真言情報ボックス第3集

[目次] 1.佛菩薩同体の事 

 

1.佛菩薩同体の事

 

密教に於いては弥陀・観音同体の口決があります。即ち極楽浄土に於いて説法する御姿は阿弥陀如来であり、此の世に於いて我々衆生の為に教化と済度に励む御姿は観自在菩薩であると云います。又『理趣経』第四段の観自在菩薩の法門を説く所は、初めに「

時に薄伽梵(バガボン/世尊)は自性清浄法性を得たる如来となり、復一切法平等なる観自在智印を出生する般若理趣を説きたまう。」

と述べていますが、此の「自性清浄法性を得たる如来」とは無量寿如来=観自在菩薩のことです。第四段の法門が観自在菩薩の法門である事に異義を唱える人はいません。『密教大辞典』の「理趣経段段の印明」の項は、第四段の終わりに記される種子(シュジ)真言キリク(梵字 hrih)に付いて、「衆生の心蓮本来清浄なる義を表し、観自在菩薩内証の心真言なり。」と述べています。

此の弥陀・観音一体の口決は不空三蔵訳の『理趣釈』巻下にその本説が有るようです。即ち第四段の釈文に、「

自性清浄法性を得たる如来とは是れ観自在王如来の異名なり。則ち此の佛を無量寿如来と名く。若し浄妙の佛国土に於いては成佛の身を現じ、雑染(ゾウゼン)五濁(ゴジョク)の世界に住しては則ち観自在菩薩と為る。」

と説いています(大正蔵・・・p.///

 

実には佛と菩薩を相互に融通させる事は、密教思想の中で普通に見られる考え方です。その事は金剛界修法に於いて端的に示されています。『金剛界次第』の「四(佛)礼」「四佛加持」「五佛灌頂」「四佛繫鬘(ケイマン)」の各真言に於いて佛の名称は、東方の阿閦如来がバザラサトバ(金剛薩埵)、南方の宝生如来がバザラアラタンノウ(金剛宝)、西方の無量寿如来がバザラタラマ(金剛法)或いはバザラハンドマ(金剛華)、北方の不空成就如来がバザラキャラマ(金剛業)となっています。此の事に付き解説される事はあまり無いようですが、『密教大辞典』の「四礼」の項に、「

東・南・西・北四方(四佛)の礼は行者の全身(は)、(各々)五股杵、三弁宝珠・未敷蓮華・十字羯磨なりと観じ、(それらの)三昧耶形中に具せる心所法(が)、五股杵は金剛薩埵、宝珠は虚空蔵、蓮花は観自在、羯磨は虚空庫菩薩となりて、金剛部主阿閦・宝部主宝生・蓮花部主無量寿・羯磨部主不空成就に四佛を礼すと観ずべし。」

と述べています。要するに行者は先に四菩薩の身と為ると観想し、それから四如来を礼拝すべきだと云うのでしょう。しかし是は経説に依らない臆説であると思われます。上記の説のように難しく考えるべきでは無く、行者は四佛=四菩薩を礼すべしと云うのが本説です。此の事に付き、以下に阿閦佛=金剛薩埵の真言を例にとって述べましょう。

 

「四礼」の真言は『略出念誦経』巻第一に注記・解説を付して記されているので、是の東方佛真言を見ましょう。その文は、「

初め東方に於いて此の密語を誦して礼拝せよ。

オン サラバタタギャタ【一切如来】ホジュ【開口して呼ぶ。供養なり。】ハサタノウヤ【承事なり。】アタマナン【己身なり。】ニリヤタ【奉献(ブゴン)なり。】ヤミ【我、今なり。】サラバタタギャタ・バザラサッタ・アチシュタ【守護】ソバマン【我を】ウン

論じて曰く、梵に初後の二字(オン・ウン)を存す。余方(南西北)も此に例(ナラ)う。一切如来に供養承事せんが為の故に、我は今己身を奉献す。願わくは一切如来金剛薩埵よ、我を加護せよ。」

