東大寺真言院と如意宝珠

 

東大寺真言院と如意宝珠

 

金沢文庫保管称名寺聖教の中に外題を『肝心法〔舎利〕』、内題を『駄都秘決』と称する写本があります(第334函39号)。その中に、

南無阿弥陀仏(俊乗房重源)云わく、宇一(室生)山の宝は

大日髻中の宝なり。東大寺真言院には

釈迦の人黄(にんおう)を埋めらる〔云々〕。

というやゝ風変わりな文章があり気に懸っていました。

弘法大師が国家鎮護の為に室生山に如意宝珠を埋めたという伝承はよく知られていて、是を取り上げた記述は各種の書籍・論文等に広く見かける所ですから今は言及しません。問題とするのは東大寺真言院に関する部分です。本文書の書写奥書の中、古いものは建久九年(1198)十二月四日、新しいものは文永七年(1270)三月九日であり、又識語中に様々興味ある記述がありますが煩雑を避けて言及を控えます。

 

辞典類に依れば、東大寺真言院は弘仁年間に嵯峨天皇の御願として同寺別当空海(弘法大師)によって創建され、同十三年(822)に潅頂道場が建立された事などが知られるものの、平安中期には荒廃して廃絶に帰したらしく概して詳しい事は分からないと云えます。上の写本に依れば、その真言院に大師が「釈迦の人黄」すなわち仏舎利を埋納したと云うのです。人黄という言葉は『大日経疏』巻第十に於いて、ダキニ天が食する人間の心肝中の栄養素(エネルギー源)のようなものだと説明されています。しかし今の例は舎利の意味で此の特殊な言葉が使われているのです。

 

さて上の南無阿弥陀仏の口説と関係する史料として、続々群書類従の『東大寺続要録』「諸院篇 真言院」の中に載せる弘安四年(1281)四月六日付太政官牒があります。是は沙門聖守(1219―1291)の申請を認めて東大寺真言院を鎮護国家の道場とする事を通達した文書です。牒中に転載引用する申請文の中に、弘法大師が同院に摩尼珠と仏舎利を納めたという事が述べられています。

また続群書類従第27輯上の『東大寺縁起』にも関連する部分があるのですが、文章に難解(錯誤)な点が多々あります。幸いに同『縁起』の原本は『真福寺善本叢刊』8の刊行によって同書収載の「東大寺記録」である事が明らかにされ、是に依って誤字等の問題が多く解決されました。

 

○真言院聖守の申請状の事

最初に大分と長くなりますが弘安四年の東大寺に宛てた太政官牒の全文を和訳して掲載します。(読みやすくする為に適当に段落を設け、注目すべき箇所を赤字で示しました。)「

 

太政官牒 東大寺

 応(まさ)に弘仁(年間 810―24)の(太政)官符に任せて真言院を以って鎮護国家道場と為して長斎せしめ、梵行の浄侶、息災増益法を勤修すべき事

 

右、太政官の今日治部省に下せる符に偁わく、沙門聖守の去年(弘安三年/1280)十一月 日の奏状を得て(其れに)偁わく、

東大寺真言院は去る弘仁第十の聖暦(819年)嵯峨天皇の御宇(ぎょう)、弘法大師に勅して甲勝の地を撰(えら)ばしめ、新たに潅頂の道場を祐して国家の安寧を祈らしめき。則ち(弘仁十年の)官符に偁わく、苦を抜き楽を与えること、佛乗は是に在り。至心に鑽仰すれば何事か成らざらん。宜しく東大寺に於いて国の為に潅頂道場を建立し、夏中及び三長斎月、息災増益法を修し、以って国家を鎮(しず)むべし云々。

玆(これ)に因って大仏大殿の前を点じ、東塔と西塔の中に当たりて、忽ち五間四面の潅頂堂を建て、両部九鋪(くほ)の曼陀羅を安ぜしむ。定額廿一僧は勅命を守りて息災増益の秘法を修し、御願の千万代は叡慮に任せて天長地久の精祈を勤む。爾の時、鳳城の塵収まり、百王は偏(ひとえ)に護持の力を馮む。鯢海(げいかい)の波閑(しずか)にして万民併しながら修念の徳を仰ぐ。四曼荼の萼(がく/うてな)始めて斯の地に開け、両部界の月新たに当院に耀く。君臣尤も崇重せらるべし。緇素(しそ)豈に以って帰敬(ききょう)せざらんや。

