北極星と北斗七星の密教化に関する研究
(一)『史記』「天官書」の記述
夜空に輝く凡ての星は北極星を中心にして一日に360度回転します。勿論それは見かけの話であり、実際には太陽系に於いては太陽を中心にして諸惑星が自転しながら公転し、亦その太陽も銀河系に属する無数の恒星の中の一つに過ぎません。しかし、そのような科学的知識が無かった近代以前の世界にあっては、人々が北極星に対して特別な畏敬の念を払ったとしても不思議ではありません。その事は古代中国とその文化圏に属する国々に於いて特に顕著であったようです。
中国前漢代の歴史家司馬遷が撰述した『史記』の「天官書」には、
(天界の)中宮は天極星。其の一の明らかなる者は、太一(たいいつ)の常居なり。旁(かたわら)の三星は三公なり。
と記されています。簡単な文章ですが、これを正しく理解する為には幾つかの背景知識が必要です。先ず当時と現在とでは北極星(天極星)そのものが違います。現在の北極星は一個の二等星を指しますが、司馬遷の時代には複数の星から成る星座を意味していました。是には地球の自転軸の角度がわずかに変化した事も大きく関係しています。それで北極星座である天極星の中で一番明るい星に付いて、是は「太一」の常の住所であると言っているのです。太一とは「世界の始原」乃至「天界の帝王」という程の意味に解しておけば良いでしょう。次に「旁の三星は三公」と云うのは、太一を帝王として北極星を中心とする天空の領域を宮廷に見立てて紫微宮(しびきゅう)と称し、紫微宮の中の諸星を後宮(后)・太子等の皇族や「三公」以下の臣下(官僚)に譬えたのです。道教では北極星を神格化して「北極大帝」、或いは「北極紫微大帝」と称していますが、それは後世の事であり、司馬遷の時代ではあくまで太一の「常居」として北極星(の中の一番明るい星)が重視・崇敬されていたのです。
又北斗七星に付いては「天官書」の中で「以って七政を斉(ととの)うるものなり」と記されていて、此の場合の「七政」は日・月・五星すなわち七曜の事であるとされています。七曜を七政と云うのは、七曜の運行は各の限節・度数があって国家の政治に似ているからと説明されています。その事はさて置き、諸星の中でも北斗七星が別して日・月・五星の上位に置かれ、七曜の動きを支配制御しているという思想は、本邦に於ける星供の歴史を考える上で注目すべきでしょう。
密教修法の根幹はインド(天竺)撰述の経典儀軌(タントラ)に基づいていますが、インドの星宿法は七曜・二十八宿が中心であり、それに対して中国を中心とする東アジアでは北極星と北斗七星が尊ばれました。特に北斗七星に関しては、インドではその概念自体さえ存在しなかったでしょうから、本邦に於いて貴族階級の間に北斗七星を祀る密教修法に対する期待が増大した時に大きな問題となったであろう事は想像に難くありません。即ち北極星と北斗七星の密教化という事が、平安時代の星宿法の発達を考える上で重要なテーマとして考究されるべきでしょう。
(二)智証大師による北極星と北斗七星の密教化
さて我が国の古代律令制に於いては太政官の陰陽(おんみょう)寮の中に「天文博士」なる役職が設けられて中国の天文書を研究していましたから、『史記』の「天官書」等も早くより知識層の間で知られていたに違いありません。一方、9世紀の前半には伝教・弘法両大師以下の入唐(にっとう)僧によってインド撰述の漢訳密教経典が多数請来されましたが、古代インドの天文学に北極を中心とする紫微宮や北斗七星の観念はありませんでした。インドの天文学では七曜・黄道十二宮・二十八宿(星座)が中心であり、とりわけ七曜と二十八宿との位置関係に重大な関心が払われました。又『大日経』や同疏の中では星宿(しょうしゅく)印言に関する記述はごくわずかであり、他の諸経軌の中で星宿に言及する記述や印言はあってもそれらは断片的であり、修法次第を製作するに足る系統的な印言を伴った星宿法は請来されていませんでした。従って平安前期の入唐八家(はっけ)の時代に於いては、少なくともインド撰述の密教典籍に依拠して星宿法を修す事は無かったでしょう。朝廷に於いて北極星や北斗七星を祀り祈る事があっても、それは古来の民俗的な習俗や陰陽道の作法によって行われたと思われます。ただ既に奈良時代に於いても北極星の本地である北辰菩薩(妙見菩薩)に対する信仰は盛んでした(後文第六章参照)。しかし、それは入唐八家以後の密教修法と直接の関係はありません。
