東寺真言宗血脈
第一回 相承血脈と真言七祖の事
三宝院相承次第
仏の教えには多くの法門があるけれども、それらも結局は顕教か密教か何れかに収まります。また仏法の教主について言えば、法身と生身(しょうじん)の二仏がある。法身仏とは真言密教の胎蔵・金剛両部の教主であり、また世界の道理を照らし出している理仏と世界に働きかけてそれを活かす智仏である。生身仏は顕教の教主であり、此の法身仏である大日如来の心の働きが釈迦如来として一時期この世に化現(けげん)したことを言います。弘法大師は此の事について、
毗廬遮那(大日)が覚りを開いて成仏する時に、その無数の心の働きも各々同時に成仏してそれぞれ別々に仏名がある。また各々に菩提樹下に成仏して八相成道(はっそうじょうどう)を示す。即ち釈迦牟尼仏は大日如来の心の働きの一端が人間世界に化現したのである。釈迦仏に限らず世間に出現する一切の仏菩薩はこのように大日の心の働きが仮に仏菩薩として姿を現すのである。
と述べています。又『金剛頂理趣釈経』に於いても、
『理趣経』に「時に調伏難調の釈迦牟尼如来」と云う言葉があるが、是は人間世界に於いて五濁(ごじょく)が渦巻く中で誤った教えや考えが流行しているけれども、是に対して八相成道を現わして感化し、或いは調伏して、仏道に帰入させる事を云う。その為に仮に釈迦族の中に生れて釈迦姓を名乗り、出家して牟尼の称号を得た。牟尼とは寂静(じゃくじょう)を意味する。身口意(しんくい)の三つの働きが精神統一によって静まっているから牟尼と称するのである。
と説かれています。
釈迦仏もその本身は秘密法身に属しています。しかし顕教の教主である生身の釈迦如来は秘密仏の影像(ようぞう)に過ぎません。従って顕教で説く法門は秘密法身の教えを簡単にした浅略の法門です。仏の法門を区別して、縁覚・声聞(しょうもん)・菩薩の三乗と一菩薩乗、教内と教外、正道門と浄土門などと分類しますが、是等は生身仏の浅略法門に関する区別です。顕教の法門は総てその本源を尋ねれば大日経と金剛頂経という両部の秘密経典にたどり着きます。この両部密教を名付けて真言宗と称します。その教説は法身如来がその覚りの内容を体現している無数の仏菩薩と共に、金剛法界宮及び真言宮殿等に於いて常恒に演説している秘密法門です。
ところが釈迦如来が入滅して八百年を経過した時、龍猛菩薩が南天竺(南インド)にある秘密鉄塔の扉を開いて中に入り、金剛薩埵に遇い奉って伝法潅頂を授けられ此の真言秘密の教門を相承したのです。それ以来真言秘教が天竺に流伝(るでん)することに成りました。龍猛菩薩も初めは釈尊がお説きになられた仏法を悉く学び、その後で秘密の法蔵に入ることが出来ました。そして真言教が仏法の中でも最上の法門であると判定を下しました。そういう訳で龍猛作『菩提心論』に於いて、
唯だ真言の教えの通りに修行する事によってのみ即身成仏できる。その故に真言の教法にはその修行法である秘密三摩地(さんまじ)の法門が説かれている。此の法門は他の諸々の教説の中には欠けているか、或いは秘して書かれていないのである。
と述べています。
龍猛菩薩には顕教と密教それぞれに付法弟子がおられた。顕教の法門は提婆(ダイバ)に伝え、密教は龍智に授けたのです。弘法大師は『真言付法伝』の中で、
顕教の相伝次第に於いては提婆が最初であり、秘密の法門は龍智が龍猛菩薩の部屋に入って相承した。仏教諸宗の高祖(開祖)と云うのも元をたどれば此の一人であると言う事が出来るであろう。
と記しています。
龍智菩薩にも二人の付法弟子がおられました。即ち金剛智三蔵と善無畏三蔵との両三蔵法師です(三蔵法師とは、仏教の経・律・論の三蔵に造詣が深く経典を中国語に翻訳した僧侶を言います)。善無畏は唐の開元四年(716)に中国に来たり、玄超・一行等に潅頂を授けました。開元十二年(724)には大日経を漢訳するなど、盛んに秘密仏教の法輪を転じました。金剛智は開元八年(720)に中国に来たり、不空・一行等に潅頂を授けました。又た金剛頂経を翻訳して秘密蔵の法門を普及する事に努めたのです。
不空三蔵は師の金剛智が入滅した後に天竺に渡り、重ねて龍智菩薩に師事して密教を学び梵語(サンスクリット語)で書かれた経典・儀軌等を中国に請来しました。不空は青龍寺東塔院の恵果和尚(かしょう)に潅頂を授けるなどし、この時代唐朝に於いて密教が大いに普及したのです。
〔以上は大日如来―金剛薩埵―龍猛―龍智―金剛智―不空―恵果なる真言七祖付法次第〕
第二回 弘法大師から醍醐三流の成立まで
次に我が国に真言密教を伝えた祖師の方々は八人いました(入唐八家/にっとうはっけ)。その中で東寺すなわち弘法大師系(東密)が五人、他門すなわち伝教大師の天台系(台密)が三人です。東寺の五人とは高野の弘法大師、霊巌寺の円行和尚、安祥寺の恵運僧都、小栗栖(おぐりす)法琳寺の常暁律師、円覚寺の宗叡僧正です。他門の三人とは伝教大師最澄、慈覚大師円仁、智証大師円珍です。此の中でも弘法大師は唐長安の恵果和尚(けいかかしょう)の正嫡(しょうちゃく)すなわち正統な継承者です。恵果の在俗の弟子呉殷が著した『恵果阿闍梨行状』には、
今長安に沙門空海と云う僧がいる。此の人は仏の聖なる教えを受法するために日本国からやって来たのである。恵果和尚は空海に対して胎蔵・金剛両部密教の奥義と伝法潅頂、秘密儀軌に説く印契を授けたが、空海は梵字・漢字を問わず教えられた経典を理解し心に納めることが出来た。それはまるで瓶(かめ)から瓶へ水を移すように教えが伝えられたのである。
と記されています。
弘法大師は真雅僧正・実恵僧都・真済僧正等に教えを授けましたが、此の中でも貞観寺真雅の相伝を本流とします。真雅は南池院の源仁僧都に授け、源仁は円成寺益信と醍醐寺聖宝の二人に授けました。益信の相伝は広沢流の根源と成りました。その相承次第は、
益信―(宇多)法皇―寛空―寛朝―済信(さいじん)―性信(しょうしん)―寛助―覚法―覚性(かくしょう)―守覚(しゅうかく)―道法―道助―道深(どうじん)―法助
等となり、正統な法流が間違いなく伝えられているのです。此の中の成就院寛助僧正(1057―1125)の下に広沢諸流が分派しました。それは聖恵(しょうけい)親王を祖とする花蔵院流、寛遍僧正の忍辱山(にんにくせん)流、永厳(ようげん)法印の保寿院流、信証僧正の西院(にしのいん)流、仁和寺御室(おむろ)の御法流であり合わせて五つになります。更に近年仁和寺の真光院禅助僧正(1247―1330)が高野山伝法院覚鑁上人の流を相伝して伝法院流の名の下に伝授していますが、是も含めて皆で広沢六流とするのです。それと云うのも覚鑁上人はやはり寛助僧正の付法弟子であるからです。ところで広沢と云う名称は弘法大師から数えて第七代の寛朝大僧正の時より始まります(寛朝は嵯峨近辺の広沢池に接して遍照寺を創建したので広沢僧正とも称されました)。又「御流」(ごりゅう)なる名称は大御室(おおおむろ)性信親王の時から特にそのように言う風が生じたのです。