就中(なかんづく)摩尼の宝玉を土に埋め、遺身の舎利同じく納む。而るに建立の後、星霜多く移りて破壊せる間、蹤跡(しょうせき)空しく絶え、般若開講の場は荊棘(けいきょく)林を成す。舎利安置の處は莓苔(ばいたい)地を埋めて密壇何くにか在る。春駒徒に荒原の風に嘶き、禅床更に空しく秋鹿独り故苑の露に鳴く。

然れども高祖(弘法大師)日々の影向(ようごう)は猶闕念すること無く、旧跡連連の検知に頻りに霊異を示す。重源和尚参詣の尅、鈴音親(まのあた)り瑜伽壇の上に韻(ひび)き、聖慶得業(1153―1175)の瞻礼(せんらい)せる處、瑞光正しく潅頂堂の縱(あと)に現る。加以(しかのみならず)正治(年間)の秋天に紫雲屢(しばし)ば聳え、建保の春日に金篋(こんきょう)忽ち彰(あらわ)る。末世たりと雖も奇独無きに非ず。 

爰に聖守、且(かつう)は先王の御願を続(つ)いで金輪(聖王/天皇)の平安を祈り奉り、且は祖師の遺跡(ゆいせき)を崇めて(南天)鉄塔の教法を興さんと欲す。然れば則ち再び(真言院の)基址を祐さんが為に竊(ひそか)に誓願を発(おこ)さしむ。仍って高野山の莓洞に跪きて多年大師の加被を泣請し、(伊勢)大神宮の叢祠に籠りて数廻深く尊神の冥助を仰ぐ。而れば機感の時至って霊託日に新たなり。

之に依って去る建長第七の暦(1255年)暮春三月の天、始めて荒蕪の地を擺(ひら)き土木の構えを跂(くわだ)てしむること、勅施を待たず、寺物を費やさず。只三宝の威力を仮りて速やかに一院の興行を遂げたり。佛閣僧院は皆弘仁の住蹤を複し、本尊道具悉く大師の在世に同じ。剰(あまつさ)え数口の浄侶を安じて両部の大法を修せしむ。但し三衣一鉢の資縁、闕乏せしむるに依って廿一口の定額(僧)満足せずと雖も、漸く其の勤めを致したれば蓋(けだ)し彼の願いを成ず。

抑(そもそ)も当院止住の緇徒(しと/僧侶)に至っては宜しく高祖遺誡の玄旨を守り、最も五篇の禁戒を護持すべし。三密の秘法を修行すべし。若し身器全うせざれば争(いかで)か法乳を受くべき。世は末法に属すと雖も、人の本教を忘ること莫(な)し。破戒無戒の彙(い/たぐい)は更に当院に住すべからず。浄行梵行の仁、尤も今の砌に居せしむべし。

望むらくは天裁を請い、早く弘仁の官符に任せて清浄持律の僧侶を安置して息災増益の秘法を勤めしめ、聖朝安穏の御願を祈り奉るべき由宣下せらるれば、弥(いよいよ)三長斎月の妙行を(修して)千秋万歳の宝祚(帝位)を祈らしめん。幸いに黄河一清の聖代に値(あ)い奉り、久しく青龍三密の法水を湛えんと欲す、と者(い)えり。

(ここまでが聖守の去年十一月奏状の転載引用です。以下、裁許の文が続きます。)

 

正二位行権大納言藤原朝臣信嗣、宣す。勅を奉(うけたまわ)るに「(申)請に依れ」と者えり。(治部/じぶ)省、宜しく承知して宣に依り之を行え、と者えり。(東大)寺、宜しく承知して(この太政官)牒の到らば、状に准ぜよ。故に牒す。

  弘安四年(1281)四月六日

 〔修理左宮城判官正五位上行左大史兼備前権介小槻宿禰〔判あり〕牒す。〕

従四位下行左少弁平朝臣(信輔)」

 

