金沢文庫の理性院流宗命方聖教の内容紹介

 (「金沢文庫」とあるのは正確には「金沢文庫保管重文称名寺聖教」の事です)

 

 

先ず1.整理番号272.1~6『小野六帖』に付いては、理性房賢覚本を祖本としてはいるものの理性院流宗命方の聖教ではない事をブログの『柴田賢龍密教文庫「研究報告」』に於いて説明しました。ここでは『小野六帖』の伝本に付いて簡単に検討を加えておきます。

『小野六帖』の伝本は平安末から鎌倉・南北朝期に於いて大きく分けて二系統があったようです。その第一は三宝院権僧正勝覚(1057―1129)の書写本に代表される仁海以来の師資相承本を祖本とし、その第二は興教大師覚鑁(1095―1143)が鳥羽殿の経蔵に於いて仁海自筆本を写した本を祖本としています。 

今の金沢文庫本は賢覚が勝覚本を書写したものを祖本としているから第一の系統に属しますが対校本として第二の本を用いている訳です。『大正新修大蔵経』第78巻に収載する『小野六帖』に付いては、正本と対校本二種とはその書写相承の経緯を異にしていますから別々に考える必要があります。

先ず正本に付いては巻第一から三は勧修寺の理明房阿闍梨興然(1121―1203)が書写或いは伝領した本を祖本としているらしく、巻第四から六は相承の経緯が不明であり、巻第七は普通の『小野六帖』には含まれないものですが是は勝覚が遍智院義範の本を写したものです。従って全体として第一の系統に属します。

対校本の甲・乙両本に関しては、底本は巻第一から第七まで総て理明房興然阿闍梨の自筆本であり校本として覚鑁上人が鳥羽殿に於いて書写した本を使用しています。但し巻第七に関しては勝覚が遍智院義範の本を書写した事、覚鑁上人本に是を欠く事などを奥書に述べています。従って此の対校本も第一の系統を祖本とし第二の系統の本を以て校合しているのです。

 

 

次に2.整理番号272.10『二条』と3.整理番号272.12『ユキ惣記』は元来『小野六帖』九帖の中の二帖であった事はブログの「研究報告」に記しました。大正大蔵経本の対校本奥書に、覚鑁上人が所持していた『小野六帖』一結は九帖であり「瑜祇総行一帖と又二帖別して之あり」と述べています。

 

 

4. 整理番号118.6『授与記』 賢覚の口説を宗命が記した諸尊口決。

 

〈1〉 賢覚法眼が口伝を授与して次のように言われた。

弘法大師が相伝しておられた如意宝珠には二種類があった云々。

一つは唐の青龍大師恵果(けいか)が弘法大師に付属なされた宝珠であり、是は堅恵大徳が賜って室生山に安置した云々。今一種の相承次第は、

大師 貞観寺僧正真雅 源仁僧都 聖宝尊師 般若寺僧正観賢 一定律師 延命院僧都元杲 仁海僧正 成尊(せいそん) 範俊僧正

であり、範俊僧正は白河院に此の宝珠を奉られ、院は是を法勝寺の円堂(愛染堂)に安置なされたのである云々。

 

〈2〉 弘法大師の『遺告(ゆいごう)』(二十五箇条御遺告)の第二十四条に如意宝珠を作る際の合薬を説明して「百心樹の沈(じん)」と云うのは、百々(もも)の香樹の沈香の意味であろうか。

通憲入道(藤原通憲/法名信西)が賢覚法眼に次のように語り申された。仁海僧正自筆の著作中に百心樹の事が書いてありました。上皇から目録を製作するように命じられた時に一見する機会があったのですが、百心樹に付いて随分と多くの物が書き出だしてありました云々。

此の物語を以て百心樹のことを考えると百香霊沈の意であり、是は愚僧(宗命)の考えに合致するようである。或る人の説に、ツケの木の沈香云々。

 

〈3〉 賢覚法眼が此の口決を授与された。

範俊僧正が権僧正御房(勝覚)に語り申された。孔雀明王法は六臂の像を以て本尊として行じる事を極深秘と為す。六臂と云うのは、普通の四臂像に今の二臂像を添え合わせるのである。その二臂とは左手に梵篋を持ち、右手に日輪を持つようにする云々。

私(宗命)に云う。

四臂像は儀軌の説の通りである。二臂像は高雄神護寺の九鋪(くほ)の曼荼羅の中にある(「九鋪」とは九枚の布を横に縫い合わせて大きな画布としたもの)。左手に孔雀の尾、右手には倶縁菓を持ち、蓮台に座す云々。(実際には高雄曼荼羅の孔雀明王は右手に孔雀の尾、左手に蓮華を持つ。)六臂像に於いてはその根拠として指したる説文は無い。大略は口伝に依るか。   尤も秘密とすべきである云々。

 

〈4〉 歓喜天の三摩耶形を箕形とすることに指したる説所は無い。只仁和寺の成典(せいてん)僧正(958―1044)の秘伝に依る云々。但し件(くだん)の成典は故小野僧正仁海の御弟子である云々。その事を知りうるのは、故範俊僧正の御許(みもと)に、小野僧正が成典にお与えになった伝法潅頂の印信があったからである。権僧正御房(勝覚)はその事を慥(たしか)にご覧になったのである。従って三摩耶形に箕形を用いる事は小野僧正の御説なのかも知れない。その由来に付いては不審としか言いようが無い云々。

 

 

5. 整理番号272.2『肝心集』は、義範・範俊と共に三宝院権僧正勝覚の師匠であった醍醐法務定賢(1024―1100)の口伝を書き記している点に於いて貴重な真言事相の史料と云えます。しかし挿話的記事に乏しいので内容抄出は略させて頂きます。

 

 

6. 整理番号272.3『キウ日記 三宝院/雨』本書は前半と後半とでは内容を全く異にしています。前半は続群書類従第25輯下にも収載する『永久五年祈雨日記』を書写し、後半には宗命が「夢記」以下の七箇条を書き記しています。

 

〈1〉 嘉応元年(1169)七月十四日、次のような夢を見た。左大臣の大炊御門(藤原)経宗(1119―89)からの申請があり、聖天の秘真言を伝受したいと言って来られた。それで依頼の通りに真言を授け申し上げた。その真言は、

オン・ビナヤキャ・シビタ・ソワカ。云々。

また胎蔵・金剛両界の秘真言を伝受したいとも言われる。それも授けて差し上げた。その真言は、

オン・アビラウンケン・バザラダトバン。

不思議の夢想である。

星宿法に関する抄物(著作)を執筆していた夜に此の夢想があったのである。大方は北斗七星の神々がこの夢を見せて下さったのであろう。自分が此の真言を伝授して差し上げた夢を見た事は何とも不可思議である。

 

 

7. 整理番号272.4『祈雨抄』 請雨経法に関する小野僧正仁海と三宝院勝覚の口伝を理性房賢覚が書き集めた書であり、同法を研究する上で貴重な基本的史料と云えます。内容は経典からの引用、印真言や修法の口決であり物語性に乏しいのですが、神泉園に於いて請雨経法を修する際に必ず行われる「龍供」の秘伝を記す記事と、それに続く『二十五箇条御遺告』第一条の弘法大師の神泉祈雨の記事を抄出します。

 

〈1〉頂礼の文に云く、

南無帰命頂礼甘雨普潤五穀成熟(じょうじゅく)善如龍王。

龍供は第三日より是を行う。謂わく、九尺の龍と七尺の龍の順に供養する。第五日には吉祥龍王を供養する。

人水如申人(よく分からないが「人水」は「仁海」の略字と思われる)。

龍供の時は鉄の管に仏舎利を入れ、是を池水の石の間に埋め納める。第五日に茅草を以て龍を作り、その龍の頭頂に更に小龍を作り置く。その小龍は紙を以て巻き、その上に金箔を押し、そうした後で龍穴に入れるのである。頭中の龍を供養し了って後、彼の茅草で作られた龍を石の傍らに埋める。その石は、池の中島の発心(ほっしん/東方)に護摩木(楊柳)があって、その木の宝(南方か)に非一非三の形をした石がある。その中の拳の方角(北方か)に龍穴がある。長治二年(1104)二月十七日、慥(たしか)に此の石を見た。弘法大師は彼の龍を勧請(かんじょう)してその石の上に安置なされたのである。彼の龍の形は蛇である。その長(たけ)は如何。