一方聖宝僧正の相伝は小野流の根本と成りました。小野流の門人は此の僧正を尊崇して「尊師」と称しています。聖宝は醍醐寺初代座主でもある般若寺僧正観賢に法を授けましたが、弘法大師という大師号は此の観賢僧正が朝廷に申請して承認を得たものなのです。又観賢は高野に登山(とうざん)して親(まのあた)りに大師を拝することが出来たのです。観賢は石山寺の淳祐内供(しゅんにゅうないく)と醍醐寺の一定(いちじょ う)律師の両人に法を授けました。一定の法流は後に小島(こしま)流(壺坂流)と名付けられます(小島流は一定律師から第五代の小島寺真興僧都934―1004を流祖とします)。
次に石山淳祐の法流に付いて述べます。醍醐寺の延命院に元杲僧都という人がいました。此の人は初め一定に就いて学び、その後淳祐からも受法しました。元杲は小野僧正仁海(951―1046)に法を授けました。仁海は自ら創建した小野の曼荼羅寺に住したので、此の時から小野流なる名称が生まれたのです。即ち真言法流に関して「小野」という名が使われるように成ったのは高祖弘法大師から数えて第八代に当たる仁海僧正の時からなのです。仁海の付法弟子には宮僧正(みやのそうじょう)覚源と成尊僧都の二人がいました(覚源は花山天皇の皇子で醍醐寺座主です)。
成尊は仁海僧正からその法を余す所なく相伝した写瓶(しゃびょう)の弟子です。成尊の弟子には義範・範俊・明算(めいざん)等がいました。義範は専ら醍醐寺に住していましたが、範俊の方は小野の曼荼羅寺を住所としていました。明算は高野の僧です。範俊は厳覚・良雅等に法を授けました。厳覚は宗意(そうい)・寛信・静誉(せいよ)・増俊に法を授けました。宗意の法流を安祥寺流と名づけ、寛信の流は勧修寺流と称します。また増俊の流は随心院流と云います。即ち弘法大師より数えて第十一代の弟子である厳覚大僧都(1056―1121)の下に(狭義の)小野の三流が成立したのです。
一方義範はその法を勝覚に授けました。此の勝覚権僧正の時から三宝院流なる名称が使われるように成りました。勝覚の付法弟子は三人います。理性院流の祖とされる理性房賢覚、金剛王院流の祖とされる三密房聖賢(しょうけん)、それに三宝院流の正統な相承者とされる定海大僧正の三人です。即ち弘法大師から数えて第十一代の弟子になる勝覚権僧正(1057―1129)の下に醍醐の三流が成立したのです。
この様に小野流も分かれて六流になりました。此の他にも成尊僧都の付法弟子である明算の法流が高野山にあります。高野には又仁和寺の寛助僧正の付法である真誉の法流もあります。明算の流は中院流と名づけ、真誉の流は持明院流と云います。即ち高野山独自の法流としてこの両流があるのです。
第三回 三宝院流の大成(勝覚から勝賢・成賢まで)
醍醐三流の中心は三宝院流ですが、此の法流は遍智院僧都と称された義範からその教えを皆伝した権僧正勝覚(1057―1129)の時に成立したのです。勝覚僧正は三つの法流を相承して総合し三宝院流となされたのです。その一つは仁海―覚源―定賢―勝覚と次第相承した法流です。その二は仁海―成尊―範俊―勝覚と相承したものです。その三は仁海―成尊―義範―勝覚と相承されました。又その中でも遍智院義範の教説・口伝が三宝院流の根幹を成しています。ところで三宝院という名称について言えば、本は仏・法・僧の三宝を安置する寺院という意味でしたが、後には三方の法流を受け継いでいるから三宝院流と称するという説も行われるようになりました。
権僧正の御房(勝覚)の弟子の中でも理性房賢覚と三密房聖賢の二人は大変優れた人達でしたが、法の嫡嗣(ちゃくし)とも云うべき正統なる相承者は定海です。定海が勝覚僧正より伝領した聖教(しょうぎょう)の中には、僧正自ら「理性・三密も知らざる大事」と書き付けた箱が含まれていたのです。此の定海には二人の師匠がいました。勝覚の事は今述べた通りです。もう一人は範俊の付法弟子である良雅です。良雅は範俊自筆の聖教等を相承していましたが是を定海に譲りました。従って定海が相承した範俊の法流はその規範とも云うべきものです。然しながら定海の法流は勝覚の伝を以て根本とします。
定海は松橋大僧都と称された元海に法流を授けました。元海は定海の口説を記して『厚双紙』を製作しましたが、此の書物は「醍醐の重書」です。
元海は実運僧都に法流を授けました。実運は初めは勧修寺の寛信法務の付法弟子と成ったのですが、後に醍醐寺に移って元海からその法を皆伝し写瓶(しゃびょう)弟子と成りました。また実運は本は明海(みょうかい)と称していたのを後に改名したのです。実運の著作には『玄秘抄』と『妙抄』があります。亦『金宝集』も実運の作ですが、是は寛信より受法した内容を記したものです。一方『伝受集』は寛信の師である厳覚の製作したものですが、是も実運は寛信より受法していたので、以来三宝院流に相伝する事になったのです。
実運は法流を岳(かく)東院の勝賢僧正(1138―96)に授けました。〔勝賢の「賢」字は本は「憲」字を使っていました。〕勝賢が伝法潅頂を授けた時の記録に『治承(じしょう)記』という書がありますが、勝賢の付法弟子には法流の相承者とも言うべき優れた人達が多くいました。萱坊(かやのぼう)の大僧都実継、金剛王院の大僧正実賢、仁和寺北院の御室守覚、遍智院の僧正成賢などです。
北院御室が勝賢僧正より相承した法は仁和寺御流に相副えて今も伝授が行われています。有名な『秘抄』は、御室守覚が勝賢に仰(おお)せて〔お尋ねあって〕、それに対して勝賢僧正が幾度となく諸尊の法を書いて進呈なさいました。それを御室が類集して勝賢僧正にお見せに成りましたが、今度は僧正が是を拝借して書き写しました。以来勝賢の門跡である三宝院に於いて是を相承し『秘抄』と名付けました〔又『白表紙』とも云います〕。但し『秘抄』の中の「護摩」や「異尊」等は、成賢僧正が後に類集して本篇に付加したのです。小野流の諸師の中でも御室守覚が特に勝賢を撰んで受法の師と為し、その相伝に執心をお示しなされた事は、三宝院にとって格別の名誉と云うことが出来ます。
次に実賢について述べれば、初めは岳洞院勝賢より受法しましたが、後に金剛王院の賢海僧正の付法弟子に成ったので金剛王院僧正と号します。従って三宝院流に関してはその法を悉くは相伝していないのです。それでも実賢は本の法流に執心して多くの人に三宝院流を伝授しました。「実賢方(かた)の三宝院」と云うのは此の事です。是は模範とすべき相承とは言い難く思われます。
又次に実継は勝賢の付法弟子の中でも非常に重要な人ですが、それでも勝賢の法流の正統な継承者すなわち正嫡の弟子ではありません。勝賢僧正は醍醐寺座主の職と自筆の聖教を実継僧都に譲りました。しかし実継の法流はその後大体断絶してしまいました。