相当に長い文章なので今のテーマとの関連が窺われる聖守奏状中の「就中(なかんづく)摩尼の宝玉」以下の一節だけを現代語訳して下に再掲します。「

 

とりわけ(弘法大師が)摩尼宝珠を(真言院の)境内に埋め、釈迦の遺骨である仏舎利を同じく奉納なされた。しかしながら真言院建立の後多年を経て堂舎は崩壊し、その跡を継承する者とて無くなってしまった。大師が『般若心経』を講説なさった場所はイバラの林と成り、仏舎利を安置していた所は野イチゴや苔がうず高く地面を覆った。密教の修法壇があった場所も分からず、春を迎えて嘶(いなな)く馬の鳴き声が荒野を吹き抜ける風に和し、座禅瞑想が行われていたであろう床板も無くなって、かつて庭園であった場所には秋になって露が降り、鹿が伴侶を求めて寂しく鳴いている。

それでも高祖大師は毎日欠かさず影向(ようごう)されているのであり、真言院の跡地には連連として頻繁に霊異が示されている。重源和尚が参詣なさった際には、三密瑜伽の修法壇があったのであろう場所で金剛鈴が鳴り響き、聖慶得業が念を凝らして礼拝した時は、潅頂堂の跡から瑞光が出現した。それだけでは無く、正治年間(1199―1201)の秋頃に天に向かってたびたび紫雲がそびえ立つ事があり、建保年間(1213―19)の春頃に金で出来た篋(はこ)が突然出現した。世は末と云うけれども、奇特(不思議)な出来事が無い訳ではない。」

 

太政官牒の冒頭部の標題に「応に弘仁の官符に任せて」と述べていますが、是は弘仁十三年(822)二月の治部省に下した太政官符に言及しているのであり、その中では空海に東大寺の中に潅頂道場を建立させるよう通達しています。此の「弘仁の官符」に付いてはもう少し後で詳しく説明します。

聖守の申請文中に、弘法大師が東大寺真言院に摩尼宝珠を土中に埋め、仏舎利を奉納したと述べていますが、後文の聖慶得業が瑞光によって真言院の潅頂院跡を感得したと云うのは特に摩尼珠埋納の事を暗に強調しているようです。重源の口説では「東大寺真言院には釈迦の人黄を埋めらる〔云々〕」とありましたから、聖守が得ていた伝承との情報源の相異が少し気になります。

 

○東大寺真言院の事

さて大師は帰朝後ほどなく弘仁元年(810)東大寺別当に補任(ぶにん)して四年間寺務を勤めましたが(群書類従第四輯『東大寺別当次第』)、その後同十三年に勅に依り同寺に潅頂道場(真言院)を建立するよう命ぜられました。多分此の潅頂道場が真言院と称されるように成ったのであり、既にある真言院に新たに潅頂道場が建立されたのでは無いと思います。此の事に付いて少し史料を検討しようと思いますが、その前に東大寺真言院の創設に関する辞典類の記述が一定しないので、通説の代表として『東大寺辞典』の「真言院」の項を見ておきましょう。それには、弘仁元年の空海の別当補任の事を述べてから「

そこで空海は、その間に、いまの本坊の西に真言院(南院ともいう)を建立し、弘仁一三年には、この院内に潅頂道場を創設して、同道場に二一人の定額僧を住まわせた。」

と記しています。しかし空海の別当在任中に真言院が創建された事を示す信憑性のある史料は存在しないと云えます。別当空海の東大寺に於ける住所に付いては鎌倉末成立の『東大寺縁起』(続群書類聚27上)の同寺子院「深位坊」の項に、「

三西(「三面」の誤読)僧坊内の西室(にしむろ)の南より第一の坊なり。弘法大師は勅に依り当寺に来化して別当に補さる。其の坊は宣旨に縁って之を賜り、深位坊と号す。」

等と述べています。(『東大寺縁起』に付いては後に又説明します。)

 

・弘仁十三年二月の太政官符の事

真言院潅頂道場の建立に関する基本史料の一つは、元永元年(1118)成立の『高野大師御広伝』巻上に掲出する此の時の太政官符(一部抄出)です。次に是を和訳して示します。「