『遺告』に云く、神泉園の池辺にて御願の修法に雨を祈ったとき霊験は明らかであった。その霊験は貴顕の士より一般の人々にまで及んだのである。此の池には龍王が住んでいて名前を善如と云う。元は無熱達池(むねつだっち)に住む龍王の類であったが慈悲心があって人に危害を加えることも無かった。どうして其れが分かるのか。それは祈雨の御修法(みしほ)の最中に、龍王が人に託して此の事を示したのである。即ち真言の奥旨を敬って池中からその形を現した時、修法の悉地(しっじ)が成就した。龍王が出現した時の姿は宛(あたか)も金色の長(たけ)八寸許りの蛇の如くであった。此の金色の蛇は、長九尺許りの蛇の頭上に居住していたのである。

 

 

8. 整理番号272.5『軍荼』 宗命作の真言事相に関する雑記ですが、宗命が理性房賢覚から伝法潅頂を受けた時の入壇記がある事と、星宿関係の記事に特色があります。

 

〈1〉入壇記 

康治二年(1143)癸亥(みずのとい)、十二月八日庚寅(かのえとら) 

   凡て三百八十四日(入壇以前の加行に要した日数と思われる) 

金剛界潅頂の投花(とうけ)得仏は大日如来であった。金剛名号は遍照金剛である。 

胎蔵界潅頂の投花得仏は阿弥陀如来であった。金剛名号は清浄金剛である。 

 布施の日記 

大阿闍梨(賢覚)の御布施 

被物(かずけもの)五重ね。装束の用として上品(じょうぼん)の絹五疋(ひき)、□布廿段(たん)、袈裟一帖。 

讃衆六人に各絹一疋、布三段。 

承仕(じょうじ)二人。相秀と延賢。各浄衣、白布一段。 

大阿闍梨は法眼御房にして受者は宗命なり。 

讃衆六人の名前 

宝心/上野(こうずけ)阿闍梨。唄(ばい)、教授、護摩。 

三位君(さんみのきみ)/良宗大法師。散花(さんげ)。 

覚詮大法師。 

覚沼大法師。 

隆賢大法師。讃。 

賢寛大法師。密蔵房。讃。 

 康治二年十二月九日巳時(みのとき)。後朝嘆徳(こうちょうたんどく)の日時なり。

 

〈2〉法眼御房の仰せ云く、 

小野成尊僧都の御房が故鳥羽範俊僧正に伝法潅頂をお授けになった時は、讃衆を用いずに只一人で授与なされた。其の時に義範僧都の御房は教授の役を勤められた。小野の流では大阿闍梨一人だけで讃衆なども無しに潅頂を授与する作法があるのだと云々。

 

〈3〉北辰(北極星)図  天文道の伝の図 

天文道血脈  極秘の説なり。云く、他人でその器に非ざる人は窺い見るべからず云々。 

大外記(だいげき)   同   同  嫡男、主計頭

中原師任(もろとう)――師平――師遠――師安――師業(もろなり) 

(師平の二男、三男は省略しました。師業は次の〈4〉条にも出ます。) 

久安六年(1150)正月三日、一院(鳥羽上皇)の御修法(みしほ)の為に(中原師業が?)白河殿でお仕えしていた時、望む所があって少祈祷を付加して頂く為に法眼御房(賢覚)が修法をしておられる御壇所に参拝した。その時に法眼御房は図様を出し与え、それに付いて問い尋ねなされた上で図をお描きになられた。その時の図を法眼御房に申請して写すことが出来たのである。 

  同年七月四日   宗命 

(次に北辰等の天文図を載せ、その末尾に「久安六年正月日、雅楽頭泰親の自筆の注にて之を写す。」と記しています。中原師業と雅楽頭泰親との関係などやゝ解釈に要領を得ない所がありますが、天文道に関する珍しい記事と考えて掲載しました。)

 

〈4〉貧道(宗命)、妙見菩薩に於いては生年廿四の時から今年に至るまで、毎日必ず初夜の時分(日没から真夜中まで)に北の方角に向かって北辰菩薩と北斗七星を拝礼している。決して欠かしたことが無い。是はひたすら現世安穏(げんぜあんのん)後生善処(ごしょうぜんしょ)の為の祈りである。此の拝礼法は或る聖人(しょうにん)が大外記の中原師業から習ったのである。即ちその聖人から伝授を受け習得した事、その日の夜半子尅(ねのこく)許(ばかり)に北を向いて練習したやり方に付いて、後の世の末世の弟子の為に幾分なりとも記し置いたのである。 

 久安六年(1150)九月の頃

 

〈5〉法眼御房の仰せ云く、 

今は亡き白河院が範俊僧正に転法輪法を勤修(ごんしゅ)させなされた時、紙に包んで芸台子と書き付けた物を修法を行う壇所に送り下された云々。 

この芸台子とは草の香である云々。 

転法輪法を修する時の護摩の相応物である云々。

 

 

 9. 整理番号272.6『雑記』 賢覚の口説を宗命が記した諸尊法に関する雑記。

 

〈1〉竹人(範俊)の事

 大江匡房(まさふさ/1041―1111)の日記に云く、

 藤原通俊(1047―99)が語って曰(いわ)く、去る二十八日に白河上皇の御所に参りました時、丁度御仏(みほとけ)の供養が行われていました。供養導師を勤めた天台の良真(1027―96)は愛染明王の事について随分と詳しく解釈を述べていました。

 通俊が又曰く、範俊は真言道に於いては並々ならぬ優れた人物です。伝法潅頂の印には三種類あるのですが、範俊は第二の印を白河法皇に授け奉り、第三の印を醍醐の僧に伝授しました。第一の印は他に伝えようとしないので、その所伝は範俊許(ばかり)が知っているのです。但し三井寺に伝える印は大変よく似ているのですが、二箇所で脱落している所があります。また山(やま/比叡山延暦寺)は一向に此の印について知りません。即ち代々の真言宗の祖師は皆この印を書き記しては次から次へと相伝してきたそうです。又範俊が所持している真言の軌儀(秘密の法儀)や指図の類には皆弘法大師の御自筆になるものがあります云々。 

又通俊の曰く、範俊が相伝している真言秘密の法儀には九つの事があります。其の中の四つは愛染王法の中にあるのです云々。件(くだん)の法は範俊が白河院の奉為(おおんため)に勤修(ごんしゅ)して十余年にもなる。それを考えると範俊が勧賞を一度被(こうむ)って少僧都に任命されたのも道理に適っている。 

又曰く、辛酉(かのととり)年に修法を行う法があります。是に付いて弘法大師の秘蔵の書には、金門鳥敏(かのととりのとし)と書かれています。他宗の僧侶は全く此の法の事を知りません。白河院は先年に範俊からの提案を受け入れて此の法を行われました云々。 

範俊は伝法潅頂の第一の印を仁和寺宮(覚行?)に授けるべきでしょうか。しかし今改めて仁和寺に此の事を申し伝えるのも、又如何(いかが)なものでしょう云々。 

範俊は那智の滝に参籠して三年間修業した。 

教尊が自分のものであると主張している醍醐の観音堂に関しては範俊が支配すべきであると、白河上皇は院宣を下して仰せられました云々。 

自分が是に付いて思案するに、この様な問題は臣下の意見をお尋ねになるべきであろう。若しや範俊が仏菩薩の変化(へんげ)したけ化人(けにん)であるから此のような事になるのであろうか。白河院がひたすら範俊の言葉を信用なされるのは如何(いかが)なものであろう。或る人が言うには、範俊はまだ胎蔵・金剛・蘇悉地三部の真言経を読んでいない云々。如何(いかん)云々。 

 

 以上は匡房日記

 