次に遍智院の成賢僧正(1162―1231)は勝賢僧正の法流を皆伝した写瓶のお弟子です。一般に知られている説によれば、成賢はその素質と学問・修行に於いて群を抜いた逸材でありながら、勝賢は何かと成賢が気に入らなかった。それで勝賢は成賢を写瓶の弟子にする考えは無く、実継を自分の法流の後継者にしようと思っておられた。ところが勝賢が病気になって回復する見込みも無い時に、兄の澄憲法印等が病床の勝賢に対して「成賢は俗縁(甥)ではないか。それに能力も抜群の人物である。写瓶の弟子にするのが当然であろう。」などと説得したので、勝賢もついに思い直して成賢を写瓶にしたのだと云う事です。此の説は真実その通りとは言えません。勝賢は以前から成賢を写瓶の弟子と心頼みにしておられたのです。何故かと云えば、勝賢が病気になる前に記した成賢に対する付法状があるからです。どうして最期(さいご)に臨んで等と言えるでしょう。従って三宝院流に於いては成賢に至るまで代々正統な継承者が法流を相承してきた事に異論はありません。三宝院流に用いる諸尊法等は成賢が類集したのです。成賢には多くの付法弟子がいました。道教・憲深・頼賢等です。
第四回 意教上人頼賢の事
成賢の弟子の中でも憲深僧正(1192―1263)は普段の努力が群を抜き出た人であり、真言の事相と教相の両面に於いて優れていました。成賢僧正からの受法も詳細なるものでした。また勝賢僧正が実継に譲与した聖教(しょうぎょう)は後に憲深が相承していました。それで或る時この聖教を成賢僧正に差し上げご覧に入れた所、僧正も此の先師勝賢の御自筆の聖教を見てみたいと思っておられたので、実際手に取って見てこの上も無く随喜なされたのでした。この様に憲深は心遣いと云い、素質能力と云い、共に優れた人であったから、成賢からの受法も丁寧な行き届いたものだったのです。成賢僧正がお亡くなりになった後に此の勝賢自筆の聖教は元通り憲深に返却されました。又真言の教相は、高野山の覚海検校の四人の付法弟子の中でも特に秀でていた法性阿闍梨から相伝しました。従って憲深は教相に於いても如法の受法を遂げた事が明白なのです。一方で法性は真言事相を憲深から受法しました。即ち憲深と法性は互いに師資(師匠と弟子)と成って事相と教相の源底を尽くしたのでした。憲深の法流は今も伝わっています。三宝院流の報恩院方と云うのが此の法流です。
次に道教法印(1200―36)の事です。此の道教は、成賢僧正が住んでおられた遍智院を始めとしてその聖教・道具類から本尊仏像等に至るまで悉く譲与を受けた写瓶(しゃびょう)の弟子です。但し早世してしまわれたのは何とも無念な事です。是に付いては後で亦詳しく述べましょう。醍醐の地蔵院流と云うのが道教の法流です。
次に頼賢阿闍梨(1196―1273)は十一歳の時に成賢の遍智院に入室(にっしつ)しました。出家受戒する前の童(わらわ)の形でいた間は愛王丸と呼ばれていたのですが、成賢僧正は此の頃から頼賢が仏法の器(うつわ)として非常に優れた人材である事を知り、将来は必ず写瓶の弟子にしようと思い定めておられました。頼賢は何事にもよく気が付き聡明であった上、その心のありさまも亦明るく清らかで世間的な所がありませんでした。従って成賢からの受法も本来の順序作法に則った行き届いたものでした。即ち四度加行(しどけぎょう)と諸尊の供養法を始めとして、大法・秘法や伝法潅頂に関する大事、更には作法・法則(ほっそく)から三宝院流の由緒に関わる故実の細目に至るまで、成賢僧正は是等を頼賢を写瓶の弟子にする為に悉く伝授されたのです。
又醍醐寺の松橋(まつはし/無量寿院の通称)の浄真法印は成賢の甥に当たる人で、(全賢僧都から松橋流を相承していましたが)自然と又成賢からも受法したのでした。此の浄真はその人柄を見込んで頼賢に松橋流を付嘱(ふぞく)しようと考え、その事を成賢僧正に申されました。その結果頼賢は、三宝院と松橋の両流共にその源底を尽くして受法する事が出来たのです。現在でも松橋流は一方では頼賢の法流として伝わっています。
さて成賢僧正は醍醐に於いて代々法流の嫡弟に限って相承されてきた秘密大事の口伝等を詳細が上にも詳細に頼賢にお授けになりました。又頼賢が伝法潅頂を受けるための加行に励んでいた時に、師僧の成賢から法華経を暗記して読誦するようにという命令がありましたが、頼賢は是を成し遂げました。成賢は感嘆する事この上も無く、その他の人々も共に褒め称えたのでした。是は頼賢とその法流に繋がる者にとって大変名誉な事です。
ところが頼賢は無上菩提を求める道心が堅固であり官僧として栄達する道を好まず、しきりと遁世(とんせい)隠居の希望を成賢に申し上げました。しかし成賢は法流の将来を頼賢に託し期待していたので遁世の事は許可なされません。それでも頼賢は誠心誠意此の事を申し上げましたから成賢僧正も、「仏の道を志して出家するとはそのような事を云うのであろう。今までは自分の寺や法流の護持をあなたに託すことばかり考えていたから遁世を認める訳には行かなかったが、この上は方策も無い。あなたの考え通りにしなさい。」と言われたのでした。僧正は又、「但しくれぐれも言って置かねばならない事がある。今まで伝授した嫡嫡(ちゃくちゃく)相承の大事の口伝は決して疎略に扱ってはならない。鎮守の清瀧権現は醍醐の法流が他方に散ずることを固く戒めておられる。そのような神慮を恐れ敬うべきである。」と再三にわたって頼賢に言い含められました。
其の後頼賢は高野山に登り、そこの安養院という寺院に籠居なさいました。頼賢は本より疑いなき成賢僧正の写瓶の弟子でありましたから、多くの人々が受法したい旨を伝えてきました。最初は受法希望者の素養を斟酌(しんしゃく)して果たして授法すべきかどうか決定しておられたのですが、法を授ける事は人々を利する事であるからとお考えになって、後には特に制限を設けることも無く広く伝授を行われました。すなわち高野の由緒ある子院に住して学徳の誉れある学侶の方々を始めとして、別所に集う他国の上人に至るまで多くの人々が受法したのです。その人々とは先ず学侶では南院の隆恵阿闍梨、日輪寺の良和法印、大楽院の賢応阿闍梨等であり、次に黒衣を着する真言律の上人では金剛三昧院の証道房実融、了一房玄清、円如房安賢等です。然しながら頼賢が高野に於いて多くの人に伝授したと云っても、成賢から授けられた醍醐の嫡嫡相承の大事口伝に関しては決して授けようとはせず、師の戒めを守って心の奥深くに納めたままにしていました。
第五回 願行上人の伝法
そうした頃合い、後に願行上人の名で世に知られるように成る賢静(憲静/けんせい 1215―95)は頼賢の伝法活動の事を聞き知って自らもその弟子に成りました。頼賢は賢静の人柄を見て仏法を護持するにふさわしい器(うつわ)であると知り、師の成賢から相承した嫡嫡(ちゃくちゃく)の大事も此れ程に素質能力の優れた人物ならば授けてよいであろうと思われました。しかし賢静は黒衣を身にまとう真言律の上人です。成賢も頼賢に対し、「決して黒衣異門の者などに不用意に授けてはならない。何とか然るべき逸材を探し求めて授法し、醍醐の大事が寺外に出ないようにすべきである。」と申し含めておられました。(当時、真言律僧は正統な真言法流の継承者になる事は出来ないと考えられていたのです。)それらの事を考慮して頼賢は授法をためらっていました。一方、賢静は醍醐に嫡嫡相承された秘密法門の深奥(じんおう)を心に懸けて、何としてもそれを相伝したいとの志を顕(あら)わにしていました。
