現代語訳:二条院三宮空聖の遍智院等譲状
世上よく言われるように後世の歴史観は「勝者」によって作られたものである事が多いのです。それは仏教寺院や法流の歴史に於いても同じです。一方近年の中世寺院史学の興隆により、従来の江戸時代に製作された諸書に基づく通説が時代の閉鎖性の故もあって硬直した表面的なものであり、実際の入り組んだ複雑な様相とは縁遠いものである事を指摘する研究者も増えて来ました。ここに現代語訳して紹介する史料も亦醍醐寺遍智院の相伝をめぐる覚洞院僧正勝賢(1138―96)と二条天皇の第三宮空聖(1163頃―86―)との争いという従来あまり検討される事が無かった問題を明らかにしています。勝賢・空聖在世時に此の相論(訴訟)がどのように結着したのか定かでありませんが、勝賢の法資である成賢(1162―1231)が勝者となって遍智院を伝領し、空聖の後継者寿海(1164頃―1228)が敗北した事だけは確かです。遍智院は成賢の通称となり、空聖・寿海の名前は歴史の闇の中へ忘却されて行きました。
〈1〉乗海の空聖宛て「大智院譲状」
安元二年(1176)四月十九日、故二条院の第三宮が左大臣藤原経宗等に付き添われて醍醐に入寺した事は『醍醐雑事記』巻第九に詳しく記されています。宮は座主乗海(1116―78)から仏戒を授けられて出家しました。亦翌年三月二十一日に東大寺戒壇に於いて具足戒を授けられた事も同書に記されていますが、注意すべきは受戒の為の「御装束・禄物等は悉く八条院(暲子内親王)が用意して送り届けた」事です。即ち三宮空聖は鳥羽院皇女の八条院(1137―1211)の手で養育されていたらしいのです。此の事は非常に重要であり、八条院は後の遍智院に関する相論に於いて重要な役割を担う事になります。
乗海は治承二年(1178)四月に大智院を空聖に譲っていますが、先ず大日本古文書『醍醐寺文書之二』に載せるNo.293「醍醐寺座主権大僧都乗海譲状案」(「案」とは案文すなわち写し/コピー)から見て行きましょう。
(現代語訳)「
譲与したてまつる
大智院の事
右の寺は故堀川左府(源俊房)が建立した我が(村上源氏の)氏寺である。八条院の御祈願所であり、今こうして故二条院の宮〔空聖〕に譲り奉るのである。彼の左府(左大臣俊房)と斎院の御忌日には怠(おこた)ること無く永代追善の勤めをなさらなければなりません。但し此の大智院は醍醐寺の境内の中にある。醍醐寺以外の人が支配する事は絶対にあってはならない。若し宮(空聖)が醍醐寺を去って他所にお移りになったり御不幸(死亡)の事があったりした場合は、速やかに当院を寺家(じけ)にお返しになり、私から法を付された門跡中の上臈の者が支配すべきである。必ず此の条件に違背してはならない。当院を譲り奉る契約の状は以上の通りである。
治承二年(1178)四月廿九日
座主法印権大僧都(乗海) 」
コメント:大智院の本願である堀川左府(左大臣)と称された源俊房(1035―1121)は具平(ともひら)親王流の村上源氏であり、醍醐寺座主勝覚僧正や同実運(明海)僧都の父親です。乗海は俊房の孫ですが、俊房流の村上源氏では最後の醍醐寺座主となりました。○大智院は八条院の御祈願所になる前は、女院(にょういん)の母親である美福門院の御祈願所にもなっていた由緒ある醍醐寺の子院でした。○文中の「斎院」が誰を云うのか確認できませんが、醍醐寺と村上源氏に関係が深い賀茂斎院として白河天皇と賢子中宮の間に生まれた令子内親王(1078―1144)が考えられます。同内親王の遺骨は母親の中宮と姉宮の郁芳門院と共に上醍醐円光院に祀られていました。○若し空聖が醍醐を去るような場合には必ず大智院を寺家(総寺としての醍醐寺)に返すよう厳命しているのは、由緒に関わる事だけでは無く、他寺の僧が同院の支配をテコにして醍醐寺に介入する事態を強く警戒しているからと考えられます。
〈2〉空聖の寿海宛て「大智院・遍智院等処分状」