(ブログの『柴田賢龍密教文庫「研究報告」』http://blog.goo.ne.jp/sarvakayaの「新発見の『匡房卿記』逸文」に和訳と解説があります。参照して下さい。)

 

 

10. 整理番号272.8『対聞記』 理性房賢覚法眼の口説を宗命が記した真言事相に関する雑記。宗史に関わる貴重な証言が多くある。

 

〈1〉祈雨の事

故遍智院御房(義範 1023―88)が此の法を勤修なされた時は、まだ修法次第の発願(ほつがん)も始めていないのに雨が降り出した云々。但し是は法前の得雨と云うものである云々。従って勧賞として琳覚(1068―1135)を律師に補任して下さるよう申請なされたのである云々。それに対する天皇のご返事に云わく、そうするのが当然であろう云々。しかし結局、勧賞の事は行われなかった云々。

故僧正御房(勝覚)は故遍智院御房から祈雨法をお習いになった。□□は最後臨終の時になってお習いになったのである云々。故僧正御房が所持しておられた祈雨のマンダラは私(賢覚)に与えて下さったのである云々。

  久安五年(1149)六月廿日に此の事を承った。

 

〈2〉師主賢覚法眼(仰せ云く)、鳥羽上皇の仰せに依って仁和寺の御室(覚性? 1129―69)に醍醐の法流を授け奉った。最初の伝授には五大虚空蔵法を申し上げた。詳しい事は別記に記してある云々。

 

〈3〉愛染法

宇治の入道殿下(藤原忠実)の所に弘法大師が御本尊としておられた愛染明王像がある。それで此の本尊像を実際に礼拝(らいはい)して見ることが出来たのであるが、例の「彼を持つ手」には日輪の形のようなものが「シホシホト」とあるのが描いてあった。赤い「コフクロ(小袋?)」の様であった。

 

〈4〉愛染法

久安五年(1149)九月一日、(以下の口決は法眼御房が)物語の次(ついで)に授与して下さったのである。

故成尊(せいぞん)僧都(1012―74)は後三条天皇(1034―73)がまだ東宮(皇太子)であった時、その御持僧(ごじそう)として後冷泉天皇(1025―68)を調伏なされたのであるが、その時には愛染王法を修しなされたのである。本尊愛染明王の「彼を持(じ)せしめよ」の手には薄手の紙に祈願を書いてお持たせになった。その祈願の状には、「アビシャロカ親仁ソワカ」すなわち親仁(後冷泉天皇)を調伏し給えと記し、それを本尊の手の中に籠めなされたのである。その時の本尊像は今でも小野の曼荼羅寺に安置されている云々。そのようにして修法を行うと後冷泉天皇は崩御なされたのである云々。

愛染法によって息災・敬愛・増益(ぞうやく)・調伏という四種類の護摩法を成就することが出来る。その方法は祈願の内容を状に書いて明王の「彼を持せしめよ」の手に持たせるのである云々。

四種類の法の中でも特に降伏(ごうぶく/調伏)を祈願する由を書いて「彼の手」に持たせる云々。明王の頭上に獅子冠(ししがん)があるけれども、降伏すべき相手の形と名前を画いて其れを獅子の口に置く。是の意は、悪事・悪人を画いて獅子冠に置けば吉祥善事と成るのである云々。

此の口決は御房(賢覚)と愚僧(宗命)と二人だけで物語していた次(ついで)に授け下されたのである。他の弟子達は此の事を知らない。ただ自分だけに明らかに示されたのである

     生年三十一

 

〈5〉太鏡の事

賢覚法眼が以下の口決を示された。

太元(たいげん)法に於ける宝鏡の口伝は最極(さいごく)秘密の事である。先ず主上(天皇)に鏡を献じてお顔を映して頂く。昔は直接内裏(だいり)に参上して鏡をお届けしたが、現在では事情を知っている人に頼んで内々に鏡をお届けする。或いは摂政や関白殿にお願いすべきである云々。鏡は総てで五枚ある。主上にお渡しする一枚を除いた他の四枚の鏡には梵字で種子(しゅじ)を書くのであるが、此の作法は必ず秘密にすべきであって口伝を聞かなければならない。是は根本祖師である常暁(じょうきょう)阿闍梨の秘伝である。太元法に用いる道具の箱には此の五枚の鏡を入れておく。但し一枚の大鏡は御影(みえい)を映して頂く為に内裏に献ずる。若し此の大鏡に曇りがある時は鏡磨きの職人を密(ひそ)かに招いてよく磨かせる。他の四枚の鏡には種子を書いて修法壇の四方に安置する。修法が結願(けちがん/終了)する時に、これ等四枚の鏡を洗ってから香水(こうずい)に入れ、そうした上で主上に献上すべきである。他の法流で此の口伝を伝承している人は殆んどいないであろう。深秘(じんぴ)の口決であるから詳しくは記さない。代々師から弟子へと内密に伝えられる師資相伝の口決に依るべきである云々。

 久安五年(1149)六月二十日、之を承る。

 

〈6〉大僧都成尊(1012―74)。六十(三)歳にして入滅。正月七日が忌日である。

 法眼の御房(賢覚)がまだ僧綱位に就く前の阿闍梨であった時に左大臣殿(源俊房?)をお訪ねになった時、大臣殿が次のようなお話をなさった。

自分がまだ若くて成尊僧都に対面した時に成尊が語って云うには、仁海僧正が請雨経法を修された時に龍供(りゅうく)の為に神泉苑の池中の島に渡られました。私成尊もお伴して一緒に島に渡って見たところ、五寸ばかり(15cm位)の小蛇が出てきて供物を置いてある所にやって来ました。そして舌で供物をねぶって舐めているところを確かに見ました、と云うことであった云々。 

更に成尊が語って云うには、又仁海僧正が私に向って、今島に渡って見たところ目出たい瑞兆があった、と言われた。それで私成尊も島に渡って見たところ雲が立ち昇っていました云々。

 

〈7〉少僧都義範(1023―88)。伊賀、丹波師良の甥(おい)である。六十六歳の時、閏(うるう)十月五日に入滅。(承暦二年 1078)正月十四日に律師に任ぜられた。 

 金剛界法を小野僧正仁海から受法した。 

白河天皇の中宮が先帝堀河院を懐妊なさった時の事である。中宮が懐妊なさるよう御祈りが行われた時、勧修寺の(信覚)僧正は不動法を修し、その時はまだ律師であった遍智院僧都(義範)は孔雀経法を修した。(義範の弟子である)御房(三宝院勝覚)は伴僧として護摩壇を勤修(ごんしゅ)なされた。北政所(きたのまんどころ/中宮)の夢に、御房(勝覚)が孔雀の尾羽を持っておいでになったのである云々。此の事を知って僧正は攀縁(はんえん/心の乱れ)して不動法を修すのをお止めになってしまった云々。 

 以上は遍智院僧都についての事である。 

 

〈8〉権僧正御房(勝覚 1057―1129)が物語して次のように言われた。 

法務の定賢(1024―1100)が祈雨の為に孔雀経法を修された。その時、某(それがし)は助修(伴僧)として水天供(すいてんく)を勤めたのである。水天の供養に用いる鉢に水を盛り入れて壇の中程に置いていたのであるが、一尺ばかりの小さい蛇が出てきてその鉢の水の中に入った。その後しばらくして雨が降り出したのである云々。

 

〈9〉権僧正御房(勝覚)は義範の弟子として真言の秘法を学んだが、それは学び残した事とて無かったのである。ところが義範は思うところがあって護摩の怨法(調伏法)に限ってまだ伝授していなかった。勝覚は若しやまだ聞いていない事があるのではないだろうかと疑って、その事を教えて下さるよう弘法大師に祈請(きしょう)した。その夜の夢で勝覚は、義範らしき人から銅筒を得たのであった。翌朝早く勝覚は師の義範の所に行って此の夢の事について語った。すると義範は心底驚いて件(くだん)の法を授けたのである云々。 

長治二年(1105)十二月十九日、範俊僧正から伝法潅頂の(阿闍梨)位を受けた云々。

 