或る時、頼賢は賢静(憲静)に向かって次のように語られました。
今まであなたの天性素質を観察してきたが、仏法護持の器である事は他に比べる人とて無い程である。ほとんど末の世には会うことも難しい人である。私としては故成賢僧正より授けられた醍醐の嫡嫡大事をあなたに授けようと思っている。しかし僧正は此の大事をひどく心に懸けておられたから、必ず醍醐寺と深い縁がある然るべき法流の継承者に授け置くようにと私に申し含めておられた。そういう事情であなたに付法の事を言い出せなかったのである。しかし現在私には成賢僧正が指示されたような人が思い当たらない。ところで東寺は真言密教の根本の寺である。弘法大師の門流に繋がる人間なら誰しも此の寺を崇敬するであろう。それだけでは無い。若し東寺が荒れ果てるような事になったら、その時には仏法と王法が共に衰微すると書き記されている。だからあなたは東寺の造営修理の費用を調達する役職である東寺大勧進と成って伽藍の修造再興に努めなさい。若しそれが務まるようなら嫡嫡の大事をあなた一人だけに授けましょう云々。
賢静は此の頼賢の御言葉を聞いて進退の窮(きわ)まる思いがしました。それと云うのも、醍醐の大事を相伝する為に御言葉を承諾すれば、東寺の修理造営などと云う大事業は大変な難事であるに違いないし、そうかと云って辞退すれば醍醐の秘密の奥蔵(おうぞう)を知る事は出来ないのです。このように思い迷って決心がつかず、結局心中の思いをありのままに頼賢に申し上げました。頼賢は是を聞いて、「本当にそのように迷うのも道理がある。しかし東寺の勧進職を引き受けるのも、また大事の受法が出来るのも、それらは弘法大師の御心にお任せすべきであろう。私達凡夫がアレコレ考えても結論が出るものでは無いだろう。それでは高野の奥の院に参詣して籤(くじ)を取るのが好いであろう。」と語って、師弟相い共に奥の院に参詣しました。
さてそこで籤を取ろうとした時、一羽のカラスが飛び来たって籤を咥(くわ)え取り、それを賢静の前に置きました。賢静はカラスを追い払って籤を元の所に置き、改めて籤を取ろうとしました。ところが今度もカラスが籤を咥えて賢静の前に置きました。このように三度も同じ事が繰り返されたのです。頼賢も不思議な事だと思ってこの出来事をご覧になっていました。さてこうした事があった後に賢静は自ら籤を取り、それを頼賢にお見せしましたが、それは大事を授けるべきであるというものでした。結果が出た上はこれ以上迷うには及ばないと、師弟相い共に高野から下向されたのです。
こうして賢静(憲静)は東寺勧進職となり先ずは関東(鎌倉)に下向する運びとなりました。その頃関東は繁栄して仏法に対する帰依も亦盛んでしたから、必ず勧進の事業は成功するであろうと考えられました。賢静もこのように思い定めて頼賢に対し、「それでは約束して頂いた醍醐の大事口伝等を受法したいと存じます。」と申しますと、頼賢は承諾して瓶(かめ)の水を別の瓶に移すように件(くだん)の大事口伝等を悉く授けられました。その後すぐに賢静は関東に下向し、立派に勧進の仕事を果たして東寺の修造を成し遂げました。
賢静(憲静)上人が都や地方でお示しになった種々の効験はその伝記に詳しく記されていますが、今ここで述べる事はとても出来ません。御弟子となって伝法潅頂を受けた人を始めとして、仏菩薩の一印一明(いちみょう/明とは真言を云う)を受法した人まで、総じて弟子の数は五百人以上にもなりました。
ところで頼賢が此の大事口伝等を賢静にお授けになった時、何としてでも素質能力の優れた人物を探し求めて是を醍醐寺に返し置くべきであると堅く申し含められたのです。賢静も此の言葉を深く心に念じていましたが、醍醐寺の鎮守神である清滝権現が或る人に託して「賢静上人は醍醐の大事を本寺に返すべきである」と種々に御託宣を下されました。そのような折節、醍醐寺報恩院の憲淳僧正(1258―1308)が此の大事の相伝を賢静に懇望(こんもう)されたのです。此の僧正に対する評判の高い事は醍醐に於いては言うまでもありません。従って素質能力に関しても問題がありません。そういう事情で憲淳僧正は願行上人賢静から此の大事を受法する事が出来ました。その時に憲淳の弟子の隆勝僧正(1264―1314)はまだ童(わらわ)の姿をしてお伴をしていました。後にはこの隆勝も願行上人から受法する事になります。
第六回 憲淳の受法にまつわる物語
憲淳僧正が願行上人賢静から伝法するに至ったのには深い理由があります。成賢僧正の付法の御弟子に憲深僧正がおられる事は前に述べました。此の憲深の法を悉く相承した写瓶(しゃびょう)の御弟子は実深僧正(1206―77)ですが、憲深は実深に対して以下の如く申し置かれていました。
故成賢僧正は意教房頼賢のことを大変いとしく思って大事にしておられた。従って法流の相承に関してもすっかり頼賢を頼りにして、何事も師弟の間に隔ての心が無かった程である。頼賢もまた頭が良くて何事にもよく気が付く人物であったから、受法の事は総て成し遂げることが出来た。どう考えてみても故僧正の究極の教えは頼賢の胸中に収まっている。醍醐の究極の教えは故僧正が相伝しておられた。その胸中の秘密法蔵を知ろうと思えば頼賢から受法する以外に手立てが無いであろう。
このように憲深僧正は実深に向かい繰り返し丁寧に申し置かれたのです。従って実深僧正も師匠の言葉をいつも心に念じて頼賢から受法しようという志を持っていましたが、何となく公私の諸事に多忙なままに此の事を遂げることが出来ませんでした。その結果、実深は付法弟子の覚雅法印にまた此の事を申し置く事となったのです。ところが覚雅も頼賢から受法する機縁に恵まれませんでした。それで覚雅もまた憲淳に此の事を申し置きました。このように憲深僧正から受けた教命を果たさんが為に、実深・覚雅・憲淳と三代にわたって頼賢からの受法に執心して、今やっと頼賢の法を皆伝した写瓶の弟子である賢静(憲静/けんせい)上人に向かって受法する事が出来たのです。
さて願行上人賢静は憲淳僧正に語って次のように言われました。