次に同じく『醍醐寺文書之二』に載せる文治二年(1186)二月十四日付けのNo.410「僧某処分状」を見ます。是は文治二年二月から九月にかけて同一人により作られた四通の文書(No.410~413)の最初に当たりますが、此の「僧某」が空聖である事を最初に指摘したのは『論集日本仏教史 4 鎌倉時代』所収の土屋恵「鎌倉時代の寺院機構」(p.253)です。
此の時点で既に乗海は入滅しているので文中「先師法印」と記されています(『文書』の編者は「実海」と注記していますが間違いですから下の訳文では訂正しています)。乗海滅後に空聖はその付法資である座主実海(1135―82)を頼りとし、実海から遍智院や相承の聖教等を譲られましたが、その実海も寿永元年(1182)十月に亡くなって空聖は寺内の後ろ盾を喪失したと云えます。あまつさえ自身までも重病となって空聖は此の処分状(譲状)を書いたのです。宛主の寿海(1164頃―1228)は実海の付法資です。
(現代語訳)「
処分 条々事
一 大智院は先師法印(乗海)の付属状の趣旨に従い寿海に譲与する。此の事は御祈願所であるから八条院(暲子内親王)にも申し上げてある。今後少しも他人からの介入妨害があってはならない事、以上の通りである。
一 遍智院は先師僧都(実海)の意趣(意向)に従い寿海に譲与する。また彼(先師僧都)は入滅(臨終)の時に語られた。「遍智院等をあなたに付属しますが、此の院は何代にもわたって師資相承されてきた師跡です。よくよく此の師跡を守護しなければなりません。愚僧(是は空聖の自称)に若し思いがけず短命の事があり、しかも是と云った優れた弟子を育てもしていなかった場合は、我が(実海)の門徒の中で志があって(実海の)菩提をよく訪うであろう人に相談してその人に付属しなさい。是に反してはいけません云々」。ところが今自分は重病になって何年にも成り、(先師実海との約束が守れないのではないかと)大変恐れている。そこで寿海に付属するのである。寿海は先師の長年の弟子である上、先師入滅の時にその門弟は多くいたが、特に寿海一人に対して一事以上(万事)頼みとする由を申し置かれたのであった。それだけでは無く、いずれにしても思う所があって付属するのである。いささかも他人の介入妨害があってはならない事、以上の通りである。
抑(そもそも)故僧都(座主実海)が入滅する時、(今の)座主の僧正(勝賢)は僧都に向かって次のように申された。「愚僧(是も空聖の自称)の事は僧都(実海)の意趣に反することは絶対ありません。ひたすら後見の役を果たします。その中でも寺務(座主)の事(空聖に座主職を譲る事)は、あなたの遺言に従って出来るだけ早く関係諸事を言い付けましょう。(此の事に関しては)疑念を抱かれる必要はありません。互いに此のように理解して頼みとなさるべきです云々」。(一方実海僧都は語って)「若し又愚僧(空聖)が思いがけず(醍醐寺を去って)他所に移るような事になった場合(に備えて)、遍智院は寺中の別院であるから、寺僧の中から誰かを撰んで預け置くべきであろうか」と言われた。(それに対して)勝賢僧正が「若しそれなら同じくは成賢闍利にお与えになるよう申し置くべきです」と(当時座主であった)実海僧都に申された事により、亦僧正の勧めによって(承諾の)一言(いちごん)があったにしても、是は全く僧都の考えから出たのでは無い。余りに強く勧められて一旦受け入れられただけである。全く本来の考えでは無いのである。その事は僧都の(空聖に宛てた)付属状を見ればその始終前後の文章に明白である。その上、愚僧には全く他所に移るような事が無いのであるから、(その場合に備えた)彼の用心の言葉は本より何の意味も無いであろう。その事は何ら取り上げる必要も無いのである。従って又その事は、僧正が実海僧都の意趣に従って愚僧を頼みとする(空聖を座主にして随従する)旨を強く僧都に申されて本心を装われた為に、僧正の勧めに従って一旦言葉に出されただけである。