弘仁十三年二月十一日、(太政)官符を治部省に下して偁わく、

去年冬に雷あり。恐らくは疫水(疫病と水害の意か)あらん。宜しく空海法師をして東大寺に於いて国家の為に潅頂道場を建立し、夏中及び三長斎月に息災増益の法を修して以って国家を鎮護せしむべし、と者(い)えり。」

(『高野大師御広伝』二巻は続群書類従第八輯下、及び『弘法大師伝全集』第一巻に収載されています。本書は三密房聖賢の原作に橘敦隆が添削を加えた書であり、多くの貴重な史料を引用転載して中古の弘法大師伝の中では最も広範な内容を有しています。)

此の太政官符の全文は知られていないようですが、最初に見た聖守の奏状/申請文では潅頂道場の建立年次が「弘仁第十の聖暦」と誤って記されていることや太政官符の「苦を抜き楽を与えること、佛乗は是に在り」等の引用文の信憑性も気になります。

 

ところで江戸時代の高野山の学僧得仁(1771―1843)が撰述した『弘法大師年譜』十二巻はそれまでの高祖伝記を集大成した広範な書物ですが(真言宗全書38)、その弘仁十三年の条に於いて二月十一日に東大寺の真言院潅頂堂を建立した事を述べ、その典拠として「貞観格(きゃく)に載せる承和三年(836)五月九日の(太政官)符」を引用しています。従って聖賢も恐らく『貞観格』から史料を採集したのであろうと思われます。

 

・承和三年五月の太政官符の事

『貞観格』には弘仁十一年(820)から貞観十年(868)までの詔勅官符類が採録されていたのですが写本は現存しないそうです。しかしその条目は『類聚三代格』の中に収録されています。『三代格』巻二の承和三年五月九日付太政官符は

応に東大寺真言院に廿一僧を置き修行せしむべき事

と題された短い簡潔な文書であり、真言院に二十一人の定額僧を設ける事を通達したものですが、官符の前文に上に紹介した弘仁十三年の官符を転載しています。承和三年は大師入定の翌年に当たります。

此の太政官符は亦続々群書類従第十一の『東大寺要録』巻第四にも収載されていますが、年号の承和三年が同二年になっていて、傍らに「イ三」と注記しています。恐らく承和三年で問題ないと思われます。(又弘仁十三年の官符の内容を承和三年の事と誤解して、真言院潅頂道場の建立を承和三年とする記述を時々見かけます。)

このように東大寺真言院(潅頂院)の建立に関する基礎史料は極めて限られていて、少なくとも『高野大師御広伝』が撰述された白河院政期に於いては、大師が東大寺真言院に仏舎利や宝珠を埋納したと云う伝承は知られていなかったと云えます。

 

○『東大寺縁起』(『東大寺記録』)の所説の事

次に続群書類従第27輯上に収載する『東大寺縁起』の「真言院」の条に触れなければなりません。『群書解題』に依れば、本書は鎌倉末の成立であり、東大寺と東寺系諸寺(醍醐寺・仁和寺等)の間で争われた本末相論の証拠書類として正和四年(1315)十二月に提出された『東大寺具書』三巻との関係も問題になります。『群書解題』執筆当時は『東大寺縁起』の原本については何ら知られていなかったのですが、『真福寺善本叢刊』8の刊行によって同書に収載する『東大寺記録』がその底本である事が明らかにされました(同書「解説」p.418以下)。

『東大寺縁起』の内容は、鎌倉末という正統説よりも珍奇の説を賞翫(しょうがん)するかの如き時代風潮や、或いは上の本末相論の影響もあってか、信憑性という点では問題となる点が多々あります。しかし今の本論との関係の上では「真言院」の条に見過ごせない興味ある記述があり、是に付いて検討しなければなりません。以下に和訳文を掲出しますが、続群類本は誤字が多いので真福寺本を底本にします。