私の付法弟子には鎌倉覚園寺の長老である道照房真恵(心恵)、京都泉涌寺の長老覚一房覚阿、高野の玄海阿闍梨などがいる。その中でも玄海(1267―1347)は心底から仏法を求めようとする深い志があり、幼少の頃から自分に随逐(ずいちく)して教えを受けてきた人である。従って何事にも堪能な人物である。又玄海は、高野の学僧としてよく知られた法性(ほっしょう)阿闍梨の遺跡(ゆいせき)である宝性院を相続して院主となった程であるから、高野山に於いては肩を並べる者とていない。その上勧修寺(かじゅじ)流や西院(にしのいん)流などを幾年もの間受法しているし、醍醐の三宝院流に於いては既に伝法潅頂の入壇を遂げて法流の伝授を受けもしたが、それでもまだ受法しなければならない事が多く残っている。更に当流(三宝院流)には大事の口伝があり、是は先師頼賢も「唯授一人(ゆいじゅいちにん)」、すなわち唯一人の弟子にしか授けてはいけないと考えておられた。また此の大事は醍醐寺へ授け戻すべきであるとも語っておられた。だから私は高野の僧である玄海に大事を授けることが出来ない。そういう次第で今醍醐寺僧であるあなたに当流を総て写瓶(しゃびょう)するのです。若し玄海があなたに受法の事を申し込むようであれば心を隔てること無く授けるようにして下さい。また是が私賢静の本望なのです。
願行上人は憲淳に対してこのように語られたのです。上人は更に続けて言われました。
自分は彼の高野宝性院と玄海の事をことのほか気にかけている。それで自ら筆をとって胎蔵・金剛両界の梵字種子(しゅじ)曼荼羅と本尊不動明王を書き、是を玄海に与えて宝性院に納めた。又高野の東塔にある遍照院の院主職を宝性院に付属させ、自分の肖像等を安置するよう玄海に申し付けた。更に自分の生涯にわたる伝法活動に於いて法流を授与する時に着用していた法衣と袈裟も同じく玄海に譲与する事にした。自分賢静には多くの門弟がいるけれども、このように玄海を特に大切にしている。それと云うのも、遠くは弘法大師御入定の地である高野山を聖跡として重んじ、亦先師阿性(あしょう)房覚宗の本師である宝性院開基の法性阿闍梨の遺跡を貴しとする故であり、近くは玄海の求法(ぐほう)の志が真剣であり又卓越した能力の持ち主である事に感心したからです。
賢静(憲静)は憲淳に向かい涙を流してこのように申し置かれました。是に対して憲淳僧正も此の事を胸中深くに納めて決して忘れないようにしました。
第七回 宝性院玄海の受法と憲淳僧正の物語
さて願行上人賢静(けんせい/憲静)は玄海(1267―1347)に向かい次のように仰せられました。
自分が故意教上人頼賢から相承した醍醐の法流の事であるが、是に付いては故上人の「醍醐寺に返し置くべきである」という本来の意向に加えて醍醐寺の鎮守清滝権現による同様の御託宣があった。それらは何れも道理に適った理由のある事であるから法流は悉く醍醐の憲淳に写瓶(しゃびょう)した。だから当流(醍醐三宝院流)の相伝の事は憲淳を訪ねて受法すべきである云々。
玄海は此の言葉を耳の奥底に留めて忘れないようにしていましたが、遂に憲淳僧正に面謁(めんえつ)して重ねて三宝院流を受法することが出来ました。僧正は玄海に向って「あなたが当流を受法相伝するのは当然の事です」と語り、アレコレ詮索することも無く授法されました。憲淳僧正にとっては願行上人から託された遺言があり、また玄海法印は本より仏法に詳しく真言修法に熟達していましたので、僧正の方から悦喜(えつき)して以下の如くに言われました。
あなたは真言秘法を相承するのにふさわしい資質を具えている。勿論そういう人物は他にもいる。しかし、あなたは高野でも指折りの学匠として知られた法性(ほっしょう)阿闍梨の遺跡(ゆいせき)である宝性(ほうしょう)院を継承しておられる。高野山は弘法大師御入定の聖地である。その地であなたが大師の法灯をかかげて真言法を伝授する事は、多くの人々にとって大きな利益となるであろう。従って相承の法流に関して自分の知っている事は総て惜しむこと無く授けましょう。代々の祖師も、「秘密真言の法を惜しんで授けようとしないのは罪悪である。法流を継承すべき善人に対して惜しむからである。」と仰せられている。いわんやあなたは故願行上人のお弟子であるから、私にとっては他の弟子とは違って上人門下の同法(兄弟弟子)でもある。その上、故上人は私に対して丁寧にあなたの事を繰り返し仰せられたという事情もある。そればかりでは無い。私とあなたとは浅からぬ因縁の結びつきがある。あなたも此の事は知っているでしょう。
憲淳僧正は玄海に対してこのように語り、更に言葉を続けて言われました。
高野宝性院の本願(開基)である法性阿闍梨の師匠であった覚海検校(1142―1223)は当寺(醍醐寺)の定海僧正の付法弟子です。また法性自身は、我が法流である三宝院流憲深方(報恩院流)の開祖である憲深僧正の付法弟子でもある。一方で憲深は真言教相(きょうそう)を法性阿闍梨から学び、真言事相(じそう)の伝授も受けている。憲深僧正は高野の中院法流に関してもよく知っておられたが、それは悉く法性から伝受したものである。あなたも亦同じく中院流であるから、それらの事を考え合わせると法流の上で何かと繋がりがある。その中でも醍醐の三宝院流に関して言えば、成賢僧正に至るまでは嫡嫡(ちゃくちゃく/正統)の相承次第について異論は無い。成賢の付法弟子には多くの人がいるけれども、本当を云えば憲深・道教・頼賢の他に秘密法流を悉く伝受した者はいないのである。しかも頼賢・憲深両流の所伝はこの憲淳一身に相承しているのだから実に身に余る光栄である。他に並ぶ者とて殆(ほとん)どいないであろう。
(注記:上の物語で言及されている高野の覚海検校と醍醐の定海弟子の覚海/1107―1184とは別人です)
玄海に対して此のように語ってから最後に憲淳僧正は次のように言われました。
従って自分としては未来永劫に至るまで頼賢・憲深の両伝を門跡(法流継承の寺院)に相承させたいと願っている。大覚寺様(後宇多上皇)は私に対して専ら願行上人賢静(憲静)の所伝を受法したい旨申し入れをして来られた。しかし醍醐に於ける私の立場からしてそれは出来ないのである。私達は代々憲深僧正の法流を伝えている事で立身を果たして来たのであって、その事は朝廷に於いても醍醐寺の中でも皆が知っている。そうした事情で私としては何としても願行上人から相伝した意教上人頼賢の流を標榜(ひょうぼう)する一派を別に立てたいのである。そこであなたはその事にふさわしい資質と能力を具えている。しかも高野に於いて然るべき由緒のある寺院の住職をしておられる。故願行上人もあなたの宝性院の事を何かにつけ随分と気にかけておられた。だからあなたは三宝院流の頼賢方(らいけんがた)を相承法流の中心にしなさい。その上で同流の憲深方(けんじんがた)をも授けましょう。
こうして憲淳僧正は頼賢・憲深の両伝を悉く瓶(かめ)から瓶へ水を移すように写甁(しゃびょう)し、更にその事を証明する付法状を玄海に書き与えられました。また僧正は、「醍醐に於ける自分の門跡を継承させる弟子は別であるが、その他にも多くの門弟がいる中で付法状を書き与えたのはあなた一人だけです。此の事をよくよく知っておきなさい云々。」と語って言葉を結ばれました。
第八回 玄海は頼賢方の写甁として世に隠れなき事
