人は「但(タダ)能く心地神呪を空誦して百万遍を満たせば、自性の智恵性を開きて、速やかに無生法忍を証さん。」と云いますから、是は最初の百万遍と合わせて二百万遍を誦すべしと云うのでしょう。是に対して先世に修学した人は、但(タダ)心地呪を二十一遍誦せば禅定智慧を得て、「般若波羅蜜多は自然に円満す。」と述べています。
(p.778b)
次に此の心地呪を用いた「三部神呪」の助成法を説いています。即ち佛部呪には百万遍、菩薩呪には二百万遍、金剛部呪には三百万遍の心地呪を誦して、その後に本呪を誦すようにすれば悉く成就すると云います。其の理由について、「此の心(地)呪は是れ一切諸呪之母なれば、是の故に諸呪神等の敢えて違逆するは無し。」等と述べています。
又三部の呪を誦持しながらも間断ある故に悉地を成就できない人の為に、「緒勲(ショクン)心神呪を説きて、諸の衆生をして間断の性を無からしむ。」と云います。「緒勲心」とは、意欲を起こして精進に努める心です。その呪に付いて「
即ち緒勲呪を説きて曰く(漢字をカタカナにします)、
ノウボウ・バギャバテイ・ウシュニシャ、オン・ボリン・ハンダエイ・ソワカ、タタギャト・ソワエイ・ソワカ、ハンド(マ)マニ・ソワエイ・ソワカ、バザラマニ・ソワエイ・ソワカ、マニマニマニ・クラエイ・ソワカ、タニャタ・ウンウン・ハッタ、マニタラ・ウンハッタ、オン・ウンウン・カカ・ハッタ、マニ・バザラ・ウンハッタ。」
と記しています。又「是の緒勲神呪は亦心地根本神呪と名く」と云い、以下に元から誦持する呪と此の緒勲呪を併用して効験を得る法を説いています。又毘盧遮那は、此の呪を無智の人に伝えてはいけないと云い、その理由として「
此の無智の人は是の諸佛方便の所説を見て、便(スナワ)ち貪着懈怠(ケタイ)を生じて精進懃(ネンゴロ)ならずして、五欲の想いを生じて菩提の意より退かん。」
等と云い、此の様な人には此の法も無益であると述べています。
(p.778b,c)
是より以下に三種悉地に付いて広説しています。先ず「
爾の時、観世音菩薩は法身世尊に白(モウ)して言さく、其の持呪の人にして三種悉地の相を求むれば如何。」
等と云い、毘盧遮那佛に対して上中下の三種悉地の相を明かして一切菩薩・諸人天が悉地を成就できるよう請願します。新訳の「観自在菩薩」では無く、旧訳の「観世音菩薩」の語を用いている事からも、訳出年時が両部大経より遡(サカノボ)る事が推察されます。
是に対して毘盧遮那は、「
汝等(ナンダチ)当に知るべし。(佛・菩薩・金剛)三部共に上中下の悉地相は同じなり。三部に各(オノオノ)三種悉地あるなり。」
と述べ、以下具体的に行法を説きます。
最初に上悉地を得る法を説いて、先ず「内外を護浄すべく、身三・口四・意三の煩悩を清浄にせよ。」と云いますから、是は十善戒を守る事でしょう。その上で行者所持の呪(真言)と心地呪(オン・ソチシュタ・バザラ)を誦して遍数を満たします。次いで閑静所に坐して結跏趺坐して焼香し、本尊に対して大誓願すること三度します(発願)。其の文は「
十方諸佛・諸大菩薩・諸大金剛、一切諸天・冥宦(ミョウカン)・衆聖に啓告すらく、普く願わくは証明せよ。弟子某甲(ムコウ)、其の呪を受持することを欲せんと為す。唯願わくは世尊・菩薩・金剛・天等よ、誠に証明を為して速やかに成就を得せしめよ。」
と云い、是を三唱します。次いで本尊身を観想する事を説いて、「