ところが(勝賢僧正は)そうした契約の内容を一々変改して、悉く本心では無かったのである。その中でも寺務の事(空聖に座主職を譲る事)は、早く(諸事を)言い付けましょうと僧都(実海)に約束された上、度々(その事を)女院(にょういん/八条院)に申し上げられもした。公私の契約が此の如きである事は、数度の(勝賢僧正)自筆の書状等に亦明白である。それにもかかわらず違約・変改している事は、非常に事を荒立てる行為であると云えようか。それだけでは無く、先師(実海)の遺産の中から竹原一箇所を是と云った根拠も無いまま勝手に横領した経緯については、当寺(醍醐寺)の中でも知れ渡っている上、女院もよく御存じであろう。それでも是は些細な事であるし、相論(訴訟)にした場合は(天皇の御子でありながら細かい事を気にすると)反って見苦しいから対処できないけれども、(このような無茶な話は)かつて聞いた事も無い。全く事の次第はとても普通では無い。このような事は数え切れない位あって、故僧都が(勝賢と)契約した本来の意図にどうして適(かな)っている筈があろうか。人々も此の事を理解してくれるであろう。このように書き連ねても意味が無いかもしれないが、後日に(事の経緯が)不明になってはいけないから、幾らかなりとも記しておく。
一 相伝の書籍等も同じく(寿海に)付属する。是は先師法印(乗海)相伝の文書である。僧都(実海)の遺誡も寿海(を指名しているし)、また(自分はその事を)実際に見聞もしたのであった。彼の遺状の言うように、(これらの書籍文書を)決して疎(おろそ)かにしてはいけない。是は遍智院に安置している法文類とは別である。
一 (伊勢国)南黒田御厨(みくりや)も同じく(寿海に)付属する。先師の遠忌(おんき/年忌追善)等を怠ること無く勤めなければならない。
右の条々に付き譲与する事、以上の通りである。
文治弐年(1186)弐月十四日
「沙門(花押あり)」(空聖の自署) 」
コメント:遍智院の支配をめぐって座主勝賢との相論になった主要な原因である、勝賢と前座主実海との間に交わされた契約について、空聖の考え・主張を詳しく述べている貴重な史料です。○第二条の中で「(実海)僧都の(空聖に宛てた)付属状を見ればその始終前後の文章に明白である」と云う実海付属状は現存しないようですが、若し発見されれば事の真相がより明らかになるでしょう。○同じく第二条の中で空聖に寺務(座主)を譲る事につき「数度の(勝賢僧正)自筆の書状等に亦明白である」と云う勝賢自筆書状も現存しないようです。○最後の条の「南黒田御厨」は三重県安芸(あげ)郡にあった荘園で、その名称から伊勢神宮外宮の南黒田御厨に起源を有すると考えられます。南黒田御厨は遍智院領として以後しばしば醍醐寺文書に現れるように成ります。
〈3〉空聖の寿海阿闍利宛て「遍智院等譲状」
是は文治二年(1186)二月から九月にかけて空聖により作られた四通の文書(No.410~413)の二番目に当るNo. 411「僧某譲状」であり、遍智院と南黒田御厨を寿海阿闍利に譲与する事だけを記した簡潔な文書です。
(現代語訳)「
譲与 処分の事
一 遍智院房舎・敷地、并びに法文・道具の事
一 伊勢国南黒田御厨
右、件(くだん)の院と庄園等は相伝の私領である。今処分する事は、取り立てて急ぐ必要も無いけれども重病になって何年にも成るので、(何時死ぬとも限らないから処分できない事を)大変懸念するからである。よって彼の調度文書(契約書や登記書類)等を相添えて、永く寿海阿闍利に譲与するのである。是は先師僧都(実海)が「我が門徒の中で志ある人に相談して、(後々まで実海の)菩提を訪(とぶら)うであろう人に譲与すべきである〔云々〕」(と語っておられたからである)。そして寿海は彼(実海)の多年の弟子である。(亦実海僧都は寿海について)「生きている時も、死んでからも、その(報恩の)志はしっかりしている。だから壱事以上(何事も)頼りにすべき」由、特に愚僧(空聖)に申し付けておられた。その他にも色々考えがあって(寿海に)譲与する事にしたのである。いささかも他人の介入妨害があってはならない。それから又此の院は代々を重ねた聖跡である。仏法の器(うつわ)でない人に譲ってはならない。これらの事は右に記した通りである。