そうした中で『大日本仏教全書』第24・28巻(重複)に収載する智証大師円珍の『顕密一如本仏』(顕密二宗本地三身釈)には、妙見菩薩の化現としての北極星に関する興味ある記述が見られます。即ち同書に、
「釈迦如来は(中略)衆生をして(曼荼羅の)中胎に入らしめんが為に、亦外院に無尽の法身を現して(中略)或いは星宿王を示して、衆星は故に囲遶(いにょう)す。(中略)星宿王とは尊星王(そんじょうおう)なり。尊星王を以って妙見と名づく。」
と云い、此の「星宿王」とは衆星がその周りを囲むという記述から明らかなように北極星の事です。即ち釈迦如来が北極星と成って化現すると言っています。そして此の北極星である星宿王は「尊星王」であり、尊星王は妙見菩薩であると述べています。北極星を妙見とする説は智証の創案では無く、早くに晋代(265―316)の失訳『七佛所説神呪経』の中で、「我れ北辰菩薩は名づけて妙見と云う」と説いています。「北辰菩薩」が北極星である事は、『論語』の「譬えば北辰の其の所に居して、而も衆星の之を共(うやま)うが如し」という有名な一節によって知られます。北辰・妙見を北斗七星とするのは後代の説であり、平安後期になって見られるようになります。上に見た智証大師の尊星王説は、中国的な北極星に対する尊信の念を密教の大系の中に組み込もうとする最初の試みとして非常に重要であると考えられます。尤も弘法大師の場合と同じく智証大師の撰述書にも後代の偽撰が多く存します。専門外の事とて『顕密一如本仏』が智証の真撰かどうか確認は出来ないのですが、一応真撰として論を進めさせて頂きます。
平安中期に智証の門徒に依って尊星王法が作られ、三井寺の秘法として朝廷の尊信を得た事はよく知られていますが、その事に言及する前に上述の中国的な星宿信仰の密教化という観点から、『顕密一如本仏』の中より今一つの文を取り上げたいと思います。それは、「北斗七星は亦是れ輪王佛頂の七宝」という一文であり、「輪王佛頂」とはボロン(梵字:bhrum)一字を種子真言とする一字頂輪王、即ち一字金輪(釈迦金輪)です(『仏教全書』の第24・28巻共に「輪王佛頂」は「輪佛王頂」と成っていて、是を訂正しました)。
そうすると今の智証大師の主張を要略すれば、天空の諸星の中心である星宿王、即ち北辰北極星の本地は釈迦仏乃至釈迦金輪であり、諸星の中でも特に北斗七星は金輪仏頂の内眷族である、と解釈する事が出来るでしょう。智証が一字頂輪王に強い関心を寄せていた事は不空三蔵訳『菩提場所説一字頂輪王経』五巻の注釈書である『菩提場経略義釈』五巻の撰述によって明らかですが、別して衆星の主としての頂輪王に興味を抱いていた事が同撰『佛母曼拏羅念誦要法集』に見て取れます。
(三)円珍撰『佛母曼拏羅念誦要法集』の事(其の一)
安然撰『八家秘録』巻上の「佛眼佛母法二」に、
「佛眼佛母曼荼羅要集一巻〔珍和上、高大夫と共に集む〕」
と云い(大正蔵55 p.1119b)、『大日本仏教全書』27と『日本大蔵経』41「台密章疏一」に収載する『佛母曼拏羅念誦要法集』が是に相当すると考えられます。仏教全書本は京都「花山観中院御経蔵」本に依る高山寺蔵本を底本とし、大蔵経本は石山寺蔵本を底本とし対校に大通寺本を用いています。又仏教全書本は尾題に「佛母念誦法要集」、大蔵経本は同「佛母曼荼羅念誦法要集」と記されています。『秘録』の注記に云う「高大夫」とは慈覚大師の弟子であった湛慶阿闍利(817―80)の事であり、すぐれた学識を有していましたが宮中での不祥事に依って還俗し、高向公輔(たかむこのきんすけ)を称しました。