「真言院

神亀年中(724―29)、聖武天皇当寺御建立の最初、善無畏三蔵(637―735)は天竺より此の所に来住し、地勢を撰び秘法を修す。是、吾が朝真言の元始なり。其の後弘法大師は秘教弘通(ぐつう)の願を発し、大仏殿に参籠して夢告を感じ、(善)無畏将来の大日経を久米(寺)東塔〔日本最初の宝塔なり〕の心柱の中に求め得たり。重ねて詔(みことのり)を承りて入唐の尅、当寺南大門に於いて八幡大菩薩の聖体〔僧形、頂きに日輪あり〕を拝し、深く入唐求教の化行を契る。大同二年(807)帰朝の後、弘仁元年(810)に当寺別当に補(ふ)され、勅に依り西室(むろ)の第一僧坊(深位坊と号す)を賜る。寺務四ヶ年の間、善無畏の旧跡を守り南院〔又真言院と号す、又曼荼羅院と名く〕を建立して、両部の秘教を恢弘(かいこう)し三密の奥旨を敷揚す。

弘仁十年(実は十三年)に官符を下され偁わく、抜苦与楽(苦を抜き楽を与うこと)、佛乗是に在り。至心に讃仰すれば何事か成らざらん。右大臣(藤原冬嗣 775―826)宣す。勅を承るに、去年の冬に雷あり。恐らくは疫水あらん。宜しく空海法師をして東大寺に於いて国の為潅頂道場を建立し、夏中及び三長斎月(の間)息災増益の法を修せしめ、以って国家を鎮めん〔云々〕。

仍って宝生尊〔大仏の西脇侍〕の当前に両部潅頂の場を建て、金剛宝の人王を埋めて三長斎月の秘法を修す。則ち金光護国の額を書き、西方国分の門に懸く〔異国降伏の為に西に向くなり。南院の通りの故に西の第一国分門の内に懸く〕。(中略)加之(しかのみならず)金(剛)杵を堂前(潅頂院の前)に下して阿伽井に霊水を湛え、土壌を門内に聚(あつ)めて護摩壇の浄地を点ず。

然る間承和元年(834)、(般若心経)秘鍵を道昌僧都(798―875)は大師の厳命に依り之を講ぜしむ。天長年中(824―834)に東寺を賜り密教根本の庭と為すと雖も、尚(なお)当院に於いて本寺本宗を立て東大寺真言宗と号せる者なり。之に依り実恵(じちえ)僧都は大師の本意に任せて廿一供の定額(僧)を此の院に申し置き、真雅・真済・真清・真如・円明・竪恵等、後の代々の門葉は皆以って当院を本寺と為し、達宗の官長を当寺の執務(別当)に補せる者なり。

抑(そもそ)も又霊異奇特は殊絶無比なり。所以(ゆえ)に明寂(めいじゃく)上人(12世紀の前期頃)は紫雲の色を翠松(すいしょう)の梢に拝し、重源和尚は金鈴の声を緑草の叢(くさむら)に聞く。凡そ厥(それ)、瑞光の赫奕(かくやく)、異香の芬郁(ふんいく)、入堂の僧侶は時々之を感ず。(以下略す)」

 

此の真言院の条には『群書解題』が指摘する本書の特質がよく現れています。すなわち東寺との本末論争を有利に運ぶ事を目的として、何とか真言宗の本寺が東大寺である旨を納得させようとして相当強引な議論を展開しています。

先ずは冒頭に聖武天皇が東大寺建立を発願した当初、善無畏三蔵が日本に来朝して勝地を撰んで秘法を修し、その場所が後に東大寺真言院の寺地と成ったのだと述べています。歴史学が発達した現在の眼から見れば何とも荒唐無稽な説であると思われますが、東大寺の前身である金鐘寺(こんしゅじ)は天平五年(733)の創建であり、又それ以前の神亀五年(728)に聖武天皇と光明皇后は若草山の麓に幼逝した皇子の菩提を願って「山房」を建立したとされています。書き出しの「神亀年中、聖武天皇当寺御建立の最初」は此の事に言及しているのでしょう。また善無畏の寂年は開元23年(天平七年/735)ですから少なくとも年代だけを取り上げれば合理性があると云えます。養老年中(717―724)に善無畏三蔵が来朝して大和国久米寺(くめでら)東院に多宝塔を立て、その心柱の中に仏舎利と大日経を納めて帰唐した等の有名な物語を知って、それを東大寺に敷衍したまでの事なのでしょう。