文治弐年(1186)弐月十四日
「沙門(花押あり)」(空聖の自署) 」
コメント:日付は前の410号文書と同じであり、譲与の内容は大智院と乗海相伝書籍の条を欠いていますが、恐らく410号では遍智院譲与の記事が余りに長く煩雑である上、房舎・法文等の譲与内容を記載していなかったので、簡潔な譲り状を重ねて書いたのでしょう。
〈4〉空聖の寿海宛て「大智院・遍智院等付属状」
是は文治二年(1186)二月から九月にかけて空聖により作られた四通の文書(No.410~413)の三番目に当るNo. 412「僧某処分状」であり、端裏書に「大智・遍智両院(に関する)委細の御契状」と云う。
(現代語訳)「
処分 条々の事
一 大智院は故法印(乗海)が(自分空聖に)付属なされたのである。今公験(くげん/登記証本)等を相副えて寿海に譲り賜り畢った。加えて又相伝の法文等も同じく付属する。是は彼の法印が相伝していた文書・書籍等である。たとえ彼の法印の門弟であっても荒涼の人(いいかげんな人)が相承することは絶対あってはならない。それ以外の(乗海法印の門徒でない)他人については言うまでも無い。そうであるから特に寿海に付属する事にしたのである。亦故僧都(実海)の遺誡も寿海に申し合わされていた。(此の事は)きっと知っている事であろう。だから決して他所他人に(大智院や相伝の文書等を)譲り散じてはいけないのである。
一 遍智院〔安置の法文・道具等〕
一 伊勢国南黒田御厨
右、件(くだん)の物等は故僧都が付属なされたのである。但し(僧都は)遺言をなさり、「若し思いがけず(醍醐寺を去って)他所に移るような事になれば(その時は)、我が(実海)の門弟の中で志がある人に御譲りなさり、(実海の)菩提を訪(とぶら)わせなさい〔云々〕」と云われた。その趣旨にのっとり寿海に譲ったのである。寿海は長年にわたり(自分空聖に?)付き従ってきた上、又彼の(実海の)年来の弟子である。それだけでは無く、「特に頼りとする」旨を彼の僧都が申し置かれていた人でもあり、他にも色々考える所があって付属する事にしたのである。だから決して(寿海以外の)他人の介入妨害があってはならない事、以上述べた通りである。抑(そもそ)も遍智院に関して「若し(宮/空聖が醍醐寺を去って)他所に移るような事になった場合には成賢に譲るべきであろうか、という由〔云々〕」なる条(が生じた理由は次のようなものであった)。僧都(実海)が語って、「是(遍智院)は(醍醐)寺の中の別院である。そうであるから、先年あったように思いがけず若し(空聖が)他所に移るような事になった場合(に備えて)申し置いた通り、(寺僧の中から誰か)志のある人に相談して譲り、後世(の菩提)を訪わせなさい〔云々〕」と言われた。それに対して勝賢僧正が語って、「愚僧(空聖の自称)に関しては(座主に推挙して)ひたすら頼みとしましょう。全く僧都(実海)の本意に背く事はありません。但し、若し彼の(空聖の)の他所の件が生じた場合には、件の房(遍智院)は成賢に賜うべきです〔云々〕」と云われた。このような次第であるから(勝賢側の主張にも)一理があると言えるかもしれないが、(成賢に譲ると云うのは)全く僧都の考えから出たものでは無く、本意に反する事は言うまでも無かろう。(此の件に関する)詳細は又関連文書の前後を見れば一目瞭然である。従って又彼の僧正(勝賢)は既に(実海との契約)に違背してしまっているのである。そうであるなら、たとえ(自分空聖の)他所の件が生じたとしても(遍智院を成賢に譲る必要も無いのは)勿論である。ところが実際には他所の件など全く存在しないのだから問題にもならない。ここに詳細を述べ立てる事は出来ないけれども、後日不明な点が生じないよう幾らかなりとも記したのである。亦女院(八条院)も(此の件に関しては)全て報告を受けて知っておられる事である。