さて本書は『瑜祇経』の「金剛吉祥大成就品」を抄出して、その前後に加筆し、以って一部の仏眼仏母法次第の体裁を整えたものです(「金剛吉祥」とは仏眼仏母尊を云います)。「金剛吉祥品」からの抄出部は二箇所であり、前の部分は「爾の時に金剛薩埵は復一切如来の前(みまえ)に於いて、又一切佛眼大金剛吉祥一切佛母心を説く」で始まって此の「心(真言)」の功能を説き、続けて「時に金剛薩埵は一切如来の前に於いて忽然として一切佛母身を現作して大白蓮に住す」以下に、一切仏母の一切支分より出生した無数の諸仏が「一字頂輪王を化作(けさ)」し、次いで此の頂輪王の請願に応じて仏母金剛吉祥は「根本明王」を説きます。此の「根本明王」とは諸尊法に広く用いられる仏眼大呪の事です。更に此の真言の功能を説く中で、「一切宿業重障・七曜二十八宿も破壊(はえ)すること能(あた)わず」と述べて、別して七曜二十八宿の障碍(しょうげ)に対する効験を記しています。この後に仏眼印を説いて抄出前部は終わります。
抄出後部は「画像曼拏羅法」であり三重の八葉蓮花を以って構成されます。その要点は中台に本尊仏母、その前の蓮葉に「一切佛頂輪王」を安じてから右回りに各蓮葉の上に「七曜使者」を旋布します。是が初重の八葉蓮花であり、第二重蓮に「八大菩薩」、第三重に「(八)大金剛明王」を画きます。又これらの諸尊が愛染王と同じく「皆師子冠を戴く」事は『瑜祇経』の著しい特徴を示しています。此の曼荼羅に於いて注目すべき事柄として、七曜が中尊仏母金剛吉祥乃至その化作仏である頂輪王の内眷族と成っている点が挙げられます。その事は前掲論文『七曜九執真言の本説の事』第二章でも述べたように、「金剛吉祥品」に説く「金剛吉祥成就一切明」が七曜略真言から構成されている事からも知られます。
見方を変えれば日月五星の精、乃至本地が仏母金剛吉祥であると云えるでしょうが、中国思想と違って金剛吉祥を諸星宿の王である北極星、乃至は北斗七星と結び付ける発想は見られません。又インドでは七曜の中でも特に五星は通例人間に対する障碍者とされています。それがここでは仏母の眷族使者として八大菩薩の上位に配されている事は非常に注目すべきでしょう。インドの天文占星術に於いて七曜は社会の動向や個人の運命に大きく関わっていると考えられていましたから、それを使者とする仏眼仏母尊には当然超越した威力が期待されたでしょう。
画像法に続けて成就法を説いていますが、この中にインドの星宿法に於ける重要な思想を伺う事が出来ます。それは二十八宿の位置が悉地の成就にとって肝要であるとする考えであり、
「心宿直日・柳宿直日・昴宿直日・牛宿直日に於いて日月吉凶を簡ばざれ。但し此の宿直日に於いて、一日の中に於いて食さずに一千八遍を誦し満たせよ。所有の心願、時に応じて便ち遂げん。」
等と教えています。
以上「金剛吉祥品」からの抄出が済んで、次に曼荼羅諸尊の真言を書き加えて本書は終わります(但し中尊仏眼仏母の真言は抄出中にありましたから再説していません)。
(四)円珍撰『佛母曼拏羅念誦要法集』の事(其の二)
次に曼荼羅諸尊の真言に付いて検討します。諸真言は先ず二種の「一切頂輪王」真言を出だしてから七曜の各別真言、次いで八大菩薩、八大明王の順に成っています。仏母と化作の頂輪王とは同尊と見なす事が出来るので、七曜を以って頂輪王の眷族使者とする事も可能でしょう。そうすると第二章に見た「北斗七星は金輪仏頂の内眷族」という説と合せて、頂輪王を中尊とする北斗曼荼羅の基本構想の主要部が既にここに胚胎していると考えられます(北斗曼荼羅に付いては次項に述べます)。但し、此の二種の頂輪王真言は常の星供に用いる『北斗七星護摩秘要儀軌』の説「ノウボウサンマンダ・ダラダラ・ハシャラ・ウン」と異なるので、参考までに下に示して置きましょう。
「次に一切頂輪王根本心真言〔五佛頂経の文より抜き出だす〕
ノウボウ(〔一〕)バギャバテイ〔二〕ウシュニシャ・オンオンウン〔三〕トロン〔四〕ハッタ〔五〕ソワカ〔六〕
一切頂輪王真言
ノウマクサンマンダ〔一〕ボダナン〔二〕オンウン〔三〕トロン〔四〕ハッタ〔五〕ソワカ
次七曜真言 」
真言中の種子「トロン」(trum又はtrom)から明らかなように、此の一切頂輪王は釈迦金輪では無く広生仏頂です。熾盛光仏頂の場合と同じく、平安時代前記に於いては「金剛吉祥品」の頂輪王に付いても諸仏頂中の何尊に比定するか決まった説は無かったので、その事は問題にしなくてよいでしょう。後代の院政期に成立した『瑜祇経』を本軌とする仏眼法次第に於いて、此の頂輪王を一字金輪とする説が定着したのです。