 

次に後半部に於いては、弘法大師と東大寺(真言院)の結びつきは入唐以前にさかのぼり東寺との関係より旧いのであるから、「当院に於いて本寺本宗を立て東大寺真言宗と号」したのであると述べています。恐らく此の事を主張するのが本書撰述の主要な動機の一つであったと考えられます。『真福寺善本叢刊』の写真版をみると此の前後の部分は添削が甚だしく、苦心推敲の跡が明らかですが、それも撰者にとって此の箇所が非常に重要であった事を裏付けています。ただ本末論争の事は此の小論のテーマと直接関係ありませんから次に移ります。(猶此の本末論争を扱った論文として『中世寺院史の研究 下』所収の永村真「「真言宗」と東大寺―鎌倉後期の本末相論を通して―」があります。)

 

問題となるのは文中の「仍って宝生尊」以下の赤字で示した箇所ですが、此の部分は続群書類従本が意味不通であるのみならず、原本である真福寺本の翻刻と写真版を見ても本文を確定するのが困難です。それで何とか意味が通じるように私に本文を定めました。即ち「宝生尊の当前云々」とは、大仏の西(向かって左)脇侍である宝生尊(虚空蔵菩薩)の前方(南方)に、中門の塀を超えた地点に潅頂道場(真言院)を建立し、そこに「金剛宝の人王」を埋めたという事でしょう。「人王」が仏舎利なのか如意宝珠なのか判然としませんが、聖守申請文の「摩尼の宝玉を土に埋め、遺身の舎利同じく納む」を受けて新たに案出した言葉であろうと考えられます。称名寺本『駄都秘決』の「釈迦の人王」と考え合わせると、鎌倉後末期には仏舎利を人王と称して神秘的な意味合いを強調する事が流行していたかの如くです。

又南無阿弥陀仏重源上人が真言院の跡地に於いて金剛鈴の鳴る音を聞いたと云うのは、聖守申請文と『東大寺縁起』に違いはありません。此の物語に付いても出典を更に探る必要がありますが、そもそも上記『駄都秘決』によれば弘法大師が東大寺真言院に仏舎利(人王)を埋めたという伝承は南無阿弥陀仏の口伝とされていました。従って最後に俊乗房上人重源と仏舎利/如意宝珠との関わりを一瞥しておきます。

 

○重源上人と如意宝珠

平家の軍勢によって東大寺と興福寺が焼失した後、造東大寺大勧進として同寺の復興に不朽の功績を残した俊乗房重源(1121―1206)は亦仏舎利に対して特別な関心を寄せ、大仏殿の諸像を始めとして所縁(ゆかり)の諸寺に仏舎利を納入した事が自撰の『南無阿弥陀仏作善集』に記されています。その中でも文治元年(1185)八月二十八日の東大寺大仏の開眼供養に先立って後白河法皇の施入になる仏舎利八十余粒が大仏の体内に納められた経緯が如意宝珠との関連で非常に重要です。此の事について少し詳しく見てみましょう。

先ずその事を記した『東大寺続要録』供養篇に載せる藤原親経(1151―1210)作の同月二十三日の重源願文に、

「伝え聞くところでは、生身(しょうじん)の(釈迦牟尼仏の遺骨である)舎利を以って仏像の胎内に納入すれば、忽ち光明を発して頻繁に霊瑞を示現すると云う。こうした理由で広く僧侶や一般人を訪ねて仏舎利を施入して頂いたのである。」

と述べていますが、伝聞という形ではあっても仏舎利とその霊力が引き起こす奇跡について明白に書き記している点は見逃せません。願文は続けて、法皇により奉納された仏舎利に対して醍醐座主権僧正(勝賢 1138―96)が百箇日の間供養の祈りを行ったと述べていますが、実に此の権僧正勝賢の祈供が鎌倉時代の中葉以後に隆盛する「能作生(のうさしょう)」と称する如意宝珠に関わる一連の三宝院流口決の出発点と成ったのです。(重源上人の仏舎利施入に関して詳しくは拙著『日本密教人物事典』上巻の「重源」の条第10~13項を参照して下さい。)