即ち閉目して坐し、先ず所持の呪を誦すること八百遍せよ。自らの本身は是れ本呪神(本尊)の身なりと想いて、一一(イチイチ)の身分・荘厳・相好と及び身上の有光・無光、坐立・形勢と嗔喜・挙動は、一一本経上の画像荘厳(法)に依れ。(中略)次に想え、無量の諸神・部落使者(本尊の眷属)は前後に囲遶(イニョウ)して恭敬(クギョウ)し随侍す、と。」
と云います。是は一座行法中の道場観(の中の本尊観)、乃至入我我入観に相当するでしょう。更に続けて「
是の如きこと訖已(オワ)れば、心に所持の呪二十一遍を誦して、遍遍に口中より(呪/真言の)文理の光は自らの口中より出でて諸神の口中に入る。光の入尽すること已れば、想え、一切諸神は復総て自らの口中に入りて、心王中に至りて安置す、と。」
と述べていますが、此の行法は入我我入観/正念誦の祖形を示していると考えられます。密教修行法の発達を考える上で大変貴重な史料と云えます。
(以上p.778c,779a)
上文に続けて、此の行法を一日三時(初夜・後夜・日中)に三七(二十一)日間行えば、必ず「上悉地」を得て「種種の思議し難き事」も成就することが出来ると云います。又三部の差別を説いて、「
是の如く若しは佛部呪、及び菩薩呪を持すれば、上悉地を取る。若し持金剛已下の呪を持すれば、上悉地を取ること莫し。何を以ての故となれば、金剛・諸天・薬叉の神呪は性猛烈にして操悪なればなり。若し能く上悉地を成就すれば自在を得るが為の故に、慈悲を生ぜざれば一切鬼神を傷(イタ)むるが故なり。」
等と述べています。
更に三部各別の上悉地を説いていますが、先ず佛部に付いては、「
若し佛頂呪を持して上悉地を得たれば、即ち諸佛と共なる一種(諸佛と等同)なり。何を以ての故に。身は是れ凡夫なりと雖も心に自在を得て、弁才無礙(ムゲ)・智慧無滞なれば、能く一切天・人の与(タメ)に師と為ればなり。」
等と述べています。
次に菩薩部の呪を持して上悉地を得た人に付いて、「
(誦する所の)本呪を持するに随いて本説呪の菩薩と一種にして異あること無し。(中略)菩薩には万行ありて衆生を饒益(ニョウヤク)し、及び神通大自在あり。(中略)(持呪の人は)佛法を護持して諸魔を降伏(ゴウブク)す。」
等と云います。
又金剛呪を持して上悉地を得た人に付いて記して、此の人は本経の所説の如くに金剛と一種(同体)であり、「能く佛法を護持し、諸魔を降伏して正道に入らしむ。」と述べています。
(以上p.779b)
次に文殊菩薩は法身世尊に中悉地に付いて質問します。是に対して毘盧遮那佛は、佛・菩薩・金剛三部の呪には各々本経所説の画像法があるから、是に依って本尊・眷属を分明に(観想)せよ、と云います。誦呪に付いては、「
先ず誦せる遍数を記し取りて満足せしめ、然して又前に准じて心地神呪を誦して亦遍数を満足せしむ。」と云います。
次いで閑静なる場所を選んで静かに坐し、「
衆(モロモロ)の名香(ミョウゴウ)を焼(タ)きて諸佛・菩薩・金剛・諸天等、及び本呪神(本尊)を供養す。即ち大誓願を発(オコ)して先世の罪と、及び今時所造の罪を悔過(ケカ)して、深心悔過に住せよ。」
と云い、懺悔(さんげ)の重要性を説いています。
次に定に入って「本尊神等」を明瞭に観想します。此の観を成し了れば所持の呪八百遍を誦します。其の作法は大旨上悉地と同じですが、其の文は少しく異なりますから念の為に示すと、「