〈10〉勝覚僧正御房の事 俗姓は左大臣源師房(実にはその子俊房)の子なり。 

天喜五年(1057)丁酉(ひのととり)正月五日壬午(みずのえうま)、子(ね)の時に誕生す。十一歳の時に出家し、十六の時に義範僧都の入室(にっしつ)の弟子と成る。その後、影の如く□□、三密の教えを学ぶ。その時点で既に法流の継承者である写瓶(しゃびょう)の弟子の如くであった。三十六(二十三の誤り?)の時、(東寺長者の)信覚僧正が提出した細文(申請状)によって(東寺潅頂院の)阿闍梨職に補任(ぶにん)した。 

三十八(四十八の誤り)の時に東大寺別当に任命され、五十三(五十一の誤り)で(権)少僧都に成った。

 

〈11〉範俊僧正は権僧正御房(勝覚)に八字文殊法を授け奉りなされた。

 

〈12〉賢覚法眼御房の事 

嘉承三年(1108)四月五日、伝法潅頂の職位(しきい/阿闍梨職)を阿闍梨座主御房勝覚(時に権少僧都)から受ける。 

康和四年(1102)二月九日、頼照阿闍梨に随い伝法潅頂の職位を受ける。 

同三年(1101)、東大寺に詣でて方広会(ほうこうえ)の竪義(りゅうぎ)を勤め了る。同四年、同寺法華会の竪義を遂げ了る。 

長治二年(1105)十月十四日、興福寺維摩会(ゆいまえ)の業(ごう/竪義)を遂げ了る。 

同年十月二十五日、大寺(東寺か)の定額僧(じょうがくそう)に補任(ぶにん)される。同十二月一日、法成寺(ほうじょうじ)の御八講(ごはこう)の聴衆(ちょうしゅ)に撰ばれて参り了る。

 

〈13〉法眼御房が以下の口決を授けて下さった。 

『御遺告(ごゆいごう)』第二十五条に奥砂子平(おうさしひょう)法呂と云うのは、 

「奥砂」とは不動法なり。梵語で不動のことを阿遮(あしゃ)と云う。此の阿と奥とは梵語音では相通ずるのである。(即ち奥砂は阿砂すなわち阿遮である。)「子平」とは弟子の平安なる事、即ち此の法を修す弟子の将来安寂の意なり。その理由は、法華経に出るトロバ香について慈恩大師は是をトロウバ香と翻訳なさっている。梵語では盧(ろ)と楼とは相通ずる音なのである。このように考えれば阿と奥とが梵語音で相通ずる事が理解できるであろう。事が幽密であるから、大事の場合は普通と違った書き方をするのである。それで不動のことを「奥砂」と表記なされたのである。「子平」は平の意、安寂・安穏・安平の意味である。秘密仏教が破滅の危機にさらされる時、悪難が寄せ来る時、不動明王の法を修せば彼の凶婆非禰(きょうばひでい)、即ち仏法を信じようとしない外道(げどう)の婆羅門等を降伏(ごうぶく)して退散させる事が出来るのである。又第二十五条では密教の教団を指して「蜜花園(みっけおん)」と述べておられるが、それで「子」という文字を使われたのである。子とはコノミ(木の実/菓)の意味である。 

宝樹多花菓(宝樹に花菓多し)を慈恩大師は宝樹多花子と翻訳なされた。菓と子とは共にコノコノミ(子の木ノ実)と云う。是は両字の意味をワタッテ(渡って)読んでいるのである。真言家すなわち密教教団の事を「密花園」と書き記されている。是は真言密教の弟子達が集(つど)う場所を園に、又弟子たちを花菓に譬えているのであるが、その事を隠して「子平」と書き記されたのである云々。此の口決は究竟至極(くきょうしごく)の秘密であるから決して他の人に見せてはいけない。穴賢(あなかしこ)々々、決してあからさまに語ってはいけない。

 

 

11. 整理番号272.9『太』  理性房法眼賢覚の口決を宗命が記した太元帥法以下の諸尊法に関する口伝。

 

〈1〉久安四年(1148)歳次己亥(実には戊辰)六月十三日亥の刻、法眼御房より後七日御修法(ごしちにちみしほ)并びに御薬加持作法の伝授を受け奉った。 

(後七日御修法の終了後に行われる宮中内論義に於ける加持香水(こうずい)と洒水(しゃすい)作法に関する口伝が記されているが省略します。)洒水が終れば右手に五股杵(ごこしょ)を持って不動明王の慈救呪(じくじゅ)を唱えながら天皇陛下を加持し奉る。その時、心中密かにウ一山(室生山/むろうさん)を観念する。(中略) 

どうしてウ一山を念じるのかと云う事であるが、 

それは後七日御修法は如意宝珠の法を勤修(ごんしゅ)するからである。(即ちその如意宝珠は弘法大師が室生山に安置なされたからである。)

 

〈2〉法眼御房が次のように言われた。 

帝王護身法は五股印を以て身の五所(額・右肩・左肩・心・喉)に、また五字(ア・バ・ラ・カ・キャ)を以て五所に当てて加持をする。その五字には加句がある。此の作法には秘伝がある。普通の真言師は是を知らないのである。醍醐の祖師聖宝は延喜の御門(醍醐天皇)に授け奉り、聖宝の弟子観賢もまた朱雀院に授け奉った。その後も代々断絶すること無く、例えば成尊(せいそん)は後三条院に授け奉ったのである。賢覚は一院(鳥羽上皇)に授け奉った。是はそうするようにと云う皇后の待賢門院からの令旨(りょうじ)があったからである。その時、御護りとして一院に五輪成身(じょうじん)の図をお与えした。帝王護身法に合わせて五輪成身図を御護りとするのは是が先例となったのである。 

相伝の次第は以下の通りである。 

 聖宝―観賢―一定(いちじょう)―元杲(げんごう)―仁海―成尊―義範―勝覚―賢覚

 

〈3〉法眼御房の仰せ云わく、 

帝王御護りの事 

是には秘伝がある。口決がある。五尊(金剛界五仏か)の図を描き、書ナケタラ〔ニ〕(意味不明ですが「十ケの陀羅尼を書く」かも知れません)。権僧正勝覚の門流は特に此の口伝に関する秘訣を究めている。鳥羽上皇が一院として政治を執っておられた時、上皇の近臣である藤原顕隆(あきたか)を奉行(担当官)として此の御護りを製作なされたのであった。宮中清涼殿(せいりょうでん)の二間(ふたま)に安置する観音と、内侍所(ないしどころ/三種の神器の中の神鏡)と、此の御護りとを合わせて観想する行法について詳細な秘伝がある。口伝を記した状に従いよくよく思念すべきである云々。 

  久安二年(1146)三月二日 此の口決を承った。

 

〈4〉仰せ云わく、 

如意宝珠法の護摩ではコンスイ(ごんずい/権萃)の木を相応物(そうおうもつ)に用いる云々。 

また乳木(にゅうもく)等にも用いるべきである。 

その理由として先ず神泉苑の請雨経法で竜王に関わる作法を修していた時、大宮(太元か)の面が落ちて人をクエソン(欠損?)した。その時に雅忠朝臣(あそん)がコンスイの木を使って治療したところ、すぐに傷が治ったのである云々。 

次に弘法大師の『御遺告(ごゆいごう)』の第二十三条に云う「避蛇(びゃくじゃ)法」とは如意宝珠法の事である。(悪)竜が宝珠を奪い取るのをサクル(避ける)法であるから避蛇と云う。そういう訳で如意宝珠法にはコンスイの木を用いるのである云々。 

 

〈5〉斉衡(さいこう)年中(854―57)に常暁(じょうきょう ?―866)が祈雨の為に太元法を修したが、自分はその時に用いた本尊の敷(しき)万多羅等を相伝している。是を以て此の法の肝要と為す旨を教えられた。是がその証拠なのである。(相伝の次第は以下の通りである。) 

源慶―浄秀―定快―賢覚―宗命

 

〈6〉法眼御房が小野(勧修寺)の信濃君賢雅に潅頂を授けられた時の日記 

金剛界 塔印 真言に曰く 

帰命(ノウマク・サンマンダボダナン) バン(梵字) 