さて憲淳が玄海に授けた付法状には「三重」のことを借音(しゃくおん/借字)して「三地烏(さんじゅう)の大事」と書かれていました。その理由は既に述べた如く(第五回)、意教上人頼賢が賢静(憲静)に醍醐の「三重の大事」を授けるべきかどうか迷っていた時の高野奥の院に於ける出来事があるからです。すなわち突然烏(カラス)が飛んできて籤(くじ)を咥え取って置くという事がありました。今又、同じ大事等を授けるにあたってその時の事を思い合わせて「三地烏」等とお書きになったのです。また三地とは弘法大師が、菩薩の階位を示す十地の中の第三地発光地(ほっこうじ)の菩薩である事も意味しています。烏は奥の院の霊鳥でもあります。このように「三地烏」と書く事には子細の事情があるのです。
こうして高野の宝性院玄海は醍醐三宝院流の中の道教・憲深・頼賢三人の法流を相伝することと成ったのですが、憲淳僧正の遺言に従って模範とすべき中心法流に付いては頼賢方として専ら是を大事にされました。玄海自身も普段から道教方は醍醐の地蔵院、憲深方は同じく醍醐の報恩院、頼賢方は高野の宝性院と称しておられました。憲淳僧正は頼賢方を高野の玄海に授け置く考えである事を大覚寺殿(後宇多上皇)に申し入れしておられました。よって大覚寺殿は院宣を発給して、玄海に対し御祈祷の事共を仰せ付けられたのです。その時の院宣等は現在も保管されています。大覚寺殿のお子様である後醍醐天皇(1288―1339)も此の事をお聞きになり、玄海を招き寄せて御受法になる事が数度ありました。こうした事は総て朝廷の威儀に関わることであり、私的な関心に基づくものではありません。ですから誰も以上述べてきた事に疑念を抱きはしないでしょう。
但し意教上人頼賢の教えを受けた付法弟子は多くいます。是等の人々は「我モ我モ」教えを皆伝した写瓶(しゃびょう)の弟子であると思っているかも知れません。しかし是に付いては本所すなわち頼賢の本寺である醍醐寺の人がよく知っている筈(はず)です。醍醐の憲淳僧正は代々の申し置きの旨に従って頼賢の法流を尋ね求め、願行上人賢静(憲静)こそが写瓶弟子であると知って受法を遂げられたのです。憲淳は他の人から頼賢方を受法しようとはされませんでした。このように願行上人が頼賢の写甁であることに疑いを抱く人は世の中にいないのです。又願行上人が頼賢から醍醐の大事口伝を授かるために東寺大勧進と成った経緯(いきさつ)も世に隠れない事です。それでも自分こそが頼賢方の写甁であると主張して様々に述べ立てる人々は、恐らくいつになっても無くなりはしないでしょう。
結局のところ、醍醐の最秘密の口伝は遍智院成賢(せいげん)僧正が頼賢を自分の後継者と馮(たの)んで授け、頼賢もまた努力して根源を極めることが出来た法にあります。ところが頼賢は既に(第四回で)述べたように心底から堅固な菩提心を発(おこ)して、成賢僧正の門跡譲与の提案も辞退しました(「門跡」とは法流相承の寺院を言います)。僧正は困り果てて醍醐松橋(まつはし/無量寿院)の浄真法印(1191―1240)に法流を写瓶するのが良いであろうと考えておられました。浄真法印は成賢の甥に当たる上、仏法を真実相伝しうる資質を具(そな)えていたのです(「甥」とあるのは実際には成賢の従兄弟の子の意味です)。
そうした頃合い、成賢僧正と長年にわたって深い師檀の契約を結んでいた内大臣の土御門(つちみかど/源)定通公(1188―1247)が僧正の病席にお越しになり、僧正の弟子になっていた御子息「通海」が僧正亡き後はどなるかと大変心を痛めていると切々と仰せになりました。(「通海」は「通円」(1216―1249頃)の誤りであり、以下四箇所では総て「通円」と訂正しました。)成賢も自流の門跡たる遍智院が世に光り輝き、その法流が繁盛するに至ったのも彼の内大臣殿の力あってこそとお考えになりました。それで定通公の願いを入れて遍智院を通円に譲与する旨契約をされたのです。(此の成賢と土御門定通、通円に関する物語は、実は成賢では無くその写瓶の弟子道教に付いての事が誤って伝承されたものです。即ち成賢から遍智院を伝領した道教は臨終の床で土御門定通から子息通円に同院を譲るよう頼まれ、結局その次は親快に譲る事を条件にして通円に遍智院を譲与したのです。後文に於いては説明の煩を避けるために、一部内容を変改して事実に合致するようにしました。御了承下さい。)
第九回 地蔵院流の展開
こうして成賢(せいげん)僧正、道教法印(1200―36)の後を受けて内大臣土御門(つちみかど/源)定通卿の子息通円(1216―49頃)が遍智院門跡を継承しました。ところが通円は融通の利かない禅師の御房で東西を弁(わきま)えることが出来ませんでした(物事を判断する能力がありませんでした)。道教法印も在世時に通円を法流の後継者に育てるのはとても無理だと判断し、実弟でもある親快(1215―76)に将来を託すことにしました。しかし思いもかけず病を得て死が近い事を知った道教は、通円の父親定通公の願いを入れて次は親快に譲るという条件を付けて通円に遍智院を譲与したのです。一方、法流相承の事に関しては早世の為に親快に対して委細の伝授もできず、ただ略儀の伝法潅頂である印可だけを授けました。そして道教と同じく成賢僧正の付法弟子である地蔵院の深賢法印(1179―1261)に法流を預け、後日親快が成長して能力が備わった時点で深賢から法流を授け渡すよう契約を結びました。
ところが親快は師の深賢を少々軽く評価する態度を示し、道教・深賢と同じく成賢の付法資である憲深の門に入って受法しました。それでも憲深には定済(じょうぜい)・実深(じつじん)と云った然るべき弟子がいましたから、特に親快の事を心に懸けるという事もありませんでした。その結果、親快は正式の伝法潅頂を仁和寺の理智院隆澄僧正(1181―1266)から受ける事になったのです。それは、隆澄は醍醐の金剛王院大僧正実賢からも受法していたからでしょう(実賢僧正の最初の師匠は成賢と同じく勝賢僧正でした)。
(実際の経過を述べると、地蔵院深賢は道教の願い通りに暦仁二年/1239に親快に対して正式の伝法潅頂を授けました。その後親快は建長二年/1250に憲深から略儀の潅頂である印可を受け、さらに本文にも云うように隆澄からも潅頂印可を受けました。又本文に記す以下の一節は、親快が深賢から伝法潅頂を受けた後で伝授して渡すように道教から多くの重要な聖教を預けられた浄尊律師に関する伝承を、深賢の事と間違って記述したものです。)隆澄僧正から受法した後で、親快は深賢法印に対して道教から預かっている聖教(しょうぎょう)等を契約の通り自分に返すように求めました。深賢は気が進まなかったものの、道教の遺言を大事にして総て親快に返却しました。その後も此の親快が伝領した聖教に付いては様々重要な物語があります。