それでは智証大師と高向公輔は如何なる典籍からこれら頂輪王真言を抽出したのでしょう。先ず「一切頂輪王根本心真言」に付いては「五佛頂経の文」云々と注記されていますが、「五佛頂経」とは菩提流志訳『一字佛頂輪王経』五巻の事であり(『開元録』の説。大正蔵55p.569c)、同経巻第五の「世成就品第十」に説く「一切頂輪王根本心印」呪が此の真言です(大正蔵19 p.256c)。次の「一切頂輪王真言」は是も菩提流志訳『五佛頂三昧陀羅尼経』巻第四に説く「一切輪王心印呪」ですが、大正大蔵経本と音写字に大きな違いがあって更に検討を要します(大正蔵19 p.284c)。上の両経は同本の異訳であり、不空三蔵訳『菩提場所説一字頂輪王経』五巻は今の菩提流志訳『五佛頂経』系経典の進化発展過程に於ける一つの完成した状態を示していると考えられます。智証が此の不空訳『菩提場経』の注釈書『菩提場経略義釈』五巻を書いた事は本篇第二章に於いて言及した通りです。
次に『佛母曼拏羅念誦要法集』に戻って所掲の「七曜(各別)真言」の本説に付いて検討しましょう。七曜各別の真言は『大正大蔵経』第21巻に収載する四種の星宿儀軌に見る事が出来ます。それらは一行撰『宿曜儀軌』、金倶吒(こんくた)撰『七曜攘災決』、一行撰『北斗七星護摩法』、撰者未詳『梵天火羅九曜』です。此の中で智証大師と高向公輔の存命中に本邦に請来されていた事が記録に依って確認できるのは『七曜攘災決』だけです。即ち入唐請益僧であった宗叡(809―84)が帰朝して、貞観七年(855)十一月に東寺に戻って製作した『新書写請来法門等目録』に「七曜攘災決一巻」と記載されています(大正蔵55p.1111b)。禅林寺僧正宗叡は東密僧ですが、最初潅頂入壇の本師は智証大師円珍であり、又此の請来録に記載された「雑法門」は円珍の法兄である入唐留学僧円載法師の長安西明寺内の住坊に於いて書写されたものです。こうした事情を勘案すれば、智証が『七曜攘災決』を宗叡から借覧書写したとして何の不思議もありません。(『七曜攘災決』は宗叡の請来であろうという指摘を最初栃木県の小林清現師から頂戴しました。ここに改めて謝意を表します。)
『七曜攘災決』の作者である金倶吒の伝歴は、該書の始めに「西天竺国婆羅門僧金倶吒、之を撰集す」と記されている以外に知られる所は無いようです。本書にはインドには無かったはずの「北斗七星真言」(北斗総呪)や「招北斗真言」が記されていますが、是は金倶吒が中国の実情に合わせて書き加えたのでしょう。本書に記載された七曜各別真言の音写漢字を『念誦要法集』と比較するとほぼ同じであると云えますから、円珍と公輔は此の『七曜攘災決』によって七曜真言を記したのであると考えて間違いないでしょう。但し、金倶吒の書には羅睺星と計都星も記されていますが、『念誦要法集』は此の二星を採り上げていません。
又次いでながら『念誦要法集』と『七曜攘災決』に記された七曜真言の音写漢字は、大正蔵『宿曜儀軌』の対校甲本にもほぼ一致しています(甲本は康元二年(1257)写の東寺三密蔵本)。従って一行撰とされる『宿曜儀軌』と金倶吒撰『七曜攘災決』の成立には何らか共通の背景事情があったものと考えられますが、『宿曜儀軌』は最後に「金剛宿(「宿」は「大」か)成就経吉祥成就品に曰く」で始まる抄出文で終わっています。そうすると所載の七曜各別真言が此の『金剛宿(大)成就経』なる経典に記されていた可能性もあるでしょう。
(五)北斗曼荼羅(星曼荼羅)の事
さて第二章に於いて紹介した智証の『顕密一如本仏』に於いて、北斗七星を一字頂輪王(釈迦金輪)の内眷族とする説が見られました。是に『史記』の「天官書」に云う所の北斗七星は七政(七曜)を統括するという考えを合せ、更に「熾盛光曼荼羅」外院の十二宮・二十八宿を加えれば、ほぼ「北斗曼荼羅(星曼荼羅)」の概念構想、或いは図像構成が出来上がっていると云えます。此の事に付いて少し考えて見ましょう。