胎蔵界 印は内縛五股 (真言に曰く) 

帰命 ア・アー・アン・アク・アーク(梵字) 遍法界無所不至(へんぽっかいむしょふじ)の真言云々 

件(くだん)の人が潅頂を受けた時、宗命は金剛・胎蔵両壇の供養法を勤修(ごんしゅ)したのみならず息災ゴマ(梵字)も修した。その上、教授の役も務めた。讃衆は無かった。ただ教授一人だけであった。 

  久安六年(1150)七月二十二日、潅頂を授与なされた時に之を記す。

 

〈7〉法眼御房の仰せ云わく、 

蘓悉地潅頂の事 

弘法大師―真紹僧都―宗叡僧正(809―884) 

弘法大師―真雅僧正―源仁僧都(818―887) 

宗叡と源仁とはイトコ同法、即ち法流の相承血脈(けちみゃく)に於いて従兄弟(いとこ)関係にある。そういう訳で先に宗叡僧正が入唐(にっとう)して学んだ法を南池(院)僧都源仁は古々呂仁倶加利(こころにくがり)てその門室に入って弟子となった。そうして源仁は宗叡から蘓悉地潅頂の法を伝受なさったのである。弘法大師は蘇悉地潅頂の法をお伝えにならなかった。宗叡僧正の御時に此の法を南池僧都に伝授なさって以来、今日に至るまで師資相承され来った次第は明白である云々。

 

〈8〉『御遺告(ごゆいごう)』に関する不審を払う事 

第二十三条に云う「避蛇(びゃくじゃ)法」とは如意宝珠法の事である云々。但し権僧正御房(勝覚)は法眼御房(賢覚)に対して「降三世法を修すべきである」と伝授なさった。ところが勝覚僧正御房は或る人に対して「大威徳法を修すべきである」とも伝授なされたのである云々。 

一師(或る師?)の説に、権僧正の仰せを信ずべきである。そうは言っても二説が相違する事は確かに不審である。何れの説を採用しても誤りは無いのであろう。 

或る本には「辟蛇法」と書く云々。「避」と云い「辟」と云うが共にシリソケハラウ(斥け払う)意味である云々。

 

〈9〉『御遺告』第二十四条の中の「如意宝合薬」の所で如意宝珠を製造する際に必要な香薬を記して、「百心樹の沈(じん)を十両」と云う。 

百心樹とは百種の樹(ウエキ)の沈(香)を取って合薬とする意味であろうか。確かなる口伝は無い。此の事に付いて愚身(賢覚)が思案するに、この様に解釈して間違い無い。是は極秘とすべき事柄である。 

百和香の薬(多くの材料を調合した香薬)を使用する、或いは百種色花(さまざまな色の花)と云うように百種(いろいろ)の樹木の沈を使用することを「百心樹の沈」とノタマイタルか云々。 

藤原通憲(みちのり)入道(1106―59)の(賢覚に)申し云わく、小野僧正仁海が所持していた十四合の法文手箱は現在一院(鳥羽上皇)が伝領しておられます。その法文の中には宝珠合薬の事を記した文があり、確かに百心樹に付いて記載されていました。しかし今は記憶が薄れてその名称を(一々)述べることは出来ません云々。

 

〈10〉法眼御房の仰せ云わく、 

観自在王(阿弥陀)仏法 

此の法の正念誦には決定(けつじょう)往生の真言を念誦すべきである。 

(真言が梵字で記されていますが略します) 

通憲入道が賢覚法眼御房に面謁(めんえつ)なされた時に物語して次のように言われた。何年か前の事です。小野僧正仁海の十四合の手箱は一院(鳥羽院)の伝領なされる所となっていたのですが、私はその法文を書き出して「日記」する作業をしていました。法文中に阿弥陀如来の事を日記セラレタリシニ(書き記しておられましたが)、此の決定往生の真言に付いては「馬般舟経に出だす云々」と記されていました。又「此の真言を持(たも)つ事によって極楽浄土に往生した人を私(仁海)は多く見た云々」とも日記なされていました云々。

 

〈11〉観音法の事 

(聖観音法を説く密教経典である)阿唎多羅(ありたら)経の中では、種々の行法と種々の悉地(しっじ/成就)が説かれている。京極大相国と称された故藤原師実(1042―1101)が祖師遍智院僧都義範を招いて此の法を修した事があった。義範が此の経に説く曼荼羅を懸けて此の法を勤修(ごんしゅ)しておられた時、天台の一乗房僧正仁覚(1045―1102)に此の法に関わる夢想があって深く信受する所となった。仁覚僧正は感心して、「義公は秘法を極めている」と語った。是は先師僧正勝覚が常々語っておられた物語である云々。 

  (賢覚法眼が鳥羽院の第五皇子である)五宮(ごのみや/覚性1129―69)に授与し奉られた文の草案である。

 

〈12〉観音供の事 

内裏(だいり)に於いて行われる観音供の本尊として安置されていた本の仏像は内裏が火事で炎上した時に焼失してしまった。その後は人々も本の仏の形像を知らない。但し照夜院僧正すなわち小野僧正仁海の云わく、(内裏観音供の本尊は)如意輪観音である云々。根本僧正聖宝と石山内供(いしやまないく)淳祐(しゅんにゅう)は共に如意輪観音を以て本尊仏とした。根本僧正は宿院すなわち下醍醐(上醍醐か)の如意輪堂を建立した。その他に東大寺東南院の如意輪堂も彼の僧正が建立したのである。小野僧正の説はこうした事を踏まえているのであろう。又本尊は十一面観音であったとする説もある。 

そもそも観音供の根源は、天竺の戒日大王が毎月十八日に特別に観音に帰依し供養した事にある。大王は梵天と帝釈天を以て観音の左右の脇士と為し、広く経・律・論の三蔵を学んだ。観音供は此の作法を伝えているのである。大唐国に真言密教の教えが伝わる以前に於いては正観音以外に観世音菩薩の尊像は無かった。玄宗・太宗の時代に金剛智・広智(不空三蔵)が活躍した頃から新しい観音像が作られるように成った。それ以来、如意輪を以て中尊と為し、正観音と十一面の像を以て左右の脇士とする三尊像が用いられるように成ったのである。(私賢覚は)確かに此の像を拝見した事がある。 

延喜の御時(醍醐天皇の時代)に内裏観音供の作法を醍醐寺にも移し置かれたのである云々。 

  以上の二箇条は故宮(覚法 1091―1153)に書き進めになられた草本を以て記した。(「二箇条」が観音法と観音供の両条を云うのであれば「故宮」は「五宮」の写し間違いとも考えられます。逆に第11項の「五宮」が「故宮」の写し間違いかも知れません。) 

       一交し了んぬ

 

 

 12. 整理番号272.11『別法』 理性房賢覚の口説(くせつ)を宗命が記した諸尊法に関する口決集。

 

〈1〉祈雨法の事

 賢覚法眼の言わく、 

権僧正御房(勝覚)が祈雨法を勤修(ごんしゅ)なされた時、私は神泉苑の池の中島にある龍穴に渡り至った事がある。修法の第三日目に大きさが七分(しちぶ)許(ばかり)の白銀の箱を作り、その中に仏舎利を入れ奉ってから龍穴の中に入れ奉った。本来の口伝によれば第五日に龍供を行う時に舎利を奉る事になっている。ところが故御房が勤修なされた時は日次(ひなみ)が吉日であるからという理由で、第三日に早めて舎利を奉ったのである。そうすると第四日に激しい雨が降り注いだ。従って第五日の龍供は修す事をなさらなかった。第三日に早めて龍供を行う事を吉例として覚えておくべきである云々。 

池の発心(東方)に当たって護摩の木がある。その前に非三非一、即ち三個とも一個とも言えそうな石がある。その拳方(北方)にある大石の下に件(くだん)の龍穴がある云々。此の口決は秘中の秘である。 