唯心に念じて口舌等を動かしむること勿れ。遍遍に想え、口中より白光ありて出でて、本呪神の口中に入ると。光を断絶せしむること無かれ。呪を持誦すること已に満たせば、必ず須らく分明にすべし。想観する呪神の口中の光も間断せしめざれ。」
と記しています。誦呪が終われば再度発願して、「香華の印を作」れば供養は終りです。本呪神の「印」に言及する事はありませんが、印契を全く無視している訳でも無いようです。次いで起ちあがって礼拝し、「如法に神(本尊)を発遣(ハッケン)」します。又「一日三時、夜三時」(合わせて日夜六時?)に是を行ずること「七日すれば中悉地」を成じて、本経所説の功能は皆成就すると云います。
次に三部の呪の優劣を説いて、佛部呪の成就者は三部の呪を総て成就することが出来る。菩薩部呪の成就者は金剛部以下の諸天等の呪も成就できる。金剛部呪の成就者は諸金剛以下の天・龍・鬼神呪も総て成就すると述べています。又此の事を敷衍して、「
菩薩(呪)は佛部呪を成ぜず。金剛呪は菩薩呪を成ぜず。何を以ての故となれば、心より頂きに至るを上(佛部)と為し、臍より心に至るを中(菩薩部)と為し、是(足?)より臍に至るを下(金剛部)と為せばなり。是の故に諸法(三部の呪)は逆行すべからざればなり。」
と云います。この様に頂より足に至る身体の支分を上中下(の三種悉地)に配当する法は『三種悉地軌』『破地獄軌』にも説かれていました。これら両軌が此の『毘盧遮那心地法門』の影響を受けている事を示す傍証です。
(p.779b,c)
次に観世音菩薩は法身世尊に下悉地に付いて尋ねます。毘盧遮那佛は是に答えて、「
若し人ありて、三部の神呪を持して下悉地を得んと欲すれば、先ず遍数(八百遍)を誦し、及び心地呪(二十一遍)を誦す。(中略)静処に於いて坐して、安悉(安息)香を焼きて供養せよ。」
と云います。「三部の神呪」と記していますが、次文に見る如く、実際には金剛部呪を念頭に置いているようです。上文に続けて、「
即ち大輪金剛印呪二十一遍を誦し、稽首して告げて言く、唯願わくは金剛よ、速やかに此れに垂降せよ。弟子は為に其の呪を持して某(ナニガシ)の願を求めて、大験を成就することを得んと欲す。弟子某乙は貧窮(ビング)の為に諸(モロモロ)の供養無し。唯願わくは大聖よ、弟子が為に此の鋪設(フセツ)せる大曼荼羅法壇に於いて、一一経中(の説)に依りて欠少すること無からしめよ。」
と述べています。突然に「大曼荼羅法壇」の語が出てきて驚きますが、此の弟子(行者)は曼荼羅法を修しているのです。但し此の曼荼羅には諸尊が配置されているのか、ただの土壇なのか、説明はされていません。大輪金剛は、八大明王中の大輪明王であり、又胎蔵虚空蔵院の曼荼羅菩薩、或いは『理趣経』の転法輪菩薩と同尊とされます。詳しくは『密教大辞典』を参照して下さい。其の印呪(真言)とは大金剛輪、或いは小金剛輪でしょう。
次いで目を閉じて、金剛に対して「上妙の物」を供養すると観想します。是に続けて「
次に想え、四壁及び地は皆是れ七宝の合成なり。即ち手に印を結べば、諸の本呪神は道場に降起(降臨)して、弟子に供養(物?)を授く。所持の呪百八遍を誦すること訖れば、自ら心願を発(オコ)せ。是の如く日夜六時、一一次第に想念して分明(明瞭)ならしめよ。都(スベ)て二七(十四)日すれば、下悉地を成ずなり。」
と教示しています。