と云います(大正蔵18 p.225b)。即ち真言の意味は、「オン 一切如来を供養し承事する為に、私は今自らの身体を献げ奉ります。どうか一切如来(別しては)金剛薩埵よ、私を加護(加持)して下さい。ウン」ですから、『密教大辞典』が云うように「行者が金剛薩埵となって阿閦如来を礼する」のではありません。行者は金剛薩埵(=阿閦如来)に祈願するのです。

 

「四佛加持」「五(四)佛灌頂」「四佛繋鬘」の真言に於いては、四佛が四菩薩として記されている事はより簡潔明瞭です。是は『略出経』巻第二から四佛灌頂の宝生佛の真言を見ましょう。それは、「

オン バザラアラタンノウ(金剛宝) アビシンジャ(灌頂) マン(我を) タラク」

です(p.238b)。即ち「オン 金剛宝菩薩よ、私に灌頂を与えて下さい。 タラク」と云います。

それでは何故に佛の名号を用いないのかと云えば、佛は浄土に於いて三摩地(定)に住しているか、或いは出定して聖衆の為に説法しているのであり、此の雑染世界に於いて我々の為に所作する時は菩薩身を示現するからです。本稿の初めに阿弥陀如来に付いて述べた通りです。

 

密教に於いては、「佛」に対する理解が顕教一般と異なっている面があります。即ち発菩提心に至高の価値を認め、佛の境地も菩薩の発菩提心時の驚き、歓喜、亦懴悔を超えるものでは無いと考えられています。勿論発菩提心と等正覚(成佛)に何ら差異が無いと云う訳ではありません。又「発菩提心」に対する定義も関係してくるでしょう。普通に考えれば、菩提心を証して後に経験と観察、修行を積み重ねて佛の一切智智を証得することが出来るのです。

ここで此の事を考える便(ヨスガ)として『密教大辞典』の「発心即到」の項より引用しましょう。即ち当項に(原漢文を和訳する等、読みやすくしてあります)、「

(前略)機根不同にして証果に頓漸あり。機根に修行成佛の機と発心即到の機あるべく、修行(成佛)の機の中にも亦頓漸の不同有るべし。(中略)是を以て金剛頂大教王経一には纔発心(転法輪)菩薩の内証を説きて、「纔(ワズカ)に発心するに由るが故に能く妙法輪を転ず。」と云い、大(日経)疏一には勝迅執金剛の名義をを釈するとき、「此の乗に住すれば初発心時に即ち正覚を成じ、生死を動かさずして涅槃に至る。」と説き、(般若)心経秘鍵には「迷悟は我に在り。発心すれば即ち(覚りに)到る。」と云い、吽字義には「若し人ありて、能く此の吽字等の密号・密義を知れるを、則ち正遍知者と名く。所謂(イワ)く、初発心時に便(スナワ)ち正覚を成じて大法輪を転ず。」と釈し、金剛頂経義訣には「初発心より便ち正覚を成じ、常に佛乗に住して智用(チユウ)に無礙なり。」と云う。これ皆発心即到の機ある明証なり。」

と述べています。最初と最後に言うように、「発心即到」は行者一般に通用する訳では無く、是が当てはまる機根の人もあると主張しているのです。

次に『大日経疏』巻第二から引用して、更に此の問題に付いて考えましょう。即ち菩薩の「十地」との関連を説いて、「

然して此の経宗は、初地より即ち金剛宝蔵に入るを得と(説くが)故に、華厳十地経の一一の名言(各地の名称とその解説)は、阿闍梨の所伝に依らば皆須らく二種の釈を作すべし。一は浅略釈、二は深秘釈なり。(浅略釈とは)若し是の如き秘号に達せざれば(密意を知ることが出来なければ)、但文に依りて之を説く。則ち(其の/初地より第十地に至る)因縁と事相は往きて十住品に渉る。(深秘釈は)若し金剛頂十六大菩薩生を解すれば、自ずから当に証知すべきなり。」