神供(じんく)を行う場所は丑寅(東北)方の泉の上手(かみて)に石が多数ある中である云々。エノ木(榎)の下である。件の所に於いて神供を修す云々。 

コマ(梵字homa/護摩)の木とは楊柳のことである。 

花瓶(けびょう)の花には桂の木の枝をサス。瓶の水は毎日替える云々。 

修法中に唱えた真言の遍数を記した巻数(かんじゅ)は大阿闍梨が自分で内裏まで持参する云々。

 

〈2〉止雨法 

久安六年(1150)三月十七日に少納言入道と称されていた藤原通憲(みちのり)が建立した仏堂の供養が予定されていた。通憲入道は当日の風雨の難を除く為に法眼御房(賢覚)に対して「止雨の祈祷」を依頼した云々。(後文を考えると「三月」は「六月」の誤写かも知れません。) 

止雨法を修しなさる事に付いて六月十四日に宗命に相語って言わく、 

正観音を中央に勧請し、その左右に火天と摩那使(まなし)龍王を勧請して先ず祈雨の事を行い奉る云々。 

その頃は何日も雨が降り続いていた。十二日と十四日に雨が降った。十五日も雨が降っていたが亥の刻(午後10時頃)許(ばかり)に雨が止んでしまった。十七日は希望通りに空が晴れた。是こそ真実止雨法の効験であろう。

 

〈3〉ラガ(梵字raga/愛染)法 二伝あり。 

種子(しゅじ) ウン(梵字の重ウン字)  三昧耶形(さんまやぎょう) 五股杵 

 已上は故権僧正御房(勝覚)が遍智院僧都(義範)から伝受なされた口決である。 

種子 コク(梵字)  三昧耶形 宝箭 

 已上は故権僧正御房が鳥羽僧正(範俊)からお習いになった口決である。

 

〈4〉法眼御房(賢覚)の授け云わく、 

結界抄物相承の事 

延命院僧都元杲(914―995)の次に醍醐座主明観(みょうかん)、貞観入寺(にゅうじ)、広寿聖人、仁海僧正の四人があり、その中、 

広寿聖人―成寂君(せいじゃくのきみ)―懐深(かいじん)闍梨/上大古(かみだいご)の峯ノ闍梨と号す―権僧正勝覚 

仁海僧正―成尊僧都―義範少僧都と範俊権僧正の二人―権僧正勝覚 

と次第して、勝覚―法眼賢覚―宗命闍梨である。

 

〈5〉『御遺告(ごゆいごう)』第二十五条に云う「奥砂子平(おうさしひょう)」とは 

不動法である。秘中の秘々説である。 

如道和尚(かしょう)が天竺に於いて此の法を修して凶婆非称(きょうばひでい)を降伏(ごうぶく)した事を不空三蔵(705―774)が伝え聞いた。不空は此の事を青龍寺の恵果(けいか)和尚(746―805)に伝えた。恵果は弘法大師に此の物語を伝えたのである云々。

 

〈6〉孔雀経法 

法眼御房の仰せ云わく、 

先年の事であるが白河院の御息である花蔵院宮(けぞういんのみや)聖恵(しょうけい 1094―1137)が白河殿に於いて上皇(鳥羽院か)の御祈りとして此の法を修しなされた。その時、修法を行っている間、野干(やかん/キツネ)が頻(しき)りに鳴いていた。私もその時は花蔵院宮と同じ壇所(修法堂)に於いて北斗御修法(みしほ)を勤仕していたのである。それで上皇からの御言葉があり、「野干が鳴くので極めて驚き怖れなされているぞ。」と仰せ下された。それに対して私は次のように申し上げた。「孔雀経の法に於いては、その修法のさ中に野干が鳴く事はこの上も無い吉祥の相であり、修法が成就した事を示しています。或る孔雀経の本にそのように記されているのを見たことがあります云々」。このように申し上げた所、上皇は甚だ感心なされたのであった云々。 

 已上の事は久安二年(1146)三月の頃に授与を蒙った。

 

 

14. 整理番号18.1『授心抄』上帖(巻上) 『授心抄』は理性房賢覚の口説(くせつ)を後年に宗命が編集した諸尊法の口伝集。上中下三帖よりなる。但し此の金沢文庫本は完本では無く、相当に脱漏部のあることが認められます。

 

〈1〉篇目 

守護(経) 人王(仁王経)(初幀のみ) 法華(経)(欠) 大小(欠) 大仏頂(欠) 光明(真言)(欠) 六字(経)(欠) 尊勝 五大(虚空蔵) 随求(ずいぐ) 普賢延命 五字文殊 求聞持(ぐもんじ) 准胝(じゅんてい) 八字文殊 不空鉤

 

〈2〉随求ダルマ(梵字dharma/法) 

(先師賢覚の口伝に)又云わく、亡者が若し地獄・餓鬼・畜生道に堕(お)ちたと夢の中で告げ知らせて来た時には、その人の罪を滅して悪道から出離(しゅつり)できるように、尤も此の尊の法を修すべきである。そうすれば出離を遂げて安楽国(極楽浄土)に生まれるであろう云々。 

白河天皇の中宮であった円光院(藤原賢子1057―84)の聖霊(しょうりょう)の一周忌御追善の為に、遍智院義範僧都は百箇日の間此の法を修された云々。敬愛法によって修されたので相応色である赤色(しゃくしき)の浄衣(じょうえ)を身に着けられた云々。

 

〈3〉普賢延命ダルマ 

口伝に云わく、流産の祈祷を行うときは、井ノクツチ(イノコズチ)の茎か根等を五分(1.5cm)許(ばかり)に切り、是を護摩の火で焼く。そうすれば必ず流産の事が成就する云々。 

長寿の祈祷を行うときは、とりわけ菊の根茎・松葉・骨楼草(こつろそう)を護摩の火で焼くべきである云々。(骨楼草についてはミチシバの根、カラスウリの茎などの説があります。)

 

〈4〉普賢延命ダルマ 

金剛智三蔵(671―741)は楊貴妃(719―56)の真身命を延ばす為に、金剛寿命陀羅尼を書き(普賢延命菩薩の)像を画いた云々。其の像は、「(金剛智)口決」に云わく、四頭の象に乗るが、その象の頭上には四天王の尊像がある。臂(うで)の数は二十本あり、手に金剛界十六大菩薩と四摂(ししょう)菩薩の三摩耶形を持つ云々。大体は二臂(にひ)の尊も廿臂(にじゅっぴ)の尊も同じく象に乗る像である云々。 

(普賢延命法を修する時は)寿命経四十九巻を修法とは別に毎日転読する。修法中の真言念誦は初夜・後夜。日中の三時に各一千二百返、合計一日に三千六百返を誦すべきである(普賢延命真言「オン・バザラユセイ・ソワカ」に付いて云うと考えられます)。また無量寿命決定(けつじょう)如来真言も必ず念誦すべきである。

 

〈5〉求聞持(ぐもんじ)ダルマ 

口伝に云わく、 

求聞持法の相承は、先ず大唐開元四年(716)丙辰、梵篋(ぼんきょう)を持って善無畏三蔵(637―735)が長安に来至して興福寺南塔院に居住した。翌年の開元五年丁巳に詔(みことのり)を受けて西明寺菩提院に於いて求聞持法を翻訳した云々。日本の興福寺の人である道慈律師は海を渡って入唐し、三蔵の弟子の一行(いちぎょう)阿闍梨に謁(まみえ)て此の法を伝授されたのである。其の後日本に帰国し、善基大徳に此の法を授けた。善基は石淵寺(いわぶちでら)の贈僧正勤操(ごんそう)に授け、勤操は弘法大師に授け奉った。 

伝法の血脈(けちみゃく)は大体以下の通りである。 

善無畏三蔵―一行和尚―道慈律師―善基―石淵贈僧正―弘法大師―貞観寺僧正真雅―南池(院)僧都源仁―僧正聖宝(しょうぼう)―観賢僧正―石山内供(いしやまないく/淳祐)―元杲(げんごう)僧都―仁海僧正―成尊僧都―義範僧都/範俊僧正―勝覚僧正―賢覚法眼―宗命僧都

 