(p.779c,780a)
以上、三種悉地の上中下の成就法を個別に説き了って、是より以下に三種悉地に付いて総説します。即ち毘盧遮那は化身釈迦と五大菩薩等に対して、「
此の三種悉地成就の相は、若し人ありて(佛・菩薩・金剛)三部神呪を持して此の三悉地を得れば、当に知るべし、是の人は成佛すること久しからず。(中略)悉地を得たれば、所有の功能の徳(効験)は具に説くべからず。証者のみ乃(スナワ)ち知んぬ(知ることが出来る)。」
等と述べて、諸佛境界の難解・難信なる事を強調しています(p.780a)。
次に普賢菩薩は諸魔を降伏(ゴウブク)する事に付いて法身世尊に質問して、「
諸佛如来は大慈を以て本と為せるに、云何(イカン)がして諸陀羅尼を説き、(是に)操悪・威徳自在ありて鬼神及び諸の外道・天・阿修羅を傷害するや。」
と云います。毘盧遮那は是に対して衆生化度には二義(両説)ある事を説いて、「
一(義)には、諸佛は方便説法して衆生を導引す。二(義)には、此の猛烈・操悪の身(忿怒身)を顕して衆魔を降伏し、佛道に入らしむなり。」
と述べます。又諸々の餓鬼・外道・修羅(闘争)等の悪心は、要するに自心より生じるのであるから、「
諸法(経)に説く所の摧伏鬼神とは、是の呪力を以て能く心中の是の如き悪念を滅す(事を云う)。此の悪念無ければ悪身をうけず。故に当に知るべし。降伏とは、若し能く先ず自心の諸悪鬼神を降せば、一切の天魔・外道・天阿修羅・薬叉羅刹(等の)諸悪鬼神も自然に降伏して、敢えて違逆せず。」
と述べて、心の調御・修養が肝心である旨を説いています。その為には適切に陀羅尼呪を用いる事が大変有効であるという意でしょう。
(p.780a,b)
普賢菩薩は更に質問して、「法中に治病(ジビョウ)して衆生苦を救う」事を説いているのに、「余部の経中に即ち説きて病合和湯薬を許さざる」事は何故でしょうかと云います。毘盧遮那は是に答えて先ず、治病も最前に説いた降伏の道理に異ならないと云い、次いで解説して「
自らの心病を治すれば、既に能く諸病を治すべし。若し自らに病ありて能く彼が病を治すること、是の処に有ること無し。」
と述べています。此の考え方(道理)は、『三種悉地軌』前段に於いて諸病と其の治癒を説く所にも記されていました。此の事からも、『三種悉地軌』が此の『毘盧遮那心地法門』に触発されて成立したらし事が伺えます。
毘盧遮那佛は更に説いて、「
持病者に(病合和湯薬を)許さずと説けるは、自らの(心)病の為の故なり。説きて許しあるは、斯の呪力の為に彼をして解脱せしむれば、心に病あること無し。」
等と云い、要するに自らの心病から解放されれば、呪力を用いて広く自他の病気を治す事ができると教えています。現代医学の見地からすれば遺伝子病もあるのですから、心に解脱を得たからといって必ずしも全ての病気が治る訳ではありません。しかし身体の病も多くは各人の「心病」に起因する事を力説しているのです。禅宗でよく言われる「心身一如」の考え方を強く示していると云えるでしょう。
(p.780b)
次に普賢菩薩は、陀羅尼を聞持する功能に滅罪と離苦ある事に付いて其の義(道理)を問います。毘盧遮那は答えて、是に「真聞」と「耳聞(ニモン)」の二義ありと云い、先ず真聞を説いて、「
真聞とは、深く法性に達して法(現象界)の如幻なるを知れば、罪体も亦爾して了り(消滅して)不可得なり。是の如き人は是れ真の悉地(成就者)にして、能く地獄(の衆生?)を救う。」