北斗曼荼羅は中央に頂輪王(釈迦金輪)を安置して、その前方に北斗七星、周囲に九執(七曜と羅睺星・計都星)を配置して是を内院とし、第二院に十二宮、外院に二十八宿を配しています。中央に一字頂輪王を置く典拠としては上の智証説とは別に『北斗七星護摩秘要儀軌』を挙げる事が出来ます。多くの星宿法関連の儀軌が一行(683―727)撰に擬せられているのに対して、当軌は「大興善寺翻経院潅頂阿闍利の述」と云い、撰述者の具体的な僧名は未詳ですが内容から見て唐代後期の作と考えられます。当軌に於いては北斗召請(召北斗)の印を説いてから「一字頂輪王」と「召北斗七星」の二真言を記していますから、北斗七星の本地を頂輪王と見ているのです。又当軌に、
「北斗七星は日月五星(七曜)の精なり。七曜を曩括して八方に照臨し」
と云い、上述の『史記』「天官書」の説を踏襲しています。「曩括」の「曩」は「嚢(ふくろ)」に通じると考えられるので、嚢に入れて括(くく)る、即ち支配統制するという意味です。
従って北斗曼荼羅は、『顕密一如本仏』、「熾盛光曼荼羅」、『北斗七星護摩秘要儀軌』という三つの典籍を参照して成立したと考える事も可能でしょう。実際には様々な視点からもっと多くの史料を検討する必要があるにしても、考察の足掛かりとして一応の説を提示したのです。又北斗曼荼羅と星宿法の成立を考える上で今一つ重要な史料として、智証大師と高向公輔が共撰した『佛母曼拏羅念誦要法集』がある事は、既に上来詳しく述べた通りです。
さて北斗曼荼羅(星曼荼羅)の遺例には、方形と円形の二様の作品が伝わっています。ほとんどの別尊曼荼羅と同じく北斗曼荼羅も元来は方形に構成されていましたが、円曼荼羅が登場した経緯に付いて『覚禅鈔』の「北斗法」に引用する「証師の記」に説明(物語)があるので以下に示します。
「証師の記に云く、金剛寿院法眼示されて云く、北斗の丸曼荼羅は台山(比叡山延暦寺)の慶円座主〔世に三昧座主と号す〕(944―1019)、案を廻らして図絵すなり。和尚(慶円)之を図絵せる当初には、尊像を壇上に懸けて供具を排備し、即ち立誓して云く、若し星宿の明鑑に叶えば須らく流布すべし。尊位を謬(あやま)てれば棄毀すべし〔云々〕。和尚、夢にも非ず幻にも非ざるに、正しき衣冠の数輩、壇上に来集して競って供養物を食い、則ち之を感歎す〔云々〕。其の後、(丸曼荼羅を)天下に披露して、自他宗に図絵せり〔云々〕。 」
是を物語った「金剛寿院法眼」と其れを記した「証師」に付いては、残念ながら今の所誰か特定できません。又三昧座主慶円が円曼荼羅を創始した物語は『元亨釈書』巻第十一の慶円伝にも記されていますが、少しく趣向を異にしていますから合せて下に記します。
「一時北斗法を修せるとき、供物を壇上に設けて団欒にして之を繞(めぐ)らす。召請(しょうじょう/ちょうしょう)の印明に至って、七星の壇に降りて各の円供の列に著す(降臨した北斗七星が丸く配した供物に沿って並んだ)。蓋し本軌は方壇なり。円壇は(慶)円に始まるなり。」
(六)妙見菩薩
北極星を「北辰」と称する事は第二項に於いて晋代(265―316)の失訳『七佛所説神呪経』と『論語』の一節を引用して述べた通りです。『七佛神呪経』の当該箇所をもう少し引用すると、
「我北辰菩薩は名づけて妙見と曰う。今神呪を説きて諸(もろもろ)の国土を擁護せんと欲す。所作甚だ奇特(秀逸)なるが故に妙見と曰う。閻浮提(えんぶだい/人間界)に処して衆星中に最勝なり。」
と説いています。即ち北極星の本地を北辰菩薩とし、又此の菩薩の人間界に於ける優れた働きの故に妙見(菩薩)とも称すると述べています。ところが現在では妙見菩薩を北斗七星の本地と解している例を多く見かけます。此の事に付いては後で妙見の形像に言及する時に説明します。
本邦に於いては早く奈良時代に妙見信仰が普及していました。その事は同時代の佛教説話集『日本霊異記』に、妙見菩薩の霊験譚が三話収録されている事から伺えます。それらの標題を示せば、
一、絹(かとり)衣を盗ましめ妙見菩薩の帰願(よりねが)いて倐(たちまち)に其の絹の衣を得る縁(ことのもと) (上巻第三十四)
二、妙見菩薩変化して異(あや)しき形を示し盗人を顕す縁 (下巻第五)
三、網を用て漁(うおと)る夫(お)、海の中の難に値(あ)いて妙見菩薩を馮願(よりねが)いて命を全くすること得る縁 (下巻第三十二)