〈6〉准胝仏母(じゅんていぶつも)ダルマ 

先師(賢覚)の口伝に云わく、准胝法は濁世(じょくせ)の凡夫にとって最も本尊とすべきである。その理由は、たとえ酒肉を嗜(たしな)み妻子がある等の不浄の事があっても、信心を致して常に此の尊の陀羅尼を持誦(じじゅ)すれば、現在の生涯の中で求め願う事で成就しないものは無い云々。

 

〈7〉准胝仏母ダルマ 

或る古老の口伝に云わく、上醍醐准胝堂の本仏(本尊仏像)は聖宝僧正が延喜の聖主(しょうしゅ)すなわち醍醐天皇の為に准胝堂を造立(ぞうりゅう)して安置なされた仏像である。件(くだん)の本仏は頂上に本師阿弥陀如来を戴く云々。三尺の尊像である云々。手臂(しゅひ)の数は十八臂の像である云々。

 

〈8〉准胝仏母ダルマ 

准胝法牛王(ごおう)加持作法 先師(賢覚)自筆の日記なり。之を写す。 

賢覚は皇后宮(鳥羽院皇后の美福門院 1117―60)の御産に参上して、四ケ度此の牛王加持の役を勤めたが総て易産(いさん/安産)であった。故権僧正御房(勝覚)も鳥羽天皇中宮の待賢門(たいけんもん)院(1101―45)の御産に参上して数度此の作法を勤仕(ごんし)したが、毎度感応(効験)があった。その事に(天皇或いは上皇が)感心なされて(権)僧正に任命されたのである。但し此の御□を宗命大法師に授与し了んぬ。

 

〈9〉八字文殊ダルマ 

公主(皇女を云うが今ここでは皇子の意味らしい)が帝王になる事を望み、又女子が后妃になる事を望む時は、とりわけ此の法を勤修(ごんしゅ)すべきである。何年も前になるが当院(後白河上皇)が今宮と称されていた時に、先師法眼(賢覚)は今宮の母后待賢門院の令旨(りょうじ)を承って今宮帝位の御祈りの為に三尺の葉衣(ようえ)観音像を造り奉り、三千日の間勤修なされた云々。仏法の薫修(くんじゅ/法を修し続けること)空しからず。今宮は終(つい)に四海を掌握して天下は意のままである云々。その時の御本尊は醍醐東安寺に安置された云々。(標題に「八字文殊法」とありますが、此の一節は葉衣観音法について記しています。) 

権僧正御房(勝覚)が鳥羽僧正範俊からお受けになった法の中に八字文殊法がある。しかし範俊は五字文殊の剣印を以て八字文殊の印として授け奉りなされた云々。 

権僧正(勝覚)はどうして是が八字文殊の印なのですかと質問された。範俊が答えて云うのに、五字文殊の印を以て八字文殊の印にするという口伝を習ったのです云々。一体範俊僧正は八字文殊の印を習われなかったという事なのか。何とも納得できない事であると仰せになられた云々。

 

14-2. 整理番号18.1.2『授心抄』巻中

 

〈1〉ラガ(梵字raga/愛染)ダルマ(梵字dharma/法) 

又(先師賢覚の口伝に)云わく、瑜祇経に「衆星の光を射るが如し」と云うのは日月星を調伏(ちょうぶく/降伏ごうぶく)する意味である云々。三光神すなわち日・月・星神を射て調伏する云々。此の説は正しい解釈では無い。真実の意は、日月星の光は晴天時に出現すると刹那須臾(せつなしゅゆ/極めて短い時間)の間も無く人間界に到達して行きわたらない所とて無い。そのように光が早く来る事を「射る」と表現しているのである。愛染法との関連で云えば、此の法を修す人はその悉地(しっじ/成果)を速疾に成就する事を言い表しているのである。是こそが真実秘密の意味であり、深きが中にも深い教えである。此の事は秘密にして語ってはいけない。

 

〈2〉(愛染曼荼羅) 

又(先師の口伝に)云わく、或る書物の中に愛染王マンダラ(梵字matara)が説かれている。但し見識を深める為に記しておくが、実際の修法に用いてはいけない。それは三重のマンダラであり、中央の院に愛染王が画かれる。其の形は四面五目である。五目とは、額に一目、左右の本目とその下に各一目がある。首(こうべ)には宝冠を戴き、髪の毛は火炎のようである。身体の色は白色であるが少し青みを帯びている。腕は四本あり、左の第一手は弓を持って空に上げ、右の第一手は箭を持って胸にあてながら七星を射んとする相(すがた)である。左の第二手は「彼」を取らしめ、右の第二手は白蓮華を持って「彼」を打たんとする姿勢である。足は四本あり、左の二足は上に置き、右の二足は下に垂れて金蓮華を踏む。全身は白蓮華に座し、月輪(がちりん)に住している。その蓮華座の下に四面の獅子があって四足であるが、足の下には各蛇を踏みつけている。また獅子の口から如意宝珠を蓮華の上に雨降らしている。次の中院には両頭(りょうず)染愛菩薩あり。其の形は両頭であるが、左が白く、右は赤い。腕が四本あり、左右の第一手は刀印(とういん)を作り、次の左右手は三股杵(さんこしょ)を依持する。赤蓮華(しゃくれんげ)に座して月輪に住す。是を名づけて東方の衆(しゅ)と為す。また万愛菩薩あり。(以下省略させて頂きます)

 

〈3〉鳥羽僧正範俊は白河院が政治を取っておられた時、如法愛染王法を行じられた云々。天蓋には八色の幡(ばん/はた)を吊り懸けるなど、大体に於いて普通の大法作法の如きであった云々。

 

〈4〉金輪(きんりん)ダルマ(梵字) 

天変の怪異、星宿(しょうしゅく)の変怪を払い除く為には此の法(一字金輪法)を修すべきである云々。子供が欲しい時や安産の為にも専ら此の法を修す。又帝位・立后(りっこう)の御祈りには特に此の法を修す云々。 

大日金輪は金剛界の大日如来であり智拳印を結んでいる。大印の左右に七宝を旋らせる云々。 

釈迦金輪は定印を結び、その上に八輻の金輪(こんりん)を置く云々。

 

〈5〉正観音ダルマ(梵字) 

毎月十八日に内裏に於いて観音供を修される事は、弘法大師が中国の風俗を我が国の朝廷に移し置かれたのである。近来は真言院に於いて観音供を修されている云々。 

件(くだん)の観音供の本尊に関する習い(師説)には様々の伝がある。小野僧正仁海の伝は正観音であり、左に梵天、右に帝釈天を配す。この三尊を勧請(かんじょう)して供養し奉る云々。 

大理趣房寂円(996頃―1080― 但し通説は1000―65)の伝に云わく、 

中央に十一面観音、その左に梵天、右に帝釈天。 

醍醐寺三昧堂に延喜(醍醐天皇)の御本尊の観世音菩薩が座しておられる云々。件の御本尊は即ち内裏十八日観音供の本尊であった云々。 

  左十一面 左梵天 

中央正観音 

  右如意輪 右帝釈天 

此の三観音安置の様は他の様々の説とも合致して最も吉(よ)き様式である。真実、内裏観音供の本尊である云々。

 

〈6〉又(先師の口伝に)云わく、田畑の苗や稲穂に害虫がついて実が熟さない時は、正観音の真言を以って土砂を加持し、その土砂を田畑に撒(ま)けば、悪虫を悉く退散させて田地の五穀は順調に実が熟すであろう云々。

 

〈7〉馬頭ダルマ(梵字) 

又(先師の口伝に)云わく、馬頭観音がその頂に馬頭を現(あらわ)す事は、馬は畜生(動物)の中でも昼夜分かたず草を食べて食欲が極めて旺盛である。ただ水と草の事だけを思って余念がない云々。多分此の事にその意味があるのであろう。 

即ち此の観音は、一切衆生の愚痴・無智・悪業・重罪の水草を昼夜分かたず噛み砕いて消滅させる事を示すために馬の口の形を現しているのである。馬の口は煩悩を噛み砕く意を表示しているのである云々。

 