と云います。次に耳聞を説いて、「
耳聞とは、(諸法は)仮に諸因縁の合和せることを聞く。諸佛は此の方便を以て、此を聞く者をして漸漸に自識(自らの心識)の本性を薫修せしむ。是の因縁を以て衆罪は消滅すなり。」
等と述べています。
(p.780b)
次に五字十四句の毘盧遮那讃を出だしていますが、是は省略します(p.780c)。
次いで観世音菩薩は「諸天厨神呪」を説きます(「諸天厨」とは天界の食物を云うらしい)。先ず其の由緒を記して、「
世尊よ。我は悉地を求むる人の為に、或いは深山広野の中に在りて持誦・呪法すれども未だ成就を得ずして、糧食乏少せる(人)あり。是の義を以ての故に菩提之心を退かしめん。我今、此等(コレラ)の善男子の為に諸天厨神呪を説かん。」
と云います。続けて神呪を説いて、「(音写漢字をカタカナにします)
ノウボウアラタンノウタラヤーヤ・ジャラ・マカジャラ・ズル・マカズル・ウン・急速・カニショウ・オン・急速・カニショウ・速。」
と記しています。その次に誦呪の作法を説きます。即ち浄鉢と灰等を用いて呪を誦すること百八遍すれば、「諸天は天童を遣わして上妙の食を奉送(ブソウ)して、(其の食は)鉢の中に満つ。」等と述べています。又施餓鬼の法を説いて、「
将に此の呪をもって人間(界)の食飲(ジキオン)を呪すること二十一遍して餓鬼に施与すれば、鬼は是を食することを得て餓鬼の苦を免れ、弥勒天宮に生ずるを得ん。」
等と云います。更には此の呪を用いて飢饉を救済する法を説いて、「
若し飢荒之年至れば、此の呪を以て人間の飲食(オンジキ)を呪すること千八遍して、遍く衆人之を食うとも尽きること無からしむべし。」
等と述べて、更に飢荒の年の十五日に満月を呪する法等も説いています。
(p.780c,781a)
次いで金剛蔵王菩薩は護身の真言を説いて、「
諸(モロモロ)の有情にして(佛・菩薩・金剛)三部の呪を持して、未だ成就を得ざれども少しく功効あらん(場合)に、即而(スナワ)ち防護の為に即ち呪を説きて曰く、(漢字をカタカナで表記)
タニャタ・オン・バザラ・サハヤ・ソワカ」
と云います。
時に釈迦牟尼佛は、「
善哉、善哉。汝等(ナンダチ)諸菩薩等は能く一切衆の為に是の諸事を問い、及び神呪を説きて、諸の有情をして普く安楽を受けしむ。」
と語り、続けて「此の心地法門」を説ける「甚深の経典」を讃嘆しています。「此の経は是れ諸経中の王、此の呪は是れ諸呪中の王なり。」とも語っています。
次いで毘盧遮那佛は法門の流通(ルヅウ)に付いて、「
此の経を流布するには、先ず(受者の)根性を観じて、然る後に付嘱せよ。何を以ての故に(とならば)、智恵ある人は之を聞かば深信すれども、無智の人は必ず驚怖を生じ、復疑心あらん。(是に依って)彼の衆生をして返って其の罪を招かしめ、死しては地獄に入らん。」
等と語って、無闇に此の法門を説く事を誡めています。次いで「
釈迦牟尼佛及び五大菩薩は毘盧遮那佛を頂礼すること已って辞退し、而も閻浮提(エンブダイ)の菩提樹下に至りて衆の為に説法す。」
と云います。最後に釈迦の滅度の後は、五大菩薩が此の経を流伝すべき事等を記して一部の経の結尾としています。
本項の最初にも言及しましたが、尾題に「毘盧遮那佛別行経 一巻」と記されています。
(p.781a,b)