文治二年(1186)八月廿六日
「沙門(花押)」(空聖自署) 」
コメント:内容の上で前二通の処分状に追加、或いは変更している点は無いと云えます。○大智院と乗海相伝の法文類の事は第411号文書で言及していなかったので、念のため改めて書き加えたものでしょう。
〈5〉空聖の寿海阿闍利宛て「大智・遍智両院等置文(おきぶみ)」
是は文治二年(1186)二月から九月にかけて空聖により作られた四通の文書(No.410~413)の最後に当るNo. 413「僧某置文」であり、文面は至って簡潔であるが、前三通では言及が無かった「大納言典侍(ないしのすけ)」に一期(いちご)を限って南黒田御厨の庄務権を与えているのが注目されます。
(現代語訳)「
没後の事
一大智院
一遍智院
一南黒田御厨
右に記す所等は相伝の私領である。今寿海阿闍利を別当にして末永く支配させる。但し今現在の(南黒田御厨の)庄務執行(しぎょう)に関しては、大納言典侍一生の間はその沙汰(支配)とする。他人の介入妨害があってはならない事、上記の通りである。
文治二年(1186)九月二日
「(花押)」(空聖自署) 」
コメント:「大納言典侍」が誰か特定できませんが、乗海法印の姉妹には二条天皇の「御乳母の大納言の三位」なる女性がいた由であり、もしかしたら此の人の事かも知れません(詳しくは拙著『日本密教人物事典』上巻の「空聖」の条の第一項を参照して下さい)。
〈6〉遍智院を御祈願寺とする八条院庁牒
二条院宮空聖の要請によって文治二年(1186)十月に醍醐寺遍智院は八条女院の御祈願所とされました。恐らく病床の空聖は自分亡き後も、座主の勝賢僧正に対抗して遍智院を寿海に伝領させる為には、是が最善の方策であると考えたのでしょう。
(現代語訳)「
八条院庁が牒す(通達する) 遍智院〔衙(が/役所)〕
急ぎ(二条院の三)宮庁の寄文(よせぶみ/寄進状)の通りに当院を御祈願寺と為す状
牒す(通達する)。去る八月日の宮庁の寄文状に述べて、「当院は故権少僧都義範の門跡(門徒)が何代にもわたり(相伝し来った)秘密道場である。すなわち師から弟子へと相承して支配してきたのである。今考える所があって八条院の御祈願所に寄進して、天皇・上皇の幸(さいわい/無事息災と長命)を祈り奉るのである。但し代々相伝の執行(しぎょう/院主)については宮の門弟が次々と附嘱していつまでも支配すべきである。(遍智院を八条院の御祈願所にする事により)道理に反する主張を終わらせ、間違いなく(正しい裁決を)仰せ下されるであろう。よって寄進する事、以上の通りである」と云う。申請の通りに彼の遍智院を御祈願寺と為し、天皇・上皇の長命を祈り奉るのである。執行職に関しては宮の門弟が師から弟子へと代々附嘱して支配すべきである。以上の如く通達する。(遍智院の)衙は通達の内容を理解して、通達状が到達すればそれに従え。その為に通達するのである。
文治二年十月日 主典(さかん)代散位佐伯朝臣(花押)
別当権大納言藤原朝臣(花押)(以下六人の位署は省略します)
コメント:是によって大智院と共に遍智院も八条院の御祈願所になりました。○三宮空聖の寄文では当院の師資相承の事が強調されています。
〈7〉『玉葉』の関連記事
藤原(九条)兼実(1149―1207)の日記『玉葉』には、文治四年(1188)五月から七月にかけて、大智・遍智両院をめぐる勝賢と寿海との相論に関する記事があります。
◎文治四年五月十九日の条の関連記事。現代語訳「
醍醐の宗厳(しゅうごん)阿闍利がやって来て、本寺(醍醐寺)に於ける訴訟沙汰に付いて語った。八条院の御願所(大智院と遍智院)をめぐって喧嘩の事があったと云々。」