となっています(『新日本古典文学大系』30に依る)。
此の中の第二話には、河内国安宿(あすかべ)郡に存した信天原(しではら)山寺に於いて妙見菩薩の為に燃燈(みあかし)を奉る事が重要な年中行事として行われていた事が記されています。此の妙見に対する燃燈の風習は各地で行われていたらしいのですが、朝廷は当初是に批判的であり、数次にわたり禁止令を出していました。それでも一向に
収まる気色が無かったらしく遂には是を認めるに至りました。鎌倉時代に成立した『年中行事秘抄』の三月「三日御燈(ごとう)の事。〔廃務〕」の項に(廃務とは当日の官庁業務を中止する事)、
「国史に云く、延暦十五年(796)三月、勅して北辰を祭るを禁ず。朝制已に久し。而るに所司侮慢して禁止を事とせず。
延暦十八(年)、之(禁令)を止む。」
と云い、続けて、
「桓武(天皇平安)遷都(延暦十三年794)の後、霊巌寺に登り、御燈を供え奉る。」
と記されています。即ち天皇自ら北辰(菩薩)の為に御燈を供えて年中行事の一部にしたのです。又同書の「三・九月御燈の事」等の記事から、年二回、三月と九月の各三日に御燈を献じて国家の安寧を祈念していた事が知られます。
此の朝廷に依る北辰燃燈が行われた霊巌寺は、入唐八家の一人円行(799―852)が止住した事で知られる京都北山の寺院ですが、廃絶してその詳しい所在地は不明の様です。但し御燈の行事は必ずしも霊巌寺だけで行われていた訳ではありません。「三日御燈の事」の項に、
「御記(醍醐天皇宸記)に云く、延喜二年(902)三月二日、内蔵寮の請に、御燈を奉るべき寺を定めらる(べし)。旧例慥(たし)かならざるに依って右大将(藤原定国 866―906)を召して之を問う。奏し曰く、貞観(年間859―877)以来、霊巌寺に於いて奉らるが、寛平(年間889―898)の初に月林寺を用い、後に円城寺を用う。故に旧例に因って霊巌寺に於いて奉るべき状を仰せ了んぬ。三日云々。御禊了んぬ。之を拝すること三度なり。 」
と記されています。
しかし霊巌寺乃至はその北辰(妙見)菩薩に対する信仰は平安中期を通じて衰退に向かいました。それには入唐八家が請来した密教典籍の中に、妙見に関する供養儀軌が別して存在しなかった事が影響したのかも知れません。能書家として著名な権大納言藤原行成の日記『権記』の長保元年(999)十二月九日の条によれば、一条天皇(在位986―1011)の眼疾に関して「泰平」なる人(陰陽師か)が占いを行い、「妙見、祟りを成す」という注進が成された。是に依って早速使者を霊巌寺に遣わして「妙見堂を実検」させた所、「上(屋根)の桧皮(ひわだ)等破損して、只九間の壁のみ有り」という有様であった。その結果、此の度の御悩(眼疾)の原因である祟りを除く為に、急いで妙見堂の修理をするよう命令が出されたと述べています。
此の妙見堂の本尊であった妙見像はいつしか失われましたが、鳥羽院政期に成立した『図像抄』(尊容抄/十巻抄)の巻第十「天等下」には当像の尊容に関する記載があって、
「本朝往古の図画に妙見の形像は一途(一様)に非ず。印相も同じならず。但し霊巌寺に等身の木像あり。左手を心に当てて如意宝を持ち、右手を与願(印)に作る。太底(大抵/大体)は吉祥天女の像に同じ。」
と記しています。即ち妙見の本形(像容)に付いては儀軌の本説が無いので、当初は『七佛神呪経』に説く現世利益的性格に準拠した造像が行われていたのでしょう。「如意宝(珠)」と「与願(印)」は共に現世利益の最も直接的な標示と云えます。
時代が下がって密教修法が著しく隆盛した鳥羽院政期の頃には、『図像抄』が云うように様々な尊容の妙見像が案出されました。しかしながら東密諸流の妙見法次第に関して言えば、道場観に於ける本尊妙見菩薩の像容は大体一致しています。院政期に製作された多くの諸尊法集の中でも、写本が現存する分ではその成立が最も早い成就院大僧正寛助撰『別行(七巻抄)』(永久五年/1117成立)を例に取れば、巻第七「妙見菩薩」に、
左手に蓮花を持つ。花上に北斗七星の形を作れ。右手は説法印に作せ。五指を並べ舒(の)べて上に向け、大母指を以って頭指(人差し指)の側を捻(お)して、手掌を外に向けよ。