経題等に付き「点本」に依る付記があり、「
(八家)秘録(巻上「蘇悉地部第四」)に云く、復(後?)題に云く、毘盧遮那別行経【(常)暁】。(大正蔵55 p.1116c)
常暁進宦録に云く、大毘盧遮那三種悉地法一巻。(同 p.1070a)
秘録に云く、清浄毘盧遮那三種悉地一巻【暁】。(同 p.1116c)
私に云く、秘録の題と本録の題に少しく相違あるは如何。
或人(アルヒト)云く、慈鎮和尚(慈円)の菅原為長(1158―1246)に尋ねられし処、俈(コク)字は古文に非ざるなり。正しくは嚳(コク)字の形に作るなり。(其の意味は)急告なり。甚なり【云云】。帝嚳王名なり。古文ト云う事は未だ之を勘えず。」
と記されています(p.781b)
(八)『毘盧遮那別行経鈔』の事
最後に『毘盧遮那心地法門』(毘盧遮那別行経)の注疏である慈円伝『毘盧遮那別行経鈔』(上下)二巻を一見して本稿を終了しましょう。
本鈔は題名に『毘盧遮那別行経鈔』と云いますが、本経の説文を消釈する事はほとんど無くて、僅かに所説の四真言から「心地神呪」と「心地根本神呪」(緒勲心神呪)に付いて言及しているに過ぎません。即ちほとんどの記事は、『三種悉地軌』と『破地獄軌』に説く上中下の三種悉地真言に依る成就法に付いて三昧流の重々の口伝を述べたものです。
初めに本経が胎蔵・金剛・蘇悉地三部の何れに属するか問答して、「
問う。此の経を以て三部大経中には何れの経に摂すべきや。答う。蘇悉地の根本成就大神呪を説けるが故に、三部超過之義、尤も今経にあるべき者なり。」
と云います。又師説に依って、慈覚大師の「御釈」に「衆尊の秘法は是の真典非ざれば未だ妙術あらず【云云】」(『蘇悉地羯羅經略疏』大正蔵61p.389a)とある事に付いて、「
此は今経の根本神呪を指して妙術と云うなり。其の故は此の経に、「若し此の呪を誦して後に諸呪を将(モチ)いて験(シルシ)を成ぜざる者、是の処に有ること無し【云云】」と云えればなり。」
と述べてから、更に「今経の心地神呪を以て蘇悉地根本真言と為す事」なる一段を設けて広く文証を示しています。
即ち此の一段の意は、『蘇悉地経』に於いて、未だ悉地(成就)を得ざる者も根本真言を誦すれば速やかに成就を得ると云いながら、其の真言自体は説かれていない。実に此の『毘盧遮那別行経』に説く心地神呪(オン・ソ・チシュタ・バザラ)が其の根本真言に当たると云うのです。
(日大蔵『密教部章疏 下二』p.473上、下)
次に「三種悉地相承事」に相伝次第を記して、「
大日 薩埵 龍猛 龍智 金剛智 (善)無畏 不空 一行 恵果 恵則【イ足】 義操 義真 円【仁】」
と云います。金剛智、善無畏両三蔵に付いては古くより互授の伝承もありますが、善無畏が不空三蔵に授ける事、亦不空が一行に授ける事は無かったでしょう。又「伝持八祖」に於いても第六祖を一行阿闍梨、第七祖を恵果阿闍梨としていますが、是は便宜的な一応の説と見るべきでしょう。実際の伝法順序は唐代後期に成立した「海雲血脈」「造玄血脈」(共に『大日本続蔵経』一の第95套5所収)の胎蔵界相承次第に依れば、善無畏の付法弟子である保寿寺玄超が青龍寺恵果に是を授けています。善無畏の弟子の中でもあまり知られていない玄超を「伝持八祖」に採用すると相承次第が複雑になるので、玄超に替えて一行阿闍梨にしたのであろうと思われます。