と云います(大正蔵39 p.605a)。深秘釈の依憑(エヒョウ)として金剛頂密教の教理を持ち出しているのも興味深い事ですが、秘密の教義を会得できる人にとっては、初地(歓喜地)を得る事は即ち金剛宝蔵(佛果)に入る事に他ならないと説いています。因みに、発菩提心を初地に摂(オサ)めるか、或いは一般的な意に解してより低い菩薩の位とするか異論があるでしょうが、今は此の問題に立ち入りません。

 

又金剛界密教に於ける「佛」乃至「成佛」の考え方は、『金剛界次第』の「四佛繋鬘」「甲冑」より「成佛」に至る一段に顕著に示されています。瑜伽の行者は五相成身観を修して「佛身円満」し、四(又は五)佛より灌頂儀礼を受けますが、此の段階ではまだ成佛と見做されていません。「甲冑・結冑・拍掌・現智身・見智身」を経て「成佛」に至ります。此の事に付き高井観海著『密教事相大系』に解説して、「

(動潮僧正の)『手鑑(テカガミ)』に(教舜撰)『播抄』(に記す憲深僧正の)御口を引き「前の五相成身は理法身を成し、次に現智身等は智法身である、今この成佛は理智法身円満の位」なりという。」

と記しています。やや定型的な教理解釈の嫌いがありますが、『密教大辞典』「佛身」の項「()二身建立」に、「(密教は)法身・智身を以て一切の諸佛を摂す。(中略)法身は理法身にして胎蔵大日、智身は智法身にして金界大日なり。」と云います。但し「五(四)佛灌頂」は勿論金剛界の灌頂ですから、今問題の「理法身」を胎蔵大日とする事は出来ないでしょう。

 

高井師は『手鑑』の説を紹介してから「成佛」の真言

サンマユカン【三昧耶身】マカサンマユカン【大三昧耶身】

を釈して、「即ち行者自ら金剛薩埵となりたれば、「我こそ三昧耶身であり、大三昧耶身である」という心である。(中略)金剛薩埵の大楽の本誓(三昧耶)に住する心である。」と述べています。(p.267

高井師は是を敷衍する言葉を記していませんが、要は「成佛」とは金剛薩埵と成る事を言うのです。即ち毘盧遮那如来とは金剛薩埵の事です。

普通には菩提心を発(オコ)して修行する行者が金剛薩埵であり(因位)、修行円満して等正覚を成就し、一切如来の灌頂に浴して毘盧遮那佛/大日如来に成る(果位)と説明されています。『金剛界次第』のように、諸佛の灌頂を得た後に金剛薩埵と成るのでは因位と果位が逆転していて、言葉の上では矛盾した事を云っているように感じられます。

 

此の事に付いては色々な解釈があるでしょうが、今は自受用身(自利身)と他受用身(利他身)の考え方に依りましょう。上の憲深「御口」に云う「理法身」とは凡聖不二、即ち自ら心身と佛の心身が同一であると悟った位であり、諸佛の加持を受けて灌頂を蒙ったとしても、未だ五欲雑染の世界に於いて衆生済度の利他身を示す準備は出来ていません。その為には更に進んで一切如来の加被を受けて「大慈大悲の甲冑」を身に着ける必要があります。それが「甲冑」「結冑」印言であり、是が了って始めて毘盧遮那佛の利他身である金剛薩埵を観見し、心内に薩埵を引入して自身に金剛薩埵を現成するのです。此の金剛薩埵は阿閦如来の四親近中の一菩薩では無く、金剛界三十七尊の総体である具足金剛薩埵です。即ち一印会の本尊金剛薩埵です。現図曼荼羅に於いては一印会の本尊は大日如来に成っていますが、『初会金剛頂経』即ち完本の三十巻本『教王経』には一印会の本尊が金剛薩埵である旨、明確に説かれています(大正蔵18 p.369a,b)。

密教行者の究極の姿は金剛薩埵なのです。

 

 

以上。 令和六年(2024)七月十日