親快には親玄僧正(1249―1322)と実勝法印(1241―91)という二人の写瓶(しゃびょう)弟子がいましたので、親快はこの二人に相承の聖教を授け渡しました。実勝は弟子の中でも亀山天皇の皇子で遍智院宮と称された聖雲(しょううん)親王(1271―1314)を正嫡(しょうちゃく)の付法弟子と期待していましたが、聖教を付与するには御年令が少し不足していました。それで実勝は関東(鎌倉)に趣いた際に極楽寺真言院長老の真日(心一)房禅意(1241―1305)に相承の御聖教等を預け、上洛した時に聖雲親王に伝授して渡し奉るよう申し置きました(実勝が相承の聖教を禅意に預け置いたとは考えられませんが、禅意が実勝の許しを得て幾らか聖教を書き写した事は確認できます)。ところが禅意はその後上洛する事が無く、聖雲親王は実勝の受法弟子である伝法院頼瑜法印(1226―1304)から御受法なさいました。しかし頼瑜法印は伝授の師匠として力量が不足しているとお考えになられたのでしょうか、親王は相承血脈から頼瑜を省きなされたと云います。よく分からない事です。親王は亦親玄僧正からも少々伝受なさいました云々。
聖雲親王は後二条天皇の皇子の聖尊親王(1303―70)を自らの正嫡の付法弟子と期待しておられましたが、御年令がまだ不足していました。それで聖尊親王が成長するまでの間、相承の御聖教等を仮に定位法印(1269―1340―)に預けられたのです。ところが定位は御聖教等を盗人に取られてしまったと申し立て、替りに自分が書き写した聖教を聖尊親王に進呈したのです。このように様々細かな事がありますが、結局のところ聖尊親王が急死なされた為にその法流も断絶に近い有様に成ったのでしょうか。御聖教は上醍醐の照阿院の弘顕法印(1319―82)に預けられました。
親快法印の今一人の写瓶弟子である親玄僧正の法流に付いて云いますと、その嫡流は覚雄(かくおう)僧正―道快僧正等と次第相承されています。道快僧正(1344―1415―)は醍醐の地蔵院を中興しました。
以上、成賢の付法弟子のうち道教と頼賢の法流についてその次第相承を述べました。
第十回 憲深方の事、法流の嫡庶の事など
憲深方(けんじんかた)は三宝院とその所領の荘園等は悉く定済(じょうぜい 1220―82)に譲られてしまいました。一方、法流(報恩院流)と聖教(しょうぎょう)等は実深(じつじん 1206―77)に譲られたのです。
定済方(宝池院流)は定済から定勝、定任、賢助等と相承されました。現在、三宝院を支配しているのは此の定済の末流です。賢助の弟子賢俊(1299―1357)の時から醍醐三宝院は武家(足利幕府)と非常に親しい間柄の権門寺院となり、弘法大師の門徒である東寺の僧侶にとっては出世したような誇らしい気がするのです。賢俊僧正の次の光済僧正(1326―79)等の代になっても権勢は衰えていません。しかし法流の方は大体断絶してしまったと云えるでしょう。但し現今の世間の習いとして、法流の事はどうなろうとも権勢さえあればと思う人に対しては為すすべもありません。
実深方(報恩院流)は実深から覚雅、憲淳、隆勝、隆舜、経深、隆源等と次第相承しました。憲淳の下には隆勝の他にも道順や高野宝性院玄海等の付法弟子がいます。此の道順僧正(?―1321)は所持の聖教等を大覚寺殿すなわち後宇多法皇(1267―1324)に進呈しました。
また文観房弘真(1278―1357)は道順僧正から受法しましたが、僧正は文観房の心性に不信の念を抱いたので法流を総て授ける事はありませんでした。後に文観房は後醍醐天皇に仕える事となったので、天皇の父親でもある大覚寺殿に申し入れして、先師道順僧正が進呈した聖教を幾らか借覧する事が出来たそうです。何に依らず彼の文観房の所伝は信ずるべきでは無いでしょう。文観房は「高野の法」などと云うモノを作って貞観寺真雅僧正や三宝院勝覚僧正などの御作と称し、真言法流に関する知識に乏しい人達に授け与えたりもしました。玄海が宝性院の院主であった時には相承の法流を悉く報告するように文観房の方から云ってきたのですが、玄海はどうしても是を認めようとはしませんでした。醍醐寺の周辺でも今時は文観房弘真の所伝に付いて、真作であれ偽作であれ何れも用いるべきではないとしています。それは新たに発案した口伝を以って多くの偽書・謀書の類を製作したからです。
さて意教上人頼賢の法流は玄海から快成法印、信弘法印、そして宥快と次第相承されました。
質問します。頼賢は世間を捨てて隠遁した人です。その人が相承した法門を国家安泰を祈る真言道の模範とするのは納得がいきません云々。成賢僧正の門跡である遍智院とその聖教(しょうぎょう)は道教が相承しました。憲深の流にしても道教の流(地蔵院流)にはとても及ばないでしょう。
答えましょう。そうした事に判断を下そうとする時は、人それぞれに不利な点と積極的に評価すべき点とがある事を考える必要があります。意教上人頼賢が隠遁の上人であるという点からすれば本より門跡やその聖教を相承する筈(はず)も無く、あなたの批判も当を得ています。しかし成賢僧正は専ら頼賢に期待して門跡・聖教等を総て譲渡しようと語っておられたのです。それでも若し門跡に住して責任ある立場にあれば、経典に記されてある通りに仏法の修行をするのは困難であろうとお考えに成り、強いて僧正の申し出を辞退されたのです。従って道教が門跡・聖教を相承したと云っても、それは僧正本来の意向では無いのです。極楽坊(報恩院)の場合も成賢僧正は先に頼賢にお与えに成ったのを頼賢が辞退した為、その後で憲深に譲られる事になったのです。それも憲深が長い間極楽坊の留守職を勤めていたからでしょう。
一般的に云って法流の最重要の秘説を相承する事は、必ずしも師僧の院家(いんげ)を相続したり、聖教を伝領する事と一致する訳ではありません。例えば義範僧都(1023―88)はその院家である遍智院を林覚(1068―1135)に譲り、自筆の聖教は静意(1069―1151)に譲りました。そうは云っても義範の法流を継承する正統の弟子が勝覚権僧正(1057―1129)である事は間違いありません。また勝賢(1138―96)は自筆の聖教を実継(1154―1204)に譲りましたが、成賢が法流皆伝の写瓶(しゃびょう)弟子なのです。その成賢から門跡・聖教を伝領したのは道教ですが、必ずしも道教の門流が三宝院や遍智院を支配した訳ではありません。ですから必ずしも門跡の相承にこだわってはいけません。
又範俊僧正(1038―1112)の場合も小野の門跡である曼荼羅寺を仁和寺の覚法親王(1091―1153)に譲り奉り、自筆の聖教は大乗院良雅阿闍利(?―1122)に譲りました。そうは云っても厳覚大僧都(1056―1121)が範俊の法流を継承した嫡弟(ちゃくてい)なのです。そうすると頼賢の場合も隠遁したとはいえ、どうして成賢僧正の嫡流の相承者として仰ぎ尊ばない事がありましょうか。其の理由は、石山内供(いしやまないく)と称される淳祐(しゅんにゅう 890―953)も隠遁者でありましたが、小野法流に連なる人で淳祐の末葉でない者は誰もいないからです。特に醍醐寺無量寿院の松橋(まつはし)流は意教上人の末流です。松橋流では上人の相伝を以って、朝廷からの修法の要請に対処しているようです。