等と記しています。以後の恵什阿闍利/保寿院僧正永厳(『図像抄』)・成蓮房兼意(『成蓮抄』)・勝倶胝院僧都実運(『諸尊要抄』)等の諸匠も、道場観の尊容に付いては概ね寛助の抄に追随しています。蓮花の上に七星を安置する事は、星宿王である北極星(北辰/妙見/尊星王)が諸星を統治支配する象徴なのでしょう。即ち諸星の代表として夜空に圧倒的な存在感を示して耀く北斗七星を撰んだのですが、若しかすると北斗七星は北極星と同体にしてその別の現れ方と解されていたかも知れません。何れにしても此の像容の普及によって、後には妙見菩薩を北斗七星の本地とする説が行われるようになりました。
一方、『大正新脩大蔵経 図像』第七巻に収載する醍醐寺蔵『妙見菩薩像』二巻には、三井寺で発展した尊星王法系の四臂像類を別にしても、天部の尊形から通例の菩薩形まで十余種の図像が納められているのですが、その中に上記『別行(抄)』等の尊容に一致する像はありません。尤も右手に持つ棒の先端に北斗七星と三日月が描かれた荷葉座に坐す菩薩形の像があります(第4図)。此の棒は閻摩天が持つ檀拏(だんだ)幢に近似していて、閻摩天の場合は棒の先端の半月(三日月形)上に人頭があるのに対して、こちらは三日月の上に七星を配しています。此の妙見像の方が、後に一般化する手に執る蓮花の花台上に北斗七星を置く像の祖形を示しているのかも知れません(他に四臂像である第25図に於いても上端に北斗七星が描かれています)。
ところが妙見像として現存する主として近世制作の諸像のほとんどは、上記の密教系図像類とは異系統の尊容を示しています。その大きな理由は、平安院政期に密教修法が隆盛しても一方に於いて奈良時代・平安前期以来の民間の妙見信仰に基づく妙見像の系譜があって、真言密教が衰退した中世後期には反って民間信仰系の様々な尊像が盛んに制作されるようになったのでしょう。そうした観点に立つ時、古様を伝える非常に注目すべき妙見像として、伊勢外宮の神官度会家の妙見堂に代々安置されていた正安三年(1301)作の木像妙見菩薩立像があり、保存状態が大変良い上に伝承もしっかりしていて妙見の像容に付いて考察する上で見過ごすことは出来ません(現在は読売新聞社蔵)。本像の顔貌は端正にして穏やかであり、髪の毛を角髪(みずら)に結っています。右手に剣を持ち、左手は前腕を立てて掌を外に向け、拳にして人差し指と中指を立てて不動剣印の如くしています。又身に鎧を着て、胸に瓔珞を付けています。後世の妙見像が多く右手に剣を執る事を考えると、本像はその系譜を知る上で重要な位置にあると云えるでしょう。(本像の写真・略歴に付いては中西用康著『妙見信仰の史的考察』の口絵・解説を参照して下さい。写真はグーグルの画像検索にも出ています。)
(七)尊星王
既に第二章に於いて見た如く智証大師の『顕密一如本仏』(顕密二宗本地三身釈)の中で、天空に耀く無数の星々の王である星宿王(北辰/北極星)を又尊星王と称するが、尊星王とは即ち妙見であると記されています。此の由緒によって三井寺(園城寺)では早くから妙見菩薩を専ら尊星王と称していたようです。又東寺・山門(延暦寺)の所伝に依れば尊星王は妙見の異称に過ぎないのですが、三井寺の尊星王法は特異な発展を遂げて他寺の妙見法とは余程違った修法に成っていたのです。『阿娑縛抄』第144「妙見」に、
此の法は三井寺の秘法なり。尊星王法が是なり。但し彼の秘書一結之を持せるが、彼の行儀は真言家の為す所に非ず。陰陽家の作法を以って依馮(えひょう)と為すか。
等と述べて、三井寺の尊星王法は密教修法と云うより陰陽道の法に近いと証言しています。
尊星王法に関わる古い記録として右大臣藤原実資の日記『小右記』があります。同記によれば実資は尊星王を信仰して四季の尊星王供を恒例の佛事としていました。その初出記事として治安元年(1021)七月九日の条に、
「日来(ひごろ)阿闍利叡義を以って尊星王に(祈り)申さしむ。其の験あるに依って宣旨を奉りて後、桑糸三疋(ひき)を与う。是の布施にて今日許り祈り申すべしと者(い)えり。」