〈8〉又(先師の口伝に)云わく、蛇道の悪しき怨霊や天狐(空を飛ぶ狐の精の意味で鳶のこと)道の魔物などの為に病悩する時は、特に此の尊の法(馬頭法)を修すべきである。馬頭観音の誓願の中に、必ず畜生道の怨霊を降伏(ごうぶく)しようという本誓がある事は極めて明らかである。頂に馬頭を現す意義にも合致するか云々。

 

〈9〉不空羂索(けんじゃく)ダルマ(梵字) 

先師の口伝に云わく、不空羂索法の本尊である不空羂索観音は大変優れた仏であるが特に藤原氏の人々は本尊と為すべきである。遠い昔のことになるが、藤原氏が衰微して王族である源氏が繁栄した時があった。其の時、興福寺の南円堂に山城国の山科に鎮座しておられた不空羂索観音を移して安置し奉り、弘法大師を導師として供養の儀が行われた。大師は亦南円堂の地鎮と結界も勤仕(ごんし)なされたのであった。其の時の願主でもあり施主でもあったのは後に朝廷から貞信公という名を贈られた摂政の藤原忠平(880―949)であり、その時に初めて南円堂が建立されたのである。それから後に藤原氏は繁昌して摂政の職を代々相続して今に至っている。南円堂供養の日には源氏の人が七人死亡した云々。此の事は偏(ひとえ)に弘法大師の加持と護念の力によって為されたのである云々。件の南円堂結界は高野山の結界と同じ作法で行われた。その結界作法は別紙に記してある。件の南円堂の本尊は八臂(はっぴ)即ち腕が八本ある像である云々。八臂の不空羂索像は本経・儀軌にもその記述を全く見ることが出来ない。只『宝志和尚(伝)』の中に記されている。実際に是を見た云々。

 

〈10〉葉衣(ようえ)ダルマ(梵字) 

先師の口説に云わく、 

葉衣観音法は王子(皇子)が国位(帝位)を望み、公主(皇女)が后妃になる事を望み、乃至三公(太政大臣・左大臣・右大臣)等の子息が各其の職を望む時は、必ず此の法を修すべきである。その中でも王業(おうごう/帝位)相承の本誓と、国王擁護と国土加護の本誓が特に優れている。此の尊は王子・公主が本尊とするのに最もふさわしい菩薩である。 

荒廃した所、悪しき所、悪しき建物、悪しき伽藍等は葉衣法を用いて鎮護すべきである。

 

〈11〉軍荼利ダルマ(梵字) 

口伝に云わく、一切の伽藍の地鎮法には軍荼利法を勤修(ごんしゅ)する。天皇・上皇等の御願寺の法呪師は軍荼利明王の結界作法を行う云々。 

口伝に云わく、文殊菩薩の真言を五十万遍唱える法や虚空蔵菩薩の求聞持(ぐもんじ)法を修す時、或いは不動護摩で乳木(にゅうもく)を八千枚焼く時などが特にそうであるが、凡そ別尊(諸尊)法を修す時は法験のある仲間の僧に依頼して修法の外護(げご)者と為し、修法を始める時と終える時に軍荼利明王の真言を念誦してもらうようにすべきである。

 

〈12〉大威徳ダルマ(梵字) 

口伝に云わく、不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の五大尊は皆悪魔を降伏(ごうぶく)する明王である。しかしながら各(おのおの)悪魔怨霊を降伏する意向は異なっている。大威徳明王は専ら蛇道(蛇類の世界)の怨霊を降伏する。邪之執者(意味不明)。此の明王には悪□(獣?)と悪風雨の難を調伏(ちょうぶく)するという本誓がある。其の時には此の法を修すべきである云々。(少し大威徳明王と蛇類との関係について説明しますと、先ず此の明王は西方無量寿仏の教令輪ですから西方諸天・夜叉の支配者でもあります。西方夜叉の主は広目天ですが、広目天は諸竜王・蛇類の首領です。従って大威徳明王には蛇道の怨霊を容易に降伏する力があるのです。)

 

〈13〉金剛薬叉(やくしゃ/夜叉)ダルマ(梵字) 

食欲が無い為に食事をしない人には、金剛薬叉明王の真言を以って飲食(おんじき)を加持してから供する。そうすれば忽ちむさぼり食うであろう云々。一切の食べ物は此の真言を以って加持する事によって清浄なる食物となる云々。 

此の明王は特に、盗人が自分たちの悪行の守護神としている邪神を降伏する云々。 

(此の明王の印真言を以って)菖蒲(しょうぶ)を加持すれば、(上司・仲間・愛人等からの)敬愛が増長する云々。

 

〈14〉金翅鳥(こんじちょう)王ダルマ(梵字) 

又(先師賢覚法眼の)口授に云わく、此の法は専ら祈雨法に修すべきである。金翅鳥王には(雨を降らせる)諸龍を降伏(ごうぶく)支配して、自在に旱(ひでり)と乾燥を除く能力がある事は明白である。 

或いは国王から敬愛を受けんが為、或いは夫妻の敬愛の為、或いは大人(だいにん/仏菩薩)から敬愛を受けんが為には特に此の尊の法を修すべきである。其の効験を説く証拠の文は前に注記した。(息災・増益・敬愛・調伏の四種の法の中でも)特に敬愛法を修すべきなのである云々。(此の一節は他尊に関する口伝が混入したものと考えられます。)

 

〈15〉金剛童子ダルマ(梵字) 

口伝に云わく、金剛童子は金剛薩埵が変化(へんげ)した尊である。此の尊のゴマ(梵字homa)を修す時は、降三世明王を以って部主段の部主と為すべきである。

 

 

 

14-3. 整理番号18.1.3『授心抄』巻下

 

〈1〉不動ダルマ(梵字dharma) 

又口伝に云わく、不動明王は、衆生(しゅじょう)が過去に行った行為に依って受けることが決定している業報(ごうほう)を必ず転化し除滅させることが出来る。その故に儀軌(不動立印軌)の文に、「又過去の行為の業報として得た身体の寿命が尽きようとする時も六カ月延ばして生かす」と述べられている。 

又(口伝に)云わく、往年鳥羽上皇が一院として政治を取っておられた時に法勝寺の九重の宝塔が修理される事になった。その時に院から醍醐の大僧正定海の許(もと)へ御質問を下されて、「法勝寺塔の心柱を直される事になった。是は国家にとって極めて大事である。どのような御祈りを修されるべきか考えて申し上げなされて下さい。」と仰せがあった云々。そこで大僧正は先師法眼(賢覚)をお招きになり、此の事について相談なされたのである。その時、先師が申し上げなされて、「先師僧正(勝覚)の口伝に依りますと不動法を修されるべきでしょう。」と云われた云々。大僧正は是に依って御祈りには不動法を修されるのが適当でしょうと鳥羽院に奏聞(そうもん)なされた云々。即ち大僧正は(院宣を受けて)件(くだん)の御祈りとして不動御修法(みしほ)を勤修なされ、件の御塔の心柱は無為無事に直し終わることが出来たのであった云々。是は先師(賢覚)が物語なされた時に承ったのである云々。 

又先年の頃、大僧正(定海)が体調を崩された時、先師(賢覚)に不動御修法を三七箇日(さんしちかにち/21日間)修させなさった。その修法の間に(先師から)不動法に関する秘事等の口伝を承った。

 

〈2〉北斗ダルマ(梵字) 

そもそも(冥界の神々にお供えする紙で作った金銭を)支仙白紙銭と云うのは、支仙という名前の人が泰山府君(たいせんぶくん/たいざんふくん)から夢の中でお告げを受けた。そのお告げに云わく、人間世界の金銀等の宝物は人間の執着心が取り付いているので不浄の物となって神々は全く受納しないのである。だから紙を用いて擬銭を作り、是をお供えしなさい。紙の擬銭は世間の執着が無いので真実の銀銭と成るのである云々。此の事に依って(北斗法のように諸天を供養する修法では)擬銭(紙銭)を供えるのである云々。

 

 

 

(以上)

 

平成21年7月10日を以って上記の文章を確定します。今後内容の訂正・変更等を行う場合は必ずその旨を注記します。