憲深は良海(1197―1218)から(実継が伝領して良海に譲った)勝賢自筆の聖教を譲り受け、後に遍智院僧正成賢からその伝授を蒙りました。成賢はその門跡遍智院と聖教を道教に譲ったのですが、本より憲深は成賢の師僧である勝賢の自筆聖教を相承していたから成賢自筆の分を譲られはしなかったのです。憲深が成賢の聖教を伝領していないにしてもその流を軽視すべきではありません。むしろ憲深の流は成賢の嫡流であるという評判も生じたのです。そうでなければ道教の正統な継承者である親快法印が憲深から受法するような事は無かったでしょう。
このように子細を論じれば複雑な事情があるのですが、大局的な視点に立って見れば道教・憲深・頼賢の三人は皆遍智院成賢僧正の正流を相承したのです。こうした子細を知りもしないでアレコレ論じる人達の事は相手にする必要がありません。醍醐三宝院流の正流を伝受したいのなら道教・憲深・頼賢の法流を正しく相伝している人を尋ねるべきです。成賢僧正の文章草案に「真言事相は密教の根本である。是を学ぶには先ず祖師の正流を相伝している人を尋ねて、直接に面と向かって相承すべきである。」と云い、又「密教を学ぶ場合、師から資(弟子)へと代々相伝された血脈(けちみゃく)相承の教えが根本である。師資の血脈が無ければどうして正しい教えと信じて学ぶことが出来ようか。」とも述べておられる。従って何としても相承の次第を知る必要があります。今や世も末となり、相承の次第をよく調べもしないのが普通になっています。そうでは無く、是を究明すべきです。
〔連載おわり〕
〔解説〕
訳文は続真言宗全書25に収載の『東寺真言宗血脈』を底本として作りました。本文に載せなかった記者宥信の奥書がありますので先ずそれを紹介します。それは、
時に至徳三年(1386)丙寅二月の比(ころ)、丹後国成相寺(なりあいじ)に於いて三宝院(流)の相承次第を知らんが為、大略法印御房(宥快)の御口筆を以って之を書き畢る。旅所の間、書籍等を随身せざれば、相承の人人の名字等に定めて謬(あやまり)あるか。後に之を改(あらた)むべき由、之を承り了れり。
権律師宥信
と云うもので、旅先の京都府宮津市の成相寺に於いて宥快が口述した物語を弟子の宥信が記録したものと知れます。
醍醐寺三宝院流は鳥羽院政期に活躍した三宝院大僧正定海をその流祖と仰いでいますが、鎌倉時代以降の同流を実質的に大成したのは覚洞院(かくとういん)僧正勝賢とその弟子の遍智院僧正成賢(せいげん)であったと云えます。成賢以後も鎌倉時代を通じて三宝院流は多くの支派を生み出しますが、それは基本的に師から弟子へと継承される縦系列の血脈(けちみゃく)の相違であり、平安時代末期に多くの真言の名匠が現れて各々に一流を打ち立てたのとは根本的に様相を異にしています。
本書は成賢の弟子の中でも意教上人頼賢を特に重視し、その法流が頼賢から願行上人賢静(憲静)、醍醐の憲淳僧正、高野の宝性院玄海へと相承された次第を記し、口述者の宝性院宥快は自らその法流を伝えている事を自負している訳です。他の成賢の弟子としては道教と憲深についても簡単な記述があります。深賢に付いても少し言及していますがその伝承は道教と通円の関係と同様に全く混乱していて、宥快が三宝院流の本寺である醍醐寺の事情に疎かった事を露呈しています(第八・九回参照)。又本書には記されていませんが鳥羽法印と称された光宝(こうぼう 1177―1238)も成賢僧正の付法弟子について論じる時には忘れてはならない重要な存在です。光宝・頼賢・憲深・道教の四人を「成賢門下の四傑」と称します。
それと今一つ三宝院流に関して忘れてならないのは金剛王院大僧正実賢(1176―1249)が若年時に勝賢僧正から受けた法流で、是を「金剛王院相承の三宝院(流)」と云います。此の流は三宝院諸流の中でも鎌倉時代中期に於いては最も繁昌した人気のある法流でしたが、説明すると長くなるので今はこれ以上の言及は控えさせて頂きます。
さて此の『東寺真言宗血脈』に付いて直接簡単に評価すれば、個々の記述には疑わしい点があるけれども物語としては興味深く作られていると云う事でしょう。また最後に記す法流の嫡庶に関する議論には大いに傾聴すべき論点があります。
上述の「疑わしい点」に付いて多く語る必要も無いでしょうが、二三の例を挙げて置きましょう。先ず数多い弟子の中でも成賢僧正が特に頼賢を自らの後継者と期待し、門跡の遍智院を頼賢に譲ろうとしたと云う記述がありますが(第四・八・十回)、諸史料に照らしてそのような事があったとは考えづらいと言えます。第十回では憲深が伝領した極楽坊(報恩院)に関しても、最初成賢は頼賢に譲与したなどと主張していますが首をかしげざるを得ません。又第五回では賢静(憲静)に「醍醐の大事」を授ける事と関連して、宛(あたか)も意教上人頼賢が東寺勧進職の進止(任命)権を有しているかの如き記述が見られますが是も不審と言わざるを得ません。
又第十回では憲深方すなわち報恩院流の相承に関連して特に文観上人弘真を非難攻撃していますが、どうして宥快が文観上人に対して激しい敵意を抱くのか法流史の上でほとんど真面目に研究されていない興味ある問題です。
(以上)
〔解説補遺〕
近世の地蔵院流の学僧恭畏(1565―1630)の著した『密宗血脈鈔』巻下に、成賢がその入滅の一カ月程前に頼賢に与えたとされる付法状が載せられています。それには、
一宗の大事、師資相承の口決、悉く頼賢阿闍利に授け訖(おわ)んぬ。幼少の時より常随して一事として命に背かず。其の上、種々の契約等あるに依って、秘宗の眼目、委細の口伝を悉く授与する所なり。
寛喜三年(1231)八月九日 前権僧正成賢
と記され、更に「種々の契約」を説明して、
種々の御契約とは、上人の云わく、先師僧正の仰せ云わく、吾に三つの願あり。然るに未だ果たせず。三つとは法華(経)の暗誦、悲母(ひも)の報恩、遁世閑居が是なり。此の三願を汝は我に替りて果たすべし。仍って唯授一人等の大事、之を授くべき所なり。(伝法潅頂)御入壇の時の契約なり云々。故上人の自筆を以って之を書く。
と述べています。
此の種の付法状の類は後世の偽作が多く、何とも取扱いに困る史料です。しかし今の場合、若し成賢が頼賢に与えた付法状があったのなら、いくら旅先の口述筆記とは云え宥快・宥信が本書でそれを紹介して解説しない筈はないでしょう。
また極楽坊の一件に関しては意教上人の弟子証道上人実融(1247―1339)の談話を記した『証談鈔』末巻に、
(実融の)仰せに云わく、極楽房を故上人(頼賢)に譲り奉るべきの由、遍智院僧正(成賢)は仰せられけり。然るを上人は請(うけ)取り給わず。その故は、憲深は日久しく御留守職を罷(まか)り過ぎつるに、今更引き替えて候わば、公事(くじ)も難治に候うとて辞し申され了る。
と云う由です。最後の「公事云々」とは、憲深が将来朝廷の御修法(みしほ)に出仕する際に何かと差し障りになるだろうと云う意味です。
(以上)