と云っています(「宣旨」云々に関わる詳しい事情は不明)。叡義阿闍利は三井寺の真言血脈を記した『伝法潅頂血脈譜』に於いて、実相房心誉権僧正(971―1029)の付法弟子として記されています(『園城寺文書』第七巻)。又師僧の心誉と尊星王法との関わりに付いて、前項に言及した仁和寺の寛助撰『別行』(七巻抄)の巻第七「星宿供」に、尊星王心呪「オン・マカシリエイ・ヂリベイ・ソワカ」は「心誉僧正の伝〔云云〕」と述べています。
又治安三年九月二十七日の条では、尊星王供結願日の払暁に「延寿の夢想」があって、実資は是を法験と見て喜んでいます。
一方、三井寺の伝承によれば、村上天皇の第三皇子にして明王院宮と称された入道悟円親王(952―1041)は平等院(後の円満院)を建立して尊星王像を安置したのみならず、円融天皇の御願寺であった洛北岩倉の大雲寺にも同像を安置しました。従って此の頃(11世紀前半)に三井寺に於いて尊星王法の修法次第や本尊の尊容等の法儀が整いつつあったと考えられます。
しかし同法が三井寺の秘法として公家(天皇)御修法の一角を占めるようになったのは白河天皇(在位 1072―86)の時代になってからです。承暦四年(1080)に三井寺の隆明僧都(後に同寺長吏、大僧正)は同寺に等身尊星王菩薩像を祀る一堂を建立して羅惹(らじゃ)院と名づけ、白河天皇は同院を御願寺として阿闍利三口を置きました。ところが不幸にしてその翌年(永保元年 1081)六月に三井寺は山僧の焼き討ちに遭って灰燼と化し、新造の羅惹院(尊星王堂)も焼失しました。それでも白河上皇の尊星王に対する尊信は篤く、寛治四年(1090)三月二十六日に至って同院は上皇に依って再興供養されました。大江匡房が作ったその時の御願文は『寺門伝記補録』巻第八に収載されていて、文中に、
「伏して惟(おもんみ)るに尊星王は衆星の拱(こまぬ)く所、群生(ぐんじょう)の頼む所なり。居を北辰のの位に止め、象(かたち)を南面の尊(佛菩薩)に垂る。倚伏(禍福)を定めて運命を主(つかさど)れば、一四天下悉く其の恩を仰ぐ。」
と述べていますから、是に依って当時の尊星王に対する信仰の大体を知る事が出来ます。
又『朝野群載』巻第三に収める天永四年(1113)二月二十七日の白河上皇「北辰祭文」に於いては、北辰にただの「尊星王」なる名称を凌ぐ「北極玄宮無上無極天皇大帝尊星」なるかなり大袈裟な尊称を与えて、
「北辰は七曜九執の至尊にして千帝万王の暦数を掌(つかさど)る。位を紫微に正して(紫微宮の中心に居して)天下の興滅を主り、光を玄宮に施して人□の善悪を照す。」
と云い、更に修法の願意に付き、
「齢(よわい)六旬(六十歳)を過ぐること、是れ尊星の冥助に因る。命は億載を期するも、猶お余年の長存を祈る。」
と述べていますから、専ら(帝王の)延命長寿を尊星王に期待している事が明らかです。此の事は尊星王像の持ち物(標示)の意味合いに付いて示唆しています(次文)。
次に尊星王の図像に一瞥を加えれば、その成立年代の大体が特定できるものとして最古の事例は『図像抄』巻第十「天等〔下〕」に載せる龍王の背に乗り片足立ちする四臂妙見像です。即ち鳥羽院政期の尊容です。此の像に於いては本臂の右方に筆、左方に紙を持っていますが、是が衆生の善悪を勘案して命籍に記入する様を顕している事は上記に依り明らかと云えます。向かって右側に立つ脇侍も紙筆を持っていますが、是は書記官として本尊の判定結果を記録しているのでしょう。
一方、三井寺に現存する最古の尊像は鎌倉中期頃の制作と考えられている彩色画像でしょうが、『図像抄』と較べると本臂の持ち物が右に三股戟、左に錫杖(?)である他に大円相上に日月輪を配する等の相違があります。又首髻(しゅけい)に鹿冠を付けるのも大きな特徴です。此の三井寺の図像は智証大師の相伝という伝承もあるようですが、史料学の観点からそれを裏付ける事は出来ないでしょう。又たとえ大きな相違は無いにしても、承暦四年(1080)に尊星王堂(羅惹院)に安置された尊像との同異も確認は出来ません。前項に言及した醍醐寺蔵『妙見菩薩像』二巻には、両足立ちで龍王に乗る四臂像二種を始めとして上記の三井寺像に近似するものまで多様な四臂(尊星王)図像が収録されていますから、三井寺に於いても像容が確定するまでには色々な経過をたどったと推定されます。
(以上)