コメント:遍智院が八条院の御祈願所になってから一年半余り経っています。空聖は既に故人になっているかと思われますが確認できません。○宗厳(1145―1209)は理性院の院主であり、兼実の為に種々の御祈り(修法)を行っていました。
◎同年同月二十日の条の関連記事。現代語訳「
又(藤原)宗頼朝臣が八条女院の仰せを伝えて云うには、醍醐寺の座主証憲(勝賢)と寿海阿闍利との間で相論(訴訟)の事がある。彼の寺の末寺両所(大智院と遍智院)共に女院の御祈願所であり、それが喧嘩沙汰になっている。若し聞き及ぶ事があったらよく心に留めておきなさいと云々。」
◎同年同月二十二日の条の関連記事。現代語訳「
申の刻(午後四時頃)醍醐寺の僧綱・有職(うしき)・所司等数十人が(兼実の九条亭)にやって来た。神事があったので門の中に入れさせなかった所、職事(しきじ/蔵人)の(源)兼時を通して(醍醐寺に於ける)訴訟の次第(理由と経過)を云ってよこした。大智院・遍智院等の事であった。寿海と相論になっている件である。(兼実はその事について対処する旨を)一々詳しく仰せになった。同じ時に(藤原)定経が後白河院の御使いとしてその一件に関する文書を持って来ていた。(兼実は)仰せになり、「記録所に(その文書を)下ろしなさい」と云って、同人(定経)に返却した。〔件の文書の中に本寺の解状(げじょう/上申書)はあるけれども、寿海の申文(もうしぶみ)は無かった。両方の解状を出させて(記録所に)下ろすよう、(兼実が定経に)仰せになった。又寺家の解状の中に、「たとえ天皇の命令であっても従うつもりは無い」という趣旨の事が書いてあった。その部分を訂正してから記録所に下ろした方がよいだろうと、同じく(定経に)仰せになった。但し(寿海側と寺/勝賢側)両方の訴えを奏請しなければならない事を仰せられた。〕」
コメント:「僧綱」には已講も含まれますが、真言僧の場合ほとんどが潅頂已講です。○「有職/うしき」は阿闍利職を帯するだけの僧で凡僧です(但し注意すべきは僧綱もほとんど阿闍利職を帯しています)。○さて今の場合、三綱以下の所司は勿論、「僧綱・有職」も座主勝賢側の人達である事は云うまでも無いでしょう。○後白河法皇の院使としてやって来た藤原定経が提出した関連文書の中に寿海側の訴状が無かった事は、上皇が寺乃至勝賢の訴えを支持していた事をよく示していると云えます。勝賢は研究者の間でよく知られているように後白河院のお気に入りの僧でした。
◎同年同月二十三日の条の関連記事。現代語訳「
八条女院が宗頼朝臣を御使いとして大智院・遍智院等の問題について仰せになられた。そこで添付されている証文類に目を通したが、実に女院のおっしゃる事は最も道理に適っている。勝賢のしている事は納得がゆかない。」
コメント:八条院が全面的に空聖・寿海の主張を支持していたらしい事が分かります。兼実も少なくとも此の時点では八条院の仰せに信服していました。
◎同年同月二十四日の条の関連記事。現代語訳「
戌(いぬ)の刻(午後八時頃)、八条院にお伺いに訪れる(服装の注記を省略します)。女房(女性の事務官)に会い(用件を伝えてから)退出した。」
◎同年六月二日の条の関連記事。現代語訳「
八条女院から宗頼朝臣を御使いとして寿海が訴えている件について仰せがあったので、私が知っている事は詳しく報告しておいた。」
◎同年七月九日の条の関連記事。現代語訳「
(平)棟範が又様々の案件について報告した。その中に大智・遍智両院に関する事があった。(此の件に関しては)先日寿海の陳状(訴状)で述べられている事柄について本寺(醍醐寺)に問い合わせた。本寺からの陳(述)状を出させるようにしている。早く提出するよう私が仰せになった。」
コメント:この時点で大智・遍智両院の管領権を誰が持っていたのか確認できませんが、寺内の力関係から云って座主勝賢が実効支配していたのであろうと思われます。
○以上『玉葉』から記事を抄出しましたが、他にも関連記事があるでしょう。目に付き次第、後日「補遺」として追加掲載します。