重源が法皇より託された仏舎利の供養を覚洞院権僧正勝賢に依頼した事は『醍醐雑事記』巻第十の元暦二年(1185)の一段に具体的に記されています。それに依れば勝賢は俊乗房聖人の東大寺大仏に仏舎利を奉籠するという企てを受け、同年四月二十三日から上醍醐に於いて百箇日の供養を始め、八月十八日には祈供が終わった仏舎利を更に盛大に供養する為の七箇日不断宝篋印陀羅尼の結願(けちがん)法会が執行されて是には願主の重源も列席聴聞しました。後には此の勝賢の仏舎利供が実は『御遺告』第24条に則った如意宝珠の製造であったと固く信じられるようになるのですが、重源或いは勝賢自らは是に付いて確かな言及をしていないと云えます。

 

・遍智院僧正成賢の証言

しかし勝賢の弟子であった禅林寺静遍(じょうへん 1165―1223)が同じく勝賢の弟子でその正嫡とされる成賢(せいげん 1162―1231)に此の件を問い質した記録があります。それは称名寺聖教の表紙外題『三角院物語 上』(第312箱12号)であり、承元三年(1209)正月十九日に後鳥羽上皇御願の最勝四天王院に於いて静遍が醍醐座主遍智院法印(成賢)に面謁して三宝院流の諸口決を質問しその回答を筆記したものです。同本に真福寺蔵『大僧正御房御物語記』(ラ(梵字laの長音)箱53)があります。

本記の最初の問答である「能作宝の事」に続く「今度の大仏能作の事」の条に於いて静遍は「(能作宝珠を作るにあたり両様があるけれども勝賢僧正は)此の度は何様に付かれたのですか」と質問し、是に対して成賢は次の如く答えています。

「本書すなわち『御遺告』の説に付いた。宝珠を納める金銀の壺は銅細工の職人を招き寄せて之を造らせた。中に収める円体(玉)等の細工は即ち本願上人(重源)が行った。これ等の事は全て大阿闍利(勝賢)と額を合わせ相談して事を運んだのである。十五人の助手を用いる定めではあるが、今回此の事は無かった。ただ親しい門弟に対して不断に宝篋印陀羅尼を誦するよう命ぜられた。自分(成賢)も其の内の一人であった。大阿闍利は百箇日の間、初夜・後夜・日中三時に修法なされたが、その行法は駄都の秘決であった。」

此の成賢の口説を信じれば、後白河法皇から施入された仏舎利を東大寺大仏の胎内に収める為に、重源上人と勝賢僧正が合議して『御遺告』の説に基づいて如意宝珠を製造した事は間違いない事実であったと云えます。又此の企ては勿論法皇にも報告され、その許しを得た上で実行されたと考えられます。

 

・報恩院僧正憲深の証言

少し時代は下がりますが憲深口・賢親記『報物集』にも此の事が記されていますから紹介しておきます。

「(憲深の)仰せに云く、覚洞院僧正御房(勝賢)は宣旨を申請して如意宝珠を作った。その中の一つを南無阿弥陀仏(重源)は大仏の御身に籠め、今一つは上醍醐覚洞院の護摩堂の本尊として安置された。故僧正(成賢)が阿弥陀護摩を修された時、彼の(覚洞院護摩堂の)本尊は定めて遍智院に移し置かれた事であろう。此の宝珠造立の事は南無阿弥陀仏の結構(企画)であった。此の事等は如法(如宝)の秘事であり、(別して口伝を受けた人以外は)誰も知らない事である。決して、決して口外してはならない。」(醍醐寺文化財研究所『研究紀要』第14号p.199下、『醍醐寺新要録』巻第十一p.658)

ここでは勝賢僧正が制作した如意宝珠は一つでは無く二顆であったと記されています。遍智院の宝珠がその後どのように伝領されたかについて述べた史料もありますが、事が煩雑になるので此の小論は一応ここで終了させて頂きます。

 

(以上)