ともあれ此の「相承事」に於いては、慈覚大師円仁が青龍寺義真より(『毘盧遮那別行経』と)三種悉地法を相伝したとのみ記して、伝教大師の順暁阿闍梨からの受法に付いては等閑に付しています。伝教大師の三種悉地法相伝は略受であり、慈覚大師に至って始めて本経と詳しい口伝の相承が作されたという意でしょう。
(p.475上)
次に「此の経を以て多人に授くる先蹤(センショウ)の事」と題して、『毘盧遮那別行経』の講伝先蹤(先例)に付いて記しています。最初に「
三昧阿闍梨(良祐)の口決に云く、【切留と号す】 聴衆両三(五人) 則ち
明快僧都 慶範僧都 仁暹阿闍梨 安慶(内)供奉 長宴なり【云云】。 已上
承暦四年(1080)八月五日、定林坊に於いて受け奉り畢んぬ【云云】。」
と云います。次文に解説していますが、是は台密谷流の祖とされる皇慶阿闍梨(977―1049)が講伝した時の受者五人に関する口説です。良祐の法系は、皇慶―安慶―良祐、或いは皇慶―安慶―長宴―良祐です。次いで「
示して云く、慈鎮和尚(慈円)の仰せ云く、池上阿闍梨【皇慶】、大原僧都(長宴)の為に此の経を伝授せる時の聴衆五人【云云】。交名(キョウミョウ/名簿)は右の如し。」
と云います。「慈鎮和尚」は慈円の諡号(シゴウ/オクリナ)です。天台座主の青蓮院門主慈円は歴史書『愚管抄』の撰者として有名ですが、その(三昧流)法系は、良祐―行玄―覚快/全玄―慈円です。本鈔の撰者に慈円の口決を「示し」た人は不明ですが、誰か慈円の弟子と考えるのが自然でしょう。即ち本鈔の作者は慈円の孫弟子に当たる人でしょう。
又続けて「相承の経の奥書に云く」として、「
承久四年(1222)二月十一日、康楽寺御坊に於いて入道法親王【道覚】、御同聴あり。前大僧正御坊【慈鎮】の座下に侍りて受け始め奉り畢んぬ。
往因の感ずる所なり。感涙すること雨の如し。双眼を拭いて之を記す。次の日に受け奉り訖んぬ。
同聴衆は五人なり。入道法親王、太政大臣法印【道祐】、聖増、律師覚隆、阿闍梨慈胤(ジイン)【云云】」
と云います。道覚親王(1204―50)は後鳥羽天皇の第六皇子であり、晩年には天台座主に補任しています。記者は同受者に後鳥羽院皇子の在(オワ)す事に驚き「感涙」したのでしょう。
(p.475上)
次に「四筒(箇?)印の事」と題して、「
三昧阿闍梨の所決に云く【切留】、大鉢の印真言、五鈷の印真言、普印(金剛合掌)なり【云云】。
承保二年(1075)四月二十一日、北谷に於いて大略之を受け畢んぬ。大原(長宴)の説なり【云云】。
又云く、師説を聞くべし【云云】。(中略)
略頌に云く、普普鉢五。」
と云います。標題に「四」箇と云いながら三印しか示していません。脱字があるのかも知れません。此の「四(三)箇印」の用法に関する言及はありませんが、恐らくは本経所説の四種の真言である「心地神呪」「緒勲(心神)呪」「諸天厨神呪」「防護の為」の呪に対するものでしょう。
(p.475上、下)
次に「一心地神呪の事」と題して(「一」は不要?)、初めに梵字を以て同呪「オン・ソ・チシュタ・バザラ」を記しています。次いで「裏書に云く」と注して、先ず「蘇地瑟宅(ソチシュタ)とは妙成就の義か。蘇は妙なり。」と云い、続けて「地瑟宅(adhista)」の意味に付いて諸書を引いて、「加持の義」「成(就)の義」「生起の義」「安住」等を検討しています(以上裏書)。
続けて「此の真言は一生に妙覚之果を成ぜしむる密語なり。」と云い、以下に広く句義釈を記しています
又「四箇印」中の「普印」を釈して、「
普印は非内非外なる故に中間の印なり。今此の金剛合掌は非内非外中間を超ゆる印なり。大日経の住心品に無相菩提を釈して云く、心は内の六処に在りて、外及び(内外の)両中間に在らず、とは即ち此の意なり。今此の真言は無相心地之極位を成就する故に此の印を用いるなり。」
と述べています。此の文に依って、心地神呪には普印/金剛合掌を用いるのが三昧流の口伝であると知れます。
(p.475下―p.477下)
次に「心地根本神呪の事」を記していますが、既述したように「心地根本神呪」は「緒勲(心神)呪」の別称です。最初に「
慈鎮和尚(慈円)の御記に云く、(心地根本神呪が)一切の諸呪の功能を破することは金輪一字明の心(ココロ)にして、復諸呪の功能を成ずることは佛眼明の心なり【云云】。
今の経説に云く、能く此の呪を誦すれば諸呪の功能を破し、復諸呪の功能を成ず【云云】。諸呪の功能を破すとは今(金)輪の呪ボロン(梵字bhruum)字なり。今の心地根本神呪の中に此の字を説けるは此の心なり。(緒勲呪の原漢字をカタカナにする時に「唵部林」を「オン・ボリン」と表記しましたが、此の口伝に准ずれば「オン・ボロン」にすべきでしょう。)」
と云います。即ち心地根本神呪の中に一字金輪真言を内包する事を説いています。続けて佛眼呪に言及して、「
次にバンヂ(梵字vamti)等の句は、是れ即ち佛眼の功能を説けり【烏瑟尼沙(ウシュニシャ)は佛眼なり】。」
と述べています。「バンヂ等の句」は不審の事ですが、緒勲呪の冒頭部「ノウボウ・バギャバテイ・ウシュニシャ(帰命佛頂尊)」に依る口説でしょう。更に続けて、「
故に今経の(心地)根本神呪は佛眼・金輪の根本神呪なり。之に依って、此の経を以て瑜祇経を超過すと相承するなり。其の故は、瑜祇経(金剛吉祥大成就品)に佛眼陀羅尼(佛眼大呪)を説くと雖も、金輪の真言は説かず。之に依って和尚の御記に云く、瑜祇経に云く、十儗誐沙(ゴウガシャ)佛は一切佛母を礼敬(ライキョウ)して言く、我が所説の一切頂輪の真言【云云】。而るに其の真言を説かず。師説に(云く、)此の真言はボロン(梵字bhruum)字なり【云云】。真言を説くべきなれども其の経(瑜祇経)に説かず【云云】。故に瑜祇経に其の名を出だしながら、而もボロン(bhruum)字を説かざるなり。而るに今此の経に金輪と佛眼を並べて之を説くなり。然れば今此の心地根本神呪は金輪・佛眼の総呪なり。」
と丁寧に口説を記しています。
(p.477下)
是より以下に印言を結誦する法を詳説しています。
始めに結跏趺坐して観想し、次いで「心地呪」二十一反を誦すべき事を説きます。但し此の「心地呪」とは「心地根本神呪」(緒勲呪)では無く、「心地神呪」の事です。即ち本経の「心地神呪」に付いて説く部分を引用しているからです。続けて定印を結んで三種悉地真言を誦する作法を説きます。本経には三部のこれら上中下三種悉地を説きながら其の印言を出ださないので、これらの真言は本より『三種悉地軌』『破地獄軌』所説の上中下三真言です。(p.478上、下)
以下に説く所は此の三種悉地真言と所用の印を用いた成就法に関する三昧流の重々口伝です。内容が煩瑣な上に本稿執筆の本意からも乖離していますから、以上を以て捨筆させて頂きます。
(令和5年(2023)8月1日)